坐禅普及

主旨は慈悲。行は坐禅。

【参考資料】禅の他力性

(1)秋月龍珉『誤解された仏教』

「禅者が、みずから禅を『自力』と称するのは、私は禅者の誤りであると思う。『自力』の宗教などというものが、あるはずはない。真の宗教は、どこかで自我を否定するものでなければならない。釈尊の仏教は、はっきり『自我否定』の教えであり、すなわちその基本においてきびしく『無我』を説くものであった。」(170~171頁)



(2)田辺祥二『禅問答入門』

「よく自力と他力ということが言われ、大きな誤解を生んでいます。自力の立場が禅であり、他力の立場が浄土であると。よく考えてみれば、本来自力の立場などあり得ないのです。禅においては、坐禅が修行の中心的な行となりますので、これは自力であると思われがちですが、どんなに修行しても自分が仏になることはできません。どんな立派な境地に達しても、自分が残っているうちは仏とは言いません。残るどころか、修行してますます我を強化して天狗か魔のよういなってしまう人もおります。このような人は、人はだませても、人を救うことはできません。」(138~139頁)



(3)藤田一照『現代坐禅講義』

「『坐禅に一切を任せる』という表現を何度もしました。それは、われわれはあまりにも意識だけで坐禅の全てをこなそうとする傾向が強すぎるので、それへの解毒剤として、からだの自然に任せることを強調してきたのです。」(432頁)



(4)大森曹玄『参禅入門』

「『受けて立つ』態度は(略)絶対的に相手に随いながら逆に相手を包んでしまうのである。世人は浅薄に、禅は自力の道、真宗は他力宗などと割り切ってしまうが、その自力と考えられている禅すら、『受けて立つ』点で他力の真宗とまったく同じである。一般に宗教は受動的といわれるが、その受動の意味がじつは消極退嬰のものでなく、絶対主体的立場に立つ積極的のものであることを見落としてはなるまい。」(215~216頁)



(5)松本史朗『仏教への道』

(※浄土真宗歎異抄に関する記述ですが、味わい深いです)

「『歎異抄』にみられる、

わがはからわざるを、自然とまうすなり。これすなわち他力にげまします。(略)

すべては仏の力であり、われわれは仏によって生かされているのだと考えることほど人間にとって有益なことはない。また、われわれは自分自身で生きていると思うことほど愚かなことはない。」(170頁)

※ここでいう「仏」を実体的な意味だととらえると、大きく間違えると思います。ですから、仏教書は危険なのですが、それを除けばとてもよい考え方です。





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