坐禅普及

主旨は慈悲。行は坐禅。

【参考資料】仏教/禅は自由を説く

(1)鈴木大拙

1)「禅は心を純粋の虚無にするがごときまったくの否定ではない。何となれば、それは知的自殺だからである。禅には何か自己肯定のものがある。しかもそれは自由であり、絶対である。そして限界を知らず、抽象の取扱いを拒むものである。禅は溌剌としている。それは無機の岩石、虚無の空間ではない。この溌剌たる何物かと接触すること、否、人生各方面にわたってそれを捕らえることがすべての禅修行の目的なのだ。」(『禅学入門』49頁)

2)「積極的に云えば「無我」とは「無辺の慈悲」です。キリスト教的に云えば愛、儒教的に云えば仁であります。無辺の慈悲は我を棄てて、自分より大なる心と合体することであります。而して自分より大なる天地の心、その心の活動の上から見れば何も始めから不自由というものはないのです。」(『向上の鉄鎚』29頁)

3)「吾らは対立の世界にある、対立の世界におるから苦痛があるということもある。苦痛があるところをどうしても出たいというのが人間である。そう出来ている中から出たいということは、そう出来ているものを棄てるということでなくてはならぬ。棄てることは、すべての値打から離れるという意味である。ところが値打というものは、二つのものがあるところから出るのであるから、その二つの中におる限り、吾らはどうしても自由がないのです。」(『無心ということ』29頁 )

4)「自由を得ることは、善悪などの値打のつけられる世界を超越してしまうことです。無分別の世界に這入ってしまうことです。無分別の世界に這入るから神通遊戯(ゆげ)と言われる。神通とは自由、遊戯とは自主者の行為です。遊戯三昧、すなわち何ら他から拘束せられることがないのです。」(前掲書30頁)

(2)中村元訳『ブッダのことば スッタニパータ』

「三九 林の中で、縛られていない鹿が食物を求めて欲するところの赴くように、聡明な人は独立自由をめざして、犀の角のようにただ独り歩め。
 四〇 仲間のなかにおれば、休むにも、立つにも、行くにも、旅するにも、つねにひとに呼びかけられる。他人に従属しない独立自由を目指して、犀の角のようにただ独り歩め。」(18頁)

(3)藤吉慈海

「禅の実修体験はものに執われない自由な主体性の確立を促すもので、それが人間の自由な創造意欲をたかめ、独創性に富む芸術作品やいろいろの禅文化を創造せしむるにいたる。したがってそのような禅芸術や禅文化を鑑賞することが禅的主体性の確立に役立つことも当然なことである。」(『禅と浄土教』53頁)
「人々見得すべき底の自性」とか「徹了すべき底の宗旨」というのは「自性真仏」といわれるようなものであって、仏教一般でいう「無自性空」なる、無的主体に相当する。したがって、禅では「自性」というが、それは「無的な自在」であって、「無我的主体」とか、「無的主体」と呼ばれる。そのような自己が本当の自己であるから、無的主体こそ「真実の自己」といってもよいであろう。「真実の自己」は無形無相であって、「形なき自己」といわれるが、それは虚無ではなく、創造的な無的主体である。それは無にして形なきゆえに、あらゆる形を自由にとることはできないであろう。そこに禅的主体の無礙自在なはたらきの根拠がある。とくに臨済禅が、はたらきのない鬼窟裡の禅を嫌うのは、参禅者がとかく坐禅に安住して、寂静主義に陥るからである。つねに活溌々地の生き活きしたはたらきを禅者に期待するのは、無相の自己には創造的作用の面があるからである。公案の商量を開悟の手段方法とするのも、臨済禅が、本来そのような寂静主義や鬼窟裡の禅を嫌うからである。」(前掲書93頁)

(4)前田利鎌

「古代の自由人は、人間の積極的な活動を阻害する三個の怪物を殺戮してしまう。――精神の粘着停滞する対象と、精神の奔放な発動を圧迫する禁止的価値観と、われわられの大胆な自己主張を畏怖せしめる死の脅威とを。そして自我の本質を把握することによって、これらの反生命的怪物を喝散し尽す自由人が、しばしば人もなげに高らかな哄笑を擅(ほしいまま)にすることに何の不思議があろう。(略)そして「白雲影裏笑って呵々たり」という禅坊主の哄笑のうちにも、確かに(略)地上に低迷する人間を笑殺せんとする、あの魔的な響きが感ぜられる。高揚の笑、征服の笑、共に手を携えて行かんとする知己の笑――禅門には美しい笑いがある。笑のない禅とはいかに索寞たるものであろう。朗らかな哄笑は恒に健康な精神の徴候である。日蓮がかつて「禅天魔」といって禅門を弾劾したことは、かえって禅僧の健康な一面を証拠している。」(『臨済荘子』9頁)

臨済のいう出家とは伝統的な生活からの逃避と解すべきではない。家とはわれわれの生命を囲繞して圧迫阻害する偏見的思想、反生命的価値観、環境対象に牛耳られる執着――即ち人間の生命を幽閉するもろもろの化石的な殻という意味である。従って禅門における出家とか、破家散宅とかいう意味は、――換言すれば一切を自由に所有すること、一切に対して自由なる君主として振舞うことに他ならない。

(略)

 臨済は、学人のよるところ、跼蹐(きょくせき)するところを片っ端から破壊して、相手を自由の天地に駆り立てて行く。ここにおいて彼は、飽迄も徹底的な偶像破壊者となって現れて来る。かの四科揀にせよ、四喝にせよ、要するに学人の依るところ、執着するところを殺戮して行く破邪の剣である――「仏に逢うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺し、羅漢に逢うては羅漢を殺し、父母に逢うては父母を殺し、親眷に逢うては親眷を殺し、初めて解脱を得て物と拘わらず、透脱自在なり。諸方の道流の如くんば、未だ物に依らずして出で来る底にあらず。」――自己の自由と主権とを阻害する一切の対象は破壊されねばならない。

(略)

 臨済は一物も与えずして、徹底的に奪って行く。飢人の食を奪い、耕夫の牛を駆る、というものもこの消息を語るものである。己を確立して自由な自然児になるためには、人惑迷執を惹き起す一切の偶像は破壊せられねばならない。先ず仏門における最大の偶像は――仏である。仏を礼拝するは愚か、仏に自らなろうとするのが已に人間の無知を語るものである。臨済は寸毫の仮借なく、口を極めて伝統的な既成概念を罵倒している。――いわゆる仏を求め、法を求めるのも一種の迷妄である。それらは一種の抽象的な概念――名句、名字にすぎない。単に頭の中で捏ね上げた仏などは、俺の眼から見れば、糞壺――厠孔のようなものだ。菩薩羅漢の如き概念は、尽くこれ首械、手械、人を縛する底の邪魔物である。従ってそれらのものを御大相に書き記したような、一切の経文の如きは、「不浄を拭うの故紙」にすぎない。古人の言説や経文に没頭するのは、「糞塊上に向って乱咬する」の醜態ではないか。それにもかかわらず、一切の学人どもは、聞きかじり、読みかじりして教理などを語って得意でいるが、そんな醜態は糞塊を口に含んで、また人に向って吐き与えるようなものだ。」(前掲書40~43頁)

(5)柳田聖山

「およそ行為の自主性は、善悪の判断より自由であるにある。「心を起し念を動かし云々するのが、すべて仏性の活動そのもの」というのは、まさしく『金剛経』の「応無所住而生其心」に当る。「知」は無所住である。

(略)無所住は無心である。無心は単に無生物のそれに意味があるのではない。無意識、無分別がよいのではない。ダルマに帰せられる『無心論』は、敦煌の禅籍の一つである。この本は、無心を日曜の見聞覚知のところにありとし」(『禅思想』137頁)

「もともと仏法の生きざまは、既成の規準を吹っきる根源的な自由さにあった。普化の魅力は、そんな仏法本来の生き方を、なんのためらいもなく、現に生きぬいたところにあった。かれの生き方は、あまりにも自由であったがゆえに、臨済のほうがややもすると常識に堕ちた。」(前掲書163~164頁)

(6)秋月龍珉

「「なぜ?」と問いかけて、問うことの要らぬ境涯を手に入れさせるためだ。「世の中は窓より出づる牛の尾の引かぬに止まる心ばかりぞ」(道元)。箒をなげ出して「またがず通れ」という。ささとまたいで通ればよい。誰もひきとめている者はいない。「カギの穴から入ってこい」と言われても、ドアはあけて入るよりほかはない。ほかにあったら、「仏法に不思議なし」の語に背いて仏法ではなく魔法だ。家ではお茶を毎日簡単に飲んでいるのに、茶室に突っ込まれると自由を失う。しかし、これがまた大事なことだ。一度「因甚麼」で否定されて、はじめて真の自由なはたらきが身につく。柴山全慶老師も「正念とは、念が働いていないということではない。見て見るという跡を残さない心境に生きることである」と言われている。」(『公案』222~223頁)

(7)有馬頼底

「仏教ということ自体が既に“こだわり”なんです。経典に縛られていたらあかん。もっと自由にあなたの自然の姿で人々に接したらいいと、臨済は言うのです。」(『臨済録を読む』112頁)

(8)アルボムッレ・スマナサーラ

ブッダの本来の教えは、あらゆる儀式・儀礼・お祭りなどの束縛からも、あらゆる先入観からも、人の心を解放させて、自由を経験させることです。」(『これでもう苦しまない』197頁)

(9)佐藤悦成編『雪竇頌古百則の研究(一)』

「雪峰は急所にひとっきくらわしさえすればよいことを知っていたから、自己以外に仏を求めるな、と一句で言い切った。さらに、慧能の無一物の境地にさえ囚われるなと説き、春に百花が咲き乱れる光景を、本来の自由の境地を誓えるのである。」(9頁)

(10)釈宗演

「吾人(ごじん)の一挙手、一投足は、悉く大道そのもので、吾人は、大道の真唯中に自由自在に思うままの活動をしていなければならぬ筈である。それが出来ないというのは、外境に囚われ、それに執着し、束縛されて、自由の分を失うからである。若し、一切の繋縛から脱離して、安住不動須弥山の如しという、身心脱落の境界に達したならば、各人本来具有の天真仏が現れて、縁に応じ、境に従い、何んの苦痛もなく、スラスラと自由自在の行動が出来るであろう。」(『禅』122頁)

「修養の上から見れば、洒々落々として、すること為すことが、自ら道に合うように為って来ねばならぬ。悟りということは難しく論ずることは偖(さて)措いて、一種の修養から練り出した心の光りであると、恁う見たら宜しい。恁ういう工合に、自由に為って来れば、何事をするにも取り外しがありませぬ。独りで寂しさを感ぜず、楽しんで仕事をすることが能(で)きます。」(「禅学大衆講話」『釈宗演全集第一巻』19頁)




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