坐禅普及

主旨は慈悲。行は坐禅。

坐禅は無功徳

「瞑想部屋などがあるんですか?」



以前ある方から受けた質問です。

私が、一時期、禅の修行団体に所属していたり、色々な瞑想会に参加するなどマニアックな活動をしていたほか、長広舌を振うものですから、自宅でも相当マニアックに坐禅をしているのだろうなと思われたのだと思います。

サラリーマンで、富裕層というわけではありませんし、妻子もおりますから、そんな特別な部屋などはありません。

しかも、子だくさんなものですから、「自分の部屋」自体がない。

家族がテレビなどを見るリビングで坐禅をします。

子供らがドラマやアニメを見ている横で坐禅をすることもよくあります。

時間の計測はスマートフォンのタイマー機能を使っています。



自宅で坐禅をするという在家の方でも、熱心な方は、お線香を立てたりですとか、始めるときに、印金、あるいは、その代わりに音叉を鳴らしたり、坐禅のほかに読経をしたりするという方も、よくいらっしゃいます。

それらも悪くはないと思います。

色々と雰囲気を作り出す、それが、精神的に良い面もあるように思います。

とはいえ、工夫のしすぎもどうか、とも思うのです。

線香の煙や匂いにしろ、ほかの家族にとっては迷惑であり、「佛教は慈悲を以て趣旨とする」(釈宗演『一字不説』2頁)のにおかしい方向に行ってしまいます。

何よりも、精神的によいものを目指そうということの背景には、「現在は精神的に満足の出来る状態にはない」という精神性があります。

このような精神性を強調する結果になることも望ましくないように思われます。



仏教は応病与薬の方便として、様々な教義や実践があります。

その中でも、私が比較的普遍性が高いものと思っている教義は、「特別なものはいらない」ということです。

大切なことは、こちらから与えることであって、与えられることではない。

何かを得ようとして、妥協し、卑屈になるから、自分に素直に従って、本当にやりたいことができなくなる。

自分が得ようとして、ほかをないがしろにするから、人間関係にひびが入り、却って苦しむ。

逆に、ほかの人から悪く思われないようにするために、おもねる。

禅の世界で「無功徳」が強調される理由もこのようなところにあると思われます。

一番の典型例が碧巌録第一則でしょう。



達磨大師、梁の武帝に見ゆ。

帝問う。

朕、寺をたて僧を度す。何の功徳がある。

達磨いわく、『無功徳』



同じ流れで詩的な感じがするものがこちら。



「御佛に帰依するのは(略)信仰の代償として御利益を祈るのではない。佛心(みこころ)に随順し、佛恩に感謝するのですから、故(ことさ)らに病気の平癒も祈らず、海路の平安も祈らず幸福快楽をも祈り求めない。けれども浄信の在る所には安心があり、歓喜があり、平和があり、疑わず、懼れず、惑わず、驚かず、事に当って其正鵠を失わぬ。そこで病気も早く全快し、航海にも危険を免れ、富貴をも得、幸福を得らるる。真の信仰は

《求めず祈らずして、祈る所求むる所が得らるる》

のです。」

(忽滑谷快天『正信問答』171~172頁)



坐禅の生理学的効果」というタイトルでいくつか記事を書きました。

【参考】
扁桃体の活動の低下――坐禅の生理学的効果(1)
https://zazenfukyu.hatenablog.com/entry/2020/07/12/200328



しかし、そのような効果をさておき、その象徴的な意味として、最も重要なことは、「特別なものはいらないということが分かること」であると捉えています。

坐禅とは「何も求めない」ことであり、そのために、口を閉じ、手は印を結び、足はしっかりと組みながら、同時に、そのことの意味合いを分かるようにするため、目は開け、意識はしっかりと保つ必要がある。

藤田一照師の現代坐禅講義に、このような話が出ていて、その影響を受けました。





坐禅をするということは必然的にというか、自動的に人間を人間たらしめている、少なくとも四つの能力(歩行、道具の操作、言葉、抽象的思考能力)を封印することになるのです。」(226頁)



次の表現は詩的な感じもしてよいですね。



「求めないという豊かな世界をわれわれに開いてくれるのが坐禅なのです。」(55頁)



そうすると、工夫のしすぎてもいけないように思うのです。

悪くは無いかも知れないけれども、工夫をすればするほど、坐禅自体が「特別なもの」になってしまう。

ちなみに、一照師は、坐禅以外にも色々なエクササイズに取り組んでいらっしゃるので、少し違う方向なのかなとも思います。


設備の整った禅堂等で坐禅をするのも悪くはありません。

しかし、設備が整えば整うほど、坐禅自体が特別なものになっていき、一番大切なものが毀損するようにも思えます。



そもそも、本来、応病与薬の方便なのですから、坐禅自体がいらないはずのものです。



「禅は禅に非ずしてよく禅なり」



ですから、余り一生懸命やり過ぎるのもよろしくないように思います。

私自身坐禅の理屈は、曹洞禅から学ぶことの大きいものがありましたが、同時に距離を感じるのは、坐禅を一生懸命にやりすぎるところがあるからです。



「あまり禅に興味を持ちすぎるのもいけません。若い人が禅に夢中になると、学校をやめてしまし、森や山にこもって坐禅を始めます。この種の興味は本当の興味ではありません。

落ち着いて、日常の修行を行っていれば、自分の人格は強いものになっていきます。心がいつも気ぜわしいと、人格をつくる余裕がなく、うまくいきません。」

(鈴木俊隆『禅マインド ビギナーズ・マインド』110頁)



こう語る俊隆老師も曹洞宗ではあるのですが。



私の場合は、放置するとうつ傾向が出てくる自覚があるので、高齢の先輩が自覚症状が無くても、高血圧の薬を飲むような感じで、平日は朝30分程度、休日は朝、夕それぞれ30分程度坐っているくらいです。



「悟り」だの、「見性」だのを求めるから、おかしい方向へ行ってしまう。

日常に感謝して自足し、それを返していくということができなくなってしまう。



病んでいる方の中には、そういうプロセスの必要な方もいるのかなと思います。

しかし、多くの人は、そこまでは病んでいません。

「求心止む所、即ち無事」



敦煌本『二入四行論』(略)雑縁部より縁法師とある人との問答の一つを引く。



問、「どういうものが道でしょうか」

答、「君が心を起して

《道を求めようとすると、姧巧が起って有心のうちにおちこむ。》

君が心に道を起すと、巧偽が生まれる。心に手だてを意識すると、かならず姧偽が生まれる。」

問、「姧偽とは何のことですか」

答、「知恵をはたらかせて名を求めると、百巧が起る。姧偽を断じようとするなら、

菩提心をおこさぬこと》

だ。ものに対して知恵をはたらかせぬことだ。かくしてはじめて、人に気力がそなわる。身体に気力が充満すれば、知恵を求めず、法を追わず、悟りをあせらず、すこしはおちつくことができる」



姧巧、巧偽、姧偽はすべておなじ作為を指す。姧は姦に同じく、道の自然にそむく行為である。ところが、いまは

《道を求めることそのことが姧偽》

となる。」

(柳田聖山『禅思想』31~32頁)



最初から、この私たちの日常には、「特別なもの」が必要な問題など何もなかったのです。



「日本語では初心といいますが、それは「初めての人の心(ビギナーズ・マインド)」という意味です。修行の目的は、この初めての心、そのままを保つことです。(略)

私たちの「初心」は、その中に、すべてを含んでいます。それは、いつも豊かで、それ自体で満ち足りています。この、それ自体で満ち足りている心の状態を失ってはいけません。」

(鈴木俊隆『禅マインド ビギナーズ・マインド』31~32頁)



【参考】
○初心
https://zazenfukyu.hatenablog.com/entry/2020/05/03/232544





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摂心会(合宿形式の坐禅会)の危険性(2)

前回の記事は次のとおり

○摂心会(合宿形式の坐禅会)の危険性(1)
https://zazenfukyu.hatenablog.com/entry/2020/08/30/160712

岡田尊司先生は、『マインド・コントロール』の中で、マインド・コントロールの方法論を五つの原理に分けて整理されます。(216頁以下)。



第一の原理:情報入力を制限する、または過剰にする

第二の原理:脳を慢性疲労状態におき、考える余力を奪う

第三の原理:確信をもって救済や不朽の意味を約束する

第四の原理:人は愛されることを望み、裏切られることを恐れる

第五の原理:自己判断を許さず、依存状態に置き続ける



前回の記事では、「第一の原理」を取り上げました。

今回の記事では、「第二の原理」を取り上げようと思います。

前記『マインド・コントロール』からの引用が多いことから、同書からの引用については、頁数のみを記載し、書名を省略することは前回記事と同様です。



6 第二の原理:脳を慢性疲労状態におき、考える余力を奪う



「第二の原理:脳を慢性疲労状態におき、考える余力を奪う

第一の原理をさらに強化する目的で、合わせて用いられるのが、脳のキャパシティ自体を低下させることである。特に、過剰な情報を負荷して、処理能力をオーバーした状態を作り出す場合、同時に、脳の処理能力自体を低下させれば、主体的な判断能力自体を低下させれば、主体的な判断能力を奪うことがいっそう容易になる。

それは、神経生理学的な状態としては、脳の伝達物質を枯渇させることである。疲労困憊、不眠、低栄養、極度のストレスによって、脳の伝達物質が底をつくと、脳はうまく機能しなくなる。

両方の方法を併用することで、さらに強力に、正常な判断能力を奪ってしまい、抵抗を弱め、新しい情報や信念を受け入れやすくする。情報が処理しきれない状態に陥ると、脳は主体的に判断すること自体を止め、もっぱら受動的、機械的な処理に頼るようになる。抵抗や批判を奪ううえで、それは好都合である。」(221~222頁)



疲労困憊、不眠、低栄養、極度のストレス」

いずれも「摂心会」で行われる「本格的な禅修行」に伴いがちなものです。

たとえば、禅宗では、「労働」が重要視されますが、これは「疲労困憊」に繫がりやすいでしょう。

また、不眠については、前回記事で取り上げたとおり、「夜坐」が対応します。

睡眠時間を奪うことは、洗脳にとって有力かつ簡易な手段のようで、前回記事の引用部分にも出てきましたが、前記引用の後にも、次のような記述があります。



「洗脳においては、脳を絶えずビジーな状態に置くとともに疲労困憊させる方法が徹底して取られる。まず頻用されるのは、睡眠時間を奪い、その質を劣悪なものにするということである。」(222頁)



「低栄養」については、欲望に問題意識を持つ、仏教の実践においては伴いがちなものです。

「極度のストレス」は意味不明の公案に取組み、師家に見解を呈しても、厳しく否定される状況が、これに沿うものといえます。



「もう一つは、もっと巧妙でエレガントな方法で、一見睡眠を奪うことが目的というよりも、もっと役に立ち、楽しくさえもある活動が目的のように見せかけたもので、結果的に睡眠を奪い、疲れさせる。

学習や自己啓発、修練、真理の探究を目的として、早朝から深夜まで取り組みを行わせ、話をしたり、講義を聞いたり、集会をしたりといったことが延々と続けられる。

その場合、いつになったら休めるか、いつになったら解放されるのかという見通しを与えず、もう終りかと思うと、また次の課題や活動を課すことによって、疲労の限界を超えさせるという方法もしばしば採られる。」(223~224頁)



摂心会では、早朝から夜遅くまで、様々な行事がひっきりなしに行われます。

提唱などのほか、勉強会や一般の講演会、踊りの練習などといったものもありました。

提唱については、人によりけりで、基本的にある程度当該団体の教義の中核がわからないと意味不明の話なので、次でとりあげる「無意味なこと」に該当するかなと思います。

坐禅についても、慣れてきた人にとっては、「修練」として、それ自体が魅力的なものに映るかと思います。



摂心会の話から外れますが、私の所属していた団体では、その団体で実施する行事が年間にいくつもありました。

ほぼ内輪の行事であり、社会的有用性は無いのですが、それに関する「作業」が色々振られてくることがありました。



私は、仕事もありますし、禅の「修行」以外にもやりたいことがあったので、断るようにしていました。

内輪の行事なのですから、スタッフが足りなければ、中止すればよいのですが、私が作業を断ったある行事の担当者の人は、「老師から与えられた使命(ただし、内輪の行事)だからなんとしてもやりとげなければならない」と力説していました。

私が断った作業を、最終的に、自営業をされている別の会員の方がやることになりました。

自営業の彼は、無定量で仕事をしているという感じで、摂心会の時でも、行事が終わった夜間、持ち込んだノートPCを使って、本業の作業をしており、いつも睡そうな感じでした。

私が断った作業についても、睡そうな目で「これも老師から与えられた試練だから」などと言っていましたが、このようなモードになると、摂心会の時だけでなく、日常生活の中でも、忙しい仕事の中で余計な課題が増えていくのですから、疲労しやすくなり、結果として、組織に従順になるサイクルに入りやすくなるのかなと思います。



「過重労働や単調で遣り甲斐のない作業を長時間行わせ、疲労を蓄積させる。無意味なことをやらせることで、達成感や作業の喜びを奪い、いっそうストレスを強めることを意図する。」(224頁)



作務は基本的に単純労働です。

これも、作業を通して、脳が外界の情報を入力して、外界の状況に沿った行動として出力するというサイクルを取り戻す上ではよいものかと思います。

しかし、疲労の蓄積という点では、洗脳の有力な手段となってしまう側面があるようです。



「さらに、先の見通しを奪い、常に高いレベルの不安と緊張に晒し、希望と絶望の間を行き来させることで精神的に消耗させる。わざと親切にするかと思うと、烈しく罵倒し、打ちのめす。それも、大した理由もなく態度を変える。それによって、当人を混乱させるのだ。」(224頁)



一番典型的な例は、加藤耕山老師の語る梅林寺僧堂の次のような状況かと思います。



「梅林寺という所は、ほかの時は別だが臘八だけは思いきって叩きよりますからね。(中略)堂内のほうでは直日(じきじつ、禅堂内での総取り締まりの役)は『独参をせよ、グズグズ坐っておっても何もならん、独参せよ』と。そうすると行くんですな。行くと大庭の所に助警というのが五、六人警策を持って立っている。『何ウロウロしとるか、そんなドイツイことで老師の前に行って何になるか。しっかり坐って来い、禅堂へ行って坐ってこーい』。それでも禅堂へ行くと叱られて追い出されるから、我慢はって行こうとする。ナニクソと、もう暴力ですな。一人や二人ならいいが、四人も五人もおって、なかには柔道何段なんていうやつがおって、しまいには真剣になってやりだすんじゃ。(中略)坐れというのならいくらでも坐っておるんじゃけれども、両方ではさみ打ちする。一方は『行け』というし、一方は『いかん、行くな』とこういう。無理ですわね。それがもう、実に悲惨ですからね。バタバタバタと、まるで戦場とちょっとも違わん。」

(加藤耕山発言。秋月龍珉・柳瀬有禅『坐禅に生きた古仏耕山 加藤耕山老師随聞記』43~45頁)



公案を含め、このような相矛盾する状態におくことが、禅の実践において重視されますが、これも、洗脳に結びつきやすくなる要素と言えます。



「そうした境遇に長時間置かれると、主体的に行動するということは一切見られなくなり、相手の顔色だけをうかがい、それに合わせて行動するということしかしなくなる。その状態は、虐待を受け続けている子どもの状態に酷似していると言えるかもしれない。」(224~225頁)



禅では、「自我」を否定的に捉え、受動性が重視されますから、そのような点も相まって、「主体的に行動するということ」をし難い方向に行きやすくなるように思われます。




おそらく個人の心がけに止まるのであれば、次に挙げる記事のようにプラスの面が大きいのではないかと思います。

しかし、これを集団的・権威主義的に行ったときには、弊害の生じる可能性が大きいように思います。

【参考】
○【参考資料】受け入れ、向き会う
https://zazenfukyu.hatenablog.com/entry/2019/10/13/145844


このような隔離や疲労の蓄積が洗脳の効果を持つことがわかる具体例が戦前、警察に検挙された左翼思想家の「転向」でしょう。



「『転向』をもたらすうえで力をもったのは、拷問といった暴力よりも、いつ終わるともわからない隔離や単調な生活による情報の欠乏、孤独、不安、時間が空費されていくことへの焦りであった。 」(226頁)



とある禅の団体の指導者の方は、「禅の修行によって、ガラリと変わる」ということを強調されます。

確かに、それまであった「自我」が否定されれば、性格や世界の見え方が変わるのでしょう。

私は、十代の頃、「一切皆苦」という言葉から仏教に興味を持ちました。

このような世界の見え方が理性的であると思い込んでおり、不孝な世界の見え方であるということに気づくことに時間がかかりました。

性格や世界の見え方が変わった方がよいのではということはありますが、しかし、問題は、どのようなものに変わるかです。



自我は、私たちの肉体を他者の支配から守ろうとするものです。

その守ろう、守ろうとする思いが強くなりすぎると、却って不安感が増したり、優越感を求め、その背後にある劣等感が強まったり、他者に対する警戒心が強まって、意志疎通に不全を来すなどといった不孝も生じるように思います。



けれども、それを完全に否定してもよいのでしょうか。

「自我」は「自我」で、一生懸命頑張りすぎているだけであり、少し休ませてやるだけで、日常生活に支障はないはずです。

私たちの「自我」は出来が悪いかも知れませんが、その自我で、人生に対し、きちんと対処できていたからこそ、誰もがきちんと現在生きているのです。

「自我」の頑張りすぎの問題は、日常の坐禅により、扁桃体の活動を低下させることによって十分対応できるように思われます。

【参考】
扁桃体の活動の低下――坐禅の生理学的効果(1)
https://zazenfukyu.hatenablog.com/entry/2020/07/12/200328

逆に、自我を否定することは、この肉体を別の何かに委ねきることであり、自我を否定した後、そこに何が盛られるかは、他者に委ねざるを得ません。

特に、禅の世界では、「不立文字」が強調される余り、実践がどのような効果をもたらされるかについて十分な説明がありません。

自分自身がその実践によってどのように変わるかは何ら保証されていないのです。

そして、このような「予測のつかなさ」それが「マインド・コントロール」を実現しやすくする条件の一つでもあります。



「人は予測できることに対しては、ある程度心構えをもつことで対処することができるが、予測不能な状態に置かれると、脆さを見せる。精神を蝕まれ始める人もすくなくない。(略)見通しを奪うことは、洗脳や思想改造において効果を発揮してきた。」(225頁)



このように考えると、自我を否定することのリスクは余りに大きいように想うのです。

【参考】
○自我の大切さ
https://zazenfukyu.hatenablog.com/entry/2020/08/01/171621

この点は、ユング派の心理療法家としての実践の中で、西欧的自我の問題性に気づき、仏教的観点の有用さを認識しながら、西欧的自我を否定してはならないとする河合隼雄先生の次の指摘が参考になります。



「私は仏教というのは非常に寛容性の高い宗教である、と思っています。それは日本にまで渡ってきてますますその渡合を強くしています。したがって、私が仏教徒であり、かつユング派であると言っても、あまり問題はないように感じられます。しかし、仏教徒と言っても厳密に考える限り、仏教のどれかの宗派を選ばねばならないし、そうなるとそこには一定の教義があり儀礼があるし、その宗派の集団の維持ということも生じます。このような点まで必要となってくると、私は仏教徒であることを留保しなくてはなりません。私が

《個性化の過程と考えることに、これらは妨害的にはたらく》

ことがあると感じられるからです。特に日本人の集団は、西洋近代の自我に対して敵対的にはたらく傾向が強いので、特定の集団に帰属することには慎重でなければならないのです。私は

《西洋近代の自我の在り方を唯一の正しいものと考えるのには反対ですが、その肯定的な面を十分に認めています。》 

明恵を心の師と仰ぐと言いましたが、明恵自身は宗派をひらくことには否定的でありました。彼は当時の宗派の組織や教団から逃れようと大変な努力をしています。このことは、私がたとい明恵を師と仰ぐとしても、明恵を尊敬する集団に属しようとすることはできないことを意味しています。明恵にならうならば私は一人でなければなりません。安易に彼の『弟子』になることは許されないのです。」

河合隼雄『〈心理療法コレクションⅤ〉ユング心理学と仏教』60~62頁)



誰しもが、人生の中で、何度となく、自分自身が嫌になるという経験があります。

とはいえ、自分自身を全否定するような劣等感を抱くという精神性にも問題があるように思われるのです。



時に、人生の中で、孤独に苛まれるときもあります。

そのようなとき、自分を受け入れてくれる「集団」に所属することに安心感を得ることもあるかと思います。

禅の団体を含めた宗教団体に所属する人は、自分たちと同じ実践をする人が増えることによって、自分たち自身に自信を持つことができますから、新たにその実践をしようという人を暖かく迎え入れます。

けれども、私たちは、人生の中で、どんなに孤独に苛まれていても、きちんとこれまで生きてきたのです。



「何ものにも依って立つことなく生きること」



禅の理想の一つですが、特別な「修行」など全くせずとも、私たちは、誰もが自分の人生を通し、これを実践しているのです。

本当に効果があるか、どんな効果があるのか、わかりもしないのに、特殊な集団の中での特別な「修行」を求める必要はないのかなと思うのです。



「意味もなく慢性的な疲労状態を強いるような組織や生活には、未来はないと思った方がいい。もっとゆとりをもって、心身をいい状態に保てることが、もっと幸福で自分らしく有意義な人生につながる。」(229頁)





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【参考資料】仏教者と家族

1 加藤耕山発言。秋月龍珉・柳瀬有禅『坐禅に生きた古仏耕山加藤耕山老師随聞記』146頁

「修行というものは実人生、実生活の中にある。わざわざ衣をきんでも修行はできる。急いで茶畑に入るものではない。(略)

富士山に登るのに、荷物をしょって登るのと荷物なしで登るのとでは、荷物がない方が楽だよ。けどもね、荷物をしょった者が登るところにまた深い意味があるのだよ。あんたが妻子を捨てて此処にくるというと、わしも家内と別れなければならんがねえ」



2 岩倉政治の鈴木大拙夫妻評。秋月龍珉『世界の禅者―鈴木大拙の生涯―』192~194頁

大拙先生は在家ですが、その力量は出家といってもよいかと思います。 

「ビアトリス夫人は、いろんな点で先生と対蹠的な人柄であった(略)先生の超脱枯淡に対して、煩悩具足の凡夫性をそなえていた。(略)悪い意味で(略)はない。むしろそれほどに自然で純真な人であった(略)

先生の学問の深まりは、一つには、先生夫妻のたたかいと和解の生活(略)に負う(略)と(略)考えている。(略)ほとんど書斎に引きこもって、俗世間に浸ることの甚だまれな先生にとっては、(略)夫人こそ、凡夫の世界に開く大切な窓となっていた(略)

後年ビアトリス夫人が悪性腫瘍(略)で亡くなられたとき、(略)夫人の病床につきっきりになった先生は、(略)苦痛を訴える夫人のそばで、最後までその苦しみを分かち合い、その老体をかえりみず、看護に尽した。(略)先生の悲しみとやつれは、見るにたえぬものがあった。

そのような先生のなかには超脱や枯淡はなく、ただあくまでも人間的な自然な、最愛の者へのせつない献身があった。わたしはほとんど驚歎して、憔悴の先生を打ちながめ、この師匠への尊敬を新たにした」



3 藤田一照発言。藤田一照・魚川祐司『感じて、ゆるす仏教』

「内山興正老師も云ってましたね。『坐禅の修行者は、奥さんに認められなきゃ駄目だ』って。『その人の悟りの深浅を知りたかったら、家族に聞くのがいちばんいい』と言われていました。」(42頁)

「(家族ができるということは)『思いどおりにならない存在』と密接に関わるような生活になったということですね。」(73頁)

「(子どもが言うことを聞かないことを怒ったことに対して)自分の修行の底の浅さを思い知らされましたね(笑)。このくらいでキレちゃうのかって。」(91頁)

「自分がこんなに癇癪持ちで、自分本位で、これほどまでに怒れる人間だったのか、みたいなことはわからなかった。それまでは、そんな自分の姿を見たことがないし、人に見せたこともないでしょう?思わず、大声を上げたり、モノを投げつけたりする自分。」(98~99頁)

「ソロの修行って、どうしても独りよがりになりがちなんですよ。自分は人のできない特別なことをやってる、だから偉いんだっていう、鼻持ちならない優越感みたいなものが知らず知らずのうちに芽生えてくることが多い。」(99頁)

「ちょうどティク・ナット・ハンさんの本の中の慈悲がテーマのところを訳していて、マインドフルネスだとか、コンパッションだとか、そういうところをやっていた。それなのに、子供をこんなふうに怒鳴りつけてしまった。(略)

とにかく子供というのはそんなふうな仕方で、どうしようもない自分の独りよがりの殻を破ってくれる非常に大きな存在だと思いますけどね。」(104~105頁)



4 ネルケ無方「ネルケ無方師インタビュー さようなら安泰寺[前編]」『サンガジャパン33号』129~131頁

「もし世俗的な煩わしいいろいろなことから離れて、雑音が耳に入らないような山奥で静かに坐禅にふけることが修行であるというならば、家族を持たずに安泰寺のようなところで修行するのが一番いいでしょう。そこに家族が絡んでくるともちろん妨げになります。子どもを育てるためには稼がなくてはいけないし、幼稚園や学校に入るとPTAに入らなくてはいけません。安泰寺は田舎なので、毎年必ず何かの役が当たります。子供がクラスに五、六人しかいないので、ある人が会長だったら、ある人は地域委員、ある人は会計といった感じで、役が当たらないことはまずありません。三人子どもがいるので、幼稚園、小学校、中学校でそれぞれ役につくと、終末もあってないようなものです。ほかに、妻の買い物にも付き合わなくてはいけないし、夫婦喧嘩だってあります。

要するに、そういう煩わしいことに一切関わらないで、一人で静かに坐ることが修行だと思えば、家族は邪魔です。家族ほど邪魔なことはありません。それなら、お釈迦様のように全部捨ててしまうしか方法はないでしょう。あるいは、この間話題になった小池龍之介さんのように、マイナンバーも何もかも全部焼いてしまって、裸足でそのへんをふらふらと歩いて公園のベンチに泊まって木の下で瞑想したほうがいいと思います。

ただ、少なくとも大乗仏教では、修行をそのようにとらえていません。山の頂上に立って遠いところから悩み苦しむ者をただ観察して、その世間の移り変わりを静かに観察して、心の中で彼らが幸せでありますようにと祈りながら、自分はただ静かに坐ってそのまま涅槃に入るというのは大乗仏教ではない。もちろん山から見るという視点を一度自分の中に持つことは大事ですけれども、山の頂上から下りて、泥沼の中に入って一緒に苦しむ。世間の人たちの苦しみを実際にシェアするのが大乗仏教です。

静かに心の中で生きとし生けるものの幸せを願うのは簡単にできます。しかし、現に目の前で子どもが泣いていて、なかなか泣きやまない。それに付き合うことこそ、大乗仏教としての真剣勝負、修行の見せどころだと私は考えたいですね。それこそが修行であると。だとしたら、家族は修行の妨げどころか、ようやく私を高い山のてっぺんから引きずり下ろしてくれた。坐布から引きずり下ろしてくれた存在である。泥沼でもなんとかしなければいけない観音様の気持ちを味わわせてくれる存在である。そう言えると思います。」



5 スッタニパータ。中村元訳『ブッダのことば スッタニパータ』58頁

「二六二 父母につかえること、妻子を愛し護ること、仕事に秩序あり混乱せぬこと、――これがこよなき幸せである。」



6 鎌田茂雄『維摩経講話』277~278頁

菩提心には二種ある。浅はかな道心と真実の道心である。ただ無常迅速の道理だけ知って、世間の名利を捨てて、ひたすらに出離の道を求めるのは浅はかな道心である。無常の生死を捨て、世間を捨て、山林に庵を結んで、滝の音や末の風を聞いて心を澄ませるのは、真実の道心ではない。『無行経』は説く。


 
若し山林空閑(さんりんくうげん)の処に住して、我は貴し人は賎しと思える人は、天上に生ずる事だにもあるべからず、いわんや成仏おや。



この経文によると山林の静閑な場所に住して、自分は世俗の欲望をすべて捨てて、ひたすら道を修しているのであるから、世間の人よりは貴いと考える人は、天上界に生まれることもなく、まして成仏することはありえないと説いている。なぜそうなるかといえば、自分は道心堅固であって修行の力量があると思いこむ。そうなると高慢の心をおこすのだ。その慢心が仏道ではなく魔道に入る。

山林でひたすら修行する場合には、慢心という悪魔がつけこむ。世間の人をいやしむのも魔道である。妻や家族をもちながら必死に生きているのが、われわれ大部分の生き方である。それは愚かな生き方かもしれない。しかし世間に生きることもまた大へんなことなのだ。あらゆるわずらわしさや苦しみと一緒に生きなければならないからである。これらの緊縛(けばく)をすべて捨てて、ひたすら生きるのは純粋であるかもしれない。しかしそれは小乗的な生き方である。」





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https://zazenfukyu.hatenablog.com/entry/2020/08/10/053529

摂心会(合宿形式の坐禅会)の危険性(1)

1 はじめに



マインドフルネスが臨床の場で成果を出すに従い、その問題点も次第に明らかになってきました。

このことは、これまでも本ブログで何回か扱ってきました。

【参考】
【参考資料】瞑想の副作用 - 坐禅普及
扁桃体の活動の低下による弊害――坐禅の生理学的効果(2) - 坐禅普及
魔境(1)――坐禅の生理学的効果(10)(補訂板) - 坐禅普及

その中で、特に、リトリートと呼ばれる合宿形式の瞑想会に問題が多いということがわかってきたとされます。



「イギリスのオックスフォード・マインドフルネス・センターの2016年10月号の機関紙にはルース・ベアとウィレム・カイケンによる『マインドフルネスは安全か?』という記事が掲載された。このなかで、リトリート(合宿)形式のマインドフルネス訓練が特に問題となりやすい、と彼らは指摘している。

この記事に次いで、マインドフルネスのもたらすマイナス体験の実態調査が、(略)発表された。この研究では三種類の瞑想(テーラーワーダ、禅、チベット)実践者、総計60名から6年間にわたりデータが収集された。統計結果を見ると、

《72%が『リトリート中もしくは終了後に問題が生じた』》

と答え、オックスフォード・マインドフルネス・センターの見解を裏づけている。個人の実践では28%が『不快体験あり』と回答した。不快反応のタイプについては『恐怖、不安、パラノイア』(82%)が抜きんでている。しかし特筆に値するのは、マインドフルネスによるトラウマ記憶の再体験である。これは実践者の習熟度にかかわらず、約半数近くの実践者(初心者43%、熟練者47%)に生じた。」

(大谷彰「マインドフルネスの進化と真価」飯塚まり編著『進化するマインドフルネス ウェルビーイングへと続く道』34頁)



最近、岡田尊司マインド・コントロール』を読了しました。



坐禅や瞑想は、仏教との関連性が深く、当たり前といえば当り前ですが、「信者」あるいは「信者的」な人が少なくありません。

しかし、禅は、本来、何にも依拠することなく、自律的に生きる人間を理想とするはずのものです。



「禅には『破家散宅(はけさんたく)』という成語がある。自ら大切に守るべきものであり、また、逆に、自らを守ってくれるものである家宅。それをすっかりご破算にしてしまうということで、あらゆる既成の見解を捨て去り、

《何ものにも依拠しない》

、という喩えである。」

小川隆「破家散宅の書 ――“Seeeing through Zen”日本語版解説」――」ジョン・R・マクレ―『虚構ゆえの真実 新中国禅宗史』(1)頁)



また、上座仏教においても、自律性は重要です。



「西洋人のために書かれた仏教入門書では、カーラーマと呼ばれる一族の人々にブッダが与えた忠告が、冒頭に引用されることが多い。彼らはぶブッダに、さまざまな導師が訪れては異なる教義を説くので、どれを信じてよいものかわからないと訴える。ブッダは、このような問題に際しては、誰もが自分自身で考えを決めねばならないと答えた。いかなる教えも、〔個人的〕信頼関係や外的権威に頼るのではなく、自らの経験という試金石を用いて、その真偽を確かめるべきなのだ。(略)

自らの決断、とりわけ、

《誰の教えに従うべきかについての決断の責任を自分自身で負う》

というのは、知的判断能力に相当な重きを置くことである。」

(リチャード・ゴンブリッチ浅野孝雄訳)『ブッダが考えたこと』45~46頁)



しかし、坐禅指導者や瞑想指導者の言うことを信じ込んでしまい、たとえば、いわれるまま勧誘活動に励んでいる人など禅者というより信者というような人も少なくありません。

たとえば、ある禅の団体の会員の方たちが、その団体のイベントに人を呼ぶため、知り合いにひたすら電話をかけるというイタいことをする姿を実際に目にしたこともありました。

また、上座仏教の実戦をされる方の多くは、「輪廻説」を本気で信じ込んでいたりもします。

【参考】
○現代テーラワーダ新宗教ほか――上座仏教の基礎知識(1)
https://zazenfukyu.hatenablog.com/entry/2020/08/18/040541

自律性を失い指導者の言うがままになる人が少なくないことから、私は、坐禅等の瞑想には何らかの洗脳に類いする効果があるのではないかと思っていました。

そのことを、岡田先生の「マインド・コントロール」を読んで整理がつきやすくなったように思います。



2 自我の否定とマインド・コントロールの危険



臨済禅(白隠禅)においては「自我の否定」が重視されます。

たとえば、横田南嶺老師は、臨済禅で用いられる「公案」の存在意義について次のようにお話になります。



「横田 これは一つには、最初の

《自我を壊して一つの体験をする》

ためには、意味のない言葉に集中するというやり方を取ります。ですから、むしろ、あえて、もう意味がわからないものを簡単に集中させる。」

横田南嶺・熊野宏昭「禅僧と医師、瞑想スクランブル」『サンガジャパンvol.32』95頁)



このような「自我」の否定の有意義性とその反面としての問題性については、次の河合隼雄先生の指摘が参考になります。



「日本人の特徴として、『厳しい』、『苦しい』練習ほど素晴らしいという固定観念があるように思う。これは一理あるわけで、日本の芸や道と言われているものは、自我を消滅させることによって、そこにユングの言うような意味の自己を感知させる、という方向をとってきた。そのためには、まず『型』からはいることが必要で、

《型を完成させるために自我を棄ててゆく》

と、自己が顕現してきたとき、その型は――古来からの知恵を反映して――自己の容器として適切なものであるために、そこにはじめて深い個性を伴った芸ができあがってくる。これはこれで素晴らしいひとつの方法が確立されている。

しかし、この方法を一歩誤ると、教える側は教えられる者を苦しめ、その

《自我を破壊することにのみ力をそそぐ》

ことになり、しかも、それが西洋のスポーツや芸術などの場合は、特に日本的な『型』を重視してできあがってきたものでないだけに、それは、あまり効果をあげないどころか、

《有害にすらなってくる》

しかも、そこには教える者と教えられる者の差を絶対化してしまうだけに、悪くすると、妙な順位ができて

《上の者は下の者を苦しめるだけという類のヒエラルキーができあがってきてしまう。》

日本の家元式のシステムが悪く運用されると、このようになる。」

河合隼雄『〈心理療法コレクションⅣ〉心理療法序説』274~275頁)



禅や仏教の実践に興味を持つ人は、劣等感に基づく自己肯定感の低い人がすくなくありません。

きっと私もその一人なのだと思います。

劣等感等にさいなまれたそれまでの「自我」を否定することを通し、新しい自分を再生する。

「大死一番、絶後に再蘇」などといわれますが、臨済禅の狙いは、このようなところにもあったのではないかと思います。

問題は、自我が否定された後、新しい自分の「容器」として何が用意されるかです。

たとえば、心理療法に関してですが、河合隼雄先生は、次のようにおっしゃいます。



「われわれの目指しているところは、与えられた環境のなかでクライエント自身がいかに

《自分の生きる道を自主的に見出してゆく》

か、それを援助しようとしているのである。」

河合隼雄『〈心理療法コレクションⅣ〉心理療法序説』137頁)

「人生の過程は死ぬまで続くし、その間に

《人間の個性化の過程》

も続くのであるから、心理療法や分析が終わるのは、別に人生の歩みがとまることではない。ただ、その

《道を自分なりに進んでゆく》

のであり、心理療法家にそのために会いにくる必要がなくなった、ということである。」

(河合前掲書248頁)



河合隼雄先生は、禅や仏教に造詣が深いと言われますが、これらの指摘も示唆に富みます。

「人間の個性化の過程」という言葉は、澤木興道老師が強調される「自分が自分になる」ことに通じるものを感じます。



「人間は自分のことなら、自分きりでよさそうであるのに、他人に認めてもらえないと自信をなくして、自分を卑下してしまうものである。だから

《自分が自分になり切ってゆく》

ということは、容易なことではない。」

(酒井得元『沢木興道聞き書き ある禅僧の生涯』177頁)

坐禅は直接自分のためにするものである。私は

《自分が自分を自分することだ》

と言っている。本当の自分になることだと言っている。自分を冒涜しないことが坐禅でなければならない。坐禅は何をすることかと訊かれれば、自分が自分で本当の自分になることだと答えるより外に仕方がない。」

(沢木興道『【増補版】坐禅の仕方と心得』9~10頁)



自我を否定した後に現われるものが「その人らしさ」それ自体を発揮するものであれば、問題ないかと思います。

しかし、自我を否定した後に、適切な「容器」がないのであれば、自我は自分自身の「心」を守るための鎧なのですから、苦痛を感じた末に心の鎧を失い、指導者の言うことを聞くだけの人間になってもおかしくないように思われます。

また、与えられる「容器」を作り上げるのは指導者なのですから、指導者の言う通りの人間になりやすくなるように思われます。

禅の世界において、指導者の人格が重視される理由は、このようなところにあるのかなと思います。

しかし、「伝法の師家」と呼ばれる人であっても、人格的に優れていることは保証されていません。



「師家は、釈尊以来インド・中国・日本と『仏祖的的相承底』すなわち師承正しい伝統の師から印可証明を得たものでなければならない。(略)しかし、これだはまだ一応の最低限である。(略)世間的にも人格・識見ともにすぐれた人物を選んで師とすべきである。(略)

しかし、古来『真正の見解さえあれば少々不品行でもよい。正見ある者を師とせよ』と評してもある。

《行解相応の師など昔もなかなか少なかった》

ものらしい。」

(秋月龍珉『公案』58頁)



実際に自我が否定された後、どのような観念が植え付けられることになるかわかりません。

ですから、私は、マニアックな禅等の仏教の実践はオススメしていないのですが、以上は私の推測にすぎないものです。

しかし、岡田先生の『マインド・コントロール』を読んで、特に、合宿形式のものについて、実際に洗脳的な事態が生じる危険が高いのではないかと思いました。



「洗脳を目的として発展したさまざまな方法に共通するのも、過酷な極限状態にその人を追い詰めていくという点である。短い睡眠時間、乏しい栄養、孤独で隔絶された環境、不規則で予測のつかない生活、プライバシーの剥奪、過酷で単調なルーチンワーク、非難と自己否定、罵倒や暴力による屈辱的体験、苦痛に満ちた生活、快感や娯楽が一切許されないこと、理不尽で筋の通らない扱い等々。これでもかこれでもかと、苦痛と屈辱と不安が与えられる。

たとえば、

禅宗の修行でも、導師が弟子に対する接し方は、極めて理不尽で、ほとんど無意味な虐待に近い》

という。その理不尽さと虐げることに意味があるのだ。新しい境地にたどり着くには、もっともらしい知識や肩書など何の役にも立たず、赤子のように無力だと感じる極限状況が必要なのだ。」(168~169頁)



マインド・コントロールの手法をイメージしやすくする具体例として「禅の修行」が取り上げられることは興味深いものがあります。



何回かに分けて、岡田先生の著作を引用しながら、私が体験した限りでの実際の様子などを踏まえて、「摂心会」や「リトリート」などと呼ばれる合宿形式の「坐禅会」や「瞑想会」について考えていこうと思います。

なお、岡田尊司マインド・コントロール』については、繰り返し引用をすることから、「摂心会(合宿形式の坐禅会)の問題性」の記事の中で、同書を引用する際には、頁数のみを引用し、著者名・書名は省略しようと思います。



3 合宿形式の坐禅会・瞑想会



坐禅会・瞑想会には、合宿形式のものもあります。

1泊のものから、長くて1週間程度のものが多いようです。

この種の合宿形式の坐禅会や瞑想会については、禅の場合では、「摂心会」あるいは「接心会」などと呼ばれ、「せっしんえ」と読みます。

上座仏教の場合は、「リトリート」と呼ばれることが多いようです。

いずれも、各団体の専用の施設か、さもなければ、寺院等を借り切って、期間中は、その施設等に泊まり込んで、坐禅や瞑想を行います。

基本的に定められたプログラムの中では、その期間中に施設の外に出てはならないとされることが多いようです。



私の参加した経験がある禅の団体の摂心会では、社会人もいることから、仕事等のため、期間中でも日中、外出することが許されていました。

とはいえ、指導者の方は、「本来門外不出」であることを強調し、期間中は有給休暇を取得して、施設内で「修行」し続けることが大切であることを訴え、参加者の中では、実際、そのようにすることを評価する雰囲気がありました。

後に触れますが、常識的にもなんとなくイメージできるとおり、相当長期間施設内に缶詰状態にすることが、いわば「洗脳」をやりやすくする側面があるとされます。



4 マインド・コントロールの五つの原理



岡田先生は、マインド・コントロールを成功させる条件を次の「マインド・コントロール五つの原理」として整理されます(216頁以下)。



第一の原理:情報入力を制限する、または過剰にする

第二の原理:脳を慢性疲労状態におき、考える余力を奪う

第三の原理:確信をもって救済や不朽の意味を約束する

第四の原理:人は愛されることを望み、裏切られることを恐れる

第五の原理:自己判断を許さず、依存状態に置き続ける



ちなみに、岡田先生は、「マインド・コントロール」されやすい要因についても、次ぎの五つに整理されており、思い当たる節のある方は、坐禅団体や瞑想団体から距離を置くようにしたり、あるいは、知り合いの坐禅や瞑想に興味を持っている方について、次の条件のある方がいらっしゃるときは、気を付けてみていただくことがよいかと思います(岡田『マインド・コントロール』66頁以下)。



① 依存的なパーソナリティ

② 高い被暗示性

③ バランスの悪い自己愛

④ 現在及び過去のストレス、葛藤

⑤ 支持環境の脆弱さ



坐禅や瞑想に興味を持っている方は、家庭環境に問題があり、不安感があるなど心に問題を持っていながら、その支えがなく、どこかで救いを求めている人が少なくなくいことから、①、④、⑤の条件が当てはまる人が多いのではないかと思います。

また、実人生がうまくいかず、それを取り返すような感じで、「悟り」や「見性」など普通の人が余り体験できない特殊な体験をして、優越感を得たいという感じの人も少なからずおり、③の条件を満たす人も少なくないように思います。



5 「第一の原理:情報入力を制限する、または過剰にする」



この点について、岡田先生は、次のような指摘をされます。



「教育や啓発を効果的に行おうとする場合に(略)、劇的な変化を生じさせようと思えば、

《情報や刺激の入力を減らして、脳が単調さに退屈した状態を作る》

ことが一つのポイントになる。その単調さに退屈した状態を作ることが一つのポイントになる。その単調さを一定期間続けて、刺激や情報に対する飢餓状態を作った上で、少しだけ教えると、乾ききった砂が水を吸い込むように、知識を吸収していくということが起きる。

普段なら楽しみにならないような単調な刺激でさえ、楽しみになり得る。昔から学問や技芸を学ばせる場合、

《寄宿舎や合宿という形が好んで用いられた》

のは、集団生活を学ばせるとか競争させるといった意味もあるが、一つには、外界との接触を減らし、無関係な情報入力を減らすことだったと言えるだろう。そこに

《ある種の『トンネル』を作ることで、一点の光だけを見つめて進んでいく状態》

が生み出されることになる。

情報入力が多すぎると、どうしても気が散ってしまいやすくなるだけでなく、主体的な意欲も低下しやすい。情報入力のレベルを下げることで、自分からそれを求めるようになり、吸収もよくなるのである。」(218~219頁)



「寄宿舎や合宿という形が好んで用いられた」というのは、まさしく摂心会の状況そのものといえます。

禅等の仏教の実践では、言葉を使わないことが重視されます。

私の所属していた団体では、特に、摂心会においては、沈黙を守ることが強く言われていました。

これは言語がコミュニケーションツールとして限界があるにもかかわらず、強力であるがために過剰に使われがちで、却って、人間関係に問題が生じることや、仏教自体が人間の解析的な知性の行使の過剰に対する警戒心の強いことが理由となっており、必ずしも不合理とはいえないように思えます。

しかし、言語によるコミュニケーションが否定されると、どうしても退屈になってきて、情報に対する飢えが生じることになります。

前記の引用の少し前に、岡田先生は、このことをストレートに述べます。



「外界から隔離し、外部の人と

《話のできない》

孤絶した状態に置くことは、

《洗脳の基本》

である。」(217頁)



また、禅の世界では、次に引用する鈴木大拙先生のエピソードに出てくるとおり、「知識」に対する警戒心が強く、「情報入力の制限」そのものといってもよいでしょう。



「禅語か仏教語か二つ三つ、これはどういう意味ですかとたずねたわけだ。そうしたら和尚大いに怒って、『なんだバカな、そんなことよせ』といって、頭から大目玉をくった。せっかく相見したものの、そういう工合で、叱られて放り出された。文字の意味がどうのこうのと聞くより、とにかくまず坐れということであったろう」

(秋月龍珉『世界の禅者―鈴木大拙の生涯―』59~60頁)



実際、私が所属していた団体の指導者の方は、「知識に偏ると見性から離れる」などとおっしゃていたそうです。

【参考】
○仏教を学ぶということ
https://zazenfukyu.hatenablog.com/entry/2020/07/23/045708

また、私のところには、未だにその団体からのメールが来るのですが、最近、指導者方が「伝法の師家を信じる」などという趣旨の文章を書いたという内容のメールが来ました。「信じる」ということは、裏を返せば、指導者の方の発言に疑いを持たず、ほかの情報はシャットアウトしろということですから、同じような話です。



「単調さに退屈した状態を作ることが一つのポイント」というのも、摂心会の特徴に沿うもので、具体的には坐禅がその典型です。

このような坐禅の特徴は坐禅をよく知らない方も持つイメージですが、本当にそのとおりというところがあります。



坐禅をしていると(略)物足りないような(略)空しい感じが湧いてきます。(略)

やっている当人としてはこんな手ごたえのないことをこのままやっていいのだろうか、時間の無駄じゃないかと途方に暮れるばかりですが、実は坐禅としてはそれでいいのです。それはむしろいい坐禅であることの証です。(略)

この物足りなさがわれわれを駆り立てているあいだは、落着くことができず、安心してくつろぐこともできません。(略)物足りないところにそのまま落ち着くこと、そこにしか安心はないと決定(けつじょう)して物足りなさと一緒に坐り込んでいるのが坐禅なのです。」

(藤田一照『現代坐禅講義』48~49頁)



「物足りない」「空しい感じ」。坐禅は退屈そのものです。

その後の「物足りないところにそのまま落ち着く」というところに味があり、これを「悟りたい」、「見性したい」などという「物足りないところから逃げ出す」発想になるとおかしくなるということです。

しかし、この「物足りない」坐禅が「退屈さ」というマインド・コントロールの条件に合致する側面があるということは気を付けなければならないと思います。



「一点の光だけを見つめて進んでいく状態」というのも、特に臨済禅でよく用いられる数息観は、サマタ瞑想として、集中を重視しており、マインド・コントロールに適する心理状態を作る方向に働きやすい方向になる感じもします。

【参考】
○「調心」その問題性(1)――坐禅の生理学的効果(6)
https://zazenfukyu.hatenablog.com/entry/2020/07/31/225412

○「調心」その問題性(3)――坐禅の生理学的効果(8)
https://zazenfukyu.hatenablog.com/entry/2020/08/06/053426



マインド・コントロール」の先の引用に続く次の記述にも興味深いものがあります。



「情報があまり入ってこないと、人は少ない情報から考えるようになる。空白の部分を、考えたり想像することで補おうとする。感覚遮断のような極度の欠乏状態におかれると、空白の部分を埋め合わせようとして、考えや想像が暴走し、幻覚妄想にまで至ってしまう」(219頁)



マニアックに坐禅や瞑想をし続けていると、「魔境」などと呼ばれる幻覚が生じやすくなるとされており、いわゆる見性体験も、その一類型と考えられます。

摂心会のような長時間閉鎖的な施設内で坐禅等をしていると、通常よりも、幻覚体験をしやすくなり、普通であれば危険であると思ってしまうはずですが、元々特異な体験をしたいと思っているだけに、精神的に危険な状態に陥っていることを修行の成果と思い込み、その団体の指導者の人を信じ込みやすくなるのではないかと思われます。



次の引用も「摂心会」というものが洗脳の上で都合のよい構造を有していることを窺わせます。



「睡眠を奪い、疲労と単調な生活を強い、主体的に考える能力を奪う。」(217頁)



睡眠という点では、臨済禅では夜坐といって夜中も坐禅をすることが重視されるのですが、摂心会では特に重視されます。

たとえば、建仁寺僧堂の修行は次のようなものだそうです。



「まず朝は4時に起きてお経をあげたあと参禅、老師との公案問答を行います。朝食の後は托鉢がなければ夕方5時まで作務となります。内容は庭の掃除、池の泥をさらっての改築、樹木に登っての剪定など肉体労働です。夕食をいただいたらまた参禅になります。僧堂で坐禅をして夜9時で終わります。そのあとは禅堂の外で坐禅をする『夜坐』があります。」

北野大雲「巻頭インタビュー 禅の道に入ってようやく得た安心」)



また、夜坐という点では、関大徹師が話す正眼寺僧堂の様子も興味深い。



「やっと、正眼僧堂に一人前の雲水として参堂を許されて、四、五日たった夜だった。午後九時の開枕の梵鐘が鳴ると、一同は坐禅を終えて経を誦(じゅ)し、三宝礼をして横になった。ただ一つしかない小さな灯までが消されて、僧房の中は、真っ暗になった。私は眠りにつこうとしていた。そのときである。耳許でささやく人があった。

『あなたは、ちっとも夜坐に出ないではないか。なぜだ』

私は愕然とした。急いではね起き、その人の後を追った。私は『夜坐』というものを知らなかった。実をいうと、それまで毎晩、消灯後になると、ごそごそ外に出る人の気配を感じて、これほどの専門道場でも夜遊びにうつつをぬかす者があるのかと、なかば心外に思い、なかば呆れてもいたのである。その正体がなんと『夜坐』という、日課外の修行だったのである。(略)

外に出てみると、なるほど闇の中に、黒い人影がした。私も、人影にならって軒下に座ったが、とても坐禅三昧といえるものではない。(略)

おどろいたのは、正眼僧堂では、入堂いらい何年というもの、一夜として僧堂の中で夜を明かしたことがないという命知らずがすくなくないということであった。」

(関大徹『関大徹『食えなんだら食うな』48~49頁)



私の所属していた団体の指導者の方も夜坐を推奨し、熱心な方は夜坐をよくやっていらっしゃいました。

どうしても「悟り」や「見性」などと呼ばれる「特殊な体験」をしたい方は別として、睡眠不足は心身の健康にもよくありませんから、このようなことを推奨する団体や指導者の方に対しては警戒されることをお勧めします。



「睡眠は必須な生物学的プロセスであるということ。睡眠(あるいはそれに類似した鎮静状態)が実質上すべての動物に認められるという事実がそれを物語っています。実際、睡眠を完全に剥奪すれば必ず死に至りますし、わずかな睡眠不足でも学習・認知機能が低下します。」

池谷裕二『脳には妙なクセがある』285頁)



最後に、次の引用も示唆的です。



スターリン治下のソ連における政治犯だけでなく、冤罪をかけられた容疑者でも、長期間の隔離によって情報の流入が制限されると、取調官の顔色に合わせて、自らの罪状をでっち上げるだけでなく、それを真実だと信じてしまうことさえ起きる。感覚遮断によって生じたマインド・コントロールの力は想像以上に大きい。」(218頁)



この文章の「取調官」を師家に、「容疑者」を学人に入れ替えると、公案の入室参禅の危険性が分かります。

「自らの罪状をでっち上げるだけでなく、それを真実だと信じてしまう」という点は、公案における真正の見解自体を自らの頭に刻み込むという公案禅の文字禅的側面ともいえますが、このような実践方法自体に、師家の言うがままになる危険が内在しているといえそうです。





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なぜ、苦行ではダメなのか - 坐禅普及

禅と全体主義――「戦争と禅と日本国憲法」追補

先に「戦争と禅と日本国憲法」の記事を投稿しましたが、これをきっかけに、改めて近代史をテーマにした本を読もうという気になりました。

【参考】
○戦争と禅と日本国憲法
https://zazenfukyu.hatenablog.com/entry/2020/08/15/155159

近代史、特に、満洲事変から太平洋戦争にかけての歴史に関する本を集中的に読んだのは今から3年ほど前で、久しぶりのことです。

ブログにも少し書いた太平洋戦争の開戦の要因の一つには、海軍における予算確保もあったのではないかという見立てについて裏付けが欲しいと思い、若干古くはなりますが、NHKスペシャル取材班『日本海軍400時間の証言 軍令部・参謀たちが語った敗戦』が文庫化されており、安く入手できるようだったので、アマゾンを通して購入しました。

内容は、1980年から1991年にかけて、太平洋戦争当時、軍令部や海軍省に所属していた軍人の方による「海軍反省会」の発言を録音したテープが発見され、その録音された発言を題材にしたNHKのドキュメンタリーがベースとなっているものでした。

見立て通り、海軍の予算確保の必要性が開戦の要因の一つであるという話が、当時の幹部の発言にストレートに現われていることなど、参考になる点が多くありました。



「(高田利種元少将)『予算獲得の問題もある。予算獲得、それがあるんです。あったんです。それそれ。それが国策として決まると、大蔵省なんかがどんどん金をくれるんだから。軍令部だけじゃなくてね、みんなそうだったと思う。それが国策として決まれば、臨時軍事費がどーんと取れる。好きな準備がどんどんできる。準備はやるんだと。固い決心で準備はやるんだと。しかし、外交はやるんだと。いうので十一月になって、本当に戦争するのかしないのかともめたわけです。』

『だから、海軍の心理状態は非常にデリケートで、本当に日米交渉妥結したい、戦争しないで片付けたい。しかし、海軍が意気地がないとか何とか言われるようなことはしたくないと、いう感情ですね。ぶちあげたところを言えば』

(横井秀信「開戦 海軍あって国家なし」NHKスペシャル取材班『日本海軍400時間の証言 軍令部・参謀たちが語った敗戦』138頁)

「開戦時の作戦参謀だった三代(辰吉)元大佐が証言する。

『私が申し上げておきたいのはねえ、私は軍令部におる間はね、感じておったことはですな、海軍が“アメリカとは戦えない”というようなことを言ったことがですね、陸軍の耳に入ると、それを利用されてしまうと。

どういうことかというと、海軍は今まで、その、軍備拡張のためにずいぶん予算を使ったじゃないかと、それでおりながら戦えないと言うならば“予算を削っちまえ”と。そしてそのぶんを、“陸軍によこせ”ということにでもなればですね、陸軍が今度はもっとその軍備を拡張し、それから言うことを、強く言い出すと。(略)そういうふうになっちゃ困るからと言うんですね、一切言わないと。負けるとか何とか、戦えないというようなことは一切言わないと。こういうことなんですな」

(横井秀信「開戦 海軍あって国家なし」NHKスペシャル取材班『日本海軍400時間の証言 軍令部・参謀たちが語った敗戦』143~144頁)



また、読みながら、集団や組織に抗しうるような自己を確立することの重要性を強く感じました。

先の投稿でも、時流に随順した僧侶の在り方を問題視する鈴木大拙先生の言葉を引用しましたが、当時のエリートであり、事実上、強い権力を持っていたはずの軍官僚ですら、同じという発言が少なからずあったからです。



「扇元大佐がさらに重要な発言を反省会でしていることに気づいた。

『海軍の上層部は、自分の意志、判断をもっとりながら、それはこちらに置いて、そうして流れていった』

『思わぬ、好まぬ自分の本意でない方向に流されていったと。だれかれと言わず、みんなそうですもん』」

(右田千代「特攻 やましき沈黙」NHKスペシャル取材班『日本海軍400時間の証言 軍令部・参謀たちが語った敗戦』271頁)

「『なぜ海軍の作戦を統括する第一部長として特攻を止められなかったと思いますか?』

私の問いに、(中澤佑元中将の長男である)忠久氏はこう答えた。

『これは今の日本人にも言えるけど、時の空気には勝てないんでしょうね、全体がそういう流れになっている時に。父は非常に慎重かつ緻密でですね、先を読んで現状を理解する能力が非常に高かった。しかし、現状が間違っていると思ったとしても、組織の大きな流れを止めたり、動かしたりする力はなかったと思いますね。』」

(右田前掲349頁)



禅や仏教では、自我、自己、あるいは、私というものに対して、否定的に見る傾向があります。

しかし、このような戦争中の軍幹部の発言を見ると、しっかりした自我、自己、あるいは、私というものの確立も、重要ではないかと感じます。

そうでないと、集団に不安が蔓延し、全体が望ましくない方向に行きそうなときにはっきりとした発言して、全体と対峙するができなくなってしまうからです。

私たちは、一つの自然の法則から現われたのであるとしても、全く同一の性質のものとして、現われたのではなく、それぞれが個性的なものとして現われています。

多様な個性のあることが生物集団として様々な環境に適応することを可能にしたものと思われ、その個性を否定してしまえば、生物集団としての環境への適応性が下がっていくことになるものと思われます。

常識論にも思えますが、様々な研究から、私たちが自分自身の意見をしっかりと言って、議論をすることがよりよい解決策に至る手段となることも判明しています。



コロンビア大学のスミス博士らが報告した(略)実験では学生350人に対して問題を提示しています。当初の正解率は約50%でしたが、小グループ制でのディベート後には約70%に上昇しました。

誰かが答えを知っていれば、その正答が周囲に伝わりますから、この結果は当たり前にも感じられます。しかし、学生のディベートを丁寧に調査すると、答えを誰も知らない状況でさえ、正解率が上昇することがわかったのです。つまり正答は、単純に伝播するだけでなくて、議論の中で新たに芽生えるわけです。

面白いことに、議論を通じて正解に辿り着いた場合は、問題に対する理解も深まって、応用力が身につくため、類似した問題の正解率も上昇します。『話し合い』は、一方通行の授業とは異なり、より本質的な理解や解釈をもたらすのです。」

池谷裕二『脳には妙なクセがある』222~223頁)



ちなみに、群棲生物の集団においても、トップダウン式の集団は崩壊しやすいそうです。



「群れをなす動物たちは、集団の進むべきルートをどう見定めるのでしょう。ミツバチや魚や鳥の一部では、『正しい知識を持ったリーダー』が少数いることが知られており、こうした優等個体が集団を牽引するようです。(略)

計算結果によれば、集団に占める『正しい知識を持った個体』の割合が増えるほど、群れは正しい進路を取ります。これは当然でしょう。しかし、意外なことに、知識個体率が同じ場合は(たとえば10%のメンバーが正解を知っているときには)、集団の規模が大きいほど群れは正解に至ります。こうしたところに動物が巨大な群れをなす理由があるのかもしれません。

さらに面白いことに、知識層のメンバーが正解にあまりに固執すると、集団は分裂崩壊してしまうことが示されました。リーダーは確固たる意図をあえて明示せずに、一見曖昧な行動をしたほうが、結果として、集団を正しい方向に導くことができるようです。」

池谷裕二『脳には妙なクセがある』225~226頁)


禅僧の戦争協力の問題を始め、禅の言説が全体主義と結びつきやすくなる理由の一つには、特に、臨済禅が目的とする「見性」が「自他不二」の体感などと呼ばれ、全体として一つであることが強調されることがあるように思います。

認識論の問題としては、「自他不二」という捉え方がシンプルでよいようにも思っています(とはいえ、マルクス・ガブリエルは、このような一元論は誤りだといいますが、言及すると切りがないので、避けます。興味のある方は、『なぜ世界は存在しないのか』(講談社選書メチエ)をご覧下さい)。

しかし、「自他不二」では全体主義的な誤解を生みそうです。

より適切な言葉は「不二不一」、「不異不一」かと思います。

二つでもない、異なるのでもない、しかし、「一つでもない」ということです。

坐禅の姿勢である結跏趺坐をベースにして、このことをわかりやすく説かれるのが、鈴木俊隆老師です。



「この姿勢(結跏趺坐)は、二つではない、一つでもないという『二元』性の『一者』性を表わしています。これはもっとも大事な教えです。二つではない、一つでもない、ということです。もし私たちの心と身体が二つである、と考えると、それは間違いです。私たちの心と身体は、二つでありながら一つ、なのです。(略)実際の人生の経験に照らしてみましょう。私たちの人生は、複数であるばかりでなく、単一です。私たちは、互いに支えあう、と同時に自立しています。」

(鈴木俊隆『禅マインド ビギナーズ・マインド』38頁)



支え合う、関係し合うということは、様々な存在が一つのものとしてあることを示しますが、様々なものがそれぞれ個別的に存在していることが前提となっています。

この個別性を否定してしまうと、安易に全体主義へと行ってしまうように思います。

「不二不一」の概念は、二祖僧璨によって著されたと「される」『信心銘』の記述が元になっているようです。



「真如法界――そこには自他の対立はない。対立がないと云うのは、すべてが一色で塗り潰されたと云うことでない。自は自、他は他で、そのまま不二である。(略)一と云わずに不二と云うところに意味がある。」

鈴木大拙『禅の思想』50~51頁)



しかし、往々にして、「すべてが一色で塗り潰された」と捉えるのが禅だという勘違いをされやすいように思います。

このような勘違いが、禅と全体主義を結びつける一つの要因になっているように思います。

しかし、そもそも、禅の思想や実践自体、個性を尊重し、強く個々人の自律を促すものでした。

【参考】
○【参考資料】仏教・禅は自由を説く
https://zazenfukyu.hatenablog.com/entry/2020/01/27/182048

なぜ、それがおかしな方向に行ってしまったのか。

ユング派の心理療法家であり、仏教にも造詣の深い河合隼雄先生の次のお話しが参考になるように思います。



「日本人の特徴として、『厳しい』、『苦しい』練習ほど素晴らしいという固定観念があるように思う。これは一理あるわけで、日本の芸や道と言われているものは、自我を消滅させることによって、そこにユングの言うような意味の自己を感知させる、という方向をとってきた。そのためには、まず『型』からはいることが必要で、型を完成させるために自我を棄ててゆくと、自己が顕現してきたとき、その型は――古来からの知恵を反映して――自己の容器として適切なものであるために、そこにはじめて深い個性を伴った芸ができあがってくる。これはこれで素晴らしいひとつの方法が確立されている。

しかし、この方法を一歩誤ると、教える側は教えられる者を苦しめ、その自我を破壊することにのみ力をそそぐことになり、しかも、それが西洋のスポーツや芸術などの場合は、特に日本的な『型』を重視してできあがってきたものでないだけに、それは、あまり効果をあげないどころか、有害にすらなってくる。しかも、そこには教える者と教えられる者の差を絶対化してしまうだけに、悪くすると、妙な順位ができて上の者は下の者を苦しめるだけという類のヒエラルキーができあがってきてしまう。日本の家元式のシステムが悪く運用されると、このようになる。」

河合隼雄『〈心理療法コレクションⅣ〉心理療法序説』274~275頁)


 
この記述を見ると、禅の修行についても、それまでもっていた自我を否定した後に、何らかの理想的な個性を確立するようなものと捉えることができそうです。

けれども、教える方が、「個性の確立」という目的を見失ってしまうと、当たり前の話ですが、おかしな方向にいくということでしょうか。

実際、禅の修行の場においては、上にいる指導者が下にいる学人に対し、頭ごなしの指導をすることが見られるようです。



「我々、禅の世界というのは、老師方は自分が体究練磨、苦労に苦労を重ねて体験しますと、もうそれが万人に通用するという感じで、『お前も苦労しろ、お前も苦労しろ』となるのです。『どうだ、わかったか』『まだだめです』と言うと『それは苦労が足らんのだ!』で終わり。それでやれる人もいますが、中にはついていけない人も出てきます。禅の世界というのは、大勢の中から一人か半人できればいいんだ、というわけです。」

横田南嶺・熊野宏昭「禅僧と医師、瞑想スクランブル」『サンガジャパンvol.32』51頁)



「自我」を否定した後、どのような人格を入れ込むかについて、家元制度的な上下関係を前提とすると、上にいる者の在り方によって左右されることになります。

そのようなことからすると、禅の修行というものも、容易にカルト集団的な洗脳の問題が生じうる可能性を否定できないようにも思われます。





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https://zazenfukyu.hatenablog.com/entry/2020/08/10/053529

テーラワーダにおけるカースト制の許容ほか――上座仏教の基礎知識(2)

上座仏教の基礎知識の2回目です。
1回目は次のとおり。

現代テーラワーダ新宗教ほか――上座仏教の基礎知識(1)
https://zazenfukyu.hatenablog.com/entry/2020/08/18/040541?_ga=2.222862173.777479059.1597954280-961353732.1597260876

5 テーラワーダにおけるカースト制の許容

インドにおけるカースト制に対しては、釈尊は、これを否定したという趣旨のことがよくいわれますが、上座仏教(テーラワーダ)の歴史を見ていくと、実際には、カースト制を許容していたことがわかります。

たとえば、王がある一定の地域をサンガに寄進する場合があり、その場合は、サンガが当該土地の住民を支配し、その支配においては、カースト制による差別があったとされます。



「『僧院の村』制度は、スリランカで今なお完全になくなったわけではない。僧院は村全体、あるいはその一部を所有し、そこの住民を使役させる権利を所有しているだろう。村人たちは僧院の農地を耕作し、また物品を運搬したり衣服を洗濯したり、宗教的な行事の際に音楽を演奏するなど、それぞれのカーストに応じてその他、いくつもの奉仕をしなければならない(最近では、奉仕という言葉は和らげられ、労働に対しては現金が支払われることもある)。このような封建的な奉仕の提供に関する詳細な情報は、一六世紀以降についてだけは得られるのであるが、おそらく拘束労働に等しい制度の下で、古代スリランカの多数の村人は『僧院の世話人』として働いていたであろう。」

(リチャード・ゴンブリッチ(森祖道・山川一成訳)『インド・スリランカ上座仏教史』272頁)



『インド・スリランカ上座仏教史』が発刊された1988年においても状況は変わっていないということですが、2000年代に入っても、スリランカの上座仏教におけるカースト制は存続し、しかも強固であるといわれます。



スリランカは大変カースト制の厳しい教団組織であります。一番高いカーストじゃないとスリランカの、そのタイから持ってきたサンガと言いますか、サイアム・ニカーヤ(シャム・ニカーヤ)と呼んでいるのですが、ここは最上位のカーストじゃないとサーマネラ(得度)できません。」

(中村尚司「報告Ⅰ 中村尚司「東南アジア上座仏教の現状と課題」龍谷大学アジア仏教文化研究センター『2010年度 第1回 国内シンポジウムプロシーディングス「アジア仏教の現在」』6頁)



そもそも出家できるか否かという次元で、スリランカの上座仏教教団では、カースト制に基づく差別があるとされます。

このような教団組織内におけるカースト制に基づく差別は古くからあったそうです。



「農民社会の地主としてのサンガの生活は、本来の理想から一層逸脱したものとなっている。それはカーストによる組織化である。(略)
 一七五三年、少なくとも二人の低カーストの僧がタイから来た僧団によってキャンディーで得度を受けたが、その後数年も経たずして、キャンディーの本山は、シンハラの全人口のおよそ半分を占める支配的な土地所有カーストに属さない者の得度を拒否するにいたった。このことは仏教精神に反すると認めながらも、彼らは今日までこの制限を維持してきた。(略)別の場合には他の特定のカーストに対して入門を制限しており、あらゆるカーストの子弟の入門を許しているのは本当に小数に過ぎないのである。」

(リチャード・ゴンブリッチ(森祖道・山川一成訳)『インド・スリランカ上座仏教史』278頁)



また、教義についても、所属カーストに応じて相違があることもあるそうで、ここは興味深いものがあります。

日本の上座仏教では、スリランカ出身のアルボムッレ・スマナサーラ長老が強い影響をもっていますが、長老がどのカーストを前提としているかも気になるところです。


 
「少し注目しましたのは、そのカースト制度、大変厳しい。それで多分、今日は見えてないのですが、短大の能仁先生は仏教がスリランカに伝わる前の頃からヴァルナ制を仏教では認めていてというふうな可能性も示唆されています。同じ仏教徒言っても、バラモンとクシャトリアの仏教と、それからヴァイシャとシュードラの仏教はちょっと説く内容が違っていてもいいのだというような話があるということです。」

(中村尚司「報告Ⅰ 中村尚司「東南アジア上座仏教の現状と課題」龍谷大学アジア仏教文化研究センター『2010年度 第1回 国内シンポジウムプロシーディングス「アジア仏教の現在」』8頁)



上座仏教において、このようなカースト制の許容がなされた背景について、ゴンブリッチ先生は次のように分析します。



「彼(釈尊)のことをある種の社会主義者だとするのは、時代錯誤も甚だしい。彼は決して社会的不平等に反対したのではなく、ただそのことが救いとは無関係だと宣べたまでである。彼は決してカースト制度を廃止しようとしたわけでも、奴隷制度をなくそうとしたわけでもなかった。例えば、有名な説法である『沙門果経』(略)が、奴隷がその隷属を逃れて教団に入ることの実際的な利益を強調する。その一方で、現実には逃亡奴隷の入団は許されていなかった。その上、古代インドでは教団そのものの内部には、カーストも他の形態の社会階層もなかったのだが、やがて教団それ自体(在俗の)奴隷を所有するようになった。」

(リチャード・ゴンブリッチ(森祖道・山川一成訳)『インド・スリランカ上座仏教史』52~273頁)



カースト制度を持つ社会と対立すれば、平穏な環境で「修行」ができないということでしょうか。

社会的な不合理に対する妥協は日本の仏教徒にも広く認められますが、仏教の発生時点から、このような側面があったように思われます。

【参考】
戦争と禅と日本国憲法
https://zazenfukyu.hatenablog.com/entry/2020/08/15/155159?_ga=2.213398610.777479059.1597954280-961353732.1597260876



それが仏教というものの本質的な性格であることについては、次の魚川祐司先生のお話がわかりやすいと思います。



「解脱・涅槃の境地というのは、世俗的な意味での善や悪はともに捨て去ったところにあるものだから、そこから俗世における善悪の基準、即ち倫理規範を直接的に導くことは不可能だ。(略)

世間(loka)の中での日常的な振る舞いに関しては、素朴な功利主義と(略)一般社会からの非難を受けないことを基準として善悪を定め、そうすることで、信との世俗的な意味での幸福と、社会の中での生き残りを、仏教は担保してきたわけである。(略)ゴータマ・ブッダの仏教が第一に目標としていたところは『無善無悪』の涅槃である以上、『それ以外のことについては社会で軋轢を起こさぬ程度に適当に』という姿勢であることに、宗教として大きな問題はないだろうと私は思う。仏教が独自の固定的な倫理基準を有して社会を厳しく批判するような勢力であれば、無産者の集団が人々の好意に依存した援助に基づいて、『善も悪も捨て去った』境地を追求することを許されるという、改めて考えれば奇跡的な制度は、二千五百年間も維持され得なかっただろうと考えるからである。」

(魚川祐司『仏教思想のゼロポイント 「悟り」とは何か』76~77頁)



一般社会から非難を受けないようにするために、一般社会の価値観、すなわちカースト制を取り込むうちに、教団組織自体がカースト制を前提とするものになってしまったということでしょうか。



6 テーラワーダにおける出家主義



時折、「悟り」に至るためには、出家する必要があるかどうかという議論がされたりすることがありますが、上座仏教の一般的な立場からすれば、出家をしなければ、上座仏教的な意味での「悟り」には至らないとされます。

スリランカが英国の支配を受けた後に行われたキリスト教の教化に対し、公開討論により論戦を挑み、上座仏教を守ったモーホッティヴァッテ・グナーナンダと共に、上座仏教のお教義の保守のための冊子を印刷した「学識豊かで広く伝統的な見識を持つ」ヒッカドゥヴェ・スマンガラは、次のように語ったとされます。



「スマンガラは、一九〇四年、国王エドワード七世に対してセイロンサンガの記念式典を呼び掛けた数人の高名な僧の一人であったが、その中で彼らは『ブッダの教法により、在家者はこの宗教を分担するものではなく、サンガのみが地上で現在唯一の仏教代表者である』と書いている。」

(リチャード・ゴンブリッチ(森祖道・山川一成訳)『インド・スリランカ上座仏教史』306頁)

 

現代の上座仏教の指導者には、在家でも「悟り」を開くことができるという方もいらっしゃいいますが、どうも教義論的な理由というよりも、1800年代から在家信者の活動が活発化し、力を持ってきたので、そのことに対する配慮が必要になったからではないかという気もします。



「神智協会は、一八七五年、ニューヨークにおいて、ブラヴァッキー夫人(Madame Blavatsky)とオルコット大佐(Colonel Olcott)によって創設され(略)た。(略)

一八八〇年五月、ブラヴァッキーとオルコットはセイロンに到着した。二人は三帰依を行ない、五戒を受けて正式な仏教に帰依した。仏教徒にとってこれは全面的な勝利であった。(略)

オルコットは仏旗を考案し、これは世界仏教徒友好協会に採用され、今日広く用いられている。これはブッダの光背を表わす五色でできている。仏旗を作るという発想そのものが、オルコットのアメリカ的背景から出ている。(略)一九〇五年スマンガラは、彼にとって神智学とはヒンドゥー教と同一のものに見える点に抗議して、自ら仏教神智協会を脱会した。(略)オルコットとグナーナンダの関係はさらに悪かった。(略)

グナーナンダの攻撃は、スマンガラの後年の脱会問題と同様、おそらく仏教の指導権が在家者の掌中に落ちた状況に刺激されたものであったろう。なぜなら(布教の上で)真に積極的で効果的だったのは、地方の下部組織を含めた仏教神智協会の在家者部門だったからである。仏教神智協会のこの部門は、オルコットが創設に協力したいくつもの学校を運営していたが、この協力は多分セイロンにおける彼の業績の最も持続的なものであったろう。(略)仏教神智協会学校は、クリケットに至るまで、ミッションスクールをモデルにしたもので、教育は英語で行われ、そこではキリスト教が伝道の中で占めていた立場を、仏教が保持するようになった。(略)

それ以来在家信者の組織は数を増し、キリスト教の組織モデルに倣い続けた。青年仏教協会(YMBA)は一八九八年、カトリックから改宗した一仏教徒により設立されたが、(略)セイロンにおける最も重要な在家仏教組織に発展し、その指導性は今日では全セイロン仏教者会議として知られている。」

(リチャード・ゴンブリッチ(森祖道・山川一成訳)『インド・スリランカ上座仏教史』308~312頁)



長い引用になりましたが、在家の組織が大きくなり、その発言権が強くなると、「在家では悟ることができない」という伝統的な主張も言い難くなるようにも思います。

また、現代の上座仏教の組織の形態がキリスト教を模倣したものであるということにも興味深いものがあります。





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現代テーラワーダは新宗教ほか――上座仏教の基礎知識(1)

禅と並ぶ坐禅等の瞑想の実践のもう一つの雄が上座仏教(テーラワーダ)です。

科学的なエビデンスの揃ってきたマインドフルネスの基礎となったり、釈尊の直説に近いといわれるなど注目されています。

禅との相違点を意識しながら、その基礎知識に触れて行きます。



1 悟りの概念の相違



禅と上座仏教との最大の相違が「悟り」の概念の相違です。

禅では、「自他不二の体認」などといわれます。

これに対し、上座仏教では、「貪瞋痴の滅尽」とされます。



「経典において、『悟り』の境地(略)は、『貪欲の壊滅(略)、瞋恚(しんい)の壊滅(略)、愚痴の壊滅(略)』と定義されるのが常である。」

(魚川祐司『仏教思想のゼロポイント 「悟り」とは何か』42頁)



禅の実践をしている人の中でも、この種の煩悩の滅尽が実践の目的だと勘違いしている人も少なくありませんが、禅の場合は、「煩悩即菩提」であり、煩悩をなくそうという発想自体が間違っていると捉えることになります。



「『一念不生全体現、』(略)――一念と云うは、可愛い――憎い――ほしい―――おしい――と云う、それであります。かかる念慮は何人にも胸中に生じます。それを生じさしてならぬと云うのであります。従来、心と行うものは死物ではありません活物であります。故に如何にしても念慮の生じない様には出来ません。(略)種々様々な念慮の生ずるのが、心の本質であります。一応字面の上のみを見ますると無念無想になれと云う様でありますが、否、然らずであります。可愛なら可愛の一念の外に余念を生ぜず、憎いなら憎いの他に邪念を生ぜず、ほしい――おしい――そのまま、是に別の念慮を混入せず、そのものそれ三昧になることであります。それ三昧になりきった処に心の全体が現出致します。

元より本性は無病健全である。然るに可愛いと云うそれを煩悩と思い、憎いと云うそれを煩悩と思い、ほしい、おしい、と云うそれを煩悩として、それらの一切を断じよう、除こう、払おうとする、ぞれぞれが抑々(そもそも)病気の上の病気である。煩悩即菩提であると云うことを知らずして是等の煩悩病を全快させんが為に頻りに真如を求むるが、是又大なる迷いである。」

(菅原時保『碧巌録講演(其二)』56~59頁)

「『無念無想』というと、ぼんやりして何も考えないことがいいなどと思っているのは大間違い。無念というのはその一念になりきること。もし無念ということが、あるいは無念無想ということが何も思わないことであるならば、アメリカで流行っているようにLSDでも飲んでいればいい。(略)

生き生きと活気凜々、充実しきった境地。ちょうどプロペラが極度に回転していると、動かないように見える。ああいう状態を無念無想というのである。それを無念無想ということを聞き違えて、何も思わず、念を起こさないように、自分の念を抑圧する。鈴木正三も、(略)そんなことは何の効もない。おれのところの禅は念起こし坐禅。わしの禅は大きな念を起こすのだ、と教えている。」

(大森曹玄『驢鞍橋講話』57~58頁)



脳の生理学的な変化でいうと、上座仏教の瞑想の場合は、扁桃体の活動を恒常的に低下させるようにして、統合失調症の一症状として見られるような情動反応の低下を狙うもの、禅(白隠禅であるところの現代日本臨済禅)の場合は、扁桃体の活動を極端に低下させ、一次的に、統合失調症の症状として見られるような自我障害を起こすことを狙うものといえるように思います。

【参考】
扁桃体の活動の低下による弊害――坐禅の生理学的効果(2)
https://zazenfukyu.hatenablog.com/entry/2020/07/18/222455?_ga=2.8932918.246856372.1597608205-541515618.1562325655

呼吸回数の減少によるその他の効果――坐禅の生理学的効果(4)
https://zazenfukyu.hatenablog.com/entry/2020/07/25/094125?_ga=2.18342457.1042450201.1597666207-961353732.1597260876



上座仏教が「自他不二の体認」の類を目指さないことは、上座仏教の実践をされている方からも強く主張されるところです。



「最近日本でも不二一元論(advaita vedanta)系統の精神世界の教えが、欧米経由で入ってきています。『仏教は本来不二一元論だ』と主張している人もいます。ヒンドゥー教でありながら大乗仏教の空や如来蔵思想などの影響がみられ、『仮面の仏教徒』といわれたシャンカラの教えですから、似ているのは当たり前だと思います。本来の仏教をどう解釈するかにもよりますが、そのような意見に対して疑問を感じずに受けてしまう理由は、無我と真我の違いの理解の不足と、大乗仏教における空や如来蔵思想とアドヴァイタ哲学の真我との違いを分別できないことだと思います。単純に『全ての真理は同じだ』などと言うことは安易です。きちんとテーラワーダ仏教側からの意見を言うべきだと思っています。」

(西澤卓美「厳格に伝えられるテーラワーダの伝統と瞑想の文化」箕輪顕量監修『別冊サンガジャパン①実践!仏教瞑想ガイドブック』51頁)



2 瞑想手法の違い



坐禅の手法は、臨済禅における数息観などといった集中系のものと、曹洞禅における只管打坐があります。

【参考】
「調心」その問題性(1)――坐禅の生理学的効果(6)
https://zazenfukyu.hatenablog.com/entry/2020/07/31/225412?_ga=2.126873101.1042450201.1597666207-961353732.1597260876

上座仏教の場合は、呼吸等の特定の身体感覚に意識を集中するサマタ瞑想のほか、自分の心の状態を観察するヴィパッサナー瞑想の二つに分かれ、初期段階ではサマタ瞑想を行ない、ヴィパッサナー瞑想に移行するという手法をとります。



「呼吸の観察を続けると、マインドフルネスはいっそう堅固となり、こころはいろいろなことがらに対して繊細となります。呼吸の中心にこころが集結し、意識は外界から遠のき、外に向かって働きかけないようになるのです。(略)

これがサマタ瞑想の目指す精神集中、ヨーガや仏教で『三昧』(samadhi)と呼ばれる状態です。この状態では活発なイメージや幻覚体験といった意識変容状態が生じることもあり、禅ではこれを『魔境』と称して注意を促すことはすでに述べました。(略)

仏教では(略)こころの平静(equanimity)と呼び、精神的に安定した状態を指します。しかしアーチャン・チャー師はこれだけではまだ不十分だと断言します。なぜなら真のマインドフルネスは単なるこころの落ち着きだけではなく、絶えず『開放的で、とらわれのないこころの状態』の確立を目指すからです。(略)

単にマインドフルネスから生じる精神統一状態に満足するのではなく、それを活かして深い自己理解を図り、とらわれのない『今ここ』の生活を送る。これが真のマインドフルネスである、とアーチャン・チャー師は言うのです。」

(大谷彰『マインドフルネス入門講義』26~27頁)




これも以前取り上げましたが、一般的に、サマタ瞑想だけでは問題があると考えられているようです。



「『幸福になるために瞑想をはじめたはずなのに、かえって苦しみが増えてしまった気がするのだけど、どうしたらいいでしょうか』と言う人が、私の瞑想会や面談会にいらっしゃることはよくあります。そういう方々を見ていると、やはり『過度の集中』が、身心のバランスを崩す主要因になっているように思われる。(略)

集中というのは流動し変化する現象を敢えてデフォルメし、それを固定的な対象とすることで成り立つものですから、そこにハマってしまうと、イキイキとした現実に対応する機動性や柔軟性が失われてしまう。

そして、この集中によるデフォルメされた認知から派生するもう一つの大きな問題は、それが心理学で言うところの『解離』の症状や、『回避』の行動をもたらすことです。私が蚊に刺されたかゆみが全く平気になるようなトランス状態に入ったのに、にもかかわらずその騒音にどんどん過敏になっていったように、現実に生じている事態からどんどん遊離していって、その平安な状態を乱すものに対して、嫌悪の情を抱くようになるんですね。

実際、私がお話しした『瞑想難民』の方にも、集中の境地にとっては邪魔になる思考や想念を悪者に見立てて、そこから離れようとしてしまい、結果として感情が乏しくなってしまったり、さらには人間関係も上手く結べなくなってしまったりする方が何人もいらっしゃいました。ほとんど病的な解離症状に陥っているわけですけれども、瞑想の場合に厄介なのは、指導者によっては、そういう状態を『瞑想が進んでいる証』として、肯定してしまったりするわけです。それでますます、困難な自分の現状から逃げるために回避行動としての瞑想に没頭し、さらに状況を悪化させていくというスパイラルに落ちていく。」

(プラユキ発言。プラユキ・ナラテボー 魚川祐司『悟らなくたっていいじゃないか』137~138頁)

【参考】
「調心」その問題性(3)――坐禅の生理学的効果(8)
https://zazenfukyu.hatenablog.com/entry/2020/08/06/053426



3 経典重視と輪廻思想



禅では、「不立文字」、「教外別伝」という観点から、「一般的には」経典を重視しないものとされます。

しかし、上座仏教では、経典を極めて重視します。

原始仏典の経典には、輪廻説が出てくることもあり、いわゆる六道輪廻が本気で信じられています。



テーラワーダ仏教釈尊の教えに新しく追加せず、教えを取り除かず、そのままに伝えていくことを第一としています。現在までの六回に及ぶ仏典結集においてパーリ三蔵、註釈などの正統性を大長老たちが確認して、今日まで伝えられてきたものです。現代科学は時間がたつにつれて進歩していきますが、テーラワーダ仏教の教えは釈尊が説いた教えをそのまま伝えることを第一として、地域や時代によって変えていくことはありません。完璧に説かれた釈尊の教えは、変えることによって進歩することはなく、壊れると理解されているからです。(略)

ミャンマーには『国家サンガ大長老会(略)』というものがあります。その中で(略)二〇一一年に非法とされた教えがあります。(略)現在業論仏教(略)で、過去生、来世の輪廻を否定し、欲界、色界、無色界からなる三十一界説を否定して、現在の業のみを認めるものです。(略)

現在業仏教はテーラワーダ仏教の伝統的な立場からは問題外です。過去生や来世を否定し、六道輪廻否定するなど、現代の日本の仏教学者に多くみられる意見と共通するものがありますが、特に深い瞑想体験や経典理解から出たとは思えない説です。」

(西澤卓美「厳格に伝えられるテーラワーダの伝統と瞑想の文化」箕輪顕量監修『別冊サンガジャパン①実践!仏教瞑想ガイドブック』49~50頁)



禅では、一般的に輪廻思想が否定されています。

しかし、上座仏教では、輪廻思想が教義上の必要不可欠の部分を占めています。

なぜ、「貪瞋痴の滅尽」を目指すかといえば、無限に続く輪廻を止めることであり、このことを称して上座仏教では「解脱」といいます。



とはいえ、なぜ、輪廻から解脱する必要があるのか?という問いは立ててよいように思われます。

並みの感覚では、死を避けるべき理由は、そこで人生が終わってしまうからであり、どんな形であれ、人生が続くのであれば、それはそれでよいというように思われるからです。

ですから、「輪廻するならそれはそれでよいではないか」という人には、余り関係がないことになります。



「輪廻は苦ではないと考える人にとって、仏教の教えは不必要で意味がないものと映るのです。梵天観請の話で、『世の中には釈迦の教えを聞いても理解できない人がいる』という言葉は、それを意味しています。」

(佐々木発言。佐々木閑宮崎哲弥『ごまかさない仏教 仏・法・僧から問い直す』158頁)



輪廻から抜けたいと思う人はおそらく大変不幸な人です。

いわゆる四苦八苦の「苦」を「苦しみ」という普通の日本語の語義に従って解釈するとイメージがしやすいかと思います。

たとえば、いじめに遭っている人とか、DVに遭っている人などは、そのような状態が永遠に続いて欲しいとは思わないでしょう。

そのような人の中からは、日常の努力ではその状態から抜け出すことができないことから、人生の継続を強引に終わらせる、すなわち、自死をしようという人が出てきてもおかしくはありません。

輪廻から抜けたいと思う人は、人生をそのような苦しみそのものだと思っているのです。

しかし、圧倒的多数の人は、人生をそのようには見ていません。

時に苦しいことはあるかも知れないけれども総じてよいものだと思っている。

だからこそ、圧倒的多数の人は、輪廻という形で、人生が永遠に続くならそちらの方がよいと思う。

インドで、仏教が廃れ、バラモン教に由来するヒンドゥー教が力を持った理由はそんなところにあるようにも思います。



「(バラモン教における)カルマン・再生の理論と、生存の反復継続を楽しく受け入れ喜んで承諾するという態度とを結合させることは、一貫性に関する論理上の問題を引き起こすことはないであろう。結局のところ、人生は苦より楽の方が多いということになる。実際、我々の乏しい証拠から判断すると、初期ヴェーダ時代における人生の評価はそれほど否定的なものではなかったようであるし、また、はるかに後代の中世ヒンドゥー教では、人生は苦であるという提言は人々の注意をほとんど惹かなかったようである。」

(リチャード・ゴンブリッチ『インド・スリランカ上座仏教史』82頁)



以前の記事でも少し取り上げましたが、一般的な日本人の感覚では信じ難いことかと思いますが、上座仏教の実践をしている人は、本気で輪廻を信じています。

たとえば、精神科医をしているような方でも、本気で死後の輪廻や解脱について語り、うっかり、否定する発言に対しては、「死後の輪廻を否定することも論証できないのだから、死後の輪廻は否定できないはずだ。」などといった非難を受けたこともありました。



マインドフルネスや瞑想の世界では、心理学的・生理学的効果を目ざす「臨床マインドフルネス」よりも、仏教の実践として行う「ピュアマインドフルネス」の方がありがたいというような風潮もあります。



「世俗的マインドフルネスは今よりももっと仏教的であってもいいのではないでしょうか?それは、世俗的マインドフルネスを仏教に逆戻りさせることではなく、むしろ今いるところからさらに先へと進むんで行くためにこそ必要なことだと思うのです。」

(藤田一照「マインドフルネスは仏教か?」『大法輪第87巻第3号』97~98頁)



しかし、仏教といっても非常に幅が広く、治療者と患者という上下関係を前提として、マインドフルネスという治療法の名の下に、どのような観念が植え付けられるかわからない点もあります。

特に、輪廻思想などという観念が植え付けられることが本当に望ましいといえるのでしょうか。

治療の名目で布教活動がなされる事態は望ましいものとはいえないように思います。



4 現代テーラワーダ新宗教



現在、上座仏教の瞑想指導者の方は多数おりますし、いずれの立場も、上座仏教の方が禅などよりも、より釈尊の直説に近い伝統を踏まえていることを強調します。

その背景には、原始仏典を踏まえた実践をしていることが挙げられ、経典重視の理由の一つはそこにもあります。

とはいえ、上座仏教においても、「悟り」の境地は言葉では説明できないものともされています。

たとえば、高名な上座仏教の長老であるアーチャン・チャーは次のように言います。



「体験は経典の学習を超えたものです。経典の学習から、これが無明が生じる体験だ、これが行を感じるということだ(略)、などということを学ぶことはできません。」

(アーチャン・チャー『手放す生き方』44頁)



経典だけから学ぶことはできないということからすると、どのような場合に、「悟り」の状態になったと判定することになるのかが問題となります。

素人的に判定方法として思いつくのは、釈尊から連綿と師弟関係が引き継がれており、師が釈尊と同様の体験をしていることは、師弟関係の引継ぎのプロセスが保証するということかと思います。

禅の場合は、このような発想から「伝法」が重視されますし、上座仏教の実践をしていらっしゃる方もどうもそのようなイメージを持っているのではないかと思います。

しかし、禅の伝法も、その少なくない部分は虚構です。

【参考】
唐代南宗禅
https://zazenfukyu.hatenablog.com/entry/2020/08/13/054615?_ga=2.29753663.1042450201.1597666207-961353732.1597260876
伝法の虚構性(その1)
https://zazenfukyu.hatenablog.com/entry/2019/08/27/180623?_ga=2.193905965.1842888001.1597260876-961353732.1597260876
伝法の虚構性(その2)
https://zazenfukyu.hatenablog.com/entry/2019/08/28/120322?_ga=2.201179310.1842888001.1597260876-961353732.1597260876

そして、現在の上座仏教においては、そもそも伝法的な関係は存在しないということをご存じの方は、上座仏教の実践をされている方の中でも少ないのではないかと思います。

現在の上座仏教は、インドでは廃れ、スリランカに残っていたものが諸国に広まっていったものとされていますが、かつてのスリランカにおける上座仏教の実情は次のようなものであったとされます。



「一七五三年以前、セイロンにはガニンナーンセー(gaininnāse)と呼ばれる男性たちがいただけで、真正の僧は残っていなかった。彼らは最初得度を受けてはいたが、しかし白衣(つまり在家者の衣服)を纏い、必ずしも独身ではなく、僧院に住み、自分の家庭に財産を有していた。(略)

このように、一七五三年以前の状況は、『サンガに所属する村々では、善き僧の道徳とは、本来的にただ自分たちの妻子を養うことだけにあった』という一一六四年以前の状況を復元したようなものであったらしい。」

(リチャード・ゴンブリッチ(森祖道・山川一成訳)『インド・スリランカ上座仏教史』278~279頁)



「真正の僧は残っていなかった」、すなわち、悟った僧侶は、1700年代にはいなかったということのようです。

また、現在の上座仏教では、厳格な出家主義が取られ、妻帯は考えられないとされているところ、「善き僧の道徳とは、本来的にただ自分たちの妻子を養うことだけにあった」とされていることも注目すべきでしょう。

では、現在の上座仏教が、どのようなプロセスで成立して行ったかについて、ゴンブリッチ先生は次のように述べます。



「(私の意見では)王たちはサンガの分裂と腐敗の原因を作っておきながら、自らの行動をそのようには見なしていなかったので、サンガの浄化によってアソーカ王を見習おうとしていた。(略)

王室によるサンガ浄化、および授戒伝統の移入と復活は、サンガ復興の正式な状況を示している。しかしまた仏教の復興は常に経典知識の復興を基礎としている。ところでキャリサーズはこのような復興、すなわち過去一〇〇年間にわたりスリランカにおいて勢いを増大させて来た林住修行運動について一冊の立派な書物を公刊した。彼は綿密な瞑想実践でさえ、おそらく書き表された文書資料に基づいて復活したのであって、師から弟子へと絶えざる相承の中で承け継がれてきたものではない点を論証しているのである。」

(リチャード・ゴンブリッチ前掲書279~281頁)



歴史的には、現在の上座仏教は、いったん「真正の僧侶」がいなくなってしまった後、王室が仏教を再考させるために働きかけて、当時の人たちが経典等の文書資料に基づいて勉強し直したものということのようです。

ですから、「師から弟子へと絶えざる相承の中で承け継がれてきたものではない」わけです。

現代的に言うと、別に仏教の特別な実践をしていたわけではない人が、仏典を読んで、それに基づいて仏教系の新宗教を作るのと同じことでしょう。

ですから、現在の上座仏教は原始仏典をベースにした新宗教といえるかと思います。

体験ではなく、経典を重視する理由も現在の上座仏教のこのような成立経緯による点も大きいのではないかと思います。

上座仏教の長老の間で、誰が悟っているかについて、争いがある理由も、経典ベースで、実際に体験している者がいなかったことも大きいのではないかとも思えます。



「コーンフィールドさんは、『アーチャン・チャーとマハーシ・サヤドー(マハーシ師)は、ともに深く悟った人だとみなされていたけれども、彼らは悟りの内容やそれを得る方法に関して、全く意見が相容れなかった。実際のところ、彼らは互いに、相手のことを悟りに至る真の道を説いていないと信じていた』と書いています。

こうしたことは、チャー師とマハーシ師のあいだに限ったことではなくて、仏教の実践の世界に自ら身を投じて、その実態を広く見聞した経験のある人なら、誰でも接したことのある現実ではないでしょうか。」

(魚川祐司発言。プラユキ・ナラテボー 魚川祐司『悟らなくたっていいじゃないか』53頁)



引用文からも想像が付くかと思いますが、アーチャン・チャーとマハーシ・サヤドーも高名な上座仏教の瞑想指導者であり、彼らの考え方に基づくとされる実践をしている上座仏教の実践者の方も少なくないように思うのですが、その相互間やそれ以外の長老の間でも悟っているか否かについて、争いが生じるのは、体験を言葉では説明できないところで、仏典をベースに実践をせざるを得なかったことに由来するのではないかと思います。

ちなみに、上座仏教で実際に悟っていた人がどの程度いたのかや、悟っていた「とされる」人の実際の振る舞いについては、ゴンブリッチ先生の次の記述も参考になります。



「教えが衰退に向かうという見解は、すでに見てきたように、ブッダ自身まで遡る。スリランカには、この国で悟りを開いた最後の人物は紀元前一世紀に亡くなったという周知の伝承がある。一方、パーリ注釈書および年代記は共に、古代セイロンには悟りを開いた僧が多数いたと述べている。人々がいかにして自身の聖者たることの主張を試みたか、あるいは競い合ったかについての逸話すら残っている。(略)聖者たちは『明らかに……プライドとか顕示欲などの些細な欠点がまったくないことを期待されてはいなかった』が、『深い信心と、厳格な戒律遵守に対する評判は得ていなければならない』。」

(リチャード・ゴンブリッチ前掲書282頁)



当たり前というか想像通りというような気がしないでもないですが、「スリランカには、この国で悟りを開いた最後の人物は紀元前一世紀に亡くなったという周知の伝承がある。」といった記述は、そんなものがあるのかと思われますし、また、「人々がいかにして自身の聖者たることの主張を試みたか、あるいは競い合ったか」という記述も、煩悩が滅尽しているはずなのに、なぜ、そのようなことになるのか、というように思われます。

現代でも、この種の例は少なくないようです。

たとえば、上座仏教の実践をしている私の知人には、瞑想指導者の方が大きな瓶のコーラをがぶ飲みしているのを見て幻滅したという方がいましたし、また、某上座仏教系の団体の事務を担当していた方の話によると、その団体の会議では長老とされる方々がそれぞれ好き勝手な意見を言ってまとまらなくて困ることがあったとのことでした。

魚川祐司先生は、上座仏教の瞑想指導者の言行不一致について、注意するようにおっしゃいます。



「『私が言うとおりに実践すれば、全て上手くできますよ』といったことを、瞑想指導者が言葉の上では主張しているのだけれども、ご本人の現実の振る舞いにおいては、その理想が言葉のとおりにまるで実現できていない、といった事例を、私はたくさん見てきました。『瞑想の先生を選ぶ際には、その先生の『発言』だけではなく、その人の『為人』、つまり本人の現実の振る舞いを、よく観察して判断してください』と私が強調するのには、そういった背景もあるわけです。

たしかに、『伝説上のブッダ』は完璧ですし、そのパーフェクトなブッダのヴィジョンを胸に抱いて、修行に励むことも大切です。ただ、現実には『正しくて完璧な瞑想法」が一つに定まっているわけではないし、それで完璧になった個人が私たちの目の前にいるわけでもありません。(略)世界的に認められる高僧であったマハーシ師とチャー師でさえ、互いに意見は相容れなかったわけですから。にもかかわらず、そこでこの現実を認められずに、『正しくて完璧な瞑想法がただ一つあるはずだ。それを実践すれば何もかもが完璧に上手くいくはずで、そうならないとすれば、方法が間違っているか、あるいは私のやり方が悪いのだ』と考えてしまうと、瞑想の実践が、どんどん苦しくなってしまうと思うんです。」

(魚川祐司発言。プラユキ・ナラテボー 魚川祐司『悟らなくたっていいじゃないか』215~216頁)



敢えて親切で言えば、現在の上座仏教は決して伝統的なものでもありませんし、釈尊のした体験を保証するものではありません。

保証されていることは、「目の前にいる瞑想指導者程度の人間にはなれる可能性がある」ことではないでしょうか。

この点は、禅でも同じかと思います。

仮に、実践を始められるのであれば、「目の前にいる瞑想指導者」がどの程度実力があるのかなどについてきちんと情報を収集し、検討されるのが大切なのかなと思います。





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