坐禅普及

主旨は慈悲。行は坐禅。

所有する不幸

「平和はただ貧においてのみ可能である」
鈴木大拙『禅』62頁)



お付き合いのあった人との関係から、一時期、仏教系の宗教団体に所属していたことがありました。

それまで宗教と関わることがなかったことから、それまで知ることのなかったいつかの苦い発見がありました。



その一つが、所有することが不幸の始まりにもなるということです。

その宗教団体には、いくつかの施設がありました。

以前は相当熱心な会員の方がいて、古くからいらっしゃる方の話によると、当時は、生命保険などを解約して、その施設の購入資金を捻出したということもあったようです。

考えてみると、そのときからおそらく無理があったのかなと思います。



会員が職場での現役世代で、数が増えていくときであったなら無理が通じたのでしょうが、私が入会したときには、会員自体が全体として高齢化し現役を離れ、少子化などの影響もあるのでしょうが、現役世代の会員が減ってきたことから、かつての無理がたたってきたような感じでした。

施設自体の維持費もかかりますし、自前の施設とはいっても、敷地自体が借地であって、借地料がかかるなどのお金の問題がどうしてもでてきます。

ですから、団体の会議の際のテーマの多くは、お金の問題であり、その前提としてのお金を払ってくれる会員の確保でした。

団体の上の人から、親族や職場の人に会員になることを働きかけるように号令がかかったり、人が呼べるようなイベントを考えるような指示があったりして、皆慌ただしく活動していました。



お金の問題があるといっても、マスコミで取り上げられるような団体とはちがって、会費はおおむね月に数千円でしたから、その点では、良心的ではありました。

けれども、入会してしばらくしてから、貧すれば鈍する状況になっていることがわかりました。
 
会員の方の中には、仏教系の新宗教団体を揶揄するような人もいましたが、自分達の指導をする人が、「会員を増やすのも利他行だ」などと臆面もなく述べることが、揶揄する対象の宗教団体と大して変わらないことに気づいていないような感じでした。

 

本来、宗教団体というのは、目の前にいる不幸な人を助けるために力を合わせるところから始まるのでしょうし、そこに社会的な存在価値があるのではないかと思います。



「企業は、社会と経済のなかに存在する被創造物である。社会や経済は、いかなる企業をも一夜にして消滅させる力を持つ。企業は、社会や経済の許しがあって存在しているのであり、社会と経済が、その企業が有用かつ生産的な仕事をしていると見なすかぎりにおいて、その存続を許されているにすぎない。」

(P.F.ドラッカー(上村惇夫訳)『【エッセンシャル版】マネジメント 基礎と原則』 



社会や経済に貢献するからこそ、組織は存在価値があるにもかかわらず、組織の存在の維持が自己目的化してしまうと、不幸が始まるのかなと思います。

仏教と一口にいっても、日本では、南都六宗から始まって、天台宗真言宗日蓮宗臨済宗曹洞宗、浄土宗、浄土真宗等々があり、その中で更に細分化されていきます。

それぞれに多様な実践方法があります。

実践方法が多様であること、それ自体が、どれかが絶対に正しい実践方法だとはいえないことを示しています。



ブッダ、お釈迦様の教えの根本は、病に応じて薬を与えるということであり、それは皆さんもご承知のことだと思います。しかし私たちが犯しやすい誤りというのは、自分に合っている教えが万人に共通する、通用すると思いがちなところです。自分に偶さかその教えが合っていれば、相手もそれでいける、通じるはずだと思ってしまう。そうなると、その相手を見ておらず、押しつけになってしまいます。人それぞれの特性と言いましょうか、生まれてこのかた体、体質、考え方、環境、人間は千差万別です。「これですべてが通用する」というようなものは、私はないと思うのです。ですから、様々な教えや修行方法をたくさん学んで、そして自分に一番ふさわしいもの、あるいは今の自分にふさわしいものを自分で見つけて実践していく、これに尽きるといのが、私の今のところの結論であります。」

横田南嶺「インタビュー 身体を整えることへの目覚め」『サンガジャパンvol.32』51~52頁)

 

けれども、自分たちの組織の維持ということを念頭においてしまうと、本来多様なあり方であるはずなのに、自分たちの組織が一番よいという「ウソ」の話をせざるを得なくなってきます。
 
また、坐禅等の仏教系の瞑想には、精神に与えるよい効果もありますが、実際に、効果のある以上は当然副作用もあります。

 

「マインドフルネス実践中にトラウマの自然除反応が発生することからも明らかなように、臨床マインドフルネスでも治療の差し障りとなる反応が生じることは早くから知られています(略)。マインドフルネスに伴う弊害をテーマにした論文(略)には、自然除反応や意識変容をはじめ、リラクゼーションに伴う不安とパニック、緊張感、生活モチベーション低下、退屈、疼痛、困惑、狼狽、漠然感、意気消沈、消極感亢進、批判感情、『マインドフルネス』依存、身体違和感、軽い解離感、高慢、脆弱性、罪悪感といった広範囲にわたる項目が記載されています。このリストから臨床マインドフルネスが禁忌となりやすい条件が推察できます。」

(大谷彰『マインドフルネス入門講義』195~196頁)

 

このような副作用に関する事実も、目の前の人のためを考えれば、きちんと伝える必要があるはずですが、自分たちの組織の維持が第一ということになれば、自分たちの不利になりそうなことはいわないということになっていきます。

イベントについても、社会に貢献するというよりも、会員の獲得が目的ですから、組織の宣伝という内向きのものになっていく。

雰囲気でそんなものだとわかりますから、だんだん一般の参加者の方が減っていく。

そんな中で、指導者の人から、努力が足りないという趣旨の檄が飛ぶ。

不幸なことは、指導者の人自身も、先人から引き継いだ組織を維持しようと必死なだけで、善意でやっているということです。

それがわかっているからこそ、下の人たちも一生懸命にやる。

社会に役立つわけでもない内向きの非生産的な活動にすぎない行事をすることを称して「使命だ」などと事大主義的な発言をする人もいるなど善意による不幸の連鎖を感じました。



「仏教を心の病院だと考えると、その存在意義もよく見えてきます。仏教は病院ですから、病気で苦しんでいる人を治すのが仕事です。病気でない人には全く必要ありません。ですから、病院がわざわざ外へ出かけていって健康な人を引っ張り込んで入院させるようなことをしないのと同じく、仏教も、苦しみを感じていない人まで無理矢理信者に引っ張り込もうとはしません。(略)実はこれが、仏教という宗教が無理な布教をしない一つの理由でもあるのです。」

佐々木閑『NHK100分de名著・ブッダ真理のことば』29頁)



多分、誰もがこのようなことはわかっている。

わかってはいるけれども、組織の維持という「大義」の前にかすんでしまう。

善意で自分の不幸を積み増していってしまう。

竹中労先生は「人は群れると弱くなる」とおっしゃったそうですが、お一人お一人は、良い人なのに、組織の論理の中で、その良さを毀損させているような人が少なくないように感じました。

団体は目の前の人を助けるための手段であり、また、施設というハコ物もそのための手段のはずであったのに、ハコを持ち続けること自体が目的化することにより、他人を不幸から救うのではなく、自分達自身を不幸にし、先人が作り上げた素晴らしい物語も、本当にフィクションにしてしまう。



「本来無一物」

ハコを手放せば楽になるはずですが、それができない。



この種のブログを見ている人の中には、坐禅や瞑想の団体を含めた宗教団体に興味を持ち、あるいは、宗教団体に加入するよう勧められている人も少なからずいるのではないかと思います。

比較的良心的な団体ですら、こうなのですから、ほかは推して知るべしかと思われます。

余りお勧めはいたしません。



「学道の人は貧なるべし」
正法眼蔵随聞記)



 

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