坐禅普及

主旨は慈悲。行は坐禅。

摂心会(合宿形式の坐禅会)の危険性(2)

前回の記事は次のとおり

○摂心会(合宿形式の坐禅会)の危険性(1)
https://zazenfukyu.hatenablog.com/entry/2020/08/30/160712

岡田尊司先生は、『マインド・コントロール』の中で、マインド・コントロールの方法論を五つの原理に分けて整理されます。(216頁以下)。



第一の原理:情報入力を制限する、または過剰にする

第二の原理:脳を慢性疲労状態におき、考える余力を奪う

第三の原理:確信をもって救済や不朽の意味を約束する

第四の原理:人は愛されることを望み、裏切られることを恐れる

第五の原理:自己判断を許さず、依存状態に置き続ける



前回の記事では、「第一の原理」を取り上げました。

今回の記事では、「第二の原理」を取り上げようと思います。

前記『マインド・コントロール』からの引用が多いことから、同書からの引用については、頁数のみを記載し、書名を省略することは前回記事と同様です。



6 第二の原理:脳を慢性疲労状態におき、考える余力を奪う



「第二の原理:脳を慢性疲労状態におき、考える余力を奪う

第一の原理をさらに強化する目的で、合わせて用いられるのが、脳のキャパシティ自体を低下させることである。特に、過剰な情報を負荷して、処理能力をオーバーした状態を作り出す場合、同時に、脳の処理能力自体を低下させれば、主体的な判断能力自体を低下させれば、主体的な判断能力を奪うことがいっそう容易になる。

それは、神経生理学的な状態としては、脳の伝達物質を枯渇させることである。疲労困憊、不眠、低栄養、極度のストレスによって、脳の伝達物質が底をつくと、脳はうまく機能しなくなる。

両方の方法を併用することで、さらに強力に、正常な判断能力を奪ってしまい、抵抗を弱め、新しい情報や信念を受け入れやすくする。情報が処理しきれない状態に陥ると、脳は主体的に判断すること自体を止め、もっぱら受動的、機械的な処理に頼るようになる。抵抗や批判を奪ううえで、それは好都合である。」(221~222頁)



疲労困憊、不眠、低栄養、極度のストレス」

いずれも「摂心会」で行われる「本格的な禅修行」に伴いがちなものです。

たとえば、禅宗では、「労働」が重要視されますが、これは「疲労困憊」に繫がりやすいでしょう。

また、不眠については、前回記事で取り上げたとおり、「夜坐」が対応します。

睡眠時間を奪うことは、洗脳にとって有力かつ簡易な手段のようで、前回記事の引用部分にも出てきましたが、前記引用の後にも、次のような記述があります。



「洗脳においては、脳を絶えずビジーな状態に置くとともに疲労困憊させる方法が徹底して取られる。まず頻用されるのは、睡眠時間を奪い、その質を劣悪なものにするということである。」(222頁)



「低栄養」については、欲望に問題意識を持つ、仏教の実践においては伴いがちなものです。

「極度のストレス」は意味不明の公案に取組み、師家に見解を呈しても、厳しく否定される状況が、これに沿うものといえます。



「もう一つは、もっと巧妙でエレガントな方法で、一見睡眠を奪うことが目的というよりも、もっと役に立ち、楽しくさえもある活動が目的のように見せかけたもので、結果的に睡眠を奪い、疲れさせる。

学習や自己啓発、修練、真理の探究を目的として、早朝から深夜まで取り組みを行わせ、話をしたり、講義を聞いたり、集会をしたりといったことが延々と続けられる。

その場合、いつになったら休めるか、いつになったら解放されるのかという見通しを与えず、もう終りかと思うと、また次の課題や活動を課すことによって、疲労の限界を超えさせるという方法もしばしば採られる。」(223~224頁)



摂心会では、早朝から夜遅くまで、様々な行事がひっきりなしに行われます。

提唱などのほか、勉強会や一般の講演会、踊りの練習などといったものもありました。

提唱については、人によりけりで、基本的にある程度当該団体の教義の中核がわからないと意味不明の話なので、次でとりあげる「無意味なこと」に該当するかなと思います。

坐禅についても、慣れてきた人にとっては、「修練」として、それ自体が魅力的なものに映るかと思います。



摂心会の話から外れますが、私の所属していた団体では、その団体で実施する行事が年間にいくつもありました。

ほぼ内輪の行事であり、社会的有用性は無いのですが、それに関する「作業」が色々振られてくることがありました。



私は、仕事もありますし、禅の「修行」以外にもやりたいことがあったので、断るようにしていました。

内輪の行事なのですから、スタッフが足りなければ、中止すればよいのですが、私が作業を断ったある行事の担当者の人は、「老師から与えられた使命(ただし、内輪の行事)だからなんとしてもやりとげなければならない」と力説していました。

私が断った作業を、最終的に、自営業をされている別の会員の方がやることになりました。

自営業の彼は、無定量で仕事をしているという感じで、摂心会の時でも、行事が終わった夜間、持ち込んだノートPCを使って、本業の作業をしており、いつも睡そうな感じでした。

私が断った作業についても、睡そうな目で「これも老師から与えられた試練だから」などと言っていましたが、このようなモードになると、摂心会の時だけでなく、日常生活の中でも、忙しい仕事の中で余計な課題が増えていくのですから、疲労しやすくなり、結果として、組織に従順になるサイクルに入りやすくなるのかなと思います。



「過重労働や単調で遣り甲斐のない作業を長時間行わせ、疲労を蓄積させる。無意味なことをやらせることで、達成感や作業の喜びを奪い、いっそうストレスを強めることを意図する。」(224頁)



作務は基本的に単純労働です。

これも、作業を通して、脳が外界の情報を入力して、外界の状況に沿った行動として出力するというサイクルを取り戻す上ではよいものかと思います。

しかし、疲労の蓄積という点では、洗脳の有力な手段となってしまう側面があるようです。



「さらに、先の見通しを奪い、常に高いレベルの不安と緊張に晒し、希望と絶望の間を行き来させることで精神的に消耗させる。わざと親切にするかと思うと、烈しく罵倒し、打ちのめす。それも、大した理由もなく態度を変える。それによって、当人を混乱させるのだ。」(224頁)



一番典型的な例は、加藤耕山老師の語る梅林寺僧堂の次のような状況かと思います。



「梅林寺という所は、ほかの時は別だが臘八だけは思いきって叩きよりますからね。(中略)堂内のほうでは直日(じきじつ、禅堂内での総取り締まりの役)は『独参をせよ、グズグズ坐っておっても何もならん、独参せよ』と。そうすると行くんですな。行くと大庭の所に助警というのが五、六人警策を持って立っている。『何ウロウロしとるか、そんなドイツイことで老師の前に行って何になるか。しっかり坐って来い、禅堂へ行って坐ってこーい』。それでも禅堂へ行くと叱られて追い出されるから、我慢はって行こうとする。ナニクソと、もう暴力ですな。一人や二人ならいいが、四人も五人もおって、なかには柔道何段なんていうやつがおって、しまいには真剣になってやりだすんじゃ。(中略)坐れというのならいくらでも坐っておるんじゃけれども、両方ではさみ打ちする。一方は『行け』というし、一方は『いかん、行くな』とこういう。無理ですわね。それがもう、実に悲惨ですからね。バタバタバタと、まるで戦場とちょっとも違わん。」

(加藤耕山発言。秋月龍珉・柳瀬有禅『坐禅に生きた古仏耕山 加藤耕山老師随聞記』43~45頁)



公案を含め、このような相矛盾する状態におくことが、禅の実践において重視されますが、これも、洗脳に結びつきやすくなる要素と言えます。



「そうした境遇に長時間置かれると、主体的に行動するということは一切見られなくなり、相手の顔色だけをうかがい、それに合わせて行動するということしかしなくなる。その状態は、虐待を受け続けている子どもの状態に酷似していると言えるかもしれない。」(224~225頁)



禅では、「自我」を否定的に捉え、受動性が重視されますから、そのような点も相まって、「主体的に行動するということ」をし難い方向に行きやすくなるように思われます。




おそらく個人の心がけに止まるのであれば、次に挙げる記事のようにプラスの面が大きいのではないかと思います。

しかし、これを集団的・権威主義的に行ったときには、弊害の生じる可能性が大きいように思います。

【参考】
○【参考資料】受け入れ、向き会う
https://zazenfukyu.hatenablog.com/entry/2019/10/13/145844


このような隔離や疲労の蓄積が洗脳の効果を持つことがわかる具体例が戦前、警察に検挙された左翼思想家の「転向」でしょう。



「『転向』をもたらすうえで力をもったのは、拷問といった暴力よりも、いつ終わるともわからない隔離や単調な生活による情報の欠乏、孤独、不安、時間が空費されていくことへの焦りであった。 」(226頁)



とある禅の団体の指導者の方は、「禅の修行によって、ガラリと変わる」ということを強調されます。

確かに、それまであった「自我」が否定されれば、性格や世界の見え方が変わるのでしょう。

私は、十代の頃、「一切皆苦」という言葉から仏教に興味を持ちました。

このような世界の見え方が理性的であると思い込んでおり、不孝な世界の見え方であるということに気づくことに時間がかかりました。

性格や世界の見え方が変わった方がよいのではということはありますが、しかし、問題は、どのようなものに変わるかです。



自我は、私たちの肉体を他者の支配から守ろうとするものです。

その守ろう、守ろうとする思いが強くなりすぎると、却って不安感が増したり、優越感を求め、その背後にある劣等感が強まったり、他者に対する警戒心が強まって、意志疎通に不全を来すなどといった不孝も生じるように思います。



けれども、それを完全に否定してもよいのでしょうか。

「自我」は「自我」で、一生懸命頑張りすぎているだけであり、少し休ませてやるだけで、日常生活に支障はないはずです。

私たちの「自我」は出来が悪いかも知れませんが、その自我で、人生に対し、きちんと対処できていたからこそ、誰もがきちんと現在生きているのです。

「自我」の頑張りすぎの問題は、日常の坐禅により、扁桃体の活動を低下させることによって十分対応できるように思われます。

【参考】
扁桃体の活動の低下――坐禅の生理学的効果(1)
https://zazenfukyu.hatenablog.com/entry/2020/07/12/200328

逆に、自我を否定することは、この肉体を別の何かに委ねきることであり、自我を否定した後、そこに何が盛られるかは、他者に委ねざるを得ません。

特に、禅の世界では、「不立文字」が強調される余り、実践がどのような効果をもたらされるかについて十分な説明がありません。

自分自身がその実践によってどのように変わるかは何ら保証されていないのです。

そして、このような「予測のつかなさ」それが「マインド・コントロール」を実現しやすくする条件の一つでもあります。



「人は予測できることに対しては、ある程度心構えをもつことで対処することができるが、予測不能な状態に置かれると、脆さを見せる。精神を蝕まれ始める人もすくなくない。(略)見通しを奪うことは、洗脳や思想改造において効果を発揮してきた。」(225頁)



このように考えると、自我を否定することのリスクは余りに大きいように想うのです。

【参考】
○自我の大切さ
https://zazenfukyu.hatenablog.com/entry/2020/08/01/171621

この点は、ユング派の心理療法家としての実践の中で、西欧的自我の問題性に気づき、仏教的観点の有用さを認識しながら、西欧的自我を否定してはならないとする河合隼雄先生の次の指摘が参考になります。



「私は仏教というのは非常に寛容性の高い宗教である、と思っています。それは日本にまで渡ってきてますますその渡合を強くしています。したがって、私が仏教徒であり、かつユング派であると言っても、あまり問題はないように感じられます。しかし、仏教徒と言っても厳密に考える限り、仏教のどれかの宗派を選ばねばならないし、そうなるとそこには一定の教義があり儀礼があるし、その宗派の集団の維持ということも生じます。このような点まで必要となってくると、私は仏教徒であることを留保しなくてはなりません。私が

《個性化の過程と考えることに、これらは妨害的にはたらく》

ことがあると感じられるからです。特に日本人の集団は、西洋近代の自我に対して敵対的にはたらく傾向が強いので、特定の集団に帰属することには慎重でなければならないのです。私は

《西洋近代の自我の在り方を唯一の正しいものと考えるのには反対ですが、その肯定的な面を十分に認めています。》 

明恵を心の師と仰ぐと言いましたが、明恵自身は宗派をひらくことには否定的でありました。彼は当時の宗派の組織や教団から逃れようと大変な努力をしています。このことは、私がたとい明恵を師と仰ぐとしても、明恵を尊敬する集団に属しようとすることはできないことを意味しています。明恵にならうならば私は一人でなければなりません。安易に彼の『弟子』になることは許されないのです。」

河合隼雄『〈心理療法コレクションⅤ〉ユング心理学と仏教』60~62頁)



誰しもが、人生の中で、何度となく、自分自身が嫌になるという経験があります。

とはいえ、自分自身を全否定するような劣等感を抱くという精神性にも問題があるように思われるのです。



時に、人生の中で、孤独に苛まれるときもあります。

そのようなとき、自分を受け入れてくれる「集団」に所属することに安心感を得ることもあるかと思います。

禅の団体を含めた宗教団体に所属する人は、自分たちと同じ実践をする人が増えることによって、自分たち自身に自信を持つことができますから、新たにその実践をしようという人を暖かく迎え入れます。

けれども、私たちは、人生の中で、どんなに孤独に苛まれていても、きちんとこれまで生きてきたのです。



「何ものにも依って立つことなく生きること」



禅の理想の一つですが、特別な「修行」など全くせずとも、私たちは、誰もが自分の人生を通し、これを実践しているのです。

本当に効果があるか、どんな効果があるのか、わかりもしないのに、特殊な集団の中での特別な「修行」を求める必要はないのかなと思うのです。



「意味もなく慢性的な疲労状態を強いるような組織や生活には、未来はないと思った方がいい。もっとゆとりをもって、心身をいい状態に保てることが、もっと幸福で自分らしく有意義な人生につながる。」(229頁)





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https://zazenfukyu.hatenablog.com/entry/2020/08/10/053529