坐禅普及

主旨は慈悲。行は坐禅。

禅の修行は「禅的人格」を生み出せるか。

「禅堂生活は、空の真理が直覚的に把握せらるる時に終了すると考えられるばかりでなく、この真理が、あまたの試練・義務・紛争に満ちた実際生活のすべての方面において実証せらる時、そしてまた雨が悪者善者のわかちなくこれにひとしく降り注ぎ、あるいは趙州のの石橋が馬・驢・虎・豺(さい)・亀・兎・人間などのすべてのものを渡すと同じしかたにて、大慈悲(karuna)の心を生ずる時に、終了すると考えられる。これこそは人が地上において成就しうる最大の修養である。そしてこれを何人もよくなしうるものではない。しかしながら、われわれが全力を尽して菩薩の理想接近しようとするぶんには、何らの害はない。もし一生にして足らずとするならば、千万劫の未来世に望みをかけてもよかろう。かかる理想のあるものを確固として会得する時、僧は禅堂を辞去し(略)、世界という大社会の一員として、その仲間の中に投じ、実際生活を始める。」

鈴木大拙鈴木大拙禅選集6 禅堂の修行と生活 禅の世界』157頁)



「禅の修行」が生み出そうとする人間は、このようなものです。

ここで重要な言葉だなと思うのは、「実際生活を始める」ということ。

ほかの人に対し、「禅の修行」によって得られた何らかの「真理」を言句で教導するなどというものではないということ。



「禅の目的は畢竟如何と云えば、上求菩提下化衆生に外ならぬのぢゃ、(略)之れを措て外に佛教は無いのである、僧俗を問わず、男女を論せず、此の目的を達せんが為めに大乗仏教の道に入るのぢゃ。修禅の必要を感ずるので、例えば遊泳の術を学ぶのも、己れ自身一箇の溺れを救わんが為めのみには非ず。他人の溺るるものあらば、直ちに之を救うことの出来得るように準備し置くので、自利利他両(ふたつ)ながら兼ねてあるのぢゃ、斯う云うと、否吾々は在俗であるものを、下化衆生などと云う必要はないと、云う者があるかも知れぬが、夫れは飛んだ心得違いぢゃ、下化衆生と云うても、経を読んだり、法話を為したりする許りが、衆生済度でない、大乗仏教を修したら、修し得た丈けの得力を、直に仁義道中の上に用いて、士は士として、農は農として、工は工として、商は商として働かすので、(略)是れ皆大乗門中の説法というものぢゃ。」

(釈宗活『悟道の妙味』5~7頁)



実際の生活の中の行動で示していく。
 
このことは、修行の初期段階だけではなく、一応の修行の終了後(仏道修行は一生のものとされますから)も同様です。



「法を説くというのは口ではありませんな。体で説くのが本物でっせ」

(森本省念発言。小堀南嶺「省念老師の風光」山田邦男編『森本省念老師〈下回想篇〉』64頁)




「佛教は慈悲を以て主旨とする」

(釈宗演『一字不説』2頁)



言葉で「慈悲」を繰り返していても、行動が自己中心的であれば話になりません。

また、ほかの人に対し、「慈悲」を施せと言っても、説教臭い話を聴きたいという人がいるわけがない。

「慈悲」の具体的な行動によって、それを示すしかない。



テーラワーダでは、「慈悲」の瞑想も活用されます。

しかし、「慈悲」の具体的な行為がなければ、「慈悲」の「妄想」にすぎません。

テーラワーダの実践をしている人の中には、慈悲の瞑想が辛いという人もすくなからずおり、その理由には、心の中に思うことに相応する現実がないことにも由来するのではないかなと思います。

テーラワーダでも、その問題意識のある方は、「慈悲」の行動を心掛けていらっしゃいますが、稀であるというのが実感です。



「慈悲」の行動が伴うから大乗仏教です。

しかし、実際には、大乗仏教であるところの禅の修行をする人でも、「慈悲」の行動が伴うことは珍しい。



「正直に告白すると、著者は公案禅というものに対して深い疑いをもった時代がある。それは、公案体系に参じて大事了畢したと称する者について、その行裏(あんり)(行ないの後)を見ると、そこにやはり煩悩の習気(じっけ)(残り香)が、自我の分別が、明らかに見て取れるからである。そこには、いみじくも外国の好人が言ったように、「鼻もちならぬ禅臭」があって、「無我」であるはずの仏道を「大我禅」に落としてしまっている。ご自身は九十六歳で遷化の日の朝まで入室を聞かれた奥多摩の古仏加藤耕山老師も、「公案を使うのはやめたらどうか。公案ではどうしても頭で考えることになる。秋月先生は禅の学者だから言うておくが、これからの禅は本当にどうすればよいのか研究してもらいたい。衲は曹洞宗から出たからか〈只管打坐〉が親しい。だが、今日の曹洞宗のやり方には反対だ」と言われた。(略)

公案だけでははたして本当に禅的人格が練出されるのだろうか。世のいわゆる大事了畢底なる人々を見て、私はそうした深い疑いを抱いた。

(秋月龍珉『公案』333~334頁)

「一般に大悟徹底したと見られている禅者でも、悟後の生活のあり方には問題がある。たとえば社会正義の問題に関し、なんらの発言や寄与がなされないということは、(略)反省されるべきことである。(略)本来そのような人間を現実から逃避せしめるところがあることは、自己内観のプロセスにおいて止むを得ざることかも知れぬが、いつでもそこに止まっていては、宗教の積極的働きの面が失われてしまうであろう。その点は禅が念仏より積極的に大悲の活躍をなすべきであるのに、かえって往相的修行の困難さから出世間に止まって、還相的現実社会への働きかけに欠けているようである。」

(藤吉慈海『禅と浄土教』131~132頁)


 
「慈悲」とは、現実に向き合う具体的な活動ですが、禅堂での修行に目が眩み、却って、現実社会の中の活動ができなくなってしまう。

月ではなく、指を見てしまう。



先の秋月龍珉先生の『公案』の引用文に出てくる加藤耕山老師は

公案かせぎがじきに妄想になる。

といいます(秋月龍珉・柳瀬有禅「坐禅に生きた古仏耕山加藤耕山老師随聞記」31頁)。

公案の独参にとらわれてしまうと、実社会の中でしっかりと生きることができなくなる。

同様に、坐禅にとらわれすぎてもいけません。



「あまり禅に興味を持ちすぎるのもいけません。若い人が禅に夢中になると、学校をやめてしまし、森や山にこもって坐禅を始めます。この種の興味は本当の興味ではありません。」

(鈴木俊隆『禅マインド ビギナーズ・マインド』110頁)



「禅の修行」は、日々利他行を実践する人、すなわち、「自覚的な」菩薩を生み出すことが目的のはず。

しかし、実際に、どれ位そのような人物を生み出すことができるのか。



アフガニスタンでお亡くなりになった中村哲氏、スーパーボランティアの尾畠春夫、東日本大震災のときにわざわざ消費者金融に借金をして物資を揃え危険を顧みず被災地に赴いた江頭2:50氏……

世の中には、菩薩として日常を生きている人が少なからず存在します。

しかし、彼らは、坐禅等はしない。



坐禅等の瞑想は、心を楽にし、落着かせてくれるものです。

菩薩行を行じる上で、力になることは間違いありません。

しかし、実際に、坐禅等の瞑想に効果を感じ、習慣的に行じている人の多くは、現実社会から背を向けて、その効果に陶酔する方向に向かいがちであるように思います。



「太子の思想ということになれば、ここでどうしても『三経義疏』について触れなければならない。(略)

法華経の)安楽行品の「常好坐禅」という一句の解釈はきわめて興味深いものである。すなわち、ここでは経の本文はもちろん、法雲などの解釈も『常に坐禅を好め』という意に解しているが、『義疏』ではあえて異をとなえ、山中で坐禅ばかりしているような修行者は小乗の禅師であり(「常好坐禅少(小)乗禅師」)、菩薩が近づいてはならない十種の対象(十種不親近)の一つとみたのである。」

末木文美士『日本仏教史』38~40頁)



日本仏教の黎明期において、単に、翻訳をするだけではなく、問題意識をもって独自の解釈をしていたことはすごいことです。

しかも、それが正鵠を射ている。



禅は禅に非ずしてよく禅なり。

「禅の修行」と「禅的人格」との関係によく現われている気がします。

【参考】
脳生理学的観点から見た坐禅と禅的人格との矛盾 - 坐禅普及






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