坐禅普及

主旨は慈悲。行は坐禅。

禅=現実=大拙の“something”

「禅は、五官のはたらきも知的作用も道徳も無視しない。美しいものは美しく、善いものは善く、真なるものは真である。禅は、われわれが眼前の事物を評価するために普通下す判断に反対はしない。禅を形成するものは、これらの判断の一切に、更に禅が附け加へた『或もの』(サムシング)であり、この或るものをわれわれが悟つたとき、われわれは禅に生きるといふことができるのである。」

(『禅による生活』鈴木大拙全集(旧版)第12巻の孫引き――ステファン・P・グレイス「【思想研究】鈴木大拙の現代仏教に対する批判」『国際禅研究2018年2月号』107頁)



誰しもあると思うのですが、物心のついてからのあるとき、この目の前に展開する世界はもしかしたら「夢」ではないか、ということを思いつく。

現実の世界を夢であるものとして捉えることにより、「現実」の世界の生きづらさから、救われるところがある。

私もその一人です。



「畢竟夢」、「泡沫夢幻」。

このような言葉が、世界は夢ではないかとの感覚に沿うことから、仏教に興味をもつ人も多いかと思います。



すべては思い込み。今生きることが辛いのも思い込み。思い込みをどうにかすれば楽に生きられるのではないか。

禅書を読むと、すべては心の持ちようであり、心の持ちようが変えればよいという話が繰り返し出て来ます。

私たちは、どこか考え方の枠組みにとらわれていて、その枠組みを外せば楽に自由に生きられる。



「心というものは取りよう次第で、如何ようにもなるもので、何がなしにぼんやり考える時は、世界は我がものの如くに思われる場合もあり、又或場合には、世界は洵に広いような狭いような、楽しいような苦しいような、色々に思われることもある。(略)世界を我がもの顔にして喜ぶ人もあれば、其れを悲観して泣く人もあり。当人の心持次第で、世界が楽しくもなり苦痛にもなるので、此処が余程面白い所である。」

(釈宗演『観音経講話』1頁)



この目の前の世界に展開する出来事はすべて移ろいゆくまぼろしのようなものだ。

諸行無常だ。

それにもかかわらず、そこに現われるものを実体化して、こだわるから、「苦」が生じる。

諸行無常のものを実体としてあるものだと囚われるのをやめればよい。

自分を縛っていた価値観などは妄想であり、それを捨て去れば楽になる。



私の意識というところからみれば、目の前に展開している世界は、感覚器官から感受される映像、音声等にすぎない。

私の意思も気づいたときにはどこからかやってきているものにすぎない。

私は、その感覚の先にあるはずの確かな物に触れることはできない。

すべては妄想だ。



仏道修行とは、目の前に展開する「現実」を思い込みである、妄想であるものとしっかり捉えることだ――。



それを目ざして、瞑想に耽るのが上座仏教です。

そして、禅についても、同様の流れに行くような在り方があります。



「古代の自由人は、人間の積極的な活動を阻害する三個の怪物を殺戮してしまう。――精神の粘着停滞する対象と、精神の奔放な発動を圧迫する禁止的価値観と、われわられの大胆な自己主張を畏怖せしめる死の脅威とを。そして自我の本質を把握することによって、これらの反生命的怪物を喝散し尽す自由人が、しばしば人もなげに高らかな哄笑を擅(ほしいまま)にすることに何の不思議があろう。」

(前田利鎌『臨済荘子』9頁)

臨済は、学人のよるところ、跼蹐(きょくせき)するところを片っ端から破壊して、相手を自由の天地に駆り立てて行く。ここにおいて彼は、飽迄も徹底的な偶像破壊者となって現れて来る。かの四科揀にせよ、四喝にせよ、要するに学人の依るところ、執着するところを殺戮して行く破邪の剣である――『仏に逢うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺し、羅漢に逢うては羅漢を殺し、父母に逢うては父母を殺し、親眷に逢うては親眷を殺し、初めて解脱を得て物と拘わらず、透脱自在なり。諸方の道流の如くんば、未だ物に依らずして出で来る底にあらず。』――自己の自由と主権とを阻害する一切の対象は破壊されねばならない。」

(前掲書41~42頁)



坐禅に興味をもちはじめてしばらくしてから、これらの言葉に出会い、元々価値相対主義の考え方を持っていたことから、このような言葉に大いに納得しました。

だから、仏教をどこか道徳的なものだと捉える考え方はどこかにごまかしがあるのではないかと思っていました。



「四弘誓願は、『衆生無辺誓願度』で始まり、それから『煩悩無盡誓願断』へ移って行く。(略)煩悩を断ぜんというも、法門を学ばんというも、悉く衆生を済度せんとの本願から出るのである。(略)
 隻手の声をきくのも、本来の面目を見るのも無字を悟るのも、畢竟するに知的方面の話ではなくて、実にこの本願の真実相に徹底せんためである。(略)
 この本願力の発動を感得しなければ、千七百則の公案も皆虚言にすぎぬ。
 あるいはいう、いくら『衆生無辺誓願度』でも自救不了(じくふりょう)では仕方があるまい、されば何よりまず煩悩を断じ法門を学ぶべきであろうと。これは一寸もっとものように聞こゆるけれども、そうではない。ただ自ら満足するために断煩悩するのは小乗である、ただこの世を苦と感じて涅槃の無余に入らんというは菩薩ではない。(略)
 この覚醒の伴わぬ修行は魔の修行である。禅者が往々にして破戒無慚の徒となってしまったり、知解的公案解釈者と転じ去りたりするのも、最初の動機において一歩を踏み外したからである。」

鈴木大拙『百醜千拙』93~95頁)



このような考え方を道徳的なものではないかと嘘くさく感じ、たとえば、次のような考え方がものごとの本質を衝いているのだと思っていました。



「ゴータマ・ブッダの教えは、現代日本人である私たちにとっても、『人間として正しく生きる道』であるかどうか、ということである。
 結論から言えば、そのように彼の教えを解釈することは難しい。(略)ゴータマ・ブッダの教説は、その目的を達成しようとする者に『労働と生殖の放棄』を要求するものであるが、しかるに生殖は生き物が普遍的に求めるものであるし、労働は人間が社会を形成し、その生存を成り立たせ、関係の中で自己を実現するために不可欠なものであるからだ。
(略)ゴータマ・ブッダの仏教は、私たち現代日本人が通常の意識において考えるような『人間として正しく生きる道』を説くものではなく、むしろそのような観念の前提となっている、『人間』とか『正しい』とかいう物語を、破壊してしまう作用をもつものなのである。」

(魚川祐司『仏教思想のゼロポイント 「悟り」とは何か』35~37頁)



確かに、いろいろな概念は私たちが造り出したフィクションであり、虚妄です。

しかし、フィクションであるから否定すべきかというとまた違います。

言語、貨幣、国家制度……いずれも、フィクションですが、私たちの生活の上で有用なフィクションです。

囚われてはならないですけれども、重要なことは、それをうまく使いこなすことです。



さて、自分の持っている世界観が虚妄であると気づき、それをぬぐい去るため、仏道修行を繰り返す。

一生懸命繰り返す。



なぜ、一生懸命繰り返すのか?

それは、虚妄であるはずなのに、虚妄であるものとしてなかなか処理ができないから。

私の目の前に展開する世界。

それは私たちが感受しているという点では夢や妄想と変わらない。

常に変化するうたかたのもの。

私の人生もいつかおわるうたかたのもの。



しかし、どうもうたかたのものにならない。

目の前の世界は、圧倒的な力をもって私の眼前に迫ってくる。



夢や妄想と代わりないはずのものなのに、この目の前の世界がもっている圧倒的な「現実感」。

それが鈴木大拙先生のいう“something”にほかならない。



五官のはたらきも
知的作用も
道徳も
眼前の事物を評価するために普通下す判断――美しいものは美しく、善いものは善く、真なるものは真――も



すべて、夢の世界、妄想の世界にも存在する。

しかし、この現前に迫ってくる世界の「現実感」。



先の『観音経講話』の引用に引き続いて、釈宗演老師は、こう言います。



「其心、其我れというものは畢竟どんなものであるかというに、それを調べて見るのが仏教の初門であって、初門即ち入口とは言うものの、それが又実は一番のおん詰りである。」

(釈宗演『観音経講話』1~2頁)



これが“或もの”。



このことを禅匠はよくこのようにいいます。



「禅は実際である。決して理屈でない。」

(菅原時保『禅窓閑話』2頁)



禅は、現実であり、妄想ではない。



人は哲学的に考えようとするとき、自分の意識からスタートする。

「我思う故に我あり」

デカルトの定式は、確実に考える上では、オーソドックスで、強固な手段です。

誰もが確実だといえるのは、自分の意識、自分の心。



目の前の世界は、夢かも知れないけれども、自分の心は確実だ。

そこでは、夢と現実の区別はない。

現実の世界も、思いを変えれば、いくらでも見え方が変わるはずだ。

夢と現実の区別を超越した無分別、平等一枚。



しかし、この現実の世界にはあまりにも強固な存在感がある。

心から考えようとすると、そのことを忘れてしまう。

それを徹底すると、麻薬を使って、夢の世界で幸福を感じることもよしということになる。


心ばかり見てしまっている者に目の前の世界の圧倒的な現実感を教えるのが「痛み」。

「痛み」は心の持ちようによってごまかせない圧倒的な現実感がある。

だから、力量のある禅匠は、痛みで学人を説得する。

鼻をひねり、三十棒を食らわす。



「腹張って、苦しき中に暁烏」

門人が弱音を吐いたものとして隠そうとしたこの山岡鉄舟の辞世の句を、滴水和尚が「さすがは鉄舟さんだ」と賛じた肚もここでしょう。



人間が尊い理由は、畢竟夢と言ってよいものを夢とせず、泡沫夢幻と言ってよいものを夢としないところにあります。

目の前の現実を現実として尊重する。



ここで大智と大悲が一致する。



妄想の世界に生きていくのではない。

現実の、意志の力によってはいかんともしがたい力のあるこの現実の世界。

その意志の力ではどうにもしようがない、圧倒的な力を称して、仏道では、「真理」と呼ぶ。

「真理」は目の前に常にまけだされている。

ここに言葉を加えることは、それ自体妄想。

だから、不立文字であり、教化別伝。



現実を尊重して生きていくこと。

そのことを自覚して生きることが仏道

目の前の現実の世界を尊重して慈しみながら生きて行くこと。



煩悩即菩提。目の前の泡沫無幻の世界をありのまま現実として受け入れる。



すごいことのようにも思えるけれども、誰もが生きている以上はしている当然のこと。

目の前の現実を現実として尊重する。

誰もがこの現実の世界を現実のものとして生きている以上はやっていること。



だから、衆生本来佛也。

誰もが目の前にある、この世界を尊重しなければならないということは分かっている。

仏道修行などする前から、誰もが悟っている。

仏道修行などする前から、誰もが既に仏である。



自分自身が現実の世界を尊重する心を持っていることを自覚する。

これを直指人心という。

このような自覚を持ったとき端的に「仏」であることが示される。

これを見性成仏という。



仏道とは、誰もが生きている以上は普通にやっている世界を尊重していることを自覚して、この現実の世界を慈しみ、愛しながら生きることにほかならない。



現実の側からいえば、悉有仏性。

意識の側からいえば、清浄心





にほんブログ村 哲学・思想ブログ 禅・坐禅へ
にほんブログ村

参考になる点がありましたら、クリックをしていただければ幸いです。