座禅普及

主旨は慈悲。行は座禅。

「出家の不幸」と「禅天魔」

 お世話になっている在家禅団体の久参の方から、禅の修行を続けているうちに、忙しくなり、あるとき奥さん(仕事をしている)から、「家庭と修行道場とどちらが大切なの!?」と追及され、大喧嘩になったことがあるという話を聞かされました。

坐禅だけではなく、公案の独参というマニアックなことをしている団体であり、既婚者であり、かつ、現役世代の会員は、ほとんどみんな団体の活動と家庭との両立に苦労しています。

しかし、少しおかしくはないかな、と思っています。

先日、久参の方と話していたときには

「禅の修行により人格が向上するはずなのだから、禅の修行をしていれば、人格が向上する結果、家族関係もよくならなければ、おかしいのではないか。」

ということをお話ししました。


「天地と同様、万物と一体、仏教は人格、身心を完成するのが目的であって、人間を離れて仏陀はいない。つまり宇宙を完成することじゃ。外側の文化、社会面の出来事、現象と内側の心との調和が完成されて、人格が形成される。」
(秋月龍珉・柳瀬有禅「坐禅に生きた古仏耕山加藤耕山老師随聞記」107~108頁)

「仏教の修行は、いったい何のためにするのか(略)。修行の目的を一言でいえば、それは基本的に「自己を高めるため」なのです」
(石井清純『禅問答入門』192頁)


 坐禅などの仏道修行により、人格が向上するというのなら、家族からも尊敬されるようになるはずです。
 なぜ、それによって家族との関係が悪くなるのでしょうか。
 人格が向上するはずであるのに、矛盾ではないでしょうか。
 
 久参の方からは明確な返答はありませんでした。
 しかし、ここは工夫してもよいのではないかと思います。



 ただ、その後、つらつらと考えるうちに、そもそも、家族と禅の修行とを天秤にかけて、禅の修行を優先するという精神性を問題にしなければならないうことに気づきました。
 
 
 仏教は元々出家主義ですし、釈尊自体が家族を捨てて苦行に入ったという仏伝もあるせいか、マニアックに禅の修行をする方には、家族と禅の修行とを天秤にかけて、家族を犠牲にすることもやむを得ない、と考える人が少なくないように感じます。

 しかし、出家というあり方が本当によいのか、釈尊が家族を捨てて修行に出たことが本当に望ましいことだったのかは、工夫してもよいように思うのです。

 私は、出家というあり方、そして、釈尊が家族を捨てて修行に出たことは、不幸な出来事であると思います。

 
 そもそも、仏道の実践とは、慈悲です。

 
 慈悲には、いろいろな形態があり得ますが、その典型は、望むものを与えることです。
 
 家族が望んでいることは、家族を見捨てて、仏道の修行にいそしむことなのでしょうか、禅の修行をすることでしょうか。

 正解は、そばに一緒にいて、きちんと家族を支えててくれることのはずです。


 出家とは、社会から離れることです。

 典型的には、労働と生植をやめることです。


「ゴータマ・ブッダの教説は、その目的を達成しようとする者に「労働と生殖の放棄」を要求するものである」

(魚川祐司『仏教思想のゼロポイント』35頁)
  
 そうすると、仏道修行においては、家族を切り捨てることが当然であるような感じもします。

 しかし、出家とは、最終的に、社会に戻ってくることを目的としてなされるものであることを忘れてはならないと思います。


 鈴木大拙先生は、『鈴木大拙禅選集6 禅堂の修行と生活 禅の世界』の中で、このことを繰り返し説きます。

 
「禅堂における修行は、単にその人の内面的心的能力の発達のためのみではなく、社会的一員として彼の道徳的生活を発達させるためのものである。」(94頁)
 

「禅堂生活を無事に終了したいわゆる飽参者(ほうさんしゃ)が、もっとも有効に訓練競られ、もっとも完全な資格を具備する社会の構成員となることは自然である。

 奉仕することは、かならずしも他のために何事かをすることを意味しない。もしも報酬の念を持ち、または感謝や謙下の心を欠いてこれをなすならば、それはまったく奉仕ではなくて、卑しい取引主義の行為である。禅僧はかかる行為を超脱すべきである。奉仕の生活は密接に謙下と感謝、忍辱と没我の生活に関係を有する。」(102頁)


「禅堂生活は、空の真理が直覚的に把握せらるる時に終了すると考えられるばかりでなく、この真理が、あまたの試練・義務・紛争に満ちた実際生活のすべての方面において実証せらる時、(略)大慈悲(karuna)の心を生ずる時に、終了すると考えられる。これこそは人が地上において成就しうる最大の修養である。(略)かかる理想のあるものを確固として会得する時、僧は禅堂を辞去し(略)、世界という大社会の一員として、その仲間の中に投じ、実際生活を始める。」(157頁)


 このことについて、ベトナム臨済宗の僧侶ティク・ナット・ハンは、簡潔に次のように言います。


「瞑想センターは、あなたがみずからに帰り、現実についてのいっそうはっきりした理解を得、理解し愛する力を強め、社会に復帰する準備をするところです。」

(ティク・ナット・ハン(棚橋一晃訳)『仏の教え ビーイング・ピース』79頁)

 
 最終的に、社会に戻ってくるのに、なぜ、出家をするのか。
 
 それは、社会に問題があるのではなく、出家をしようとする人間に問題があるからだと思います。

 そのことについて、ティク・ナット・ハンは、このように言います。


「瞑想センターに入るまえ、瞑想の内に平和を見いだすことを、彼らは望んでいました。ところが、道を求めつつ、以前とは違った社会をつくり、この社会が、大社会よりも、もっとむずかしいものであることに気づきます。それが、社会から疎外されたひとたちの集まりだからです。数年の後、瞑想センターにやってくるまえよりも、もっとひどい欲求不満を起します。(略)

 瞑想は、私たちが社会にとどまる助けをする道です。これは、重要なことです。

 社会から疎外されて、社会に復帰することのできない人々がいます。注意しなければ、自分たちもそうなることを、私たちは知っています。」

(ティク・ナット・ハン(棚橋一晃訳)『仏の教え ビーイング・ピース』72~74頁)

 
 ティク・ナット・ハンは、出家者の集まりについて


「社会から疎外されたひとたちの集まり」


であると言います。

 
 仏教は、「苦」への対応を問題とするものです。
 
 「苦」とは、どんな素晴らしいものも朽ち果て、どんな快楽もいずれ消え去り、そして、老い、病み、死んでいくという人生に対するむなしさです。

 このようなものは、誰しもが持っています。
 
 そして、自分なりにそれに対応して、前向きに生きていくのが普通の人間です。

 しかし、ある種の人は、どうしてもそれに耐えられない。
 
 どうにかして、それを根治しなければ不安で不安で仕方がない。

 そこで、それを根治するための何か特別なものを求めて、社会から離れる。

 社会から離れるその人は、このように思う。

 人生は、むなしいものなのに、みんなそのことに気づかず、へらへらと何も問題がないように生きている。
 
 自分は、周りの人間が気づいていない人生のむなしさというものに気づいていて、これをうまく解決するのだ。

 
 彼自身が社会を疎外しているのか、社会が彼を疎外したのか。

 普通の人なら、社会の中にあって、むなしさの問題を解消する。

 社会は、むなしい人生を価値付けてくれるもの。


 けれども、社会関係のうまくつくれない人は、人生の積極的な価値を作れない。

 他の人と慈しみ会おうと思っても、どうしてもうまくいかない人がいる。
 
 そんな人は、人間関係によって、更に傷ついていく。

 特に、労働というシビアな利害得失が重要な意味をもつ人間関係や、家庭という濃厚な人間関係が耐えがたいのではないかと思う。

 実際、在家で禅なとの仏道の実践をしている人の話をきくと、仕事や家庭に何らかの問題を抱えている人が少なくない。

 
 出家とは、人間関係をうまく作れない人を、労働や家庭といった人間関係から引き離してやることによって、心の余裕を作ってあげるものだといえると思う。

 そして、じっくりと、人間関係を作る理念、すなわち、慈悲を具体的な行動として実現する技術を学ぶ。

  
 慈悲とは、典型的には、望まれているものを与えることであり、卑近なこととしては、その所属する社会集団の中で、与えられている役割を果たすこと、よい仕事をして、よい家庭を築くこと。

 出家をして、「労働」や「生殖」を否定する生活を送る先に待っているのは、「労働」や「生殖」の肯定です。

 
 これを松本史朗先生は


「われわれがこの苦の世界に生まれ生きているのは、愛するためであり、働く歌目であって、苦から逃れるためではない。われわれにとっては、日々の愛や悲しみや労働の生活以外に、釈尊の悟ったさとりを現成せしめる道はないのである。」

(松本史朗『仏教への道』146頁)

 
という言葉で述べます。

 
 社会の中にあって、平凡な助け合う、慈しみあう生き方を否定して、出家しようなどという精神性こそに問題があったというべきなのでしょう。


 前田利鎌先生は、トルストイを引き合いに出しながら、辛辣に語ります。


「長く貴族生活に耽溺していたトルストイは、中年に及んで人生の意義を懐疑し始めて虚無思想の結果いく度か自殺しようとしたそうである。ところが或る時彼は突如として一の真理に契当した――人間は生を欲するのが順当である。しかるにその生を求むべき人間が死を追わんとするが如きは、どこかに誤りがあるに違いない。一体、人生の意義などといおうことを考えて懐疑に陥るのは、怠惰な生活を送っているからである。孜々として働いているものを見よ。彼らは人生の意義なぞというものについては何の疑惑も持っていない。一体、人生問題なぞというものは、生活に好きがあるから起って来るのだ。そんな懐疑は有閑階級の戯論である。怠惰こそ一切罪悪の根本である。人生の意義なぞというものは、勤労者の日々の生活によって自ら体験さるべきものなのだ。トルストイはこう考えて自ら労働の生活に入った、といっている。」
 
(前田利鎌『臨済荘子』238頁)

 
 次の一文もよく引用しますが、人生の方向性を間違えないためには、脳科学論に基づく次の指摘は、大切なものだと思います。


「不幸の芽を摘むことばかりに気をとられてはいけない。それよりもたいせつなのは、幸福を増すような要素を積極的に見つけることだ。

(略)

 重要な発見が、科学的な研究からもたらされている。それは、人がほんとうの意味で幸福になれるのは次に述べる三つの要素があわさったときだけだということだ。ひとつ目は、ポジティブな感情や笑いを数多く経験すること。二つ目は、生きるのに積極的にとりくむこと。そして、三つ目は、今日明日ではなくもっと長期的な視野で人生に意義を見出すことだ。

 ふたつ目の、仕事であれ趣味であれ、自分がしていることに積極的にかかわることは、三つの中でもとりわけ重要だ。」

(エレーヌ・フォックス(森内薫・訳)『脳科学は人格を変えられるか?』341~342頁)

 
 仏道にとって、「不幸の芽をつむ」ことが、座禅等の瞑想でしょう。

 扁桃体の活動を低下させることによって、不安を解消する。
 
 しかし、不安を解消するだけでは、人生の問題は解消しません。

 仏教の問題とする「苦」は人生のむなしさであり、それは、不安が解消させるだけでは解消しようがないものです。

 そのためには、瞑想だけではなく


「幸福を増すような要素」


が必要です。

 上座仏教の限界は、ここにあるのだと思います。

 瞑想だけでは、「幸福を増すような積極的な要素」は出てきません。

 これも、よく引用しますが、魚川祐司先生が

ミャンマーでは瞑想の実践を中心として多くのことを学ぶことができ、おかげさまで、(略)私自身の実存的な関心として生死の問題に悩むことは、もうありません。

 ただ、自分にとっての生死の問題(己の中の有限と無限の問題)に、いちおうのけりがついたとしても、その上でこの有限の生をどのように生きるべきかという問題は残ります。

(藤田一照・魚川祐司『感じて、ゆるす仏教』4~5頁)

と語るとおり、上座仏教の実践を相当程度行っても、「有限の生をどのように生きるべきか」という「幸福を増すような要素」をいかに見いだすかという問題は解決されないのです。


 上座仏教の限界は、ここにあり、人生のむなしさの問題を瞑想だけで解決するためには、苦行にも匹敵するような実践をしなければむずかしいのではないかと思われます。

 
 とはいえ


「幸福を増すような要素」


として重要な


「積極的にかかわる」


気持ちを起こさせるようなものに出会うことはむずかしい。

 魚川祐司先生が

「有限の生をどのように生きるべきか」


と悩む通りです。


 大乗仏教の発見は

 
「積極的にかかわる」心境を作り出すものとして
「慈悲」を発見したこと


だと思います。

 他者を慈しむ行為、それ自体が、人生の幸福を増すものであると気づき、他者との関係性を断絶させるのではなく、他者との関係性を積極的に作り上げることの大切さに気づいたこと。


 出家というのは、不幸なことです。

 
 よい仕事をし、よい家庭を築くことこそが、人生を価値あるものとするものであるのに、他者との関係性を適切に構築できないため、他者との関係性の中で傷つき、これを癒すため、仕事からも、家庭からも離れざるを得なくなった状態なのですから。


 禅の大きな発見の一つは、修行の方法に作務という労働を組み込んだことではないかと感じます。

 また、日本において、明治期以降、僧侶が妻帯するようになったことについて、堕落であると捉える見方が多いように思いますが、私は、洗練ではないかと感じます。


 これもまた繰り返しですが


「仏教は、慈悲を以て主旨とする」

(釈宗演『一字不説』2頁)


です。

 在家者にとり、一番身近な慈悲を注ぐ対象は、家族です。

 それにも、かかわらず、仏道修行の目的で、家族を犠牲にすることは矛盾です。

 
 冒頭の久参の方に、まず、それを言えなかったことを反省しています。

 
 
 「禅天魔」


 坐禅の実践にのめり込むようになったとき、この言葉に接した際、坐禅の素晴らしさを、いくばかりか感じていたことから、「禅天魔」と言った日蓮上人は、狭量なのではないか、と思いました。

 しかし、最近、このような見方も理由があるのではないか、と感じるようになりました。

 公案の独参などといったマニアックな禅の修行をしている人は、公案の透過によって、特別な心理状態になるという、いわば私利私欲を目指し、日常において、「慈悲」の実践をするということに目がいっていないように感じます。


「大なり、小なり、不可避的に、知的面で、何とか解決をつけたいと考えて、公案の透過に孜々(しし)としている禅僧の心はおのずから抽象的な領域にのみ食いこんでゆくので、生活の社会的・実際的意味についてはあまり注意をはらわぬ傾向がある」

鈴木大拙鈴木大拙禅選集6 禅堂の修行と生活 禅の世界』103~104頁) 


 正直、余暇にボランティア活動をしているなどという人は全くと言ってよいほどいません。

 冒頭に挙げた久参の方のように、禅の修行のために家族を犠牲にするということも疑問を感じていない人が少なくありません。

 「見性」や「転命開悟」も、慈悲の実践が躊躇なくできるようになるためのものであるのに、そもそもの慈悲の実践をしていなければ本末転倒です。

 
 坐禅によって、扁桃体の活動を低下させ、心に余裕が出てくるようになると、他の人に対してやさしくなることができます。

 禅は慈悲の実践をしやすくする素晴らしい技術だと思います。


 しかし、「見性」や「転命開悟」などを目指すと、そもそも慈悲の実践ができないまま終わってしまう。
 
 「禅天魔」という言葉には、そのような意味もあるのではないかと感じます。



「悟りが大事ではない、ということではない。しかし、それは禅において重視しなければならないところではない」

(鈴木俊隆『禅マインド ビギナーズ・マインド』
11頁)


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