【参考資料】正念相続とは随処に主となることである
禅に興味を持ってから、「正念相続」という言葉を耳にするようになりました。
正直に白状すると、長いことその意味がはっきりつかめませんでした。
禅関係の本や久参の方の話でよくでてくるのは、坐禅の時の状態を日常生活に及ぼすことであるということでしたが、それもピンと来ない。
人によっては、歩行瞑想に明け暮れる感じの方もいますが、どうも不自然極まりない。
日常生活からずれた仏道の実践が、日常生活を侵食し、仏道というより魔道という感じがしてなりませんでした。
魔道が言いすぎなら、大乗仏教ではなく、上座仏教という感じと言ったらよいでしょうか。
しばらく前に、秋月龍珉先生の本を読んでいるときに、西田幾多郎先生が、「正念相続とは随処に主となることである」との趣旨のお話をしているのを“気づき”、「なるほど」と感心した次第です。
「正念相続はある意味では「定力」の錬磨である。それはまた、「見た」ものを「身につける」修行であると言ってもよい。(略)
自己を無にして何にでも成りきってゆく。時ぎり場ぎり、その時その場の「ものとなって見、ものとなって行な」(西田寸心)ってゆく。万般の対境にぴたりたりと一つになってゆく。」
(秋月龍珉『公案』73~74頁)
ずっと前に入手した本ですが、しばらく前にこの一文に“気づき”ました。
見えども、見えず、というところです。
「その時その場のものとなって見、ものとなって行なってゆく」というのは、正に随処に主となる底でしょう。
やはり、力量のある方は言うことが違うなと思います。
随処に主となるというのは、その時その場でなすべきことに全力を尽すことです。
家庭においては、よき親であり、よき配偶者であり、職場においては、よき職業人であること。
慈悲の端的です。
慈悲の趣旨がより明確なのは、鈴木大拙先生です。
「菩薩は(略)随順衆生の願を果たさんとするのである(略)。〔この願は〕念念に相続して間断あることはないであろう。」
(〔鈴木大拙全集8巻からの孫引き〕竹村牧男「鈴木大拙と華厳思想」『中央学術研究所紀要 第47号』17頁)
同じような消息を澤木興道老師は、こう言います。
「修行とは、今ここで自分が仏道としてはどうしたらいいか――この工夫である。」
(沢木興道『【増補版】坐禅の仕方と心得』142頁)
日日、一瞬一瞬、慈悲の工夫をし続ける。
こうすると、正念相続が、自己の修養という自利から、拡がりを持った利他になるという感じがします。
参考になる点がありましたら、クリックをしていただければ幸いです。