坐禅普及

主旨は慈悲。行は坐禅。

摂心会(合宿形式の坐禅会)の危険性(3)

前回の記事は次のとおり

○摂心会(合宿形式の坐禅会)の危険性(2)
https://zazenfukyu.hatenablog.com/entry/2020/09/01/083035

これまで、岡田尊司先生の著書『マインド・コントロール』における、マインド・コントロールの五つの原理のうち、第一の原理(情報入力を制限する、または過剰にする)と第二の原理(脳を慢性疲労状態におき、考える余力を奪う)の二つに触れながら、摂心会やリトリートなどの合宿形式の坐禅会、瞑想会の問題点について取り上げました。

先の二つの原理が、それまであった自我の解体を目指すことに対し、これから触れる原理は、一見、よいもののように思わせて、情報の受け入れをしやすくする、あるいは、情報を受け入れたくさせる原理といえるかと思います。

本記事も、岡田尊司マインド・コントロール』からの引用は、書名を省略し、頁数のみを記載します。



7 第三の原理:確信をもって救済や不朽の意味を約束する



「第一の原理と第二の原理によって、主体性や判断力を低下させ、不安を高め、喜びや楽しみを奪われた状態を作り出す過程が、いわば下準備の段階だと言える。こうして欠乏と不安の極限状態に置いて、精神的な抵抗力や批判的に考える力を奪ったうえで、いよいよ核心に踏み込んでいく。そこで行われるのは、あなたにも救われる道があると語りかけることだ。我々の仲間になって信念を同じくすれば、すばらしい意味をもつ人生が始まると、希望を約束するのだ。

隔離と情報遮断によって、欠乏状態におかれたうえで、希望や愛が与えられると、それはいっそう光り輝くようなものとして体験される。それを与える存在が、強い確信と信念に満ちていればいるほど、その人の目には、救済者として映ることになる。」(230~231頁)



仏教自体が救済の思想です。

世界宗教の一つである上、「伝統的なもの」ということも「希望の約束」の信用性を増す要素かと思います。

ですから、上座仏教でも、禅宗でも、自分たちの教義がいかに伝統的なものであるかを強調します。

上座仏教は、釈尊の直説を踏まえたものであることを強調し、禅宗は、古来より師から弟子へとその教えが引き継がれてきた伝法を強調します。

しかし、いずれも、歴史的事実としては、間違いです。

【参考】
○現代テーラワーダ新宗教ほか――上座仏教の基礎知識(1)
https://zazenfukyu.hatenablog.com/entry/2020/08/18/040541

○伝法の虚構性
https://zazenfukyu.hatenablog.com/entry/2019/08/27/180623



「すばらしい意味をもつ人生が始まる」ということが本当であれば、まだマシなのでしょうが、それならば、虚構では無く、本当のことだけで訴えればよいのに、と思います。

もちろん、小説が虚構であっても価値があるように、虚構であることを前提として、その虚構の価値を語るのであれば問題はありません。

しかし、それならきちんと虚構であるというべきかと思います。

案外、伝法の伝説を本当のことだと思っている人もいて、それは問題だろうと思っています。

しかし、伝統的な、カルト的なものではない仏教教団であっても、虚構を虚構と言わないのは、少しでも信者を増やしたいという下心を感じます。



「すばらしい意味」の内容について言えば、禅や瞑想の実践でなら、「悟り」、「見性」などといったものがそれに当るでしょう。仏教の団体によっては、「世界平和」といった大きな目標を掲げるところもあります。

問題は、「すばらしい意味」のある現象の内実や、その現象の生じる現実的な可能性です。

「悟り」とは、上座仏教でいえば、「貪瞋痴の滅尽」、(白隠)禅でいえば、自他不二の体感であるとされます。

これらの現象は、前者については、扁桃体の活動の低下による情動反応の低下、後者については、扁桃体の活動の極端な低下により自我障害様の状況が生じたものと説明ができるように思われます。

【参考】
扁桃体の活動の低下による弊害――坐禅の生理学的効果(2)
https://zazenfukyu.hatenablog.com/entry/2020/07/18/222455



外部状況に対して過敏に反応してしまうような人、不安傾向・うつ傾向の強い人にとっては、情動反応の低下といった生理学的効果は望ましいものといえるかと思います。

しかし、「悟り」というものは、単なる脳内の生理現象ですから、そんなものを追い求めることに一生懸命になるのもどうか、と思います。



「どんな奇特玄妙なこと、どんな神秘的体験を味わったと言うても、一生その味わいがつづくものではない。」

(沢木興道『【増補版】坐禅の仕方と心得』138頁)

仏道神秘主義の立場をとらないのです。そういう体験はあくまでからだの一部である脳がある条件下で作り出した幻影、錯覚であるとしてそこに重きを置きません。」

(藤田一照『現代坐禅講義』231頁)



とはいえ、「すばらしい意味をもつ人生が始まる」などと言っても嘘くさいものがあります。

このような嘘くさい話に乗ってしまう心理に関する岡田先生のお話も説得的です。



「情報遮断や感覚遮断に、精神的消耗が加わり、ある種の極限状態にある脳は、通常では体験しないような深いレベルで、影響を受ける。加えて、元々愛着不安や依存的な傾向が強かったり、ストレスやトラウマを抱えていたり、孤立や不適応を感じている人では、なおのこと、堅固な確信をもつ存在にすがろうとする。つまり支配されることが、むしろ安心だと感じるのだ。隔離や遮断は、その傾向に拍車をかけ、強力な依存と支配の関係を作り出す。」(230~231頁)



興味深いのは、「元々愛着不安や依存的な傾向が強かったり、ストレスやトラウマを抱えていたり、孤立や不適応を感じている人」という傾向性の指摘です。



「依存性パーソナリティとは、主体性の乏しさと過度な周囲への気遣いを特徴とするパーソナリティのタイプである。相手に嫌われたり、ぶつかったりすることを避けようとするあまり、相手にノーということができず、相手に合わせてしまう、日本人に多いタイプである。優柔不断で、相手任せになりやすい。
オウム真理教から生還した元信者が、オウムの信徒たちにみられる一つの特徴として指摘していたのも、『優柔不断さと依存心』だった。(略)

行動の背景には、他人の支えがなければ自分は生きていけないという思い込みがある。特に、一旦依存すると、その相手なしではムリという思い込みに陥りやすい。自己評価が低く、実際には高い能力や魅力を備えていても、自分だけではやっていけないと思い込んでいる。強い意思をもった存在に頼らないと、安心できないのである。

また重要な決定を自分で下すことができず、頼っている人に委ねてしまうのも大きな特徴だ。(略)

こうした特徴のため、このタイプの人は、強い意思をもった存在に支配されやすい。と言うよりも、自ら進んで、自分を強力に支配してくれる存在を求めようとする。」(66~68頁)



仏教等の宗教に興味を持つ人は、どこかで何らかの救いを求めています。

当り前といえば当り前の話ではあるのですが。

自分一人で生きる自信がないので、何かにすがりたい、何かに依存したいと思う。

すがりたい、依存したいと思う状況にあるということは、現在は、すがるもの、依存するものがなく、そうである以上は、すがるもの、依存するものがなくとも生きることができることは明らかなのですが、そこへの気づきがない。

その依存したいという思いのあるところにうまく入り込むということでしょう。



このような依存性は、生育歴に由来するところが大きいようです。



「こうしたパーソナリティが育まれる背景には、幼い頃から、自分を過度に抑え、重要な他者の顔色ばかりを気にしながら生きてきたという状況が見られやすい。横暴で支配的な親の、気まぐれで予測のつかない行動に振り回されてきたという場合だけでなく、親が良かれと思ってやっていても、過保護過干渉になり、本人の主体性が慢性的に侵害されると、同じ結果になってしまう。

幼い子どもは、親にしがみつき、親に愛されようとすることでしか、生きて行くことができない。いつ親の機嫌が変わって、攻撃されたり、突き放されたりするかわからないという中で育つことは、余計に親に見捨てられまいとする傾向を強めてしまう。親の意向がいつも最優先であれば、子どもは自分で判断するよりも、親の顔色をうかがって、そこから判断するようになる。」(68~69頁)



これも当り前ではあるのですが、坐禅会や瞑想会にいらっしゃる方に話を聴くと、幼少期に両親の離婚ですとか、ネグレクトを含めた何らかの虐待ですとか苦労をされた方が多い。

私も父との関係性が悪かったのですが、坐禅会や瞑想会に通うようになってから、関係の悪さの程度としては、私は、何とも幸福だったということに気づきました。

指摘として興味深いことは、虐待以外にも、「過保護過干渉」でも、このような依存が生じるということです。



「増えているのは、過保護な環境で育った子どものケースだ。本来子どもがすべきことも、すべて母親が決めてやってしまったため、主体性が育たず、依存的な人格になる。過保護な環境は、しばしば母親の自己愛が、子どもに投影されていることが多く、子どもは母親の“人形”になってしまう。」(71頁)



釈尊が恵まれた環境にありながら、うつ傾向・不安傾向を呈して修行を開始した理由は、ニューロダイバーシティの問題に基礎があるのではないかと思っていたのですが、「恵まれた環境」ということからすると、「過保護過干渉」から依存性が現われ、「揺るぎない何か」がなければ安心できない状態になったのではないかとも思います。

先の2回で指摘した「摂心会」の修行に見られる人格破壊的な実践は、このような依存性を更に強めるものともいえるかと思います。



カルト教団思想改造所で、しばしば行われる自己批判や批判合戦は、愛着不安を掻き立て。自己愛を徹底的に傷つけ、自己否定を強めさせる。そして、このプロセスが植え付けようとする根本的なスキーマ(認識の枠組み)とは、この自分には何の価値もないが、偉大な指導者やその理念に従うことによって、素晴らしい意味を与えられることにほかならない。」(231頁)



岡田先生は、宗教団体が掲げる高邁な理想を受容してしまう心理性に関し、前記引用の中にも出てくる「自己愛」も挙げます。



「キリストや釈迦といった偉大な救世主でさえも、その約束が果たされたかどうかは、議論があるところだろう。(略)

それでも、多くの人がその“約束”にすがろうとするのは、この世にはあまりにも希望がないからだ。(略) 

喜びや希望、そして

《生きる意味に飢えた者》

にとって、それは強く心に浸透する。それに喜んで縋ろうとする。そのために、払う代償が少々大きくても、救われるためなら、取りに足りない犠牲に思える。(略)

人に愛されたい認められたいという思い、

《有意義なことを成し遂げたい、自分の人生に意味を見出したい》

という願い、それは現実の社会では踏みにじられることの方が多い。カルト宗教が大学生や若い人々に広まってきたのも、人生の意味や不変の愛というものを、それが与えてくれると確信をもって語りかけてきたからだ。(略)

より普遍的な問いかけによって、世俗的な価値観の矛盾や欺瞞を暴き立て、それが空中分解を起こしかけたところで、普遍的な価値を説く教義を持ち出して、それに従えば、普遍的な価値につながる生き方や社会を作り出すことができるのだと説くのである。

われわれ現代人の多くは、普遍的な価値への飢餓という欠乏状態を抱えているがゆえに、そこを攻めてこられると、ぐらっとなりやすいのだ。それはちょうど、愛情飢餓を抱えた女性たちが、愛を囁く言葉に、めまいを起こしたように吸い込まれていくのと同じである。」(232~234頁)



引用中の「有意義なことを成し遂げたい、自分の人生に意味を見出したい」という思いの指摘にも興味深いものがあります。

坐禅や瞑想に嵌まり込む人は、必ずしも心が弱いだけではなかったりもします。

案外上昇志向が強い。

上昇志向は、「群を抜けようとする煩悩」ですけれども、その上昇志向が現実の世界で健全に発揮されれば、多くの人の役に立つ有意義な仕事を成し遂げることもできようかと思います。



「迷と悟とは別のものではない。迷えるものには七情となり、悟れるものにはそれは大智とも光明ともなる。これをたとえてみれば渋柿を湯につけて置くと甘くなるのは、渋があるからこそ甘くなるのであって、渋いからとて捨てる訳のものではない。歌に

渋柿の渋みの外に甘柿の
甘味の種は外なかりけり

とある通り、悟れる者には従来厭うべき七情も、遂には愛すべきものとなるのである。(略)

故に真に禅によって悟入したものは、決して死灰のようなものではなく、血あり涙あって人類に臨むようになるのである。」

(釈宗演『最後の一喝』61~62頁)



しかし、坐禅会や瞑想会に参加する人は、上昇志向を持ちながら挫折した人もすくなくありません。

私の知っている方でも、さる難関国家試験を受験したものの挫折し、その後職を転々とする中で、とある禅の団体に入会し、「会員を増やすことが利他行」と会員を鼓舞する指導者の下で、元SEの経験を生かし団体のHPに関する事務を精力的にしている人がいます。

以前にも書いたとおり、私がかつて所属していた団体には、団体の中の内向きの行事について、「老師からの使命だ」という誇大妄想的なことを述べていた方もいましたが、このような人も、世間的な価値のないことを「すばらしい意味」のあることと思うことで、「有意義なことを成し遂げたい、自分の人生に意味を見出したい」という欲求を満たそうとする人だといえそうです。

このように、現実社会で満たされなかった上昇志向を団体の組織の中で評価されることによって満たそうとする人もすくなくないように思います。

また、上昇志向はあるものの、自己肯定感の低さから現実社会にぶつかっていく自信がなく、非正規雇用労働者、あるいは、無職にとどまり、現実社会で満たされない上昇志向を仏教の実践を通し、「悟り」や「解脱」をすることによって満たそうとする若い人も散見されます。

よく禅の「修行」を始めた動機として、「生きる意見に疑問をもった」とか、「いかに生きるべきかに悩んだ」ということを挙げる人は少なくありません。

確かに、世の中には不条理もあり、資本主義の下らない競争等現実社会に対する批判も必要でしょう。

しかし、それらに対しては、直接不条理な現実に立ち向かうことにより対処すべきで、坐禅や瞑想でどうにかなるものなのでしょうか。

むしろ、農林漁業や、職人を含めた製造業等に従事する人、その他の市井の人々が孜々矻々と働いて、家庭を築き、やがて死ぬという日常の営みに価値を見いだせず、自分の人生に日常性を超えた価値付けを与えたいという優越感を現実の世界で満たすことができないことから、瞑想等の仏教の実践に「特別なもの」を求めてしまう人が少なからずいるように思います。



人と人とは、フラットな関係にあればよく、ほかの人よりも優れている必要などはないのに、マウンティングをしようする不幸を感じます。



「長く貴族生活に耽溺していたトルストイは、中年に及んで人生の意義を懐疑し始めて虚無思想の結果いく度か自殺しようとしたそうである。

ところが或る時彼は突如として一の真理に契当した――人間は生を欲するのが順当である。しかるにその生を求むべき人間が死を追わんとするが如きは、どこかに誤りがあるに違いない。

一体、人生の意義などということを考えて懐疑に陥るのは、怠惰な生活を送っているからである。孜々として働いているものを見よ。彼らは人生の意義なぞというものについては何の疑惑も持っていない。一体、人生問題なぞというものは、生活に隙があるから起って来るのだ。そんな懐疑は有閑階級の戯論である。

怠惰こそ一切罪悪の根本である。人生の意義なぞというものは、勤労者の日々の生活によって自ら体験さるべきものなのだ。トルストイはこう考えて自ら労働の生活に入った、といっている。」

(前田利鎌『臨済荘子』238頁)





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