坐禅普及

主旨は慈悲。行は坐禅。

摂心会(合宿形式の坐禅会)の危険性(4)

岡田尊司先生の『マインドコントロール 増補改訂版』の内容を踏まえ、マインドフルネスの世界でも、問題が語られている摂心会やリトリートなどと呼ばれる合宿形式の坐禅会・瞑想会について検討する記事の4回目です。

【これまでの記事】
摂心会(合宿形式の坐禅会)の危険性(1) - 坐禅普及
摂心会(合宿形式の坐禅会)の危険性(2) - 坐禅普及
摂心会(合宿形式の坐禅会)の危険性(3) - 坐禅普及



本稿では、岡田尊司『マインドコントロール 増補改訂版』を引用する際には、特に書名を示さずに引用します。



禅や瞑想をする団体には、寺院が行うもののほか、在家者の団体が主宰するものなど様々なものがありますが、中には、新興宗教的に資金集めなどを目的として勧誘活動に力を入れている団体もあります。

元々は伝統的な禅の団体であったものでも、信者数の減少から施設の維持のための資金に窮するなどしたために変質し、資金集めや、そのための人集めに力を入れているものもあるように思われます。

【参考】
所有する不幸 - 坐禅普及



仏教の言葉には、「自我」、「自己」、「私」などといったものを否定的に捉えるものが多く、坐禅や瞑想自体に、心理的には、自分の閉じた心を開いていく側面があります。

しかし、同時に、その開いた心に、「別の何か」を無抵抗な状態で注入される危険をはらむようにも思われます。

気づかないうちに、団体やその指導者にうまく使われるようなことになりかねない側面もあるのではないかと考えていました。

【参考】
オキシトシンの分泌――坐禅の生理学的効果(3) - 坐禅普及



禅宗系の坐禅会や、上座仏教(テーラワーダ)系の瞑想会に参加していると、団体によっては、どこかの施設に泊まり込む合宿形式の坐禅会や瞑想会に誘われる場合もます。

禅宗系では、「摂心会」、上座仏教系では、「リトリート」などと呼ばれます。

岡田先生の『マインドコントロール』を読んで、このような合宿形式の坐禅会・瞑想会については、慎重に考えなければならないということをかなり整理できました。



先生の仰るマインドコントロールの具体例の一つが「禅の修行」です。



「洗脳を目的として発展したさまざまな方法に共通するのも、過酷な極限状態にその人を追い詰めていくという点である。(略)

たとえば、禅宗の修行でも、導師が弟子に対する接し方は、極めて理不尽で、ほとんど無意味な虐待に近いという。その理不尽さと虐げることに意味があるのだ。新しい境地にたどり着くには、もっともらしい知識や肩書など何の役にも立たず、赤子のように無力だと感じる極限状況が必要なのだ。」(168~169頁)



ここに「合宿」という要素が加わると、更に危険が増すことになります。



「外界から隔離し、外部の人と話のできない孤絶した状態に置くことは、洗脳の基本である。(略)

昔から学問や技芸を学ばせる場合、寄宿舎や合宿という形が好んで用いられたのは、集団生活を学ばせるとか競争させるといった意味もあるが、一つには、外界との接触を減らし、無関係な情報入力を減らすことだったと言えるだろう。」(216~219頁)



今の自分の人格が嫌で、特定の宗教的な考え方に染まり込みたいというニーズがあり、実施する団体や指導者が「本当に」信頼できるのであれば、やる価値のある可能性は否定できません。

しかし、そのようなことをシビアにしなければならない人は少ないようにも思いますし、どんな団体でも、指導者でも、全面的に支持できる人はいないようにも思われますので、合宿形式の坐禅会、瞑想会への参加には慎重に考えられるのがよいかなと思っています。



岡田先生は「マインドコントロールの5つの原理」として、ここに挙げた情報入力の制限等の五つをあげます。



「第一の原理:情報入力を制限する、または過剰にする」(216頁)
「第二の原理:脳を慢性疲労状態におき、考える余力を奪う」(221頁)
「第三の原理:確信をもって救済や不朽の意味を約束する」(229頁)
「第四の原理:人は愛されることを望み、裏切られることを恐れる」(235頁)
「第五の原理:自己判断を許さず、依存状態に置き続ける」(242頁)



本稿では、マインドコントロールを受ける(受けてしまう)側の問題点に関する第四の原理を見ていきます。



8 第四の原理:人は愛されることを望み、裏切られることを恐れる



(1)愛情や共感のポーズから本能的に相手を肯定

「もう一つ、マインド・コントロールにおいて不可欠な原理は、人間が社会的動物であることを、逆手に取ったものである。群れで生活するのが基本である人間は、一旦仲間だと認めたものに対して、忠誠を尽すという本性をもっている。マインド・コントロールしようとする者は、仲間であることを強調したり、親しみを演出しようとする。愛情や共感のポーズを積極的に示そうとする。(略)

自分が受け入れられ、大切に扱われているという感情に満たされるようになる。それは、通常の生活では味わうことのない快感であり喜びである。

人は心地よい体験をすると、それをもう一度求めるようになる。心地よい体験を与えてくれた者たちやその場所に対して、愛着や親しみを覚え、それを肯定的に考えるようになる。自分をこんなにも愛してくれる存在が、悪い存在であるはずがないと、理性よりも本能がそう思うのだ。」(235~236頁)



人間の悩みの最も大きな要因は、人間関係であるとよく言われます。

仏教の実践において、「出家」というものが重視される理由も、悩みをもたらす大きな原因であるところの人間関係から病んでいる人を切り離すという点にあるように思われます。

【参考】
「出家の不幸」と「禅天魔」 - 坐禅普及



特に、坐禅や瞑想に興味を持つ人には、何らかの形で、職場、学校や家庭といった人間関係の中で疎外感を抱いている人が少なくないように感じます。

私もその一人であったりするのですが、坐禅会や瞑想会に通うようになってから、かなり軽症の部類なのだということがわかりました。



坐禅や瞑想に興味がある人の多くは、ほかの人に優しくしたいという気持ちがあり、職場等の人間関係でうまくいかないような人も暖かく迎え入れてくれます。

これは、資金集めや人集めに力を入れている団体も同様です。

岡田先生のいう「愛情や共感のポーズを積極的に示そうとする」ということです。

そして、それが職場等の人間関係で悩んでいる人には、うまいこと嵌まってしまう。

私自身がマニアックな禅の団体に入り、そこから抜けるのに決断を要したのも、どこかしら疎外感があったからだと思います。

まさしく「自分をこんなにも愛してくれる存在が、悪い存在であるはずがないと、理性よりも本能がそう思うのだ」というわけです。



(2)いったん活動を始めるとやめることは困難

いったんこの種の団体に所属して活動するようになると中々やめがたくなっていきます。



「グルが、聖者などではなく、聖者のふりをしたペテン師だということになってしまうことは、グルが特別でなくなるだけでなく、自分もまた、ペテンにかかったただの愚か者だということになってしまうことを意味する。(略)

それを

《疑うことは、自分が生きてきた人生の意味を否定》

するようなものだからだ。(略)

都合の良い事実だけを見て、グルや占い師を妄信し続けるしかない状況に陥っている。

そうした構造は、妄想性の精神疾患でも、しばしばみられる。何年にもわたって、自分が特別な存在だという妄想とともに生きてきた人は、薬物療法によって妄想が、妄想だとわかったとき、危機を迎える。それは、長年自分を支えてきた世界の崩壊に等しい。もう何も頼りにするものも、自分を支えてくれるものもない。ただ、自分が何年も妄想にとらわれて人生を無駄にしたという事実しか残らない。それはあまりにも残酷な現実と向き合うことだ。妄想がとれたとき、自殺してしまう人もいるのは、そうした理由からだ。」(58~60頁)



このような心理に陥る機序は、「認知的不協和」などと呼ばれます。



「一般に、自分の『行動』と『感情』が一致しないとき、この矛盾を無意識のうちに解決しようとするようです。行動か感情のどちらかを変更するわけです。(略)『行動』は既成事実として厳として存在しています。事実は変えようがありません。そこで脳は感情を変えるわけです。(略)

『認知的な不協和を回避する』という理論そのものはアメリカの心理学者フェスティンガー博士らによって、50年以上も前に提唱されたものです。彼による有名な実験があります。面白くない単調な作業をさせて、その後に『楽しかった』と言ってもらうというものです。そして謝金を渡すのですが、このとき被験者を二つのグループに分けます。片方には20ドルを、もう一方には1ドルを支払います。その後、作業がどれほど面白かったかというアンケートを採りました。(略)

1ドルのほうが面白いと感じたのです。(略)1ドルでは『金が欲しくてやった』にしては割に合いません。つまり、作業をする十分な理由が見当たらないのです。心理矛盾です。そこで『実のところ、自らすすんでやるほど楽しかったのだ』と態度を変えて納得します。」

池谷裕二『脳には妙なクセがある』86~89頁)



認知的不協和の理論からすると、やっていることが単に無価値であるだけではなく、普通に考えたらやる本人にとっては有害なことの方がより有益に感じることになりそうです。

宗教への勧誘などということは、勧誘される相手にとっては不快なものですし、その相手から厳しい言葉が投げつけられるようなこともあって、勧誘する人自身にとっても非常に嫌なことです。

かつて所属していた団体でも、イベントへの参加者を増やすため、久参の方がひたすら電話するようなこともあり、なんでそんな自分にとっても、相手にとっても有害なことをするのか疑問に思っていました。

認知的不協和という観点からすると、このようなマゾヒスティックな行動をしてしまうことも理解しやすいように思われます。



(3)勧誘を真に受けないという常識論が大切

常識的に考えても当り前ですが、敢えて書くと

「この種の団体に所属して活動している人が、自分達の団体について、肯定的な話をする」

ことを真に受けてはなりません。



ご本人さん達に、ほかの人をだます気持ちはないかと思います。

多くの場合、ご本人さん達の精神世界では、「本当によい団体である」と純真に思っているのです。

問題は、その純真な気持ちが生じる原因です。

「よい団体」であると思っている原因が、本当に、その団体の活動が、社会的、経済的、倫理的に、「よい」というところから来ているのか、それとも、そのようないわば「客観的なよさ」はないけれども、認知的不協和から、「よいと思い込んでしまっているだけ」なのかということです。



実際に勧誘を受ける現場では、勧誘をしてくる人の内面世界はわかりませんし、また、その団体の活動の実態はわかりません。

現実的な対応としては、勧誘を受けたら絶対に断ることがベストチョイスであると思います。

常識論からして、人間の能力や人格が機械的かつ確実に向上するのであれば、みんなやっているはずです。

しかし、そんな実態はありません。

常識論ではありますが、仏教にも造詣が深い河合隼雄先生のお話。



「人間が、よくなったり偉くなったり賢くなったりする『よい方法』があれば、まず自分自身に適用したいと筆者は思っているが、どうもないようである。」

河合隼雄『〈心理療法コレクションⅣ〉心理療法序説』160頁)

ユングも言っていることですが、偉大な人も近くに寄ると『影』が見える。日本に住んでいると『偉大な』禅の師について見聞することもあります。そうすると『悟り』を啓いても利己的な面はそのままである点などがわかって疑問を感じてしまいます。」

河合隼雄『〈心理療法コレクションⅤ〉ユング心理学と仏教』37頁)



禅の「実践」をすると、人格がよくなるなどといわれますが、必ずしもそのような効果は保証されておらず、現実には尚更悪くなる人も少なからず存在することもよく知っておく必要があるかと思います。

たとえば、作家の司馬遼太郎先生は、かつて新聞記者をしていて京都の支社にいらっしゃったときのことを回想して、このような話をされています。



「新聞記者をやっていたころ、職業上の必要から禅宗の坊さんにずいぶんと会いましたけれども、何人かをのぞき、これは並以上に悪い人間じゃないかと思うことが多かったです。」

司馬遼太郎『日本人を考える 司馬遼太郎対談集』65頁)

【参考】
脳生理学的観点から見た坐禅と禅的人格との矛盾 - 坐禅普及
禅の修行は「禅的人格」を生み出せるか。 - 坐禅普及
扁桃体の活動の低下による弊害――坐禅の生理学的効果(2) - 坐禅普及



力のある禅の指導者や社会的に評価されている上座仏教の実践者の方も、特定の実践が有効であることを喧伝することの危険性に注意を促します。



「私たちが犯しやすい誤りというのは、自分に合っている教えが万人に共通する、通用すると思いがちなところです。自分に偶さかその教えが合っていれば、相手もそれでいける、通じるはずだと思ってしまう。そうなると、その相手を見ておらず、押しつけになってしまいます。人それぞれの特性と言いましょうか、生まれてこのかた体、体質、考え方、環境、人間は千差万別です。

《「これですべてが通用する」というようなものは、私はないと思う》

のです。ですから、様々な教えや修行方法をたくさん学んで、そして自分に一番ふさわしいもの、あるいは今の自分にふさわしいものを自分で見つけて実践していく、これに尽きるといのが、私の今のところの結論であります。」

横田南嶺発言。横田南嶺・熊野宏昭「禅僧と医師、瞑想スクランブル」『サンガジャパンvol.32』51~52頁)

「いまの日本はちょっとした瞑想ブームで、それに関する言説の中には、瞑想があたかも『万能の処方箋』であって、それを実践すれば『仕事も人間関係も上手くいくし、病気も治るし、人格もよくなって、何もかもが成功します』といったような

《『誇大広告』をするものもある。しかし、瞑想というのは、もちろんそんなものではありません。》

実際、『私が言うとおりに実践すれば、全て上手くできますよ』といったことを、瞑想指導者が言葉の上では主張しているのだけれども、ご本人の現実の振る舞いにおいては、その理想が言葉のとおりにまるで実現できていない、といった事例を、私はたくさん見てきました。『瞑想の先生を選ぶ際には、その先生の『発言』だけではなく、その人の『為人』、つまり本人の現実の振る舞いを、よく観察して判断してください』と私が強調するのには、そういった背景もあるわけです。」

(魚川発言。プラユキ・ナラテボー・魚川祐司『悟らなくたっていいじゃないか』215頁)



元々仏教は積極的な勧誘活動をするものではなかったとされます。



「仏教を心の病院だと考えると、その存在意義もよく見えてきます。仏教は病院ですから、病気で苦しんでいる人を治すのが仕事です。病気でない人には全く必要ありません。ですから、病院がわざわざ外へ出かけていって健康な人を引っ張り込んで入院させるようなことをしないのと同じく、

《仏教も、苦しみを感じていない人まで無理矢理信者に引っ張り込もうとはしません。》

(略)実はこれが、仏教という宗教が無理な布教をしない一つの理由でもあるのです。」



特に、禅宗では、いわゆる桃李の故事を引き、人を集めるアピールをすることを否定するのをよしとします。



「如何せん桃李言わざれども下自ずから径を成すとか。」

(秋月龍珉・柳瀬有禅『坐禅に生きた古仏耕山 加藤耕山老師随聞記』序)

*桃李の故事=史記「李将軍伝賛」。桃やすももは何も言わないが、実のおいしさに誘われて人が集まり、その下に自然に道ができること。本当に優れた人の下には、何も言わずとも、自然と人が集まってくることのたとえ。



積極的に、合宿形式の坐禅会、瞑想会に誘ってくる団体は、その時点で、仏教や禅の団体としては、推して知るべしかと思います。



(4)共同生活の危険

摂心会やリトリートなどと呼ばれる合宿形式の坐禅会や瞑想会で、生活を共にするようになると、更にやめにくくなっていきます。



「人間が社会的な生き物であり、一旦絆を結んだ相手を簡単には裏切れないという特性は、共同生活をすることによって、さらに強化される。カルトにしろ、反社会的集団やテロリスト集団にしろ、小集団で生活し寝食を共にする中で、ある種の連帯感や絆を作り出そうとする。リーダーやグルに対する結びつきだけでなく、メンバー同士の横の結びつきも重要な要素となる。それは疑似家族としての働きをもつとともに、“使命”を共有することによって、さらに強力な絆となる。」(237頁)



「小集団で生活し寝食を共にする中で、ある種の連帯感や絆を作り出そうとする」

このような効果は素人的にも想像できます。

注目すべきは、「疑似家族」や「使命」という要素です。

禅の団体の中では、構成員が疑似家族であることを強調するものもあります。

先にも少し触れたとおり、坐禅や瞑想に興味を持つ人には、生育歴に問題があり、家族関係から疎外感を抱く人もすくなくありません。

このように愛情に飢えている人にとっては、疑似家族的な団体の在り方にも魅力を抱くのではないかと思われます。

前回の記事でも触れたように、生育歴に問題のある人に依存性パーソナリティを持つ人が多いことからすると、疑似家族関係を強調する団体に対しては、より取り込まれやすくなってしまうように思われます。



「こうしたパーソナリティが育まれる背景には、幼い頃から、自分を過度に抑え、重要な他者の顔色ばかりを気にしながら生きてきたという状況が見られやすい。横暴で支配的な親の、気まぐれで予測のつかない行動に振り回されてきたという場合だけでなく、親が良かれと思ってやっていても、過保護過干渉になり、本人の主体性が慢性的に侵害されると、同じ結果になってしまう。」(68頁)



このような依存性の強さと相まって、疑似家族関係が強調されると、禅は、本来、個々人が自由な生き方を目指すものであるはずなのに、家族である組織に依存する人になりやすくなるように思われます。そのことは、この種の団体の構成員の方を見ると、禅者というよりも信者的な人が多いことからも裏づけられます。

また、「使命」の強調も興味深いです。

前回の記事で触れたとおり、孜々として日常生活を送ることに飽き足りない人は、「有意義なことを成し遂げたい、自分の人生に意味を見出したい」という欲望をもっています。それでありながら、自分に対する無力感や挫折への不安から現実社会の中で積極的にチャレンジをすることができないという人が少なくありません。そのような人にとっては、勧誘活動などといった労働をすることも、指導者の方や団体からは評価をされる上、宗教的な価値を持った特別な意味をもったことをしていることに満足感を得るのかなと思います。



「社会的生き者である人間の承認欲求は、非常に強力なので、自分を認めてくれたものに対して、肯定的な感情やそれに応えたいという忠誠心を生み出す。その結果、人は自分のことを認めてくれた存在を

《裏切ることに、強い抵抗感を覚える。》

この心理的抵抗は、すなわちマインド・コントロールの力である。」(237頁)



裏切ることに対する抵抗感が生み出されがちなところに加えて、禅の指導者の方の中には、この種の「裏切り」の許せない方もいます。



「およそ禅の修行には、古来『大疑団』『大憤志』とともに『大信根』が必要だと言われている。大信根とは、自らの就く師家に対する絶対の信のことで(略)ある。諸士の中には『入門願』に『総裁、ならびに師家に対して信を表明します』と書き、誓約しておりながら、ああじゃこうじゃと屁理屈をつけて去っていく者がある。これほど師家をあざむき、自己に対して不誠実な行いはないはずである。」

(芳賀洞然『五燈会元鈔講話』22頁)



しかし、指導者の方自身が、当のご本人を信じるように声高に言うのはどうかという感じもします。

何よりも、その指導者の方の指導方法が合わないと感じたときに、その実践をやめて方向転換することが難しくなり、指導者の方に依存しやすくなる点で疑問です。

なお、このような方もいますが、一般的には禅の修行の師を変えることは広く許容されていることは、禅の「修行」に興味をもたれた方は知っておくとよいと思います。



「むかしは面白い。師匠を見て歩くのである。ひと晩泊まって、ただ飯を食わせてもらい、翌朝、朝参といって師家に面会して、お茶をよばれ、二言、三言話をして、ははあ、これはいかぬと思ったら、どんどん出発してしまう。これはよいなと思ったら、いつまでもそこにとどまる。それが雲水行脚、すなわち遍参の意味である。」

(沢木興道発言。酒井得元『沢木興道聞き書き ある禅僧の生涯』74頁)

「禅では、師匠を自ら選ぶことができます。納得がいくまで、さまざまな師匠を尋ね歩き、その門下で修行をする。はじめから生涯の師に出会うことができる人もいるでしょうし、なかなかめぐり会えない人もいます。ときには『この人こそ生涯の師』と一度は思ったものの、その門下で修行を重ねるうちに違う道へ分かれていくこともある。」

(有馬賴底『無の道を生きる――禅の辻説法』81頁)

「唐代には師資の関係は必ずしも固定的ではなかった。修行者は各地を遍参し、幾人もの禅匠に学んで啓発を受けたのであるが、印可を受けた後も遍参を続ける場合は多く、師と弟子との間で師弟関係の認識を異にする場合も存在した。」

(伊吹敦『禅の歴史』77頁)

【参考】
【参考資料】師弟関係(第2版) - 坐禅普及



人はそれぞれ違うのですから、どんな実践にも合う、合わないということがあります。

いろいろな事情で真剣に禅の修行に取り組もうとされる方は、「裏切りは許されない」などといった言葉に惑わされず、冷暖自知されながら本当に納得いく指導者の方を探されるのがよいかと思います。



先に引用した佐々木閑先生の著書の中の「仏教は病院ですから、病気で苦しんでいる人を治すのが仕事です。病気でない人には全く必要ありません。」という一見平凡な記述が重要です。

仏教の教義や実践は、病んでいるから必要なのです。

心身が健康であれば全くいらない。

この点は、中国の唐代においては、そもそも「悟り」などを目指して、何らかの修行を始めることそのものを病とみていたことを知っておくのもよいかと思います。



「道心を起すことが、巧偽をひき起す。道心を起すことが、じつはすでに道に背くわざなのだ。(略)もともと坐禅は起こった心を静めるための対症療法であった。(略)応病与薬の法であった。乱れた心を制する技術である。応病与薬の法であった。『二入四行論』の雑録に、つぎのような問答がある。



ある人が顕禅師にたずねた、「何を薬というのです」

答、「一切の大乗は、病気に対する応急処置にすぎぬ。心そのものが病気を起さなければ、どうして病気に対する薬がいろう。有という病気に対して空無という薬を説き、有我という病気に対して無我という薬を説き……、迷いに対して悟りを説く。これらはすべて、病気に対する応急処置である。病まぬのに、どうして薬がいろう」



顕禅師もまた伝記の判らぬ人だが、その主張は縁法師と変わらぬ。(略)病まぬのに、薬はいらない。病まぬ人に薬を与えるのは、わざわざ病人をつくるようなものだ。心が起らぬのに、強いて心を起すにひとしい。われわれは、とかく病を実体化しやすい。病を実体化することから、薬の実体化が始まる。(略)病の実体化することの危うさは知りやすい。薬を実体化することの怖さは気づきにくい。」

(柳田聖山『禅思想』37~38頁)



悩み、苦しみ、迷いながら日常を生きる、このありのままで私たちは何も問題がありません。

その日常から逃避するために、何か特別なことをしようということ、それ自体が病です。

禅仏教の様々な教義の中で、最も好ましいものは

「特別なものはいらない、したがって、禅の修行なども本来いらない」

ですが、そのことに気づくことが大切かと思います。

私自身は、うつ傾向がぶり返すかも知れないとの病んでいる自覚があることから習慣的に坐禅を続けていますが、特別な事情がなければやる必要はありません。

朝比奈宗源老師のように、これをはっきり言い切る禅の指導者の方がほとんどいないことが残念です。



「以前、私が禅を修行しなくては、佛道の真実はわからないとだけ説いていた頃、郷里へ帰り親戚や友達の親しい人々をまじえた聴衆を相手に、説教をしましたら、年老いた従兄が、佛道のありがたいことはわかったが、私等にはそうした修行はとてもできない。本当のことはわからずに死ぬのかな、となげきました。私はこれが淋しくもあり、悲しくもありました。後に私はいま説くように、

《修行しなくても、本来佛心の中にいるのだから、死後も絶対安心してよい》

と、はっきり言い切る信念に達しました。」

(朝比奈宗源『佛心』39~40頁)





にほんブログ村 哲学・思想ブログ 禅・坐禅へ
にほんブログ村

参考になる点がありましたら、クリックをしていただければ幸いです
本ブログの記事に対する質問はこちらを参照してください。

本ブログの記事に対する質問ついて - 坐禅普及