坐禅普及

主旨は慈悲。行は坐禅。

本ブログの記事に対する質問ついて

1 おねがい



本ブログの記事に対する質問ですが、各記事のコメントの機能を使って入力して、お寄せいただければと思います。

本ブログのコメントは、私が承認することによって公開されることになっていますが、誰でも入力できるようになっています。

質問への回答は、余程短文で答えられるものでなければ、ブログの記事として、書く形にしようと思います。

これまでの経験から前提となる知識や考え方の説明に相当程度要する場合が多いので。したがって、真面目な質問に対しては、きちんと回答をしたいと思いますが、回答が相当程度遅れることも多くなるのではと思います。

また、質問のコメントを記入される際には、コメントとして公開することの可否も記入していただければと思います。

非公開を希望する質問については、必要な場合には適宜の修正を加えようと思いますが、事柄の性質上、質問内容自体はブログの記事の中では、公開され、ブログの記事の中で非公開とするのは、質問者の特定に関するものと考えていただければと思います。

質問の性質によっては、回答しない場合もあることもご理解下さい。



電話、メール、メッセージアプリ、ウエブ会議システム等を使って個人的に連絡を取り合う形での質問の受付については、差し控えさせていただこうと思っております。このブログへの記事の掲載については、匿名でやっていきたいと考えており、個人が特定される可能性がある事態は避けたいと思っております。

このような次第で、本ブログの内容については、匿名に係るものですから、一つのアイディアとして、批判的にご覧になっていただいて、その上で、何らかのヒントになることがあれば幸いです。



2 本ブログ引用の資料について



本ブログでは、私の「青年の主張」に類する話だけ読んでもつまらないであろうし、また、知識が入るだけでもよかったと思っていただけるよう、かなり詳しく文献等の引用をするようにしています。

本ブログの内容について、批判的に見ていただく上でも、各資料について原典に当たっていただくことをお勧めします。

アマゾンなどで検索をしていただければわかるかと思いますが、引用に係る書籍については、ほとんどが市販の文庫、新書の類であり、大判の書籍についても、アマゾンにおいて、相当廉価で、その古書を購入できるものがほとんどです。

また、終戦以前に出版された書籍も相当程度引用していますが、それらのものは著作権が切れていることから、国立国会図書館デジタルコレクションのウエブページから全文が閲読できます。なお、本ブログに引用する際には入力の手間もあることから、適宜、現代仮名遣いに改めるなどしています。

国立国会図書館デジタルコレクション】
https://dl.ndl.go.jp/

さらに、学術論文からの引用をする場合もありますが、これらもウエブ上でpdfファイル化されたものを入手できるものがほぼ全てです。

興味を引かれたものについては、J-STAGEを検索したり、資料名の後に「pdf」と入力してウエブ上で検索していただければ原典の入手は容易かと思います。



3 基本的な注意点



本ブログの記事を真剣に読んでいただいて、質問をしていただけることはうれしいことです。

本ブログは、読んだ方が何らかのヒントを得られればよいのかなと考えて書いているものです。読んで却って悩みが生じるのであれば、本意ではありません。質問をしていただければ、悩んでしまう部分を改める機会になります。

また、同じ書くのであれば、興味を持っていただけるテーマに沿うものの方が匿名とはいえ公にする以上は適当かと思いますので、この観点からも、よろしくお願いいたします。



仏教には、多様な考え方がありますが、その中でも、私自身が最も重要な考え方だと思うものは、「愛する」こと(慈悲)です。反面、「愛される」ことは、重要ではありません。

「愛される」こと、「与えられる」こと、これらのものは本来いりません。「特別なものはいらない」。自利という観点からは、これが一番大切かと思います。

禅や仏教の教義や実践は、応病与薬の方便であり、それに関する知識も本来いらないものです。理解する必要などはありません。

ですから、釈尊は四十九年一字不説です。祖師方の言葉は全て余計な老婆親切です。

このブログの記事の内容も理解できなければ黙殺されて何ら問題ありません。問題は、私の力不足です。理解するために無駄な時間を使う必要はありません。生死事大無常迅速です。



私たちは、禅や仏教に出会う前からきちんと生きていました。生きる上で禅や仏教などがいらないことは明白です。

私たちは、人生の様々な場面で答えが分からず、迷うこともあります。しかし、答えがわからないままであっても、きちんと生きてきたのです。

答えがわからなくてもきちんと生きることができる。

これが私たちの尊いところの一つであり、多くの禅匠が伝えようとすることです。

「禅は禅に非ずしてよく禅なり」の端的です。

【参考】

○初心
https://zazenfukyu.hatenablog.com/entry/2020/05/03/232544

○仏教はなく、禅もない
https://zazenfukyu.hatenablog.com/entry/2020/01/30/121401

「特別なものはいらない」という観点から、禅の「修行」等の仏教の実践を本格的に行うと称する団体に加入して活動することはお勧めいたしません。

仮に、加入を検討される場合は、本当にその活動をする必要があるのか、活動によりどのような具体的な結果が得られるのか、あるいは、具体的にどのようなリスクを負うのかなどを十分検討されることをお勧めいたします。

検討に当たっては第三者の意見も聞くようにされるとよいでしょう。仏教の研究者につてがあるのであれば、その方の意見を聞くのは有力かと思います。NHKの「こころの時代」にも数回出演し、斯界の権威とされる仏教の研究者の先生が、それなりの伝統があるとされる禅の「修行」をする某団体にその教え子の方が入会したのを知るや、直ちに退会するように説得されたこともあったそうです。やはり、このような方のところには、「業界」の情報がよく入ってくるのでしょう。

【参考】

○所有する不幸
https://zazenfukyu.hatenablog.com/entry/2020/06/07/220706

○魔境(2)――坐禅の生理学的効果(11)
https://zazenfukyu.hatenablog.com/entry/2020/08/09/073224

とはいえ、どこの団体が良いのか、悪いのかに関しては、触れるつもりはありません。

良い方に関しては、一見、良さそうに見えても、内実は違うということは世情よくあることです。私自身、一時期、この種の団体に関わることになって、当たり前のことながら、冷暖自知したところです。十分な情報のない中で、どこかの団体を全体として良いものと支持することはできません。

悪い方に関しては、単純に名誉毀損等の問題が生じることを避けたいからです。この肉体を使い切る上で、支障の生じる事態は避けなくてはなりません。



私自身、一時期、色々な坐禅会や瞑想会に参加しました。

様々な瞑想の手法を勉強することだけではなく、そこでよい出会いがあり、今でも続く交流のきっかけにもなりました。ゆるやかな坐禅会や瞑想会には今でもお邪魔しています。

別稿でも書きましたが、参加されるのであれば、近所のお寺で行われるような、週に1度、25分間の坐禅を2セットやって、後は、30分間くらい、ほかの参加者と一緒に、師家でもない普通のお坊さんと、煎茶と簡単な市販のお菓子をいただきながら、たわいもないおしゃべりをして終わる素朴な坐禅会をお勧めします。

マインドフルネスも、宗教的ではないという点で悪くはないかと思いますが、参加費が3000~4000円くらいすることが多いですから、そこがネックでしょうか。



「現実を愛する」。現実の世界を生きている以上は誰もが前提とし、当たり前にやっていることです。全ての問題は、その時、その場、その人限りのものであり、当然、普遍的な答えはありません。したがって、普遍的に正しい教義はありません。予め用意された答えのない以上、悩み、苦しみ、迷うことは当たり前であり、現実に向き合って生きていることの反映です。そして、私たちは、皆、誰かから答えなど教えてもらうことなしに、いつも、自分の中から出した答えに基づいて、人生に現われる全ての問題に対し、解決ができないときでさえ、対応はできているのです。

【参考】

○不確かな世界を愛している
https://zazenfukyu.hatenablog.com/entry/2020/02/17/072810

○禅=現実=大拙の“something”
https://zazenfukyu.hatenablog.com/entry/2020/03/12/231503



「特別なもの」はいりません。



「大に有事にして過ごす処の人間、今日の生存競争場裡の働きが其儘無事底の境界で、何程どんちゃん働いて居ても無事じゃ。朝から晩まで、あくせくと働いて其上が、しかもそのまま無事じゃ。世間から離れる意味ではない。」

(釈宗活『臨済録講話』221~222頁)





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