「分別心」の否定ではなく、限定
「すべてのものに優劣はなく、善悪もなく、尊重すべきものは何もない」という考えを友人に語っており、これを「等価思想」と名付けていたという。
A少年が学校で暴力事件を起こしたときに「人の命はアリやゴキブリと同じ」と語っていたことに通じる考え方である。」
仏道の世界では、人間の悩みや苦しみの原因は、世界を区分する作用、客観と主観、自己と他者、生と死、善と悪等に区分して解釈しようとする分析的な作用、すなわち、分別心であると考えて、分別心から自由になることを説きます。
「仏教では伝統的に判断、了別の働きは分別(vikappa)と呼ばれてきました。ですから観(vipassana)によっ(25頁)て目指されている境地は、分別のおきていない状態ですので、それは「無分別」という名称で呼ばれていました。無分別という表現は、普通にはあまり良くない意味で使われますが、仏教では、悩み苦しみが、分別が起きることから発生すると考えていますので、無分別は逆にとても良い意味で使われます。」
(箕輪顕量「上座仏教の瞑想概観」箕輪顕量監修『別冊サンガジャパン①実践!仏教瞑想ガイドブック』(2014年8月1日)24頁)
仏道修行は、このような無分別の状態になることを目的として行われる面もあります。
とはいえ、私たちの思考の枠組みは、効率的に生存をしていくためには必要不可欠なものです。
「人の心は、自分に関心がある部分を拾い上げるために、それほど関心がないその他たくさんの細かな情報を苦もなく無視している。そうしたバイアスを通じて人はみな、自分にとっていちばん重要な事柄に自然に目を向けているのだ。
(略)
わたしたち人間はこうしたバイアスをまったく自覚していないようだ。日々の生活を送るなかで、身のまわりで起こるものごとを、脳は旋回するレーダーのように絶えず分析かつ調査し、自分にいちばん関心のあるものごとを決して見逃さないようにしている。」
(エレーヌ・フォックス(森内薫・訳)『脳科学は人格を変えられるか?』51~52頁)
私たちは、感覚器管を通し、日常的に大量の情報に接しています。
それらをすべて余すことなく解析していては、脳で処理しきることができず、結局、何の行動もとることができなくなってしまいます。
そこで、脳は、その問題関心、つまりは、この肉体の利害得失の判断の上で有用な情報を取捨選択することになります。
その取捨選択の思考の枠組みこそが「分別心」というものでしょう。
しかし、却って思考の枠組みにとらわれて、いきることに苦労することはよくみられることです。
私たちの脳は、利害得失を判断しますが、過剰に機能すると、却って、行動がとれなくなります。
というのは、私たちの認識能力には限界があり、この再現なく変化する世界において将来何が起きるのか正確に知ることができません。
あらゆる判断は、もしかしたら間違っているかも知れない可能性を秘めているものであり、私たちの行動は常に失敗のリスクを背負っています。
行動をとると、エネルギーを費やします。
つまり、全ての行動は、常に損失をもたらします。
それに対し、行動の狙った目的を実現するかは保証されていません。
つまり、全ての行動は、その利益が確実にもたらされるかわかりません。
したがって、どんな行動も、損失は確実である一方、利益は不確実であるということになります。
そうすると、損失が生じないという意味で、行動をしない方が得だということになります。
脳の中で、利害得失を判断する機能を有する扁桃体が利益ではなく、不利益に強く反応をするのは、このためではないかと思います。
「快楽をつかさどる領域と同じく、緊急事態に対処する脳の領域(略)の大半は皮質下の奥深くに埋め込まれており、たがいに密な関係をもつと同時に、上にある大脳皮質とも強く結ばれている。(略)いちばん中心にあるのは<扁桃体>と呼ばれる組織だ。
(略)
扁桃体は迅速に、そして人が意識しなくても自動的に作動しなくてはならない。人の意識が何かにかかりきりになっているあいだにも、脳のこの原始的な領域はつねに、身のまわりに危険はないか目を光らせている。そしてひとたび危険を発見すると、それがふたつの経路のどちらを通ってきたものでも、扁桃体は脳の他の部分に向けて即、「今していることはストップ!集中しろ!」と合図を送る。」
(エレーヌ・フォックス(森内薫・訳)『脳科学は人格を変えられるか?』136~138頁)
偏桃体の活動が恒常的に活発化すると、結局、不安感から活動性が低下し、最終的には引きこもるということにもなるでしょう。
「社交不安障害(社交不安症)は、新しい病気で、最近日本でも耳にするようになりました。
(略)
社交不安障害では、扁桃体が過剰に反応しやすく、前頭葉(前頭眼窩皮質)がうまく扁桃体をコントロールできていないことが知られています。」
(「永田利彦先生に「社交不安障害/社交不安症」を訊く」https://www.jspn.or.jp/modules/forpublic/index.php?content_id=34))
未来における利害得失の判断の過剰が扁桃体の活動の過剰をもたらすのですから、その判断を離れる工夫をする必要が生じます。
「われわれは、ふつういつでも何事につけてもアレとコレと分別比較し、少しでもなんとかウマイ方へころぼうというはからいを働かせ、そのために、かえってッキョロキョロ、オドオドしながらいきています。というのは、ウマイ方を考えるかぎりは、ウマクナイ方があるのは当然であり、それゆえウマクナイ方へころぶまいという危惧が、どこまでもついてまわるからです。つまりこのウマイ方とウマクナイ方ということを分別して生きるかぎりは、決して「どっちへどうころんでもいい」というような絶対的な安らいにおいてあることはできません。」
(内山興正『坐禅の意味と実際・生命の実物を生きる』116頁)
その工夫が仏道の瞑想でしょう。
しかし、分別がなくなることが本当はよいことか、ということも、工夫してもよいように思います。
仏道の世界では、分別心については、否定的に捉えられますが、元々は、私たちがこの世界で生きる上で必要な機能であり、否定しさってよいものではありません。
建長寺の専門僧堂で師家をされていた政榮宗禅老師は、悟ったままでいつづけると、「デクノボー」になると言っていました。
最初聞いたときには、宮沢賢治の詞を思い出しながら、「デクノボー」のままでもいいだろうと思っていましたが、やはり、分別心が否定されたままではいけないのです。
主観と客観、自己と他者、生と死、善と悪等々を区分する精神作用は、やはり、健全なものなのです。
それは、精神障害と呼ばれるものが、往々にして、「分別心」といわれるべきものの機能の不全を示すものだからです。
たとえば、脳機能障害の一種であるアスペルガー症候群は、知的障害を伴わない場合に、適切な介入等がなされないときは、高い犯罪親和性を示すものとされ、あいち小児保健医療センターの調査によれば、アスペルガー症候群の方が5倍ほど高いものとされ(井出草平『アスペルガー症候群の難題』53頁)、イングランド・ウェールズの調査によれば、犯罪親和性は確診で約39倍、確診と疑診の合計で約89倍であるとされています(前掲書58頁)。
(*なお、念のためですが、これは飽くまでも数字的なものであり、「アスペルガー症候群の人によって起こされる事件は少数であること、アスペルガー症候群であってもほとんどの人は犯罪と関わりがないこと、現在の段階では資料に限界があることを、まず認識する必要がある。」(前掲書66頁)ことは、言うまでもありません。)
その原因としては、アスペルガー症候群の認められる人には、いわゆる「分別心」に当たるものの欠如が認められるからであると考えられています。
「アスペルガー症候群の場合、(略)燃やす行為に「許容されるもの」と「犯罪になるもの」があることがわからないのである。」(前掲書85頁)
「(「実験」として殺人等をする事例の)このタイプの犯罪に特徴的なのは、「人」を「物」のように扱っているということである。それは、人と物の区別をつけることが難しいアスペルガー症候群の特性が関係していると思われる。」(前掲書86頁)
冒頭に挙げた事例は、1997年に発生した当時14歳の少年による連続殺人事件(犯行声明に書かれた名前から、「酒鬼薔薇聖斗事件」と呼ばれています。)の少年の考え方として、報道されていたものです。
同少年については、アスペルガー症候群によるものとも考えられていますが、人間とほかの生物とを区分しない、分別心のない態度が示されています。
禅の世界では、自他が不二一体であることを体認することが覚りであるとされます。
自他を区分する分別心が解消されると、慈悲心が発揮されるなどと大乗仏教では考えられています。
しかし、自他の不二一体の認識が当然慈悲心をもたらすかというと、全く別問題でしょう。
自他が不二一体ということになれば、他者も自己の一部として、たとえば、髪を切り、爪を切るように、他者も自己の一部として排撃する、殺すことも当然であるという発想もあり得るからです。
そもそものところで、他者の尊重、慈悲心がないところでは、自他不二の認識は何ら、慈悲の行為を保証しないので
禅の世界で、「初発の発心」が重要であるとされるのはそのためでしょう。
あくまでも、禅の修行は、当初の慈悲心を強化するものにすぎず、修行を通して、当然、慈悲心が生まれるものではないのです。
私たちに、分別心は必要です。
臨済禅において、不二一体を体認する向上の修行をした後、いわゆる「悟りの臭味」を除く、向下の修行が必要とされるのはそのためでしょう。
しかし、向下がなされることの保証はありません。
問題は、分別心が存在することではなくて、それが過剰に機能することであり、目指すべきは、分別心の否定ではなく、その適切な限定です。
禅門では、これを「無分別の分別」などと言ったりしますが、わかりにくい概念であり、適切なものだとは思われません。
まあ、禅自体が「不立文字」であり、言葉で説明できないのは、当然だ、と開き直られるとどうしようもないのですが。
「無分別の分別であるが、このやうなものが別に何かあると考ふべきでない。あるかと考へ始めるとき、既に「無分別の分別」を失却して居る。そのやうなことを云ふのは、論理的意識の上に出して、思索上の話題にするときである。」
(秋月龍珉宛て鈴木大拙書簡。秋月龍珉『世界の禅者―鈴木大拙の生涯―』250頁)
政滎老師から否定されたことはあるのですが、私自身は、「分別心」を限定するという言い方の方がよいのではと思っています。
「人生はこの生きているままで満ち足りている。そこに人騒がせな知性が入ってきて、人生を破壊しようとする。その時はじめて、われわれは生きることをやめて、何か欠けている、何か足りない、と思いはじめる。知性はそのままにしておくがよい。それはそのしかるべき領域においては、それなりに有用である。だが、生の小川の流れを邪魔させてはならない。」
(鈴木大拙『禅』51頁)
私は、この一節の中で、重要な部分は、「知性」、すなわち、「分別心」が「そのしかるべき領域においては、それなりに有用である」とされているところだと考えています。
分別が「しかるべき領域」から逸脱することが問題であり、同時に、それは「しかるべき領域」には“いなければならないもの”なのだと考えているのですが、どのようなものでしょうか。
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