坐禅普及

主旨は慈悲。行は坐禅。

「調心」その問題性(3)――坐禅の生理学的効果(8)

「『調心』その問題性」の3回目です。

1回目
https://zazenfukyu.hatenablog.com/entry/2020/07/31/225412

2回目
https://zazenfukyu.hatenablog.com/entry/2020/08/02/095441



4 雑念をなくし、集中することを目指すことの問題性



(1)雑念をなくすことを求めない理念的理由


 
雑念をなくすとか、集中するということが漠然と、坐禅や瞑想の目的であると思われてしまっていることはよくあります。

しかし、実際には、瞑想や坐禅では、このようなことが当然に目的とはされていません。

少し前に投稿した「雑念あってよし(第2版)」の記述とも重複する点がありますが、このような雑念を出なくさせるということは、当然に、坐禅や瞑想の目的になるわけではありませんし、どちらかといえば、このようなことを目的とすることは適切ではないと考えることが主流になっています。

【参考】
○「雑念あってよし(第2版)」
https://zazenfukyu.hatenablog.com/entry/2020/07/11/112917
 
たとえば、理念的には次のようなことがいわれています。



「もし念が起こったら、すぐに数息なり、公案なりに取って返せというのである。妄念が起こったからといって、これをなくしようなどと夢々これに取り合ってはならない。念をやめようというのが、また一つの念なのだから、それでは念のやむ時はない。血で血を洗うようなものである。血は水できれいに洗わねばきれいにならぬ。この水に当たるものが数息観であり公案参究である。だから念が起こっても一切取り合わずに、数息なり公案なりに取って返すのである。こうすれば、もともと根無草の念のことだから、『紅炉上一点の雪』のごとくすぐにシュンと消えてなくなる。」

(秋月龍珉老師『公案』49頁)

「煩悩を追うな払うな引かれるな。 

煩悩を追ったり払ったりしている中に肝腎の自分を見失ってしまう。坐禅をしている間に、たとい八万四千の雑念が起滅してもとりあわねばよい。悟りを求めず、迷いを払わず、念の起こるを嫌わず、また念を愛して相続せず、ただ起こるに任せ滅するに任せておく。」

(沢木興道『【増補版】坐禅の仕方と心得』84頁)

「雑念、妄想と思うのは起こってくる念(色々な思い)の他に私があると認めるからである。雑念、妄想の外に私なしとわかれば、雑念、妄想はそのまま正念になる。」 

(山本龍廣「巻頭言 妄想」(『禅味』2019年4、5、6月号)3頁)

「無心になるとか、無念無想になるとはどういうことか、『菜根譚』はそれに明快な答えをだしていう。

近ごろの人は、専心、無念無想になることを求めるが(かえってそのために雑念を生じて、)結局、無念無想になれないでいる。ただ、前念をとどめてくよくよすることもなく、後念を迎えてびくびくすることもなく、ただ目の前に起っている物事を、次々に片付けて行くことができれば、自然にだんだんと無念無想の境にはいっていくことができよう。(今井宇三郎訳注、岩波文庫本による)

無念無想になることを求めようすればするほど妄想はおこるものである。一度坐禅をしてみればよい。妄想がつぎからつぎへおこってきてどうしようもない。過去にした失敗をくよくよするのは無駄なこと、また未来のことをあれこれ心配するのは無用なこと、やることはただ今のことだけだ。一回ぽっきりの人生のただ今のことをつぎつぎに処理してゆくこと、これが無念無想にほかならない。」

(鎌田茂雄『禅とはなにか』44~45頁)



このような考え方の背景には、あらゆる出来事が「自然の法則」に従って起きる以上、それには必然性があり、結果を問わない「どちらに転んでもよし」と、すべての結果をありのままに受け入れる心を創ることが、禅の実践の目的の一つとされることにあるように思います。



坐禅がわれわれに覚めさせる生命の実物とは、まさに『自己ぎりの自己』『今ぎりの今』――『どっちへどうころんでも、出逢うところがわが生命』という生命態度です。

われわれは、ふつういつでも何事につけてもアレとコレと分別比較し、少しでもなんとかウマイ方へころぼうというはからいを働かせ、そのために、かえってッキョロキョロ、オドオドしながらいきています。というのは、ウマイ方を考えるかぎりは、ウマクナイ方があるのは当然であり、それゆえウマクナイ方へころぶまいという危惧が、どこまでもついてまわるからです。つまりこのウマイ方とウマクナイ方ということを分別して生きるかぎりは、決して『どっちへどうころんでもいい』というような絶対的な安らいにおいてあることはできません。」

(内山興正『坐禅の意味と実際』115~116頁)

「何故に生死があるかというに是れは萬物変化の相であって宇宙活動の現象である。宇宙の本体は絶対平等であるが、恰も大海水に波瀾あるが如く、絶対平等とは申し乍ら霊動体であるに依て常恒不断に活動を起して息(や)まぬ(略)、然れば吾々の生も死も皆な霊動作用でありますから、生死として厭うべきも無く涅槃として欣うべきも無い筈である、けれども凡夫は常に生死の為めに縛られて、三界六道昇沈の相に苦しんで居るのは何故ぞというに、是れは宇宙その物より苦しめらるるに非ずして、皆な各自が自ら作り出だせし業相であります(略)此生死に対する観念亦之と同じく、苦痛と観るも愉快と観るも、その観る人の業障と思想のとの致す所である」

(新井石禅『教理と信仰』44頁)

「最後は全部、受け入れる。『公案』の正解が出ようと出まいと間違っていようとそんなことはどうでもいい。
その『どうでもいい』という所までゆかないといけない。」
(有馬賴底『『臨済録』を読む』24頁)



雑念の生じることを避けようとすることは、このようにあらゆるものを受け入れるという禅で目指す心の持ち方に反するように思います。



(2)雑念を放置すべきプラクティカルな理由



以上は理念的な話になりますが、坐禅や瞑想指導の現場におけるプラクティカルな視点では次のようなことがいわれています。



「瞑想という言葉から、考えや雑念が何も浮かばなくなることがゴールであるというイメージが強いのか、『あっ、また心がそれた、なんて自分はだめなんだ』と心がそれたことで自身を非難してしまう初心者が多いのです。(略)

注意を向ける際の心の態度は、批判・非難・評価しないという態度であることが明示されています。何かに心を集中しようとすると、そこから注意が離れて他のことを考えるというのが心の習慣です。ですから考え・雑念が出てきても、そのことを非難する必要は全くありません。」

(越川房子「マインドフルネスとは」『大法輪』2020年3月号63頁)

「マインドフルネスを学びはじめの方にとくに多いのですが、この瞑想を行なっているときに雑念が出てきてしまうことを悪いことだと気にされる方が非常に多いです。しかしながらこれは大きな誤解です。

マインドフルネスは雑念を押さえたり、雑念が出なくなるようなことを目指すのではなく、雑念が出てきたときにそれに囚われないでいる自分をつくることが大変重要です。うtまり、雑念は練習をつづけていてもありる程度は出てくるのです。

それに補足しますと『雑念』というのは『心がつくりだすフィクション』です。今実際に目の前にないことが雑念となって頭の中に現れてきます。つまり、雑念に飲み込まれるということは心がつくりだしたフィクションの世界に入り込んでしまうことになります。」

(井上広法「マインドフルネスの実践法――通勤・会社・家庭――」『大法輪』2020年3月号75頁)

「初心者の多くは、瞑想中に雑念が浮かぶのは悪いことだと思い込んでいる人が多いようです。ですから、今日もまた雑念がいっぱい浮かんでしまって良くありませんでした、と自己卑下的に話す人がいます。自分のマインドフルネス訓練に対して採点してしまうのです。

このような時に私は次のように話します、“それはそれでよいのです。マインド・ワンダリングに気づくことがマインドフルネスなのです。呼吸に注意集中(考えていない状態)→雑念→雑念に気づく→呼吸に注意集中の繰り返しが脳の訓練、すなわちマインドフルネス訓練です”と。今日はリラックスできてよかったなとか、今日は落ち着かなかったなとか、今日は集中できたとか、いろいろ自分雄マインドフルネス訓練を評価してしまうのですね。」

(貝谷久宣「マインドフルネスの注意点」『大法輪』2020年3月号79~80頁)



以上のことは、「雑念が出てもよい」程度の話ですが、次の熊谷宏昭先生のお話は、逆に「雑念が出る方がよいのだ」という観点のものであることから、興味深いものがあります。



「サマタ瞑想のときになぜ起きていられるかですが、これはリラクセーション反応の研究、あるいはリラクセーションを使う自律訓練法というのがあって、その自律訓練法の中で非常によく知られている現象に『自律性解放現象』というのがあるのです。自律訓練で緩んでくると、いろいろなものが出てきます。瞑想される皆さんがよく経験されるのは雑念ですよね。集中しよう、無念無想になろうとすればするほど雑念が出てくる。あるいはリラックスしてくると、何か凝っている感じがあるなあとか、ちょっと痒いなあみたいな感じとかいろいろな体の症状なんかも出てきます。これは瞑想などで一点集中して無になることから言えばネガティブなことですが、自律訓練法では実は自律性解放が起ったほうが症状が改善することが知られているのです。つまり、自分の中に溜め込んでいた歪みみたいなものが浮き上がってきて解放されていくわけですね。」

(熊野発言。横田南嶺・熊野宏昭「禅僧と医師、瞑想スクランブル」『サンガジャパンvol.32』67頁)



このような視点が出てくる理由は、熊野先生が精神科医であることにも関係しているように思います。

カウンセリングの現場では、自分の抱えているトラウマ的な事実を語ることそれ自体が治療になるという場面もあるからです。



フロイトは、抑圧していたもの(略)古代遺跡と同じで、発掘されたときから風化する、と述べています。秘密は話したときから風化します。」
(東山絋久『プロカウンセラーの聞く技術』204頁)



(3)臨済禅における坐禅実践における雑念の取扱い



雑念の発生を忌避しようとする考え方が臨済禅の数息観の実践の一形態として現われる場合があります。

たとえば、数を数えている途中で、雑念が生じたときは、一から戻って数え直すというものです。

しかし、このような立場が臨済禅一般の方法とは思えません。

個人的に複数の臨済禅の寺院等で実践される坐禅会に参加したことがありますが、このような雑念が生じたときの数え直しを指示されたことはありませんでした。

これは円覚寺の暁天坐禅会等でも同じかと思われます。そもそも円覚寺の居士林で土曜日に実施される初心者向け坐禅会に参加したときには数息観の指導もありませんでした。
臨済宗建長寺派では、この点に自覚的であるように思われます。



「初心の方が坐禅を実践する中で一番難しいのが、雑念にどう対処したらよいかということのようです。

坐禅中に起こる念を念で止めようとすることは、血で血を洗うような行為で際限がありません。心で心を無くそうとすると、心はますます有となります。ではどうすればよいのでしょうか。

念は出次第にしておき、ただそれに執着せずにいる。何が出てきても止めようとも、無くそうともしない。念が有ったり無かったりするままに、すべて放下(ほうげ)して取らず捨てず。これが雑念への対処の仕方であり、坐禅の急所です。」

臨済宗洪福寺(政栄宗禅)『坐禅入門』11頁)



このような考え方の背景には、「一念不生」という概念についての次のような理解が前提となっているのではないかと思います。



「『一念不生全体現、』先に申し上げました如く以下四句禅修行の心得であります。そのおつもりでお聞きください。――一念と云うは、可愛い――憎い――ほしい―――おしい――と云う、それであります。かかる念慮は何人にも胸中に生じます。それを生じさしてならぬと云うのであります。従来、心と行うものは死物ではありません活物であります。故に如何にしても念慮の生じない様には出来ません。(略)種々様々な念慮の生ずるのが、心の本質であります。一応字面の上のみを見ますると無念無想になれと云う様でありますが、否、然らずであります。可愛なら可愛の一念の外に余念を生ぜず、憎いなら憎いの他に邪念を生ぜず、ほしい――おしい――そのまま、是に別の念慮を混入せず、そのものそれ三昧になることであります。それ三昧になりきった処に心の全体が現出致します。(略)

元より本性は無病健全である。然るに可愛いと云うそれを煩悩と思い、憎いと云うそれを煩悩と思い、ほしい、おしい、と云うそれを煩悩として、それらの一切を断じよう、除こう、払おうとする、ぞれぞれが抑々(そもそも)病気の上の病気である。煩悩即菩提であると云うことを知らずして是等の煩悩病を全快させんが為に頻りに真如を求むるが、是又大なる迷いである。」

(菅原時保『碧巌録講演(其二)』57~59頁)



菅原時保老師は、建長寺派の管長もされていた方であり、先の洪福寺の住職の政榮宗禅老師も建長寺派であることから、「建長寺派では、この点に自覚的である」と考えた次第です。

煩悩が生じることも、自然の法則のなせるものであるにもかかわらず、それを振り払おうとすることが更に苦悩を生じさせます。

雑念も同じであり、これを振り払おうとすると苦悩が生じるということかと思います。



(4)集中瞑想それ自体の問題性



プラユキ・ナラテボー師は、そもそも集中瞑想自体に問題があると指摘します。

長文の引用になりますが、興味深い指摘です。



「『幸福になるために瞑想をはじめたはずなのに、かえって苦しみが増えてしまった気がするのだけど、どうしたらいいでしょうか』と言う人が、私の瞑想会や面談会にいらっしゃることはよくあります。そういう方々を見ていると、やはり『過度の集中』が、身心のバランスを崩す主要因になっているように思われる。(略)

集中というのは流動し変化する現象を敢えてデフォルメし、それを固定的な対象とすることで成り立つものですから、そこにハマってしまうと、イキイキとした現実に対応する機動性や柔軟性が失われてしまう。

そして、この集中によるデフォルメされた認知から派生するもう一つの大きな問題は、それが心理学で言うところの『解離』の症状や、『回避』の行動をもたらすことです。私が蚊に刺されたかゆみが全く平気になるようなトランス状態に入ったのに、にもかかわらずその騒音にどんどん過敏になっていったように、現実に生じている事態からどんどん遊離していって、その平安な状態を乱すものに対して、嫌悪の情を抱くようになるんですね。

実際、私がお話しした『瞑想難民』の方にも、集中の境地にとっては邪魔になる思考や想念を悪者に見立てて、そこから離れようとしてしまい、結果として感情が乏しくなってしまったり、さらには人間関係も上手く結べなくなってしまったりする方が何人もいらっしゃいました。ほとんど病的な解離症状に陥っているわけですけれども、瞑想の場合に厄介なのは、指導者によっては、そういう状態を『瞑想が進んでいる証』として、肯定してしまったりするわけです。それでますます、困難な自分の現状から逃げるために回避行動としての瞑想に没頭し、さらに状況を悪化させていくというスパイラルに落ちていく。」

(プラユキ発言。プラユキ・ナラテボー 魚川祐司『悟らなくたっていいじゃないか』137~138頁)



プラユキ師の「集中の境地にとっては邪魔になる思考や想念を悪者に見立てて、そこから離れようとしてしまい、結果として感情が乏しくなってしまったり、さらには人間関係も上手く結べなくなってしまったりする方が何人もいらっしゃいました。ほとんど病的な解離症状に陥っているわけです」との指摘は、「扁桃体の活動の低下による弊害――坐禅の生理学的効果(2)」で取り上げた、扁桃体の過度の活動による情動反応の低下などといった問題と整合的であるのではないかと思っています。

【参考】「扁桃体の活動の低下による弊害――坐禅の生理学的効果(2)」
https://zazenfukyu.hatenablog.com/entry/2020/07/18/222455?

私たちは、仕事や勉強をする際に、ほかのことに目が行って、仕事や勉強がなかなか進まないという経験をすることが少なくないのではないかと思います。

だから、「集中する」ということを無批判によいことであると思いがちであるように思います。

しかし、「集中できない」ということがこのように自然であるからこそ、「集中する」ことには警戒すべき点もあるように思います。

プラユキ師は、「集中というのは流動し変化する現象を敢えてデフォルメし、それを固定的な対象とすることで成り立つ」という集中の異常性について触れていますが、脳科学論からも、集中の異常性を指摘をするのは、池谷裕二先生です。



「私は、集中力とは、本来、動物にとって不自然なものだと考えています。集中するということは、周囲に乱されることなく、一点に意識を集めることを意味しています。野生の動物を想像してみてください。たとえば、シマウマが地面の草を食べることに集中することは、よいことでしょうか?

そんなことをしたら、肉食獣の格好の餌食でしょう。野生の動物たちは、一点集中を避け、むしろ、意識を周囲に分散させながら外敵に注意する「分散力」を必要とします。だから、集中しないようにする“非集中力”を発達させてきたわけですし、その能力に長けた動物たちが生き残ってきているわけです。」

池谷裕二『脳には妙なクセがある』319頁)



そもそも坐禅や瞑想の時に集中できたとしても、それは坐禅や瞑想の時という場面に応じたところのもので、それ以外の時に集中できるかは別であると考えるべきなのでは無いかと思います。

脳がある場面で望ましい活動をしていても、脳が普遍的に望ましい活動をするとはいえないという観点から、池谷裕二先生は、いわゆる「脳トレ」にも疑問を呈します。



「世間一般における『脳によい』ことを指示するためのデータ基盤が、ほとんどの
ケースで『○○をすると脳が活性化する。したがって、○○をすれば脳が鍛えられる』という論理構造を持っている(略)。

脳トレにおいて問題にされるべき核心は、トレーニング中に脳がどう活性化するかではなく、トレーニングによって脳がどう変化(あるいは成長)するかということではないでしょうか。(略)

脳が変化したとしても、まだ問題があります。つまり、成績が上昇しなければ、まったく意味がないからです。脳トレを試みる人が本当に気にしていることは、どれほど脳が活性化するかではなくて、結局は『成績が上昇するか』(略)ではないでしょうか。(略)
実生活としては、たとえば計算練習をして計算が速くなれば、結局、もうそれで十分であって、それ以上の実質的な意味はありません。なぜなら私たちはあくまでもトレーニングによって外に現れる変化を期待しているのですから。脳の内側を気にするというのは、それ自体が奇妙な風潮なのです。」

池谷裕二『脳には妙なクセがある』107~108頁)



「『○○をすると脳が活性化する。したがって、○○をすれば脳が鍛えられる』という論理構造を持っている」というのは、脳トレで行われるような計算をするような時には、「脳が活性化」していることは当たり前なので、そこから当然に脳が鍛えられるかは別ということなのでしょう。

そして、脳トレの「計算練習をして計算が速く」なったとしても、それ以外の場面で脳がほかの人よりも効率的に機能するとはいえないということなのかなと思います。

禅に関係する本を改めて読んでみると、禅の世界でも、ある場面において集中力を発揮できることは、他の場面で集中力を発揮できることを意味しないことを前提としているということがわかります。



「正三は、ある時にこう言っている。禅定の機、坐禅の気合いというのはどういうものかと聞いたら、大刀を抜いて構えて見せて、これだと。だから侍は禅定に入りやすいんだ。ところが、侍というものは刀を置くとゲソッとして禅定の機を失ってしまう。それで駄目なんだ。禅僧というものは、朝起きるから夜寝るまで、いや寝た中でも刀を抜いてピタッと構えたような気合いでいるものだと。」

(大森曹玄『驢鞍橋講話』14~15頁)



とはいえ、坐禅をしていれば当然集中力が日常のあらゆる場面で継続するのかというとそうではないように思われます。

禅の世界で「正念相続」ということが言われ、坐禅の際の精神状態を日常一般まで拡大するよう強く言われる理由は、坐禅の際の精神状態、本稿の文脈で言えば集中力は、坐禅後も当然に継続するわけではなく、そのためには「特別な訓練」が必要であることを前提とするものでしょう。

(ちなみに、私自身は、このような「正念相続」理解には若干の疑問を持っています)

【参考】「【参考資料】正念相続とは随処に主となることである」
https://zazenfukyu.hatenablog.com/entry/2020/04/03/215638

集中力を養うことも悪くはありませんが、これを坐禅や瞑想を通してやろうとすることに問題があることからすると、やるのであれば、私たちの多くが実際にやってきたとおり、仕事なり、勉強なりのその現場で仕事や勉強を一生懸命にやるというオンザジョブトレーニングでやることが適切かつ効率的であるように思います。





にほんブログ村 哲学・思想ブログ 禅・坐禅へ
にほんブログ村

参考になる点がありましたら、クリックをしていただければ幸いです。