坐禅普及

主旨は慈悲。行は坐禅。

呼吸回数の減少によるその他の効果――坐禅の生理学的効果(4)

坐禅の生理学的な効果として、既に呼吸回数の減少による「扁桃体活動の低下」について触れました。



扁桃体の活動の低下――坐禅の生理学的効果(1) - 坐禅普及
扁桃体の活動の低下による弊害――坐禅の生理学的効果(2) - 坐禅普及



本稿では、坐禅の際の呼吸回数の減少による生理的効果に関し、1として「自律神経のバランス」について、2として「多幸感の発生」について説明していきたいと思います。



1 自律神経のバランス――坐禅の生理学的効果


 
坐禅の際のゆっくりとした呼吸は、交感神経優位になりがちな自律神経のバランスを取りやすくする効果があるとされています。

この点については、小林弘幸『自律神経を整える「あきらめる」健康法』にわかりやすい説明があります。
順天堂大学医学部教授



「血液循環、呼吸、消化吸収、排泄、免疫、代謝、内分泌などは、すべて恒常性を維持するためのシステムで、そのすべてに自律神経が深くかかわっています。(略)

膨大な長さの血管のすべてに沿って自律神経が走っていて、全身をめぐっている血管の動きをコントロールしているのです。(略)

自律神経のバランスがいいときがもっとも免疫力が高く、体にとっていい状態といえるのです。(略)

自律神経でもっとも大切なのは、交感神経と副交感神経のバランスですが、日々、たくさんのストレスの中で生きている私たちは、ふだん下がり気味の副交感神経を上げてやるしかありません。

若い頃は、副交感神経の働きが高いため、新しい出会いや変化がもたらすストレスによって、一瞬、自律神経が乱れたとしても、すぐに副交感神経がリカバリーしてくれ、いちはやく自律神経の乱れが調整されます。

しかし、男性は30歳、女性は40歳を境として、副交感神経の働きがガクンと下がるため、ほうっておくと自律神経のバランスが乱れたまま、つまり、交感神経が高く副交感神経が低い状態になったまま、なかなかリカバリーされません。

交感神経が優位で、副交感神経が下がったままでいると、血管が収縮し、血流が悪くなり、筋肉に血液がいかなくなるので疲れやすくなり、また脳の血流も悪くなるので、決断力や判断力も鈍くなります。」(8~11頁)



そして、ゆっくりと呼吸することにより、副交感神経が高まり、自律神経のバランスがとれるようになるとされます。



「自律神経のバランスを精神状態で表すと、交感神経は『緊張・興奮』、副交感神経は『余裕・安心』ということができます。

このことは、呼吸と密接に関連しています。(略)

回数でいうと、心に余裕があるときの呼吸は1分間に15~20回程度ですが、焦ったり緊張すると、1分間に20回以上にまで増えます。

こうした呼吸の差は、自律神経のバランスの差になって表れます。

ゆっくりとした深い呼吸をすると、副交感神経が刺激されます。そのため、血管が開き、末梢前血流がよくなります。

そして、血流がよくなると筋肉が弛緩するので、体はリラックスします。これが、緊張したときに呼吸をすると心が落ち着く最大の理由なのです。 

反対に、呼吸が浅くなると、副交感神経が下がり、血流が悪くなります。」

(小林弘幸『自律神経を整える「あきらめる」健康法』71~72頁)



このような効果は広く認められているようであり、ほかの先生方からも指摘があります。


 
「健康法として取り入れる際には下記の点がお勧めです。

1 息を十分吐くことを意識する。

2 お腹を使った腹式呼吸(息を吐く時にお腹を凹ませる)

3 ある一定のリズムでゆっくりくり返す

お腹を使ってゆっくり息を吐くことは自律神経、特に副交感神経というリラックスの神経を刺激することにつながり、ストレスや過労で緊張状態の現代人には有効です。息を十分吐くことで肺に残っている残気量が減るために、空気の出入りも多くなり換気効率が上がります。お腹を凹ましながら息を長く吐くことで腹腔内の血流もよくなる可能性もあります。」

(打越曉「呼吸力を高める」『大法輪』(2020年3月号)111頁)

「現代のストレスの多い情報化社会では、交感神経がぴりぴりと興奮させられることが多く、こちらだけが先に進んでしまい、置いてけ堀をくった副交感神経とのバランスに支障を来すことになります。こうした自律神経のアンバランスが続けば生体機能が滞ることによって不健康な状態がもたらされることは必定です。

一方、呼吸との関係をみると、呼気で副交感神経の働きが良くなり、吸気で交感神経の働きが良くなるという関係があります。ですから、置いてけ堀をくっている副交感神経を引き上げてバランスを回復するためには吐く息に気持ちを込めることが要求されます。東洋の呼吸法として「呼主吸住」ということが挙げられるのはこのためなのです。

帯津良一「おすすめの呼吸法とやってはいけない呼吸法」『大法輪』第87巻第3号(2020年3月)



打越先生も帯津先生も、扁桃体の活動の低下をもたらす、血中二酸化炭素濃度の上昇と結びつく、「吐く息」を重視することも興味深いものがあります。

坐禅の際のゆっくりとした呼吸、特に、しっかりと息を吐くことにより、副交感神経が高まり、自律神経のバランスを取りやすくなることを期待してもよいのかなと思います。

坐禅等の瞑想による生理学的な効果としては、次に述べるような多様なものがあるとされますが、冒頭に挙げた小林先生の著書によれば、自律神経のバランスの欠如が様々な身体的不調を来たすものとされることからすると、これらの多様な効果も、呼吸回数の減少や吐く息の重視がされることにより、低下しがちな副交感神経が高まり、自律神経のバランスが取れるからであるように思えます。



「瞑想によって身体に有益な生理学的指標の変化が引きおこされることを報告した研究は数多く見られる。現在一応の合意が得られていると思われる研究成果を挙げてみると、瞑想は、酸素消費、二酸化炭素産出、呼吸数、心拍数、心拍出量、血圧、体温などを低下させ、皮膚抵抗の増大などを引き起こす働きがあるとまとめることができる。これらの変化は、ひとまとめに『リラクセーション反応』と呼ばれている。」

(安藤治『ZEN心理療法』27~28頁)



2 多幸感の発生



血中二酸化炭素濃度が上昇すると、多幸感が生じるものとされています。



「死に際になると、呼吸状態も悪くなります。呼吸というのは、空気中の酸素をとり入れて、体内にできた炭酸ガスを放出することです。これが充分にできなくなるということは、一つには酸素不足、酸欠状態になること、もう一つは炭酸ガスが排出されずに体内に留まることを意味します。

酸欠状態では、前述のように脳内にモルヒネ様物質が分泌されるといわれています。柔道に絞め技というのがありますが、あれで落とされた人は、異口同音に気持ちよかったといっています。酸欠状態でモルヒネ様物質が出ている証拠だと思います。

一方炭酸ガスには麻酔作用があり、これも死の苦しみを防いでくれます。」

(中村仁一『大往生したけりゃ医療とかかわるな 「自然死のすすめ」』64頁)



この資料の中に出てくる「モルヒネ様物質」が具体的に何かは把握しておりません。もしかしたら、セロトニンあるいはオキシトシンであるかのようにも思われます。具体的な機序には心ももたない点がありますが、血中二酸化炭素濃度の上昇が多幸感をもたらす趣旨の記述として捉える分には問題ないかと思います



3 白隠禅における「悟り」体験(見性体験)の機序



ところで、白隠禅における「悟り」の体験(見性体験)は、「自他不二の体感」とされ、それに幸福感や解放感といった肯定的な感覚が伴うものとされます。



「『悟り』とは、今まで『差別』の世界しか知らなかった自我が、自我を空じて無我に徹したところで、“自他不二・物我一如”という『平等』の世界が根底にあったということに目覚めることである。」

(秋月龍珉『日常の禅語』27頁)

「自己の本性を悟るといっても、べつに今までになかった新しい知識を得ることではなく、いままで後生大事に背負い込んでその重さに耐えかねていた自己という妄想の固まりを放り出して、天地宇宙と一つに融け合った瞬間の体験が悟りだ」

(大森曹玄『参禅入門』241頁)

「その自分、私は夕方、昏鐘頃からの坐が一番よく坐れることを知り、日々その時間を大切に思っており、その日も気持ちよく坐り、いつか無字三昧に入り、時のうつるをも知らずにいました。そこへ直日が入室し、開板をうち、献香した後、経行(禅堂内を坐禅する心で歩くこと)の柝(たく)をうった刹那、たちまち胸の中がからりとして、何もかも輝きわたり、その時は、ああともこうともいうべき言葉もなく、ただ涙がこぼれて、人について堂内を歩いていても、虚空を歩くようで、ああやっと分かったと嬉しくてたまりませんでした。やがて止静になっても、その感激はますますふかく、長香一炷(一本)がすみ、独参の喚鍾がでるのをまちかねて、まっさきに入室し、湘山老師にいきなり、『できました』と申し上げました。それまではいつも『できません』としかいったことのない私が、勢いこんでこういいましたので、老師も、『ふうん、どう見たか』と。私が見処を申し上げると、『そう見まいものでもない』と。その場でいくつかの拶処(問題)を透りました。ここにくわしくは申し上げられませんが、ここで私は佛心の一端を見たのであります。佛心は生を超え死を超えた、無始無終のもの、佛心は天地をつつみ、山も川も草も木も、すべての人も自分と一体であること、しかも、それが自己の上にぴちぴちと生きてはたらいて、見たり聞いたり、言ったり動いたりしているのだという。祖師方の言葉が、そのとおりであるということを知ったのであります。」

(朝比奈宗源『佛心』35~36頁)

「鈴木(大拙)先生の場合、『アメリカに行けばもう参禅はできぬ。渡米前に片付けなくては』というせっぱつまったとき、いわゆる『窮すれば変ず、変ずれば通』じたのである。すなわち臘八摂心中のある晩、参禅を終わって山門を降ってくるとき、月明りの中の松の巨木との区別をまったく忘じ尽した、『自他不二』の、天地と一体の自己を体得したのである。」

(秋月龍珉『世界の禅者―鈴木大拙の生涯―』149頁)



扁桃体の活動の低下は、統合失調症と関連性があると考えられており、統合失調症の症状の一つである自我障害は、自他不二の体感に類似します。

扁桃体の活動の低下による弊害――坐禅の生理学的効果(2)」
https://zazenfukyu.hatenablog.com/entry/2020/07/18/222455?_ga=2.23411774.589133550.1595447636-541515618.1562325655

とはいえ、統合失調症の自我障害については、否定的な感覚が伴うものとされることからすると、これを補うものとして、多幸感の発生が考えられるように思います。

すなわち、白隠禅における「悟り」の内実は、長時間の坐禅等による血中二酸化炭素濃度の上昇とこれに伴うセロトニンの過剰分泌に基づき扁桃体の活動が低下し、(一時的に)統合失調症の自我障害と共に、多幸感が生じる現象と捉えるここともできるのかなと思っています。

いずれにしても、異常心理にすぎず、このようなものを追い求める「修行」の類には疑問があります。

鈴木大拙先生は、その著作の中で「悟り」の体験を重視される記述をされるなどしていましたが、晩年は、このような体験を重視するような禅の実践を批判されていたとのことです。



「日本禅も腐敗の寸前にあるので、指導者を選ぶのには、用心するに越したことはない。『心理禅』と称されているもの(佐藤幸治とその仲間、石黒[法龍]、安谷[白雲]など)は、禅ではない」

鈴木大拙書簡。ステファン・グレイス「鈴木大拙の現代仏教に対する批判」『国際禅研究』(2018年2月)104頁)

鈴木大拙なりの看話禅の心理的なアプローチと説明が見られ、これによって『心理禅批判』という大拙に対する反論が多く生じた。秋月龍珉は次のように説明する。

鈴木先生の今日禅に対するいま一つの批判は、その見性教育心理主義的傾向についてであります。(中略)わたくしは先に、今日の禅の心理主義的傾向は、鈴木先生にもその責任の一端があり、さらにその源流は白隠禅師にまでさかのぼることができると申しました。(略)

特に外国人読者に誤解を与える可能性があるため、秋月は大拙先生に何度もこのことを伝えたようである。これに対して大拙はこれを認めた様子で肯い、「だからわしはこのごろ特に心理的経験だけではダメだ。哲学がなければいかん」(略)と強調したようである。当然のこととして、鈴木大拙にも、時が経つにつれて、思想の変化が現れたと考えられる。」

(竹下ルッジェリ・アンナ「鈴木大拙における白隠禅師の理解」『印度學佛教學研究 67 巻 (2018) 1 号』66頁)





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