坐禅普及

主旨は慈悲。行は坐禅。

小さな自分という救い

「あらゆる生命と意味を宇宙のなかの何らかの地点に位置づけることにすると、人生の意味は、すっかり縮減されて、いわば何らかひとかどのものだと自惚れた蟻の幻想であることになってしまいます。私たちは、ほかでもない自らの生存への利害関心ゆえに自分自身を特別視していて、人間とその生活世界とを何か特別なもののように考える傲慢な幻想にふけっているにすぎない。宇宙から眺めてみれば、そんなふうに見えることでしょう。わたしたちが何をどう感じているかなど、宇宙のなかで中心的な役割を演じていません。久しい以前に消滅してしまった銀河――その光が今ちょうどわたしたちに届いている――にしてみれば、今朝わたしが朝食をとったかどうかなど、まったくどうでもよいことです。宇宙のなかでは、わたしたちは、せいぜい数ある生物種の一つにすぎません。ここで問題となるのは、せいぜい物質的な環世界を媒体として、腹を空かせた身体を操縦し、他者と協働することで、人間という種の生存のチャンスを増大させることでしかありません。」

マルクス・ガブリエル(清水浩一訳)『なぜ世界は存在しないのか』43頁~44頁) 



最近、著者の名前をよく目にするようになったので、試しに買って読んでいるのですが、「カント以降の近代哲学の進歩の跡をぎくしゃくした足取りでたどっているだけ」(前掲書134頁)の人間には、難物で、それでも、読んでいて「素直によいことが書いてあると、思った」部分が先の引用部分。

「日本人だと」、先のような話は露悪的ではあるものの、よいニュアンスで捉えるのではないかなと思います。

類例としては次のようなもの。



「ずいぶん若い頃に読んだ伊藤整の論文に『日本人の発想の諸形式」とかいうのがありました。これは無の実在ということを言っているのですよ。

日本人は広大な無を感じると。ものすごく広大な無で、その無が今実在しているからそれと比べれば俺の悩みなんかどうってことないやと、こっちも消されるわけです。そうして心のバランスを回復する。

それだから、大した宗教なしでもみんな幸せに生活しているんだというような内容だったと思うのです。」

小出宣昭発言。小出宣昭ほか「シンポジウム「動く仏教、実践する仏教」同朋大学大学院文学研究科編『動く仏教実践する仏教[仏教とユング心理学]』108~109頁)



深刻に悩んでいるときに、自分という存在の小ささ、あるいは、はかなさをふと感じることを通して、「大した悩みではないな」と救われた感覚は誰しもあるように思います。

こんな類例もあります。



「私の生き方、私の生育歴や精神形成に含まれていた葛藤が形をとって現れたのが、(略)うつの発病だったのだと思う。ちょうど四〇歳の時のことであった。

入院していた病院で私が悟ったのは、人生の単純さということだった。一本のロウソクが小さく点り、しばらくの間輝き、やがて燃え尽きる。結局、人生というのは、それだけのことであり、そういう単純なものなのだ。私は、なぜ、ただそれだけのことを、こんなに難しくしているのだろう?」

(瀬木比呂志『絶望の裁判所』198~199頁)



禅の場合ならこれ。



「丘宗潭師という人は、色の真っ黒な顔に痘痕が一面にあって、眼はわしのより十町もおくのほうへ引っこんでいて、その底のほうからギョロリとすごく光っていた。(略)

そこへ独参させてくれといって雲水がやってきた。(略)

『一大事をお示しねがいます』

すると丘老師はすかさず、

『ウーム、だれの一大事か』

というブッキラ棒の受け答えである。

『ヘェイ、私のでございます……』

『ナニイ、貴様のか、貴様一人ぐらい、どうでもいいじゃないか、ウフフフ……』」

(沢木興道発言。酒井得元『沢木興道聞き書き ある禅僧の生涯』163~164頁)



自分が持っている「一大事」の悩み。

それを「どうでもいい」と言われて救われる。

このような感覚を「日本人」なら共感できるように思います。

いや、私自身は、「日本人」どころか、世界中の人一般が共感すると思っていました。

ですから、先に引用した小出氏のお話に続く話には、少し違和感を抱くこともありました。



「本当に不思議に思うのは、例えば西洋の人ですと宗教がなかったら気が狂うみたいなところがあるようですけれど、ほとんどの日本人は無信心で、それでも気狂わずちゃんとした人生を全うするわけです。宗教なしでこれほどのどかに人生を終える民族は日本人ぐらいではないかということを、非常に疑問に思うのです。」

小出宣昭発言。小出宣昭ほか「シンポジウム「動く仏教、実践する仏教」同朋大学大学院文学研究科編『動く仏教実践する仏教[仏教とユング心理学]』109頁)



以上のような発言にみられる、日本人、西洋人と分けて心理分析をするようなやり方に、一種日本人の民族的優越論のようなニュアンスを感じるようなところもありました。

しかし、世界中の人一般が共感するわけではないのだと思わされたのが、先のマルクス・ガブリエル先生のお話です。

冒頭の引用文には引き続いて次のような言葉があります。



「人生の意味を宇宙に見出すことはできません。それは、じっさいわたしたちが、ほかからの光に照らされた球体の表面上を忙しく動きまわる蟻の群れにすぎないからではありません。私たちの人生が些末で無意味なもののように思われることの本当の原因は、まったく異なる対象領域をわたしたちが混同していることにあります。」

マルクス・ガブリエル(清水浩一訳)『なぜ世界は存在しないのか』43頁~44頁) 



どうも、ガブリエル先生は、「人生が些末で無意味なもののように思われる」ことを問題だと思っているらしい。

私が思ったような「素直によいこと」を書くつもりで書いているのではないようです。



やはり、西洋人というか、欧米人というのは、世界というものを前にして、自己の卑小さを感じることに一種の恐怖感を持つのかなと思いました。

小さい自己に世界が迫ってきて、呑み込まれるのを跳ね返したいと思っている。

そこで頑強な自己を作り上げようとする。

それに対して、日本人は、既に世界に呑み込まれていることに自足しやすいのかなと感じました。

このように感じるようになったのは、少し言い回しが違いますが、やはり、最近になってからですが、河合隼雄先生の本を読むようになってからです。



「異なる態度は、日本人と西洋人の自我意識の差を明らかにしています。西洋では、最初になすべきことは、他と分離した自我を確立することです。このような自我が所を得た後に、他との関係をはかろうとします。これに対して、日本人はまず一体感を確立し、その一体感を基にしながら、他との分離や区別をはかります。」

河合隼雄『〈心理療法コレクションⅤ〉ユング心理学と仏教』15頁)

「他と区別し自立したものとして形成されている西洋人の自我は日本人にとって脅威であります。日本人は他との一体感的なつながりを前提とし、それを切ることなく自我を形成します。このような差を意識していればよいが、それがわからないときは、何気ない日常会話においても誤解が生じたり、異和感を感じたりします。そのような例をあげるときりがありませんが、非常に抽象的に言えば、西洋人の自我は『切断』する力が強く、何かにつけて明確に区別し分離してゆくのに対して、日本人の自我はできるだけ『切断』せず『包含』することに耐える強さをもつと言えるでしょう。」

河合隼雄『〈心理療法コレクションⅤ〉ユング心理学と仏教』39頁)



「日本人と西洋人の自我意識の差」ということに違和感を抱いていたのですが、先のガブリエル先生のお話を読んで納得してしまったという感じです。

その文化的な背景として、興味を惹かれたのは、西洋的自我の確立とキリスト教との関係です。



河合隼雄先生は、西洋的自我の問題点として次のようなことを仰います。



「近代西洋文化において、西洋の人々は、エーリッヒ・ノイマンが『西洋に特有の成果』と呼んだような、強い自我意識を確立することに成功しました。この強い自我は豊かな科学的知識の獲得を促進させましたが、それは常に無意識との接点を失うという危険にさらされています。現在の多くのクライアントは『関係性の喪失』に悩まされています。」

河合隼雄『〈心理療法コレクションⅤ〉ユング心理学と仏教』13頁)



その原因としては、やはり、西洋的自我が自己と他を分けるというところから出発するからであると思われますが、それを補おうとするのが、キリスト教などといった一神教なのではないかなと思います。



「(日本での1965年)当時は、青年期に自我の確立ということに努力しようとする人たちは、何らかの意味でキリスト教に関心をもったものである。」

河合隼雄『〈心理療法コレクションⅣ〉心理療法序説』142頁)



亡くなった義父は「団塊の世代」だったのですが、一時キリスト教に入信していたことがあり、不思議に思っていたのですが、彼の青春時代には、このようなことがあったのだと納得させられました。

青年期の自我の確立とキリスト教との関係については十分にわからないのですが、自己を世界から切り離し、その後、自己に迫ってくる世界に立ち向かっていくためには、何か強力なものと自己とがつながっているという明確な認識が必要になってきてしまうのかもしれません。



ガブリエル先生の本は、まだ読み切れていないのですが、目次を見ると、「宗教の意味」という章が特別に設けられています。

正直、西洋近代哲学において、宗教が主題とされている理由について長いことわかりませんでした。

しかし、西洋的自我の確立という点で、宗教が大きくかかわっていることからすると、哲学的なテーマになりやすいということも納得ができる感じになりました。



そのようなテーマに立ち向かう面倒がないという意味では、宇宙の中の小さな自分に救いを見いだせる日本人に生まれてきたのは幸福な偶然と思います。





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