坐禅普及

主旨は慈悲。行は坐禅。

「調心」その問題性(4)――坐禅の生理学的効果(9)

「『調心』その問題性」の4回目です。

1回目
https://zazenfukyu.hatenablog.com/entry/2020/07/31/225412?_ga=2.85241881.1854571952.1596114502-541515618.1562325655

2回目
https://zazenfukyu.hatenablog.com/entry/2020/08/02/095441?_ga=2.129886735.2022437078.1596571852-541515618.1562325655

3回目
https://zazenfukyu.hatenablog.com/entry/2020/08/06/053426?_ga=2.234669341.2022437078.1596571852-541515618.1562325655



5 心で心を制御しようとすることの問題性



そもそも心によって心を制御することは困難です。

私たちは、色々な場面で、不安な自分や勇気を持てない自分を感じることがあります。

そのような場面では、取越し苦労であるということや、また、少し恥をかくだけの話だということを分かっていても、どうしても心がついてこない。

そのような問題意識があるからこそ、坐禅や瞑想に興味を持つ方も少なくないのではないかと思います。

現に、心の制御の困難を感じているのに、その心を心によって制御しようとしてしまう矛楯。

私たちは、普段、(随意運動については)自分の意志に基づいて自分の肉体を動かしていると考えています。

坐禅において、一定の呼吸をしようと呼吸を制御したり、一定の姿勢を維持しようと身体を制御したりするこを、私たちは、自分の意志でやっていると思っていますが、この「自分の意志」は誰が作るのでしょうか。

普通の感覚ですと、「自分の意志」は、自分で作るように感じるのですが、よくよく反省してみると、私たちは「自分の意志」を作るような作業をすることはありません。それは気づいたときには既にあるのです。

生物学的にいうと、「自分の意志」を造り出すのは、「自分の意志」ではなく、脳などの肉体の生理現象であり、そして、脳を含めた私たちの肉体は、生物学的な自然の法則に基づいて機能しているのですから、「自分の意志」は、このような自然の法則に従って形成されるものといえます。

最近の脳科学論においては、人が行動をするときには、行動しようとする意志が形成されることに先立って、脳が筋肉に動作をするよう指令を出すことが判明しているそうです。



「意志はどこから生まれるのでしょうか――再びこの問題に戻ります。そもそも脳にとって『自由』とは何でしょう。(略)

独マックス・ブランク研究所のヘインズ博士らの研究を紹介します。(略)

押したくなったらボタンを押す――ただそれだけの実験です。そして、『押したい』という意志が生まれたときに表示されていたアルファベットを憶えておいてもらいます。(略)

この作業をしている脳をモニターしてみます。ボタンを押したくなる『心』が、いつ、どこで生まれるのか。『自由意志』のルーツを探ろうというわけです。(略)

結果は衝撃的でした。本人が『押したくなる』前に、すでに脳は活動をはじめていることがわかったのです。意識に『押そう』という意図が生じる前に、無意識の脳はすでに『意図』の原型を生み出しているのです。

もちろん、『こうした脳の事前活動は意志と相関するが、原因であるという保証はない』という反論はできます。しかし、私たちの心や行動は脳の活動である以上、意志もまた脳の活動の結果にほかなりません。この視点をさらに推し進めれば次のようになります。

脳がある活動をしたということは、そのある活動を生み出す元となる活動も脳のどこかにあるはずです。どんな活動にも原因、つまり上流の活動があるはずです。無からは何も生まれません。『押そう』という意志が生まれたということは、その源流である『押そうという意志』を準備する事前活動が、それに先だって脳のどこかに現れるのは当然のことなのです。(略)

どのくらい前から脳は準備を始めるか(略)。驚くなかれ、ヘインズ博士らのデータによれば、平均7秒も前から活動が開始するというのです。早い場合は10秒前に準備の活動が見られます。(略)

となれば、私たちの『自由意志』とはいったい何でしょう。意識に現れる『自由な心』はよくできた幻覚にすぎない――これはほぼ間違いないでしょう『意志』は、あくまで脳の活動の結果であって、原因ではないのです。
池谷裕二『脳には妙なクセがある』273~276頁)
  

私たちの肉体を動かすものを「自己」と呼ぶのなら、普段、私たちが「自己」と呼んでいるものは、その有用性から認められたフィクションであり、「本当の自己」とは、脳を含めた肉体を生理学的に活動させる「自然の法則」ということになります。

人間が「自然の法則」に支配された他力的な存在であることが大乗仏教の基本的な考え方であり、白隠禅において体認(されたことに)する見性の対象であると思っているのですが、本稿から外れるので、詳細な言及は避けます。

「佛心」
https://zazenfukyu.hatenablog.com/entry/2020/05/20/220847?_ga=2.126861582.2022437078.1596571852-541515618.1562325655

なお、「自己」の存在価値については
「自我の大切さ(第2版)」
https://zazenfukyu.hatenablog.com/entry/2020/08/01/171621?_ga=2.19874363.2022437078.1596571852-541515618.1562325655

私たちの心が、私たちの心によって制御されていないという観点からすると、調心自体に困難な面があり、調心を試みることが却ってストレスをためがちなものになるようにも思います。



6 只管打坐



「調心」には、問題が生じがちであることからすると、特段宗教上の信念がないのであれば、「調心」はしない方が無難なのではないか、というのが、私の結論です。

その意味で、只管打坐は評価されてよいようにも思います。

気を付けなければいけないのは、臨済禅の観点から、只管打坐を数息観・随息観の発展形であり、数を数えたり、息に集中したりなどせずとも、雑念が生じない状態を目指すものであるという捉え方があることです。

ネーミングの問題にすぎないという見方もできましょうが、本稿でいう只管打坐は、曹洞宗におけるもののこと、すなわち、「坐禅中に如何なる思念が明滅しても、浮ぶに任せ消えるに任せて一切とりあわず、また、あらゆる希望・願望・要求・注文・条件等を持込まないでただ坐る」(石井清純『禅問答入門』227頁)ことをいいます。

先のような臨済禅の一部の捉え方では、只管打坐が「調心」をしてしまうことと同様の問題を抱えてしまうことになるので、注意しなければならないように思います。

とはいえ、前記の「如何なる思念が明滅しても、浮ぶに任せ消えるに任せて一切とりあわず」というのも、目標的なニュアンスを生じさせ得るので、私自身は、「調心をしないこと」と表現をする方がよいのではないかと思っています。

「調心」を意識しなくても、ゆっくりと息を吐く調息と姿勢を正す調身により、扁桃体の活動の低下、自律神経の均衡、テストステロンの分泌などの生理学的な効果が期待できます。
 


ただ坐り、ただ呼吸するだけで、自然と心は調う。

「調心」とは、そのような意味だと捉えるのは、いかがでしょうか。






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