坐禅普及

主旨は慈悲。行は坐禅。

摂心会(合宿形式の坐禅会)の危険性(4)

岡田尊司先生の『マインドコントロール 増補改訂版』の内容を踏まえ、マインドフルネスの世界でも、問題が語られている摂心会やリトリートなどと呼ばれる合宿形式の坐禅会・瞑想会について検討する記事の4回目です。

【これまでの記事】
摂心会(合宿形式の坐禅会)の危険性(1) - 坐禅普及
摂心会(合宿形式の坐禅会)の危険性(2) - 坐禅普及
摂心会(合宿形式の坐禅会)の危険性(3) - 坐禅普及



本稿では、岡田尊司『マインドコントロール 増補改訂版』を引用する際には、特に書名を示さずに引用します。



禅や瞑想をする団体には、寺院が行うもののほか、在家者の団体が主宰するものなど様々なものがありますが、中には、新興宗教的に資金集めなどを目的として勧誘活動に力を入れている団体もあります。

元々は伝統的な禅の団体であったものでも、信者数の減少から施設の維持のための資金に窮するなどしたために変質し、資金集めや、そのための人集めに力を入れているものもあるように思われます。

【参考】
所有する不幸 - 坐禅普及



仏教の言葉には、「自我」、「自己」、「私」などといったものを否定的に捉えるものが多く、坐禅や瞑想自体に、心理的には、自分の閉じた心を開いていく側面があります。

しかし、同時に、その開いた心に、「別の何か」を無抵抗な状態で注入される危険をはらむようにも思われます。

気づかないうちに、団体やその指導者にうまく使われるようなことになりかねない側面もあるのではないかと考えていました。

【参考】
オキシトシンの分泌――坐禅の生理学的効果(3) - 坐禅普及



禅宗系の坐禅会や、上座仏教(テーラワーダ)系の瞑想会に参加していると、団体によっては、どこかの施設に泊まり込む合宿形式の坐禅会や瞑想会に誘われる場合もます。

禅宗系では、「摂心会」、上座仏教系では、「リトリート」などと呼ばれます。

岡田先生の『マインドコントロール』を読んで、このような合宿形式の坐禅会・瞑想会については、慎重に考えなければならないということをかなり整理できました。



先生の仰るマインドコントロールの具体例の一つが「禅の修行」です。



「洗脳を目的として発展したさまざまな方法に共通するのも、過酷な極限状態にその人を追い詰めていくという点である。(略)

たとえば、禅宗の修行でも、導師が弟子に対する接し方は、極めて理不尽で、ほとんど無意味な虐待に近いという。その理不尽さと虐げることに意味があるのだ。新しい境地にたどり着くには、もっともらしい知識や肩書など何の役にも立たず、赤子のように無力だと感じる極限状況が必要なのだ。」(168~169頁)



ここに「合宿」という要素が加わると、更に危険が増すことになります。



「外界から隔離し、外部の人と話のできない孤絶した状態に置くことは、洗脳の基本である。(略)

昔から学問や技芸を学ばせる場合、寄宿舎や合宿という形が好んで用いられたのは、集団生活を学ばせるとか競争させるといった意味もあるが、一つには、外界との接触を減らし、無関係な情報入力を減らすことだったと言えるだろう。」(216~219頁)



今の自分の人格が嫌で、特定の宗教的な考え方に染まり込みたいというニーズがあり、実施する団体や指導者が「本当に」信頼できるのであれば、やる価値のある可能性は否定できません。

しかし、そのようなことをシビアにしなければならない人は少ないようにも思いますし、どんな団体でも、指導者でも、全面的に支持できる人はいないようにも思われますので、合宿形式の坐禅会、瞑想会への参加には慎重に考えられるのがよいかなと思っています。



岡田先生は「マインドコントロールの5つの原理」として、ここに挙げた情報入力の制限等の五つをあげます。



「第一の原理:情報入力を制限する、または過剰にする」(216頁)
「第二の原理:脳を慢性疲労状態におき、考える余力を奪う」(221頁)
「第三の原理:確信をもって救済や不朽の意味を約束する」(229頁)
「第四の原理:人は愛されることを望み、裏切られることを恐れる」(235頁)
「第五の原理:自己判断を許さず、依存状態に置き続ける」(242頁)



本稿では、マインドコントロールを受ける(受けてしまう)側の問題点に関する第四の原理を見ていきます。



8 第四の原理:人は愛されることを望み、裏切られることを恐れる



(1)愛情や共感のポーズから本能的に相手を肯定

「もう一つ、マインド・コントロールにおいて不可欠な原理は、人間が社会的動物であることを、逆手に取ったものである。群れで生活するのが基本である人間は、一旦仲間だと認めたものに対して、忠誠を尽すという本性をもっている。マインド・コントロールしようとする者は、仲間であることを強調したり、親しみを演出しようとする。愛情や共感のポーズを積極的に示そうとする。(略)

自分が受け入れられ、大切に扱われているという感情に満たされるようになる。それは、通常の生活では味わうことのない快感であり喜びである。

人は心地よい体験をすると、それをもう一度求めるようになる。心地よい体験を与えてくれた者たちやその場所に対して、愛着や親しみを覚え、それを肯定的に考えるようになる。自分をこんなにも愛してくれる存在が、悪い存在であるはずがないと、理性よりも本能がそう思うのだ。」(235~236頁)



人間の悩みの最も大きな要因は、人間関係であるとよく言われます。

仏教の実践において、「出家」というものが重視される理由も、悩みをもたらす大きな原因であるところの人間関係から病んでいる人を切り離すという点にあるように思われます。

【参考】
「出家の不幸」と「禅天魔」 - 坐禅普及



特に、坐禅や瞑想に興味を持つ人には、何らかの形で、職場、学校や家庭といった人間関係の中で疎外感を抱いている人が少なくないように感じます。

私もその一人であったりするのですが、坐禅会や瞑想会に通うようになってから、かなり軽症の部類なのだということがわかりました。



坐禅や瞑想に興味がある人の多くは、ほかの人に優しくしたいという気持ちがあり、職場等の人間関係でうまくいかないような人も暖かく迎え入れてくれます。

これは、資金集めや人集めに力を入れている団体も同様です。

岡田先生のいう「愛情や共感のポーズを積極的に示そうとする」ということです。

そして、それが職場等の人間関係で悩んでいる人には、うまいこと嵌まってしまう。

私自身がマニアックな禅の団体に入り、そこから抜けるのに決断を要したのも、どこかしら疎外感があったからだと思います。

まさしく「自分をこんなにも愛してくれる存在が、悪い存在であるはずがないと、理性よりも本能がそう思うのだ」というわけです。



(2)いったん活動を始めるとやめることは困難

いったんこの種の団体に所属して活動するようになると中々やめがたくなっていきます。



「グルが、聖者などではなく、聖者のふりをしたペテン師だということになってしまうことは、グルが特別でなくなるだけでなく、自分もまた、ペテンにかかったただの愚か者だということになってしまうことを意味する。(略)

それを

《疑うことは、自分が生きてきた人生の意味を否定》

するようなものだからだ。(略)

都合の良い事実だけを見て、グルや占い師を妄信し続けるしかない状況に陥っている。

そうした構造は、妄想性の精神疾患でも、しばしばみられる。何年にもわたって、自分が特別な存在だという妄想とともに生きてきた人は、薬物療法によって妄想が、妄想だとわかったとき、危機を迎える。それは、長年自分を支えてきた世界の崩壊に等しい。もう何も頼りにするものも、自分を支えてくれるものもない。ただ、自分が何年も妄想にとらわれて人生を無駄にしたという事実しか残らない。それはあまりにも残酷な現実と向き合うことだ。妄想がとれたとき、自殺してしまう人もいるのは、そうした理由からだ。」(58~60頁)



このような心理に陥る機序は、「認知的不協和」などと呼ばれます。



「一般に、自分の『行動』と『感情』が一致しないとき、この矛盾を無意識のうちに解決しようとするようです。行動か感情のどちらかを変更するわけです。(略)『行動』は既成事実として厳として存在しています。事実は変えようがありません。そこで脳は感情を変えるわけです。(略)

『認知的な不協和を回避する』という理論そのものはアメリカの心理学者フェスティンガー博士らによって、50年以上も前に提唱されたものです。彼による有名な実験があります。面白くない単調な作業をさせて、その後に『楽しかった』と言ってもらうというものです。そして謝金を渡すのですが、このとき被験者を二つのグループに分けます。片方には20ドルを、もう一方には1ドルを支払います。その後、作業がどれほど面白かったかというアンケートを採りました。(略)

1ドルのほうが面白いと感じたのです。(略)1ドルでは『金が欲しくてやった』にしては割に合いません。つまり、作業をする十分な理由が見当たらないのです。心理矛盾です。そこで『実のところ、自らすすんでやるほど楽しかったのだ』と態度を変えて納得します。」

池谷裕二『脳には妙なクセがある』86~89頁)



認知的不協和の理論からすると、やっていることが単に無価値であるだけではなく、普通に考えたらやる本人にとっては有害なことの方がより有益に感じることになりそうです。

宗教への勧誘などということは、勧誘される相手にとっては不快なものですし、その相手から厳しい言葉が投げつけられるようなこともあって、勧誘する人自身にとっても非常に嫌なことです。

かつて所属していた団体でも、イベントへの参加者を増やすため、久参の方がひたすら電話するようなこともあり、なんでそんな自分にとっても、相手にとっても有害なことをするのか疑問に思っていました。

認知的不協和という観点からすると、このようなマゾヒスティックな行動をしてしまうことも理解しやすいように思われます。



(3)勧誘を真に受けないという常識論が大切

常識的に考えても当り前ですが、敢えて書くと

「この種の団体に所属して活動している人が、自分達の団体について、肯定的な話をする」

ことを真に受けてはなりません。



ご本人さん達に、ほかの人をだます気持ちはないかと思います。

多くの場合、ご本人さん達の精神世界では、「本当によい団体である」と純真に思っているのです。

問題は、その純真な気持ちが生じる原因です。

「よい団体」であると思っている原因が、本当に、その団体の活動が、社会的、経済的、倫理的に、「よい」というところから来ているのか、それとも、そのようないわば「客観的なよさ」はないけれども、認知的不協和から、「よいと思い込んでしまっているだけ」なのかということです。



実際に勧誘を受ける現場では、勧誘をしてくる人の内面世界はわかりませんし、また、その団体の活動の実態はわかりません。

現実的な対応としては、勧誘を受けたら絶対に断ることがベストチョイスであると思います。

常識論からして、人間の能力や人格が機械的かつ確実に向上するのであれば、みんなやっているはずです。

しかし、そんな実態はありません。

常識論ではありますが、仏教にも造詣が深い河合隼雄先生のお話。



「人間が、よくなったり偉くなったり賢くなったりする『よい方法』があれば、まず自分自身に適用したいと筆者は思っているが、どうもないようである。」

河合隼雄『〈心理療法コレクションⅣ〉心理療法序説』160頁)

ユングも言っていることですが、偉大な人も近くに寄ると『影』が見える。日本に住んでいると『偉大な』禅の師について見聞することもあります。そうすると『悟り』を啓いても利己的な面はそのままである点などがわかって疑問を感じてしまいます。」

河合隼雄『〈心理療法コレクションⅤ〉ユング心理学と仏教』37頁)



禅の「実践」をすると、人格がよくなるなどといわれますが、必ずしもそのような効果は保証されておらず、現実には尚更悪くなる人も少なからず存在することもよく知っておく必要があるかと思います。

たとえば、作家の司馬遼太郎先生は、かつて新聞記者をしていて京都の支社にいらっしゃったときのことを回想して、このような話をされています。



「新聞記者をやっていたころ、職業上の必要から禅宗の坊さんにずいぶんと会いましたけれども、何人かをのぞき、これは並以上に悪い人間じゃないかと思うことが多かったです。」

司馬遼太郎『日本人を考える 司馬遼太郎対談集』65頁)

【参考】
脳生理学的観点から見た坐禅と禅的人格との矛盾 - 坐禅普及
禅の修行は「禅的人格」を生み出せるか。 - 坐禅普及
扁桃体の活動の低下による弊害――坐禅の生理学的効果(2) - 坐禅普及



力のある禅の指導者や社会的に評価されている上座仏教の実践者の方も、特定の実践が有効であることを喧伝することの危険性に注意を促します。



「私たちが犯しやすい誤りというのは、自分に合っている教えが万人に共通する、通用すると思いがちなところです。自分に偶さかその教えが合っていれば、相手もそれでいける、通じるはずだと思ってしまう。そうなると、その相手を見ておらず、押しつけになってしまいます。人それぞれの特性と言いましょうか、生まれてこのかた体、体質、考え方、環境、人間は千差万別です。

《「これですべてが通用する」というようなものは、私はないと思う》

のです。ですから、様々な教えや修行方法をたくさん学んで、そして自分に一番ふさわしいもの、あるいは今の自分にふさわしいものを自分で見つけて実践していく、これに尽きるといのが、私の今のところの結論であります。」

横田南嶺発言。横田南嶺・熊野宏昭「禅僧と医師、瞑想スクランブル」『サンガジャパンvol.32』51~52頁)

「いまの日本はちょっとした瞑想ブームで、それに関する言説の中には、瞑想があたかも『万能の処方箋』であって、それを実践すれば『仕事も人間関係も上手くいくし、病気も治るし、人格もよくなって、何もかもが成功します』といったような

《『誇大広告』をするものもある。しかし、瞑想というのは、もちろんそんなものではありません。》

実際、『私が言うとおりに実践すれば、全て上手くできますよ』といったことを、瞑想指導者が言葉の上では主張しているのだけれども、ご本人の現実の振る舞いにおいては、その理想が言葉のとおりにまるで実現できていない、といった事例を、私はたくさん見てきました。『瞑想の先生を選ぶ際には、その先生の『発言』だけではなく、その人の『為人』、つまり本人の現実の振る舞いを、よく観察して判断してください』と私が強調するのには、そういった背景もあるわけです。」

(魚川発言。プラユキ・ナラテボー・魚川祐司『悟らなくたっていいじゃないか』215頁)



元々仏教は積極的な勧誘活動をするものではなかったとされます。



「仏教を心の病院だと考えると、その存在意義もよく見えてきます。仏教は病院ですから、病気で苦しんでいる人を治すのが仕事です。病気でない人には全く必要ありません。ですから、病院がわざわざ外へ出かけていって健康な人を引っ張り込んで入院させるようなことをしないのと同じく、

《仏教も、苦しみを感じていない人まで無理矢理信者に引っ張り込もうとはしません。》

(略)実はこれが、仏教という宗教が無理な布教をしない一つの理由でもあるのです。」



特に、禅宗では、いわゆる桃李の故事を引き、人を集めるアピールをすることを否定するのをよしとします。



「如何せん桃李言わざれども下自ずから径を成すとか。」

(秋月龍珉・柳瀬有禅『坐禅に生きた古仏耕山 加藤耕山老師随聞記』序)

*桃李の故事=史記「李将軍伝賛」。桃やすももは何も言わないが、実のおいしさに誘われて人が集まり、その下に自然に道ができること。本当に優れた人の下には、何も言わずとも、自然と人が集まってくることのたとえ。



積極的に、合宿形式の坐禅会、瞑想会に誘ってくる団体は、その時点で、仏教や禅の団体としては、推して知るべしかと思います。



(4)共同生活の危険

摂心会やリトリートなどと呼ばれる合宿形式の坐禅会や瞑想会で、生活を共にするようになると、更にやめにくくなっていきます。



「人間が社会的な生き物であり、一旦絆を結んだ相手を簡単には裏切れないという特性は、共同生活をすることによって、さらに強化される。カルトにしろ、反社会的集団やテロリスト集団にしろ、小集団で生活し寝食を共にする中で、ある種の連帯感や絆を作り出そうとする。リーダーやグルに対する結びつきだけでなく、メンバー同士の横の結びつきも重要な要素となる。それは疑似家族としての働きをもつとともに、“使命”を共有することによって、さらに強力な絆となる。」(237頁)



「小集団で生活し寝食を共にする中で、ある種の連帯感や絆を作り出そうとする」

このような効果は素人的にも想像できます。

注目すべきは、「疑似家族」や「使命」という要素です。

禅の団体の中では、構成員が疑似家族であることを強調するものもあります。

先にも少し触れたとおり、坐禅や瞑想に興味を持つ人には、生育歴に問題があり、家族関係から疎外感を抱く人もすくなくありません。

このように愛情に飢えている人にとっては、疑似家族的な団体の在り方にも魅力を抱くのではないかと思われます。

前回の記事でも触れたように、生育歴に問題のある人に依存性パーソナリティを持つ人が多いことからすると、疑似家族関係を強調する団体に対しては、より取り込まれやすくなってしまうように思われます。



「こうしたパーソナリティが育まれる背景には、幼い頃から、自分を過度に抑え、重要な他者の顔色ばかりを気にしながら生きてきたという状況が見られやすい。横暴で支配的な親の、気まぐれで予測のつかない行動に振り回されてきたという場合だけでなく、親が良かれと思ってやっていても、過保護過干渉になり、本人の主体性が慢性的に侵害されると、同じ結果になってしまう。」(68頁)



このような依存性の強さと相まって、疑似家族関係が強調されると、禅は、本来、個々人が自由な生き方を目指すものであるはずなのに、家族である組織に依存する人になりやすくなるように思われます。そのことは、この種の団体の構成員の方を見ると、禅者というよりも信者的な人が多いことからも裏づけられます。

また、「使命」の強調も興味深いです。

前回の記事で触れたとおり、孜々として日常生活を送ることに飽き足りない人は、「有意義なことを成し遂げたい、自分の人生に意味を見出したい」という欲望をもっています。それでありながら、自分に対する無力感や挫折への不安から現実社会の中で積極的にチャレンジをすることができないという人が少なくありません。そのような人にとっては、勧誘活動などといった労働をすることも、指導者の方や団体からは評価をされる上、宗教的な価値を持った特別な意味をもったことをしていることに満足感を得るのかなと思います。



「社会的生き者である人間の承認欲求は、非常に強力なので、自分を認めてくれたものに対して、肯定的な感情やそれに応えたいという忠誠心を生み出す。その結果、人は自分のことを認めてくれた存在を

《裏切ることに、強い抵抗感を覚える。》

この心理的抵抗は、すなわちマインド・コントロールの力である。」(237頁)



裏切ることに対する抵抗感が生み出されがちなところに加えて、禅の指導者の方の中には、この種の「裏切り」の許せない方もいます。



「およそ禅の修行には、古来『大疑団』『大憤志』とともに『大信根』が必要だと言われている。大信根とは、自らの就く師家に対する絶対の信のことで(略)ある。諸士の中には『入門願』に『総裁、ならびに師家に対して信を表明します』と書き、誓約しておりながら、ああじゃこうじゃと屁理屈をつけて去っていく者がある。これほど師家をあざむき、自己に対して不誠実な行いはないはずである。」

(芳賀洞然『五燈会元鈔講話』22頁)



しかし、指導者の方自身が、当のご本人を信じるように声高に言うのはどうかという感じもします。

何よりも、その指導者の方の指導方法が合わないと感じたときに、その実践をやめて方向転換することが難しくなり、指導者の方に依存しやすくなる点で疑問です。

なお、このような方もいますが、一般的には禅の修行の師を変えることは広く許容されていることは、禅の「修行」に興味をもたれた方は知っておくとよいと思います。



「むかしは面白い。師匠を見て歩くのである。ひと晩泊まって、ただ飯を食わせてもらい、翌朝、朝参といって師家に面会して、お茶をよばれ、二言、三言話をして、ははあ、これはいかぬと思ったら、どんどん出発してしまう。これはよいなと思ったら、いつまでもそこにとどまる。それが雲水行脚、すなわち遍参の意味である。」

(沢木興道発言。酒井得元『沢木興道聞き書き ある禅僧の生涯』74頁)

「禅では、師匠を自ら選ぶことができます。納得がいくまで、さまざまな師匠を尋ね歩き、その門下で修行をする。はじめから生涯の師に出会うことができる人もいるでしょうし、なかなかめぐり会えない人もいます。ときには『この人こそ生涯の師』と一度は思ったものの、その門下で修行を重ねるうちに違う道へ分かれていくこともある。」

(有馬賴底『無の道を生きる――禅の辻説法』81頁)

「唐代には師資の関係は必ずしも固定的ではなかった。修行者は各地を遍参し、幾人もの禅匠に学んで啓発を受けたのであるが、印可を受けた後も遍参を続ける場合は多く、師と弟子との間で師弟関係の認識を異にする場合も存在した。」

(伊吹敦『禅の歴史』77頁)

【参考】
【参考資料】師弟関係(第2版) - 坐禅普及



人はそれぞれ違うのですから、どんな実践にも合う、合わないということがあります。

いろいろな事情で真剣に禅の修行に取り組もうとされる方は、「裏切りは許されない」などといった言葉に惑わされず、冷暖自知されながら本当に納得いく指導者の方を探されるのがよいかと思います。



先に引用した佐々木閑先生の著書の中の「仏教は病院ですから、病気で苦しんでいる人を治すのが仕事です。病気でない人には全く必要ありません。」という一見平凡な記述が重要です。

仏教の教義や実践は、病んでいるから必要なのです。

心身が健康であれば全くいらない。

この点は、中国の唐代においては、そもそも「悟り」などを目指して、何らかの修行を始めることそのものを病とみていたことを知っておくのもよいかと思います。



「道心を起すことが、巧偽をひき起す。道心を起すことが、じつはすでに道に背くわざなのだ。(略)もともと坐禅は起こった心を静めるための対症療法であった。(略)応病与薬の法であった。乱れた心を制する技術である。応病与薬の法であった。『二入四行論』の雑録に、つぎのような問答がある。



ある人が顕禅師にたずねた、「何を薬というのです」

答、「一切の大乗は、病気に対する応急処置にすぎぬ。心そのものが病気を起さなければ、どうして病気に対する薬がいろう。有という病気に対して空無という薬を説き、有我という病気に対して無我という薬を説き……、迷いに対して悟りを説く。これらはすべて、病気に対する応急処置である。病まぬのに、どうして薬がいろう」



顕禅師もまた伝記の判らぬ人だが、その主張は縁法師と変わらぬ。(略)病まぬのに、薬はいらない。病まぬ人に薬を与えるのは、わざわざ病人をつくるようなものだ。心が起らぬのに、強いて心を起すにひとしい。われわれは、とかく病を実体化しやすい。病を実体化することから、薬の実体化が始まる。(略)病の実体化することの危うさは知りやすい。薬を実体化することの怖さは気づきにくい。」

(柳田聖山『禅思想』37~38頁)



悩み、苦しみ、迷いながら日常を生きる、このありのままで私たちは何も問題がありません。

その日常から逃避するために、何か特別なことをしようということ、それ自体が病です。

禅仏教の様々な教義の中で、最も好ましいものは

「特別なものはいらない、したがって、禅の修行なども本来いらない」

ですが、そのことに気づくことが大切かと思います。

私自身は、うつ傾向がぶり返すかも知れないとの病んでいる自覚があることから習慣的に坐禅を続けていますが、特別な事情がなければやる必要はありません。

朝比奈宗源老師のように、これをはっきり言い切る禅の指導者の方がほとんどいないことが残念です。



「以前、私が禅を修行しなくては、佛道の真実はわからないとだけ説いていた頃、郷里へ帰り親戚や友達の親しい人々をまじえた聴衆を相手に、説教をしましたら、年老いた従兄が、佛道のありがたいことはわかったが、私等にはそうした修行はとてもできない。本当のことはわからずに死ぬのかな、となげきました。私はこれが淋しくもあり、悲しくもありました。後に私はいま説くように、

《修行しなくても、本来佛心の中にいるのだから、死後も絶対安心してよい》

と、はっきり言い切る信念に達しました。」

(朝比奈宗源『佛心』39~40頁)





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【参考資料】師弟関係(第2版)

(1)沢木興道:酒井得元『沢木興道聞き書き ある禅僧の生涯』

「証道歌にも『紅梅に遊び、山川を渉り、師を尋ね、道を訪うて参禅をなす』とあるように、あっちへ行ったりこっちへ行ったり、自分の教えを受けるべき正師を求めて歩いたもので、これを遍参(へんざん)というのである。(略)

むかしは面白い。師匠を見て歩くのである。ひと晩泊まって、ただ飯を食わせてもらい、翌朝、朝参といって師家に面会して、お茶をよばれ、二言、三言話をして、ははあ、これはいかぬと思ったら、どんどん出発してしまう。これはよいなと思ったら、いつまでもそこにとどまる。それが雲水行脚、すなわち遍参の意味である。

つまり雲水とは、行雲流水の如く師を尋ね、道を訪れて参禅をなすからである。(略)つまり、ただ向こうをむいて行くばかりといったのが雲水である。」(74~75頁)

*「ただ向こうをむいて行くばかり」というのもよいですね。

 類例はこれ。

「小児が水に溺れている。私が水中に飛び込む。そして小児が救われる。ただそれだけのことである。なさねばならぬことがなされたのだ。私は歩み去る。そして後を振り向かない。」

鈴木大拙『禅学入門』196~197頁)



(2)有馬賴底『無の道を生きる――禅の辻説法』

「禅では、師匠を自ら選ぶことができます。納得がいくまで、さまざまな師匠を尋ね歩き、その門下で修行をする。はじめから生涯の師に出会うことができる人もいるでしょうし、なかなかめぐり会えない人もいます。ときには『この人こそ生涯の師』と一度は思ったものの、その門下で修行を重ねるうちに違う道へ分かれていくこともある。」(81頁)



(3) 有馬頼底『臨済録を読む』

臨済宗はね、どこの僧堂に行ってもいいんです。それで、その師とうまく合わなかったら変わってもいい。それで『転籍』(てんじゃく)という言葉があります。転籍は悪いことではないんです。

で、某寺を出て、次の師を探す。その時、旅をします。」(226~227頁)



(4)横田南嶺発言「対談「禅僧と医師、瞑想スクランブル」」『サンガジャパンVol.32』51~52頁

ブッダ、お釈迦様の教えの根本は、病に応じて薬を与えるということであり、それは皆さんもご承知のことだと思います。しかし私たちが犯しやすい誤りというのは、自分に合っている教えが万人に共通する、通用すると思いがちなところです。自分に偶さかその教えが合っていれば、相手もそれでいける、通じるはずだと思ってしまう。そうなると、その相手を見ておらず、押しつけになってしまいます。人それぞれの特性と言いましょうか、生まれてこのかた体、体質、考え方、環境、人間は千差万別です。『これですべてが通用する』というようなものは、私はないと思うのです。ですから、様々な教えや修行方法をたくさん学んで、そして自分に一番ふさわしいもの、あるいは今の自分にふさわしいものを自分で見つけて実践していく、これに尽きるといのが、私の今のところの結論であります。

ところが我々、禅の世界というのは、老師方は自分が体究練磨、苦労に苦労を重ねて体験しますと、もうそれが万人に通用するという感じで、『お前も苦労しろ、お前も苦労しろ』となるのです。『どうだ、わかったか』『まだだめです』と言うと『それは苦労が足らんのだ!』で終わり。それでやれる人もいますが、中にはついていけない人も出てきます。禅の世界というのは、大勢の中から一人か半人できればいいんだ、というわけです。

特に今、私どもの修行道場にもいろいろな人たちが来る時代でございます。そうすると教える側も様々な学びを得て、その人がせっかく修行に来たからにはすぐに『だめだ』と言うのではなくて、それぞれが体験できるような道を作っていかなければいけないと思って日夜、勉強をしているところでございます。」



(5) 鈴木大拙『禅の研究』

「禅の修行僧を雲水と云うが、それは行雲流水の義で、彼等はよくあちらこちらと行脚するのである。昔からそうであった。(略)とに角禅坊主はあすこの道場、こちらの道場と渡りあるいて、封建時代の武者修行の如く、道眼の徹底を期した。」(19頁)



(6)秋月龍珉『公案

「専門的に『見地』の明らかな『道力』を具えた、そして世間的にも人格・識見ともにすぐれた人物を選んで師とすべきである。古川堯達老師が『師家たる者は、師匠ひとりだけが印可しても何もならぬ。真の印可は天からからもらえ』と喝破されたのは、ここのことであろう。

良き師は求めて得られるものでもない。しかしまた求めなくてはけっして得られない。『しからば真師は如何にして見つけるか。それには師たるべき人の私生活を観察するのが捷径(はやみち)であろう。言行一致するや否や、常識的に見て私生活が立派なりや否やを観察すれば、だいたい誤りはない。私は禅機とともに禅によって得られたヒューマニティに魅力を覚える』。これは野口明先生(お茶の水大学元学長)の名言であるが、導師のもっとも根本的な心得を教えて、けだし至言に近い。ただし、古来『真正の見解さえあれば少々不品行でもよい。正見ある者を師とせよ』と評してもある。行解相応の師など昔もなかなか少なかったものらしい。」(58頁)

「禅では『病は一師一友のところにあり』という。今日は、自己の師匠一人の室内しか知らないで、道場の師家として立つ向きもあるやに聞く。禅には遍参ということが大事だとは、毒狼窟老師の言であった。」(334頁)

*毒狼窟老師=古川 尭道(ふるかわ ぎょうどう、明治5年11月9日(1872年12月8日) - 昭和36年(1961年))は、臨済宗の僧。出家後しばらくは本名の古川慧訓を通す。号は尭道。室名は毒狼窟。
釈宗演に学び、東慶寺初の男性住職として赴任、さらに円覚寺管長を務めた。渡米して布教し、帰国後再度管長に復帰。



(7)南直哉『語る禅僧』

「師匠とは、何かの『真理』を振り回し、弟子を『洗脳』して支配する人のことではなく、弟子がテクニックを修得し、独り立ちするのを助ける人なのである。そして弟子は、師匠に服従する人ではなく、師匠から独り立ちすることで、師匠の「恩」に報いるべき人なのだ。(略)

親鳥がエサを口に入れてくれるのを待つ雛であってはならない。飛び方を学んで、エサを自分で取れるようになるべきなのだ。われわれに必要な教えとは、そういうものなのである。」(78頁)



(8)ネルケ無方「ネルケ無方師インタビュー さようなら安泰寺[前編]」サンガジャパン33号

「私の経験から言うと、師匠のもとに集まるのは、師匠のコピペみたいな弟子と、師匠と真反対のタイプの弟子ですね。

コピペの弟子は面白くないですよ。本物がいるわけですから。たとえば安泰寺の五代目の住職の澤木興道老師のもとにはプチ澤木老師みたいな弟子が大勢いましたが、そういうのは全然面白くないですね。内山興正老師は澤木老師と全然違うタイプだから面白いのです。」(127頁)



(9)伊吹敦『禅の歴史』

「(唐代に)『語録』が盛行した背景として、禅僧が互いに自由に交流を行ない、問答商量が極めて盛んであったという状況があったことは忘れてはならない。当時は、修行者が「悟り」を目指して各地の禅匠の間を渡り歩いて修行を通という修行形態が確立されていたのである。」(68頁)

「唐代には師資の関係は必ずしも固定的ではなかった。修行者は各地を遍参し、幾人もの禅匠に学んで啓発を受けたのであるが、印可を受けた後も遍参を続ける場合は多く、師と弟子との間で師弟関係の認識を異にする場合も存在した。」(77頁)



(10)石井清純『禅問答入門』

「仏法の本質を他者に問うということは、問う相手が自分の師匠であったとしても、本来自分で探し出すべき自分の本質を他人に聞いていることになって、質問した時点で、すでに禅の本質からはずれていることになります。」(20頁)





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小さな自分という救い

「あらゆる生命と意味を宇宙のなかの何らかの地点に位置づけることにすると、人生の意味は、すっかり縮減されて、いわば何らかひとかどのものだと自惚れた蟻の幻想であることになってしまいます。私たちは、ほかでもない自らの生存への利害関心ゆえに自分自身を特別視していて、人間とその生活世界とを何か特別なもののように考える傲慢な幻想にふけっているにすぎない。宇宙から眺めてみれば、そんなふうに見えることでしょう。わたしたちが何をどう感じているかなど、宇宙のなかで中心的な役割を演じていません。久しい以前に消滅してしまった銀河――その光が今ちょうどわたしたちに届いている――にしてみれば、今朝わたしが朝食をとったかどうかなど、まったくどうでもよいことです。宇宙のなかでは、わたしたちは、せいぜい数ある生物種の一つにすぎません。ここで問題となるのは、せいぜい物質的な環世界を媒体として、腹を空かせた身体を操縦し、他者と協働することで、人間という種の生存のチャンスを増大させることでしかありません。」

マルクス・ガブリエル(清水浩一訳)『なぜ世界は存在しないのか』43頁~44頁) 



最近、著者の名前をよく目にするようになったので、試しに買って読んでいるのですが、「カント以降の近代哲学の進歩の跡をぎくしゃくした足取りでたどっているだけ」(前掲書134頁)の人間には、難物で、それでも、読んでいて「素直によいことが書いてあると、思った」部分が先の引用部分。

「日本人だと」、先のような話は露悪的ではあるものの、よいニュアンスで捉えるのではないかなと思います。

類例としては次のようなもの。



「ずいぶん若い頃に読んだ伊藤整の論文に『日本人の発想の諸形式」とかいうのがありました。これは無の実在ということを言っているのですよ。

日本人は広大な無を感じると。ものすごく広大な無で、その無が今実在しているからそれと比べれば俺の悩みなんかどうってことないやと、こっちも消されるわけです。そうして心のバランスを回復する。

それだから、大した宗教なしでもみんな幸せに生活しているんだというような内容だったと思うのです。」

小出宣昭発言。小出宣昭ほか「シンポジウム「動く仏教、実践する仏教」同朋大学大学院文学研究科編『動く仏教実践する仏教[仏教とユング心理学]』108~109頁)



深刻に悩んでいるときに、自分という存在の小ささ、あるいは、はかなさをふと感じることを通して、「大した悩みではないな」と救われた感覚は誰しもあるように思います。

こんな類例もあります。



「私の生き方、私の生育歴や精神形成に含まれていた葛藤が形をとって現れたのが、(略)うつの発病だったのだと思う。ちょうど四〇歳の時のことであった。

入院していた病院で私が悟ったのは、人生の単純さということだった。一本のロウソクが小さく点り、しばらくの間輝き、やがて燃え尽きる。結局、人生というのは、それだけのことであり、そういう単純なものなのだ。私は、なぜ、ただそれだけのことを、こんなに難しくしているのだろう?」

(瀬木比呂志『絶望の裁判所』198~199頁)



禅の場合ならこれ。



「丘宗潭師という人は、色の真っ黒な顔に痘痕が一面にあって、眼はわしのより十町もおくのほうへ引っこんでいて、その底のほうからギョロリとすごく光っていた。(略)

そこへ独参させてくれといって雲水がやってきた。(略)

『一大事をお示しねがいます』

すると丘老師はすかさず、

『ウーム、だれの一大事か』

というブッキラ棒の受け答えである。

『ヘェイ、私のでございます……』

『ナニイ、貴様のか、貴様一人ぐらい、どうでもいいじゃないか、ウフフフ……』」

(沢木興道発言。酒井得元『沢木興道聞き書き ある禅僧の生涯』163~164頁)



自分が持っている「一大事」の悩み。

それを「どうでもいい」と言われて救われる。

このような感覚を「日本人」なら共感できるように思います。

いや、私自身は、「日本人」どころか、世界中の人一般が共感すると思っていました。

ですから、先に引用した小出氏のお話に続く話には、少し違和感を抱くこともありました。



「本当に不思議に思うのは、例えば西洋の人ですと宗教がなかったら気が狂うみたいなところがあるようですけれど、ほとんどの日本人は無信心で、それでも気狂わずちゃんとした人生を全うするわけです。宗教なしでこれほどのどかに人生を終える民族は日本人ぐらいではないかということを、非常に疑問に思うのです。」

小出宣昭発言。小出宣昭ほか「シンポジウム「動く仏教、実践する仏教」同朋大学大学院文学研究科編『動く仏教実践する仏教[仏教とユング心理学]』109頁)



以上のような発言にみられる、日本人、西洋人と分けて心理分析をするようなやり方に、一種日本人の民族的優越論のようなニュアンスを感じるようなところもありました。

しかし、世界中の人一般が共感するわけではないのだと思わされたのが、先のマルクス・ガブリエル先生のお話です。

冒頭の引用文には引き続いて次のような言葉があります。



「人生の意味を宇宙に見出すことはできません。それは、じっさいわたしたちが、ほかからの光に照らされた球体の表面上を忙しく動きまわる蟻の群れにすぎないからではありません。私たちの人生が些末で無意味なもののように思われることの本当の原因は、まったく異なる対象領域をわたしたちが混同していることにあります。」

マルクス・ガブリエル(清水浩一訳)『なぜ世界は存在しないのか』43頁~44頁) 



どうも、ガブリエル先生は、「人生が些末で無意味なもののように思われる」ことを問題だと思っているらしい。

私が思ったような「素直によいこと」を書くつもりで書いているのではないようです。



やはり、西洋人というか、欧米人というのは、世界というものを前にして、自己の卑小さを感じることに一種の恐怖感を持つのかなと思いました。

小さい自己に世界が迫ってきて、呑み込まれるのを跳ね返したいと思っている。

そこで頑強な自己を作り上げようとする。

それに対して、日本人は、既に世界に呑み込まれていることに自足しやすいのかなと感じました。

このように感じるようになったのは、少し言い回しが違いますが、やはり、最近になってからですが、河合隼雄先生の本を読むようになってからです。



「異なる態度は、日本人と西洋人の自我意識の差を明らかにしています。西洋では、最初になすべきことは、他と分離した自我を確立することです。このような自我が所を得た後に、他との関係をはかろうとします。これに対して、日本人はまず一体感を確立し、その一体感を基にしながら、他との分離や区別をはかります。」

河合隼雄『〈心理療法コレクションⅤ〉ユング心理学と仏教』15頁)

「他と区別し自立したものとして形成されている西洋人の自我は日本人にとって脅威であります。日本人は他との一体感的なつながりを前提とし、それを切ることなく自我を形成します。このような差を意識していればよいが、それがわからないときは、何気ない日常会話においても誤解が生じたり、異和感を感じたりします。そのような例をあげるときりがありませんが、非常に抽象的に言えば、西洋人の自我は『切断』する力が強く、何かにつけて明確に区別し分離してゆくのに対して、日本人の自我はできるだけ『切断』せず『包含』することに耐える強さをもつと言えるでしょう。」

河合隼雄『〈心理療法コレクションⅤ〉ユング心理学と仏教』39頁)



「日本人と西洋人の自我意識の差」ということに違和感を抱いていたのですが、先のガブリエル先生のお話を読んで納得してしまったという感じです。

その文化的な背景として、興味を惹かれたのは、西洋的自我の確立とキリスト教との関係です。



河合隼雄先生は、西洋的自我の問題点として次のようなことを仰います。



「近代西洋文化において、西洋の人々は、エーリッヒ・ノイマンが『西洋に特有の成果』と呼んだような、強い自我意識を確立することに成功しました。この強い自我は豊かな科学的知識の獲得を促進させましたが、それは常に無意識との接点を失うという危険にさらされています。現在の多くのクライアントは『関係性の喪失』に悩まされています。」

河合隼雄『〈心理療法コレクションⅤ〉ユング心理学と仏教』13頁)



その原因としては、やはり、西洋的自我が自己と他を分けるというところから出発するからであると思われますが、それを補おうとするのが、キリスト教などといった一神教なのではないかなと思います。



「(日本での1965年)当時は、青年期に自我の確立ということに努力しようとする人たちは、何らかの意味でキリスト教に関心をもったものである。」

河合隼雄『〈心理療法コレクションⅣ〉心理療法序説』142頁)



亡くなった義父は「団塊の世代」だったのですが、一時キリスト教に入信していたことがあり、不思議に思っていたのですが、彼の青春時代には、このようなことがあったのだと納得させられました。

青年期の自我の確立とキリスト教との関係については十分にわからないのですが、自己を世界から切り離し、その後、自己に迫ってくる世界に立ち向かっていくためには、何か強力なものと自己とがつながっているという明確な認識が必要になってきてしまうのかもしれません。



ガブリエル先生の本は、まだ読み切れていないのですが、目次を見ると、「宗教の意味」という章が特別に設けられています。

正直、西洋近代哲学において、宗教が主題とされている理由について長いことわかりませんでした。

しかし、西洋的自我の確立という点で、宗教が大きくかかわっていることからすると、哲学的なテーマになりやすいということも納得ができる感じになりました。



そのようなテーマに立ち向かう面倒がないという意味では、宇宙の中の小さな自分に救いを見いだせる日本人に生まれてきたのは幸福な偶然と思います。





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死を恐れる

20代の頃、一度だけ仕事をサボったことがあります。

職場の建物前まで来たところで、職場に電話をかけて、その日の予定を全てキャンセルするようにお願いしました。

その後、方々をフラフラと歩き回りました。

最後、20階ほどの高さのマンションの最上階まで上りました。

逡巡しながら廊下を徘徊しました。



幸いなことに、当時の私は、根性なしでした。

どこかで、引き留められたいと思っていたのでしょう。

携帯電話の電源は入れたままでした。

職場やら、妻やらの電話が入りました。



最後は、情けない顔をして、自宅に戻った後、職場の上司、先輩、同僚らに頭を下げて回りました。



振り返ると、あのとき、本当に根性がなくてよかったと思います。



私に、死を恐れない勇気があったのなら、当時、幼稚園にも入っていなかった一番上の子どもが、自分なりの理想を持って大学で学び社会人になろうとする姿を見なかったであろうし、生まれてくるはずであった下の子どもたちもこの世界に存在することはありませんでした。

当時の私は、本当に愚かでした。

愚かな私を救ってくれたものは、死への恐れでした。



悉有仏性



すべてはしかるべくあるものであり、嫌う底のものは一切ない。(注1)

死へのおそれもしかるべくあるのでしょう。



仏道もなければ外道もない。(注2)



死を楽しみ、死へのおそれを克服するのも悪くはありません。

実際、それでも悪くないような気もします。

けれども、死は、おそろしいものであることが普通です。

普通であることの何が悪いのか。



人生の最後の最後まで死が恐ろしい。

最後の最後まで、命乞いをして、泣き叫びながら、死ぬ。

それも人間として望ましい死の迎え方であるように思います。



「現世の生命を愛するのは人情の自然です。自分に対しても他人に対しても、その愛情をできるだけ十分につくし、悔いのないようにと心がけます。こうすることを生に対する執着とか未練とかいって恥ずべきではない。(略)

死にたくない、今死ぬのはくやしいと、耐えがたい憤懣にかられることもありましょうが、それもいたしかたない、病という生命をむしばむ条件が発生して、これを解消させる条件がない場合、それもまた必然の理です。口惜しい、畜生!とさけびたければさけんでもよい。それも生命への愛の自然です。(略)

あれも気になる、これも苦になるという方があるかも知れませんが、気になったら気にしなさい、苦になったら苦にしなさい。どんな苦しみもやがて佛心の海にとけこんでしまうものなのです。心配はいりません。」

(朝比奈宗源『佛心』52~57頁)





(注1)「吾が禅海、波瀾洪大、嫌う底の法無く、又た着するの底の法無し」(今北洪川『禅海一瀾』)

(注2)「一切衆生悉有仏性だからです。したがって宇宙の全てが仏性、即ち真実です。故にこれこそはという特別であるものは、全てあってはならぬことです。こうしてみると、全てが仏性であり真実であってみれば、特に外道というものがあるわけではないのです。」(酒井得元『永平広録について』23頁)





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死を楽しみにする

「困難なときに坐禅をしたことがない人は、禅を学ぶ者とはいえません。ほかのどんな行為も、あなたの苦しみを和らげることはできません。ほかのどんな姿勢も、自分の困難を受け入れる力を持たないのです。しかし、長い、困難な修行で確立した坐禅の姿勢によって、あなたの心と身体は、好き、嫌い、よい、悪いなしに、あるがままに受け入れる偉大な力を持つのです。」

(鈴木俊隆『禅マインド ビギナーズ・マインド』71~72頁)



禅書を読みかじるようになり、苦しいことを受け入れることが大切だというアイディアをもらってから、日常生活の嫌なことが楽しみになるようになりました。



以前なら、ストレスに負けて大声を出したり、何もやる気がなくなったり、そうしたときに、冷静な「そぶり」程度はやって、そのときの現状でできることをする。



至道無難禅師の

「何事も修行と思いする人は身の苦しみも消え果つるなり」

という言葉を紙に打ち出して、しおりにして本にはさみ、いつでも目にはいるようにしていました。



やれば案外できるので、そのうち成果のように感じて面白くなりました。



とにかくいやなことを受け入れて、現実に対処していくようにする。

坐禅で外部情報を一方的に感受する状態にしている効果のようにも感じられて、坐禅をする楽しみが増すようになりました。



【参考】
○曹洞禅とマインドフルネス
https://zazenfukyu.hatenablog.com/entry/2020/09/05/165246



そんなときに参加したとある仏教の勉強会でのこと。

参加者同士で色々やりとりをしている中で、「死に対する恐怖」が話題となりました。

わたしは、「肚が据わった」気になっていたものですから、その席上で

「私は死が迫っても恐怖感はわかないと思う」

と口走りました。

そうしたところ、別の参加者の方が、自分自身の癌の闘病体験をお話になった上

「そんなことを実際に死が迫ってみないとわからない」

という至極もっともなお話をされました。

冷暖自知されている方には敵いようもなく、私は、押し黙りました。



しかし、心の中では、「そうはいっても恐怖しない自信がある」などという慢心がありました。

同時に、「自信がある」と言っても、頭の中の妄想のような話ですから、妄想ならばどうしようもないなとも思いました。

妄想ではどうしようもないなと繰り返し思っていると、そのうち、「では、現実ならどうだろう」という気になってきました。

そうなってみると、「現実の世界で試してみたい」という気になります。

けれども、現実にやってしまうと、ほかのことができなくなってしまいますから、死に迫っての自分の胆力を試すことが、人生の最後のお楽しみという感じがしました。

人生の最後に本当に死の恐怖を克服できるのか、自分ではできそうな感じがして、そうすると、何やら死を迎えることが楽しみな感じがしてきました。

それまでは、死は嫌なものであり、どうやったらその恐怖を克服して穏やかに死ぬか、ということを考えたりしていました。

できれば死を意識しないで、年を食ってから日向ぼっこをして昼寝をしているうちに死ぬということに憧れていました。

今から考えると、逃避的な発想だったなと思います。

しかし、自分の死を迎えることに対して、「楽しみ」という見方も持つことができるようになったことが坐禅を始めてからよかったことの一つです。

釈宗演老師は日露戦争に従軍することを決断したときの心境もこんな感じだったのかなと思います。



「日露干戈(かんか)を交うる事(*)となり、私は病後健康未だ全く回復せざるにかかわらず従軍を思い立ったのである。其訳は吾々禅徒は常に口癖の様に死生の間に投ずるも更に動ずる所はないと云うているが、果して自分の修行はそこ迄進んで居るであろうか(略)、斯の如き種々の心願から病躯を提げて軍に従い、遼東の一角に上陸したのでありました。」

(釈宗演『筌蹄録』72~73頁)

*干=たて、戈=ほこ、干戈を交うる=戦争をする





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摂心会(合宿形式の坐禅会)の危険性(3)

前回の記事は次のとおり

○摂心会(合宿形式の坐禅会)の危険性(2)
https://zazenfukyu.hatenablog.com/entry/2020/09/01/083035

これまで、岡田尊司先生の著書『マインド・コントロール』における、マインド・コントロールの五つの原理のうち、第一の原理(情報入力を制限する、または過剰にする)と第二の原理(脳を慢性疲労状態におき、考える余力を奪う)の二つに触れながら、摂心会やリトリートなどの合宿形式の坐禅会、瞑想会の問題点について取り上げました。

先の二つの原理が、それまであった自我の解体を目指すことに対し、これから触れる原理は、一見、よいもののように思わせて、情報の受け入れをしやすくする、あるいは、情報を受け入れたくさせる原理といえるかと思います。

本記事も、岡田尊司マインド・コントロール』からの引用は、書名を省略し、頁数のみを記載します。



7 第三の原理:確信をもって救済や不朽の意味を約束する



「第一の原理と第二の原理によって、主体性や判断力を低下させ、不安を高め、喜びや楽しみを奪われた状態を作り出す過程が、いわば下準備の段階だと言える。こうして欠乏と不安の極限状態に置いて、精神的な抵抗力や批判的に考える力を奪ったうえで、いよいよ核心に踏み込んでいく。そこで行われるのは、あなたにも救われる道があると語りかけることだ。我々の仲間になって信念を同じくすれば、すばらしい意味をもつ人生が始まると、希望を約束するのだ。

隔離と情報遮断によって、欠乏状態におかれたうえで、希望や愛が与えられると、それはいっそう光り輝くようなものとして体験される。それを与える存在が、強い確信と信念に満ちていればいるほど、その人の目には、救済者として映ることになる。」(230~231頁)



仏教自体が救済の思想です。

世界宗教の一つである上、「伝統的なもの」ということも「希望の約束」の信用性を増す要素かと思います。

ですから、上座仏教でも、禅宗でも、自分たちの教義がいかに伝統的なものであるかを強調します。

上座仏教は、釈尊の直説を踏まえたものであることを強調し、禅宗は、古来より師から弟子へとその教えが引き継がれてきた伝法を強調します。

しかし、いずれも、歴史的事実としては、間違いです。

【参考】
○現代テーラワーダ新宗教ほか――上座仏教の基礎知識(1)
https://zazenfukyu.hatenablog.com/entry/2020/08/18/040541

○伝法の虚構性
https://zazenfukyu.hatenablog.com/entry/2019/08/27/180623



「すばらしい意味をもつ人生が始まる」ということが本当であれば、まだマシなのでしょうが、それならば、虚構では無く、本当のことだけで訴えればよいのに、と思います。

もちろん、小説が虚構であっても価値があるように、虚構であることを前提として、その虚構の価値を語るのであれば問題はありません。

しかし、それならきちんと虚構であるというべきかと思います。

案外、伝法の伝説を本当のことだと思っている人もいて、それは問題だろうと思っています。

しかし、伝統的な、カルト的なものではない仏教教団であっても、虚構を虚構と言わないのは、少しでも信者を増やしたいという下心を感じます。



「すばらしい意味」の内容について言えば、禅や瞑想の実践でなら、「悟り」、「見性」などといったものがそれに当るでしょう。仏教の団体によっては、「世界平和」といった大きな目標を掲げるところもあります。

問題は、「すばらしい意味」のある現象の内実や、その現象の生じる現実的な可能性です。

「悟り」とは、上座仏教でいえば、「貪瞋痴の滅尽」、(白隠)禅でいえば、自他不二の体感であるとされます。

これらの現象は、前者については、扁桃体の活動の低下による情動反応の低下、後者については、扁桃体の活動の極端な低下により自我障害様の状況が生じたものと説明ができるように思われます。

【参考】
扁桃体の活動の低下による弊害――坐禅の生理学的効果(2)
https://zazenfukyu.hatenablog.com/entry/2020/07/18/222455



外部状況に対して過敏に反応してしまうような人、不安傾向・うつ傾向の強い人にとっては、情動反応の低下といった生理学的効果は望ましいものといえるかと思います。

しかし、「悟り」というものは、単なる脳内の生理現象ですから、そんなものを追い求めることに一生懸命になるのもどうか、と思います。



「どんな奇特玄妙なこと、どんな神秘的体験を味わったと言うても、一生その味わいがつづくものではない。」

(沢木興道『【増補版】坐禅の仕方と心得』138頁)

仏道神秘主義の立場をとらないのです。そういう体験はあくまでからだの一部である脳がある条件下で作り出した幻影、錯覚であるとしてそこに重きを置きません。」

(藤田一照『現代坐禅講義』231頁)



とはいえ、「すばらしい意味をもつ人生が始まる」などと言っても嘘くさいものがあります。

このような嘘くさい話に乗ってしまう心理に関する岡田先生のお話も説得的です。



「情報遮断や感覚遮断に、精神的消耗が加わり、ある種の極限状態にある脳は、通常では体験しないような深いレベルで、影響を受ける。加えて、元々愛着不安や依存的な傾向が強かったり、ストレスやトラウマを抱えていたり、孤立や不適応を感じている人では、なおのこと、堅固な確信をもつ存在にすがろうとする。つまり支配されることが、むしろ安心だと感じるのだ。隔離や遮断は、その傾向に拍車をかけ、強力な依存と支配の関係を作り出す。」(230~231頁)



興味深いのは、「元々愛着不安や依存的な傾向が強かったり、ストレスやトラウマを抱えていたり、孤立や不適応を感じている人」という傾向性の指摘です。



「依存性パーソナリティとは、主体性の乏しさと過度な周囲への気遣いを特徴とするパーソナリティのタイプである。相手に嫌われたり、ぶつかったりすることを避けようとするあまり、相手にノーということができず、相手に合わせてしまう、日本人に多いタイプである。優柔不断で、相手任せになりやすい。
オウム真理教から生還した元信者が、オウムの信徒たちにみられる一つの特徴として指摘していたのも、『優柔不断さと依存心』だった。(略)

行動の背景には、他人の支えがなければ自分は生きていけないという思い込みがある。特に、一旦依存すると、その相手なしではムリという思い込みに陥りやすい。自己評価が低く、実際には高い能力や魅力を備えていても、自分だけではやっていけないと思い込んでいる。強い意思をもった存在に頼らないと、安心できないのである。

また重要な決定を自分で下すことができず、頼っている人に委ねてしまうのも大きな特徴だ。(略)

こうした特徴のため、このタイプの人は、強い意思をもった存在に支配されやすい。と言うよりも、自ら進んで、自分を強力に支配してくれる存在を求めようとする。」(66~68頁)



仏教等の宗教に興味を持つ人は、どこかで何らかの救いを求めています。

当り前といえば当り前の話ではあるのですが。

自分一人で生きる自信がないので、何かにすがりたい、何かに依存したいと思う。

すがりたい、依存したいと思う状況にあるということは、現在は、すがるもの、依存するものがなく、そうである以上は、すがるもの、依存するものがなくとも生きることができることは明らかなのですが、そこへの気づきがない。

その依存したいという思いのあるところにうまく入り込むということでしょう。



このような依存性は、生育歴に由来するところが大きいようです。



「こうしたパーソナリティが育まれる背景には、幼い頃から、自分を過度に抑え、重要な他者の顔色ばかりを気にしながら生きてきたという状況が見られやすい。横暴で支配的な親の、気まぐれで予測のつかない行動に振り回されてきたという場合だけでなく、親が良かれと思ってやっていても、過保護過干渉になり、本人の主体性が慢性的に侵害されると、同じ結果になってしまう。

幼い子どもは、親にしがみつき、親に愛されようとすることでしか、生きて行くことができない。いつ親の機嫌が変わって、攻撃されたり、突き放されたりするかわからないという中で育つことは、余計に親に見捨てられまいとする傾向を強めてしまう。親の意向がいつも最優先であれば、子どもは自分で判断するよりも、親の顔色をうかがって、そこから判断するようになる。」(68~69頁)



これも当り前ではあるのですが、坐禅会や瞑想会にいらっしゃる方に話を聴くと、幼少期に両親の離婚ですとか、ネグレクトを含めた何らかの虐待ですとか苦労をされた方が多い。

私も父との関係性が悪かったのですが、坐禅会や瞑想会に通うようになってから、関係の悪さの程度としては、私は、何とも幸福だったということに気づきました。

指摘として興味深いことは、虐待以外にも、「過保護過干渉」でも、このような依存が生じるということです。



「増えているのは、過保護な環境で育った子どものケースだ。本来子どもがすべきことも、すべて母親が決めてやってしまったため、主体性が育たず、依存的な人格になる。過保護な環境は、しばしば母親の自己愛が、子どもに投影されていることが多く、子どもは母親の“人形”になってしまう。」(71頁)



釈尊が恵まれた環境にありながら、うつ傾向・不安傾向を呈して修行を開始した理由は、ニューロダイバーシティの問題に基礎があるのではないかと思っていたのですが、「恵まれた環境」ということからすると、「過保護過干渉」から依存性が現われ、「揺るぎない何か」がなければ安心できない状態になったのではないかとも思います。

先の2回で指摘した「摂心会」の修行に見られる人格破壊的な実践は、このような依存性を更に強めるものともいえるかと思います。



カルト教団思想改造所で、しばしば行われる自己批判や批判合戦は、愛着不安を掻き立て。自己愛を徹底的に傷つけ、自己否定を強めさせる。そして、このプロセスが植え付けようとする根本的なスキーマ(認識の枠組み)とは、この自分には何の価値もないが、偉大な指導者やその理念に従うことによって、素晴らしい意味を与えられることにほかならない。」(231頁)



岡田先生は、宗教団体が掲げる高邁な理想を受容してしまう心理性に関し、前記引用の中にも出てくる「自己愛」も挙げます。



「キリストや釈迦といった偉大な救世主でさえも、その約束が果たされたかどうかは、議論があるところだろう。(略)

それでも、多くの人がその“約束”にすがろうとするのは、この世にはあまりにも希望がないからだ。(略) 

喜びや希望、そして

《生きる意味に飢えた者》

にとって、それは強く心に浸透する。それに喜んで縋ろうとする。そのために、払う代償が少々大きくても、救われるためなら、取りに足りない犠牲に思える。(略)

人に愛されたい認められたいという思い、

《有意義なことを成し遂げたい、自分の人生に意味を見出したい》

という願い、それは現実の社会では踏みにじられることの方が多い。カルト宗教が大学生や若い人々に広まってきたのも、人生の意味や不変の愛というものを、それが与えてくれると確信をもって語りかけてきたからだ。(略)

より普遍的な問いかけによって、世俗的な価値観の矛盾や欺瞞を暴き立て、それが空中分解を起こしかけたところで、普遍的な価値を説く教義を持ち出して、それに従えば、普遍的な価値につながる生き方や社会を作り出すことができるのだと説くのである。

われわれ現代人の多くは、普遍的な価値への飢餓という欠乏状態を抱えているがゆえに、そこを攻めてこられると、ぐらっとなりやすいのだ。それはちょうど、愛情飢餓を抱えた女性たちが、愛を囁く言葉に、めまいを起こしたように吸い込まれていくのと同じである。」(232~234頁)



引用中の「有意義なことを成し遂げたい、自分の人生に意味を見出したい」という思いの指摘にも興味深いものがあります。

坐禅や瞑想に嵌まり込む人は、必ずしも心が弱いだけではなかったりもします。

案外上昇志向が強い。

上昇志向は、「群を抜けようとする煩悩」ですけれども、その上昇志向が現実の世界で健全に発揮されれば、多くの人の役に立つ有意義な仕事を成し遂げることもできようかと思います。



「迷と悟とは別のものではない。迷えるものには七情となり、悟れるものにはそれは大智とも光明ともなる。これをたとえてみれば渋柿を湯につけて置くと甘くなるのは、渋があるからこそ甘くなるのであって、渋いからとて捨てる訳のものではない。歌に

渋柿の渋みの外に甘柿の
甘味の種は外なかりけり

とある通り、悟れる者には従来厭うべき七情も、遂には愛すべきものとなるのである。(略)

故に真に禅によって悟入したものは、決して死灰のようなものではなく、血あり涙あって人類に臨むようになるのである。」

(釈宗演『最後の一喝』61~62頁)



しかし、坐禅会や瞑想会に参加する人は、上昇志向を持ちながら挫折した人もすくなくありません。

私の知っている方でも、さる難関国家試験を受験したものの挫折し、その後職を転々とする中で、とある禅の団体に入会し、「会員を増やすことが利他行」と会員を鼓舞する指導者の下で、元SEの経験を生かし団体のHPに関する事務を精力的にしている人がいます。

以前にも書いたとおり、私がかつて所属していた団体には、団体の中の内向きの行事について、「老師からの使命だ」という誇大妄想的なことを述べていた方もいましたが、このような人も、世間的な価値のないことを「すばらしい意味」のあることと思うことで、「有意義なことを成し遂げたい、自分の人生に意味を見出したい」という欲求を満たそうとする人だといえそうです。

このように、現実社会で満たされなかった上昇志向を団体の組織の中で評価されることによって満たそうとする人もすくなくないように思います。

また、上昇志向はあるものの、自己肯定感の低さから現実社会にぶつかっていく自信がなく、非正規雇用労働者、あるいは、無職にとどまり、現実社会で満たされない上昇志向を仏教の実践を通し、「悟り」や「解脱」をすることによって満たそうとする若い人も散見されます。

よく禅の「修行」を始めた動機として、「生きる意見に疑問をもった」とか、「いかに生きるべきかに悩んだ」ということを挙げる人は少なくありません。

確かに、世の中には不条理もあり、資本主義の下らない競争等現実社会に対する批判も必要でしょう。

しかし、それらに対しては、直接不条理な現実に立ち向かうことにより対処すべきで、坐禅や瞑想でどうにかなるものなのでしょうか。

むしろ、農林漁業や、職人を含めた製造業等に従事する人、その他の市井の人々が孜々矻々と働いて、家庭を築き、やがて死ぬという日常の営みに価値を見いだせず、自分の人生に日常性を超えた価値付けを与えたいという優越感を現実の世界で満たすことができないことから、瞑想等の仏教の実践に「特別なもの」を求めてしまう人が少なからずいるように思います。



人と人とは、フラットな関係にあればよく、ほかの人よりも優れている必要などはないのに、マウンティングをしようする不幸を感じます。



「長く貴族生活に耽溺していたトルストイは、中年に及んで人生の意義を懐疑し始めて虚無思想の結果いく度か自殺しようとしたそうである。

ところが或る時彼は突如として一の真理に契当した――人間は生を欲するのが順当である。しかるにその生を求むべき人間が死を追わんとするが如きは、どこかに誤りがあるに違いない。

一体、人生の意義などということを考えて懐疑に陥るのは、怠惰な生活を送っているからである。孜々として働いているものを見よ。彼らは人生の意義なぞというものについては何の疑惑も持っていない。一体、人生問題なぞというものは、生活に隙があるから起って来るのだ。そんな懐疑は有閑階級の戯論である。

怠惰こそ一切罪悪の根本である。人生の意義なぞというものは、勤労者の日々の生活によって自ら体験さるべきものなのだ。トルストイはこう考えて自ら労働の生活に入った、といっている。」

(前田利鎌『臨済荘子』238頁)





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https://zazenfukyu.hatenablog.com/entry/2020/08/10/053529

曹洞禅とマインドフルネス

私は、坐禅から瞑想の世界に興味を持ち、最初は数息観から入りましたが、曹洞禅の「只管打坐」に納得のいくものを感じて実践をするようになりました。

只管打坐をするようになって半年ほど経ってから、マインドフルネスに関する専門書を集中的に読んでいたときがありました。

その中で、只管打坐とマインドフルネスとが相違するものではないかと感じたのですが、最近になって、両者は統一的に捉えることができるのではないかと思うようになりました。



《曹洞禅=只管打坐の魅力》

坐禅等の(座る)瞑想の方法には、その瞑想の際の「心の持ち方」により、大きな相違があり、数息観は、数を数えること(1から10までを数えるように指導されることが多いように思います。)に集中するものですが、只管打坐は、作為的に何らかの心の持ち方をしないものです。

たとえば、次のように表現されます。



坐禅中に如何なる思念が明滅しても、浮ぶに任せ消えるに任せて一切とりあわず」

(石井清純『禅問答入門』227頁)



私が仏教の教義の中でも最も大切なものの一つとしているものは、「特別なものを求めない」ということです。

人間の作為は、何かを求めようとすることに由来しますから、心の中で、数を数えるとか、タントラを唱えるとか、何かをイメージするとかいった作為的なことをしない只管打坐の方法論に納得が行き、これを知った後は、只管打坐でやってきました。

坐禅に関する理屈については、只管打坐を方法論とする曹洞禅に納得のいくものがあり、曹洞宗の方の書かれた本をよく読んでいました。

次の鈴木俊隆老師の話も納得がいくもので魅力的でした。



「困難なときに坐禅をしたことがない人は、禅を学ぶ者とはいえません。ほかのどんな行為も、あなたの苦しみを和らげることはできません。ほかのどんな姿勢も、自分の困難を受け入れる力を持たないのです。しかし、長い、困難な修行で確立した坐禅の姿勢によって、あなたの心と身体は、好き、嫌い、よい、悪いなしに、

《あるがままに受け入れる》

偉大な力を持つのです。」

(鈴木俊隆『禅マインド ビギナーズ・マインド』71~72頁)



苦しいこと嫌なことから逃げるのではなく、受け入れていくことが大切であるという発想は、新鮮でした。

只管打坐との出会いを切っ掛けに、坐禅を、外部情報を一方的に受け入れて行くことにより、苦しいこと、嫌なことも受け入れられるようにするエクササイズとして捉えるようになりました。

心に作為的に何かイメージを持つと外部情報を一方的に受け入れることにはなりませんから、このことからも、只管打坐に魅力を感じました。

【参考】
○【参考資料】受け入れ、向き合う
https://zazenfukyu.hatenablog.com/entry/2019/10/13/145844
○受容と活溌溌地
https://zazenfukyu.hatenablog.com/entry/2020/05/28/175333
○【参考資料】禅の他力性
https://zazenfukyu.hatenablog.com/entry/2019/07/09/085340



《只管打坐への疑問と回帰》

「受け入れる」ことが重要だと思うようになってから、禅以外の仏教の本を読んだり、ほかの立場も摂取しようとテーラワーダ(上座仏教)の勉強会にも行くようになりました。

考え方の違う人の話を聞くことを通し、自分自身の受け入れもよくなることを実感し、人との出会いが以前より更に面白くなりました。

その中で、マインドフルネスの専門書を読むようになりました。

マインドフルネスは、上座仏教にベースがあることから、自然と目が向くようになったのです。

そして、只管打坐は、そもそもマインドフルネスと違うということがわかりました。

たとえば、マインドフルネスの典型的な定義は次のようなものであるとされます。



「現在の処、カバットジン(2007)がMBSRの説明として用いた『注意を払うという特定の方法で、意図的であり、現時点に焦点を定め、価値判断を下さない』(略)という記述が作業定義(略)として一般に受け容れられています。」

(大谷彰『マインドフルネス入門講義』17頁)

「マインドフルネスの狙いはあくまでも気づき(awareness)と集中力の養成」

(大谷前掲書18頁)



「注意を払う」、「意図的」、「焦点を定め」、「気づき」、「集中」といったことは、いずれも心の中で何かをするという作為性がある言葉ですから、マインドフルネスは、只管打坐とは違うのではないかと思われました。

更に決定的だったものは、次の一文です。



「(臨床的なマインドフルネスについては)テーラワーダ仏教の四念処瞑想や長時間にわたる

《非思量》

公案による本格的な禅瞑想は一部の例外を除いて

《受け入れられず》」

(大谷前掲書111頁)



「非思量」とは、只管打坐そのものです。

先に石井清純『禅問答入門』から只管打坐の際の心の持ち様に関する記述の引用をしましたが、その直前には、次のような記述があります。



坐禅中心の宗風を持つ薬山の(略)『非思量の話』(略)、坐禅の基本となる心構えとして、日本では、特に道元門下の禅僧たちによって重視されてきました。(略)

坐禅をして、『何かを達成しよう』とか、あるいは『特別な(安定した)精神状況になろう』といった『思いはからい』を一切捨て去り、頭の中を、自然な状態にする、それが非思量ということなのです。」(225~227頁)



大谷先生の本には、「マインドフルネス」の効果は書かれていますが、そこでの話は、「非思量」の「只管打坐」には関係ないものであり、したがって、「只管打坐」には、きちんとしたエビデンスのある効果はないと思うと、「只管打坐」に対するやる気というものが失せるような感じになりました。

大谷先生の本には



「黙照禅とマインドフルネスとの共通点が見られます。」

(大谷彰『マインドフルネス入門講義』43頁)



とも書かれていました。

「黙照禅」とは、「曹洞禅」や「只管打坐」と同義ですが、当時は、大谷先生について、只管打坐というものを理解していないのではないかと思っていました。



只管打坐に疑問が湧き、スマナサーラ長老のユーチューブの動画を見て、「ラベリング法」の瞑想を試すようなこともありました。

「ラベリング法」とは、自分の身体感覚に言葉を当ててはっきりとこれを認識する瞑想の手法で、最初期段階では、腹式呼吸をする際のお腹の動きに意識を向けます。

たとえば、息を吸ってお腹が膨らんだときには、「膨らみ」と頭の中で言葉を唱え、息を吐いてお腹が縮んだときには、「縮み」と頭の中で唱えるというものです。



1週間程度「ラベリング法」をやってみたのですが、どうも私には合わない感じがしました。

「ラベリング法」をやった後で、只管打坐をしてみると、やはり、こちらの方がしっくりくるという感じでした。

加藤耕山老師が



坐禅は頭でやるものではない。体でやるものだ。体がいつの間にか坐禅を教えてくれる」

(加藤耕山発言。秋月龍珉・柳瀬有禅『坐禅に生きた古仏耕山 加藤耕山老師随聞記』207頁)



とおっしゃるのは、このようなことなのかなと思いました。



そのうち、効果があるとか、ないとか、そんなことを気にしている自分に対するくだらなさを感じるようになりました。



良い結果が出るとか出ないとか、そういう下らない根性から自由になるためのものが「只管打坐」ではないか。

それなら効果がなければないほど、望ましいはずだ。



このような思いが湧いてきて、やはり「自分にはコレだ」と何やら自信が生まれてきて、以後、只管打坐が習慣となりました。



《只管打坐の再認識》



効果を期待する訳ではないのですが、効果から自由になるような心境となると、却って、坐禅の実践に伴って自ずから気づくこともあるようになりました。

これは何だろうと思いながら実践を続ける中で、マインドフルネスの心理学的な研究ではなく、呼吸や姿勢と脳の活動の関係という脳科学論的な研究成果に関する文献に少しずつ接する中で、私の肉体の中で起きている只管打坐の効果というものが整理できるようになってきました。

【参考】
扁桃体の活動の低下――坐禅の生理学的効果(1)
https://zazenfukyu.hatenablog.com/entry/2020/07/12/200328

○呼吸回数の減少によるその他の効果――坐禅の生理学的効果(4)
https://zazenfukyu.hatenablog.com/entry/2020/07/25/094125

○姿勢を正すことによるテストステロンの分泌等――坐禅の生理学的効果(5)
https://zazenfukyu.hatenablog.com/entry/2020/07/30/221319

そうなってみると、通例、マインドフルネスの効果とされるものは、呼吸と姿勢という観点から説明できるのではないかと思われました。

たとえば、精神医療の現場で、マインドフルネスが一番効果を持つとされるのは、「慢性疼痛」であるとされます。



「マインドフルネスのジョン・カバットジンさんは、How to dance with painと言っていました。彼は慢性疼痛の人たちにマインドフルネスに基づくストレス低減法を開発したのです」

(藤田一照「ソマティック禅への誘い」『サンガジャパンVol.32』209頁)



ところで、慢性疼痛の要因としては、扁桃体の活動の過剰が挙げられます。



「何らかの身体的痛覚(侵害)情報が伝えられると、身体脳は(略)扁桃体から海馬を介して記憶の回路へ組み込もうとする。(略)身体からの痛覚情報が長期に繰り返されたり、陰性情動(恐怖、不安、怒り、悲嘆感)という付帯情報が繰り返される場合は、疼痛体験の記憶(短期記憶)が海馬から繰り返し引き出され、疼痛体験の記憶が定着化するようになる。扁桃体は常に過敏となり、僅かな情動刺激にも反応するようになる。つまり身体脳からの痛覚情報がなくとも、陰性情動のみで疼痛体験の記憶が容易に身体化し、『痛み』として体験されることになる。」

(北見公一「プライマリ・ケアとメンタルヘルス:慢性疼痛と心因性疼痛」『北海道医報』1029号8~9頁)



このように、慢性疼痛の要因としては、扁桃体の活動の過剰であるとされますが、坐禅の際の緩慢な呼吸により、血中二酸化炭素濃度が低下すると、扁桃体の活動が低下することからすると、マインドフルネスが慢性疼痛に効果のある根拠は、坐禅(只管打坐)と同様の呼吸法によるのではないかと推測しています。



《なぜ「マインドフルネス」=「ソートーゼン」か?》



以上のような推測を立てた後も、私の中では、只管打坐とマインドフルネスとは違う、という捉え方が強くありました。

その捉え方について再検討をしようと思うきっかけとなったのは、大法輪に掲載されていた次の記事です。



「二〇一二年畏カバットジン氏が来日した折、懇親会の席で筆者がカバットジン氏に直接マインドフルネスの基本的教理を問いただした時、彼ははっきりと、“ソートーゼン”と答えた」

(貝谷久宣「マインドフルネスの注意点」『大法輪』2020年3月号 83頁)



これは少し驚きました。

以前読んだ大谷先生の『マインドフルネス入門講義』に出ていた「黙照禅とマインドフルネスとの共通点が見られます。」との記述は、かなり強い意味合いだったのだと分かりました。

その共通項は未だ十分に捉えられないのですが、最近、次の河合隼雄先生の発言に接し、これがそのヒントになるのではないかと感じています。

少し長文ですが、味わい深いので引用します。



「問題がある方はみんなそうですけれど、世界が狭くなっているのです。みなさんも自分が悩んでいる時にそう思いませんか?

こっちをしたら駄目、こっちをしても駄目、これも駄目、あれも駄目、どうしょうと思う時は、もっと広く見るといろんな答えがあったりするのですが、それを思いつかない。(略)全体を見るということはものすごく難しいことなんですね。

人間はものごとを限定して見ている。その限定して見ておられる人に対して、聞いている私は割とゆったり聞いていると、段々話が広がってくるのです。これがすごく大事なことなのです。(略)

非常に大事に思ったのは、要するに我々が普通知的に考えて、一所懸命考えて問題を解決するという方法とは違う、これが大事でこれとこれがどうなっていて、次にどうなるかというふうな自然科学的な思考法で論理的に積み上げていくような考えを全くはずしてしまって、もっと視野を広げて

《広い広い視点からボーッと見ているような見方》

が、実はカウンセリングで大事であると、体験的にわかってきたのです。

実は、それをもっともっと徹底してやっていくと、仏教の教えのようになるのではないかと思い始めたわけです。」

河合隼雄「仏教研究とカウンセリング」同朋大学大学院文学研究科編『動く仏教実践する仏教[仏教とユング心理学]』51~52頁)



「広い広い視点からボーッと見ているような見方」

これは、作為をもたずに外部情報を一方的に受働する状態に置く只管打坐と同じではないかと思われました。



バイアスの係っている狭い視野ではなく、バイアスを外した広い視野から物事を捉えていく。

そうすると、バイアスの係っていた狭い視野では気づかなかったものに気づく。



こう書くと、狭い視野をもたらす「バイアス」は、ただの悪人であるように思われますが、それ自体、正常な脳の機能であるということを抑える必要はあるかと思います。



「人の心はそれぞれ無数のバイアスに満ちている。人がどんなふうに世界を見つめるか、どんなふうに過去を思い出すかは、そうしたバイアスに影響されるのだ。

この世に生まれた瞬間から人間は、嗅覚や視覚、聴覚や触覚に訴える情報に四方から襲われる。だから赤ん坊の心はまさに情報の嵐の中にある。(略)この情報の嵐を整理するのが脳の役目だ。無数の情報の中から重要なものだけを認識し、重要度が低いものにはあまり注意を払わないよう調整する複雑な仕事を、脳は確実にこなさなくてはならない。こうした脳のはたらきが心に作用し、心の中で起きるあらゆるプロセスを導いていく。」

(エレーヌ・フォックス(森内薫・訳)『脳科学は人格を変えられるか?』41~42頁)



私たちは、日々厖大な情報を感受しています。

それらについて差異をもうけず、いずれも重要なものとして処理するということになれば、私たちの脳はパンクしてしまうでしょう。

ですから、脳が感受する情報の有用性の順位をつけて有用なものを取り上げ、無用なものを切り捨てる作用、すなわち、分別の作用は、私たちが生存をする上で、必要不可欠なものです。

しかし、分別の作用も完全ではありません。

とりあげられるべき情報が切り捨てられ不都合を来すということも起こるでしょう。

坐禅や瞑想は、分別の作用というべき脳の機能を下げて、バイアスを外し、広く情報を感受する好意であると捉えれば、マインドフルネスにおける気づきと、只管打坐における作為をせずに感受する行為は、イコールであるようにも思えます。

この点、上座仏教の実践をされる方でも、その「気づき」の在り方について、意識的にこれをすることに否定的な考えを示す方も少なくないことも以上の見方を補強するもののように思えます。



「ジョン・カバットジンさんという方がいらっしゃいますね。彼はマインドフルネスについて(略)『現在の瞬間において判断せずに、特定の仕方で意図的に注意を払うこと』というわけだけど、ここで『意図的に(on purpose)』と言うのが、私としては問題だと思うんです。

私だったら、ここで『意図的に』という言葉は使わずに、『自覚的に』と表現します。というのは、『自覚的に』であれば、ただそこで目覚めているというか、ありのままに見るという感じになるけれども、『意図的に』と言ってしまうと、観察に何かしらの方向性というか、まさに『意図』が、不可避的に加わることになってしまう。」

(プラユキ発言。プラユキ・ナラテボー 魚川祐司『悟らなくたっていいじゃないか』198~199頁)



「意図的に」、すなわち、何らかの目的を意識する限り、目的実現のために不要と思われる情報が切り捨てられてしまいます。

このようなバイアスを外して情報を感受すれば、目的の実現を阻害する要因が見つかりやすくなったり、そもそもその目的を実現するような労力を払う必要すらないということを気づく可能性もあるでしょう。

どちらかというと、仏教という思想の流れの中では、後者の気づきの方が重要であるように思われます。



私たちは、効率的に生きることを可能にするため、有用な情報を取捨選択するバイアス、すなわち、分別的知性を発達させてきました。

それは、生存の上で必要不可欠なものではあるのですが、却ってそのために、自由に創造的な活動ができなくなったり、バイアスによって、他者との壁を作りがちであるという問題もあるように思います。

そのようなバイアスを外して、情報を感受する態度が、只管打坐の坐禅であり、マインドフルネスであるようにも思えます。



「禅は、要するに、自己の存在の本性を見ぬく術であって、それは束縛からの自由への道を指し示す。(略)それはわれわれの心に生まれつきそなわっている創造と慈悲の衝動を、すべて思うままに働かせることである。一般に、われわれはこの事実、すなわち、われわれは自分を幸福にし、たがいに愛し合って生きて行くのに、必要な機能をことごとくそなえているのだという事実に、気がつかないでいる。」

鈴木大拙『禅』41~42頁)





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