坐禅普及

主旨は慈悲。行は坐禅。

脳生理学的観点から見た坐禅と禅的人格との矛盾

「新聞記者をやっていたころ、職業上の必要から禅宗の坊さんにずいぶんと会いましたけれども、何人かをのぞき

≪これは並以上に悪い人間じゃないか≫

と思うことが多かったです。」

司馬遼太郎『日本人を考える 司馬遼太郎対談集』65頁)



禅は禅的人格を有する人を生み出すことを目的とするはずなのですが、禅の修行者に対するこの種の批判は、少なくありません。

司馬遼太郎先生のような人格・見識のしっかりした方の発言は重みがあります。

また、以前にも引用しましたが、禅修行をしていた方からも同様の批判があります。



「禅は、徹底的に否定道を行くので、自己の煩悩を断じ、大智と大悲にめざめんとする。徹底した大悟の人においては、この大智と大悲が完全に調和して、人間の真のあり方を自ら示してくれるが、なかなかそこまで徹底する人はすくない。とかく個性的な性格をそのまま発揮して

≪ひとりよがり≫

になってみたり

≪高慢な性格≫

を助長したりする。そして、一般には智慧の面は深くとも

≪慈悲の面に欠け≫

がちである。」

(藤吉慧海『禅と浄土教』101頁)



「大智と大悲にめざめ」ようとする人がどうしてこうなるのか?

ちなみに、臨済宗で、公案過程を修了し、一通りの見識があるものとして、「印可」という証明を受けて、後進の指導が出来る方のことを「師家」といいますが、この「師家」についても、同じような問題があります。



「まず第一に師家は、釈尊以来インド・中国・日本と『仏祖的的相承底』すなわち師承正しい伝統の師から印可証明を得たものでなければならない。(略)しかし、これだはまだ一応の最低限である。この上に、専門的に「見地」の明らかな「道力」を具えた、そして世間的にも人格・識見ともにすぐれた人物を選んで師とすべきである。(略)

ただし、古来『真正の見解さえあれば少々不品行でもよい。正見ある者を師とせよ』と評してもある。

≪行解相応の師など昔もなかなか少なかった≫

ものらしい。」

(秋月龍珉『公案』58頁)
  


修行を完成した人ですら、人格的に問題がある人が多いということになると、「大智と大悲が完全に調和」する修行といっても、言葉だけの話で、実質がないと話になってきかねません。



明治期以降、日本で、何度か禅が流行したことがありました。



「(明治期から昭和初期にかけて)この時代には、激動する時代の中で心を平静に保つことが求められ、また、今北洪川や由利宜牧らが在家に対して積極的に指導を行ったこともあって、各界の名士の間で参禅が流行し、居士の活躍も目立った。彼らは居士であることを存分に発揮し、結社や出版、教育などの様々な活動を通じて積極的に社会と関わったのである。」

(伊吹敦『禅の歴史』293頁) 

「宗教法人法によって、宗教活動が自由に行えるようになり、宗派からの寺院の離脱(単立化)が容易になったこともあって、戦後は新たな教団の設立があいついだ。禅宗関係でも、臨済系に興聖寺派、一畑薬師教団、人間禅教団、洗心教団などが、曹洞系に如来宗(後に『如来教』と改名)、一尊教団、三宝教団などが現れた。」
(伊吹前掲書305頁)



戦後の状況については、先の秋月老師の『公案』に次のような記述があります。



「専門道場という生活の場から離れた在家の禅会などで、たやすく通参の修行者に公案かせぎをさせるような今日の

≪在家禅会の見かけだけの隆盛≫

はけっして好ましい現象ではない。」

(秋月前掲書64頁)



秋月老師のこの本は、最初期のものが出版されたのは、1965年です(引用に係るものは、その後に発行されたちくま文庫版のもの)。

今から50年ほど前には、見かけだろうが何だろうが、「隆盛」していたのですが、現在はどうか。



「戦後の禅の特徴として、禅僧の社会的活動が極めて限られたものになったということが挙げられる。(略)国内における社会的な認知度は、立田英山や久松真一(1958年にFAS禅協会を設立)、藤吉慈海(1915-、台湾仏教を参考に、新たに念仏禅を唱える)などの活動にも関わらず、

≪次第に逓減しつつある≫

ように見受けられる。」

(伊吹前掲書306頁) 



伊吹先生は、このような「現状」(ちなみに、引用に係る著書が出版された時期は2001年です。)の要因について、「価値観の欧米化」などを挙げていますが、もっと核心的な要因は、「大智と大悲にめざめ」て現実社会の中で活躍する「禅的人格者」を産み出すことが出来なかったからではないかと思います。

本当にそんな人を量産できるのであれば、誰かしらマスコミが取り上げるでしょうが、そういう人はほとんど聞きません。

禅の「修行」をしていても、このように活躍する人をほとんど聞かないことからすると、「大智と大悲にめざめ」るといっても、一般の人への説得力がないおことになるのかなと思います。

なぜ、禅的人格者を産み出せないかについて、最近、「坐禅そのものが禅的人格を形成する阻害要因」になっているのではないか、という仮説を抱いています。



やっとここで本論ですが、その理路は次のとおりです。



まず、坐禅が、人間の精神に対し、よい効果をもたらす最も大きな要因は、扁桃体の活動を低下させることにあると考えられます。

図式化すると

ゆっくりと呼吸する→呼吸回数の減少→血中二酸化炭素濃度の上昇→扁桃体の活動の低下→うつ傾向・不安傾向の改善

との機序があるものと思われます。



「現在うつ病の薬として脳内のセロトニンを増やすという薬を使います。セロトニンは脳幹にある縫線核(ほうせんかく)というところの細胞が長い突起を伸ばし、その突起の先から出されます。とくに、感情の場である大脳辺縁系扁桃、海馬、帯状回)にセロトニンを出します。そうすると精神が安定するとされるのです。 

呼吸を止めると苦しくなります。それは血中の二酸化炭素が脳の呼吸中枢を刺激するあからです。そこで苦しくなり、息を吐き出し、早く呼吸をします。それは早く二酸化炭素を体の外に出そうとする反応です。また

≪ゆっくり呼吸すると血中の二酸化炭素の量がある程度増え≫

ます。だから少し苦しくなり、早く息をしたくなるのです。このような二酸化炭素は脳内でセロトニンを増やす効果をもつのです。つまり脳内の

二酸化炭素が増えると脳内に多くのセロトニンが放出≫

されるのです。」

高田明和『一日10分の坐禅入門――医者がすすめる禅のこころ』142~143頁) 



前記文献では、セロトニンの分泌が扁桃体を含む大脳辺縁系全体に及ぶものとされていますが、次に挙げる文献等に記載際されているとおり、呼吸回数が増大すると偏桃体の活動が活性する関係にあるものとされることからすると、扁桃体の活動の低下が特に重要であるように思われます。



「呼吸数が上昇する部位と不安や恐怖に関連した部位は同じ偏桃体です。この部位に入力されることにより呼吸が変化し、同時に不安も増加する。(略)実際に予期不安の上昇している呼吸の際に随意的にゆっくりした呼吸をしてもらいました。すると不安感の軽減が認められました。(略)

≪呼吸の回数を減らすことにより、賦活する偏桃体のリズムを緩和≫

させる効果が得られるのではないでしょうか。」

(政岡ゆり「香り豊かに暮らす――嗅覚・情動の脳内関連の視点から――」『心身健康科学』5巻2号63頁)

「情動と呼吸に関しては予期不安実験での呼吸と脳の関係が明らかにされている。予期不安は被験者の手に付けられた電極から、2分以内に電気ショックが来るというアナウンスをし、その2分の間に変化する呼吸と脳波を調べたものである。吸息開始後300―400msecに呼吸に同期した陽性電位が記録された。(略)

≪不安の強い人では扁桃体に認められた≫(略)。

≪その時呼吸数は増大≫

していた。扁桃体は情動とそれに関連した生理反応の中枢でもあり呼吸への関連も言われている。」
(本間生夫「心身の調節と呼吸」『心身健康科学』5巻1号3頁)



しかし、扁桃体の活動は低下させればさせるほどよいというものではありません。
 
扁桃体の活動の低下による弊害はいくつかあるのですが、「禅的人格」との関係では、「情動反応の低下」が興味深いものとして挙げられます。



扁桃体を損傷された動物およびヒトは,生物学的価値評価に基づいた

≪情動発現が障害≫

され,過去の記憶に基づき,自己に利益をもたらす可能性のあるものに対しては快情動を,逆に,不利益をもたらす可能性のあるものに対しては不快情動を発動することができない。このような生物学的価値評価に基づく行動は,ハエからヒトまで多くの動物に共通に認められる。」

(西条寿夫,堀悦郎,小野 武年「ストレス反応の身体表出における大脳辺縁系視床下部の役割」『日薬理誌126号』185頁)

「情動における脳機能では,扁桃体が情動記憶の形成と価値判断においてシステムの中心といわれている(略)。

扁桃体の機能障害があること≫

が(略)残存している認知症高齢者の

≪情動に何らかの影響≫

を及ぼしていると考える。」

(占部美恵「認知症の看護~脳の残存機能を活かしたBPSDへ対応を目指して~」『京府医大誌』121号)
http://www.f.kpu-m.ac.jp/k/jkpum/pdf/121/121-12/urabe12112.pdf

扁桃体は、不安や恐怖などの感情を感じた時に活動することが知られています。過度な不安や恐怖が症状であるうつ病、不安障害やPTSDといった精神疾患においては、扁桃体の活動が過剰であること知られています。反対に

統合失調症自閉症に認められる感情や対人コミュニケーションの障害が扁桃体の活動の低下と関連≫

していることも知られています。」

独立行政法人 放射線医学総合研究所分子イメージング研究センター 菅野 巖 センター長ほか「感情の中枢である扁桃体におけるドーパミンの役割を解明」https://www.jst.go.jp/pr/announce/20100224/index.html



これらの文献の内容を踏まえると、禅の修行者に却って人に対する慈悲の心が見受けられなくなってしまう、社会的にみて人格に問題があると捉えられてしまう要因には、長時間の坐禅を継続することにより、扁桃体の活動が過度に低下し、情動反応が低下するためではないかと考えているのですが、どのようなものでしょうか。



禅の修行は、「感情を殺す」ことが目的の一つであると勘違いされることがよくありますが、しかし、本当のところは、きちんと感情を持つことが大切であるものとされ、力量のある方は繰り返しそのことを説きます。



「悟りというものは、吾々をして血も涙もない石地蔵や、古木寒巌のようにするものではありませぬ。禅宗の大悟徹底は、灰吹から蛇(じゃ)を出すような、魔術師の松旭齋天勝でもやりそうな奇術に類したことをすると思ったり、又どんな悲しい場合にも、決して悲哀を感じないし、どんなに楽しい場合でも、決して楽しく感じない、恰も

≪石地蔵のようなものだと考えている人が、世間に往々あるが、これは本当の悟りを知らぬ人で、全く誤解≫

であります。」

(釈宗演「禅学大衆講話」『釈宗演全集第一巻』4頁) 

「有相の仏を求めたり、あるいは真実の自己をを固定的な存在と考えて瓦を磨いて鏡にするようなつもりで坐禅をしていると、三昧力ができればできるほど鼻もちのならない禅臭が出てくるおそれがある。坐禅が「我」の上ぬりになり、これを増長するからである。

古来常識のようになっている「無念無想」という一種の心理状態にはいることが坐禅だという誤解である。(略)相当の知識人が禅に興味をもちだしたのはいいが、それらの人々の多くは

≪無念無想といったような、いわば精神を鎮静させることが禅だとひとりぎめしてかかっている傾向≫

がないでもない。」

(大森曹玄『参禅入門』28~29頁)



しかし、繰り返し説かれるということは、逆にいえば、「感情を殺すのが禅である」と勘違いしている人がいかに多いかということであるように思います。

「感情あるままにして、それに振り回されない」というのが適当なように思います。


 
「古木寒巌に倚りて一点の暖気もない、強いて心想を杜塞して故らに死灰(しかい)の如くなる所、宛然(えんぜん。さながら)石像の羅漢である。斯の如きは真に禅の正鵠を得たものではない。是れ老婆の為めに追放せられたる所以であろう。吾人の所謂静を守るとは精神が其活動を止めるのではない。

≪活動しつつ其中正を失わぬ≫

というので、之を譬えば石臼が廻りて活動するも尚お其心棒は依然として静止して動かぬが如くである。また譬えば独楽が非常なる速度にて回転しつつ一所に静止して動かぬが如くなるをいうのである。」

(忽滑谷快天『禅の妙味』6頁)



ところで、血中二酸化炭素濃度の上昇は多幸感をもたらすものといわれています。



「死に際になると、呼吸状態も悪くなります。呼吸というのは、空気中の酸素をとり入れて、体内にできた炭酸ガスを放出することです。これが充分にできなくなるということは、一つには酸素不足、酸欠状態になること、もう一つは炭酸ガスが排出されずに体内に留まることを意味します。

≪酸欠状態≫

では、(略)

≪脳内にモルヒネ様物質が分泌≫

されるといわれています。柔道に絞め技というのがありますが、あれで落とされた人は、異口同音に気持ちよかったといっています。酸欠状態でモルヒネ様物質が出ている証拠だと思います。

一方炭酸ガスには麻酔作用があり、これも死の苦しみを防いでくれます。」

(中村仁一『大往生したけりゃ医療とかかわるな 「自然死のすすめ」』64頁)



この中に出て来る「モルヒネ様物質」とは、セロトニン、あるいは、オキシトシンかとも思われるのですが、いずれにしろ、酸素不足が多幸感をもたらすものとされています。

1960年代から70年代にかけて、米国において禅がヒッピーに受けられたことについて、その紹介をした鈴木大拙先生がむしろ批判をしていたのは、このような多幸感から坐禅が現実逃避の道具として扱われていたことなのではないかと思います。



大拙の批判は他者ばかりへ向いたものではなかった。日本国内仏教の一面が望ましく進化していなかったことに加えて、自分が大いに貢献した西洋への禅仏教の伝達以後の発展も上手くいっていなかったと心配していた。アメリカ人支援者Ernest Brooks への1958 年の手紙には次のように反省する:(略)

友人達と話して、また学者や評論家が最近書いた、禅に関する論文を幾分読んた結果、今までの私のやり方よりも、禅をもっと体系的・総合的に扱うべきだと思うようになった。禅について書いている殆ど全ての西洋人と東洋人とも、禅の最も本質的で重要な部分を誤解している。彼等の解釈や議論は全て誤った方向にあり的外れである。この不幸な現状の責任の一端は、私が書いたものが禅の関わる全ての分野を網羅してこなかったことにあるかと思う。実のところ、私が禅について書けば書くほど禅はより誤解されやすくなってしまう。しかし、私は力の及ぶ限り執筆することでこの状況を何としても正さねばならない。」

(ステファン・グレイス「鈴木大拙の現代仏教に対する批判」『国際禅研究』(2018年2月)104~105頁)



坐禅は、弱くなった人の心を現実に向き合わせる上で有用な生理学的効果をもたらすことは間違いないと思うのですが、うっかり間違えると、情動反応の低下から、社会的な適合性を却って失わせ、多幸感から、坐禅に耽溺してしまう危険があるのではないかと危惧されます。



「瞑想は、私たちが社会にとどまる助けをする道です。これは、重要なことです。」

(ティク・ナット・ハン(棚橋一晃訳)『仏の教え ビーイング・ピース』74頁)



現実を前向きに生きようと思っても、辛い時というのは少なからずあります。

そのようなときに、坐禅によって適切に情動反応が抑えられるのであれば気分は楽になるでしょう。

しかし、気分が楽になることから坐禅にはまりすぎて耽溺し、情動反応が低下しすぎて、「ひとりよがり」で「高慢な」上、「慈悲の面に欠け」る「並以上に悪い人間」になってしまっては、本末転倒です。



「多くの人が好奇心から坐禅を始めますが、それでは自分自身を忙しくしてしまいます。修行によって、より悪い状態になるなど、ばかげています。(略)あまり禅に興味を持ちすぎるのもいけません。若い人が禅に夢中になると、学校をやめてしまし、森や山にこもって坐禅を始めます。この種の興味は本当の興味ではありません。」

(鈴木俊隆『禅マインド ビギナーズ・マインド』110頁)



気を付けなくてはならないところです。
 
 



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