死を恐れる
20代の頃、一度だけ仕事をサボったことがあります。
職場の建物前まで来たところで、職場に電話をかけて、その日の予定を全てキャンセルするようにお願いしました。
その後、方々をフラフラと歩き回りました。
最後、20階ほどの高さのマンションの最上階まで上りました。
逡巡しながら廊下を徘徊しました。
幸いなことに、当時の私は、根性なしでした。
どこかで、引き留められたいと思っていたのでしょう。
携帯電話の電源は入れたままでした。
職場やら、妻やらの電話が入りました。
最後は、情けない顔をして、自宅に戻った後、職場の上司、先輩、同僚らに頭を下げて回りました。
振り返ると、あのとき、本当に根性がなくてよかったと思います。
私に、死を恐れない勇気があったのなら、当時、幼稚園にも入っていなかった一番上の子どもが、自分なりの理想を持って大学で学び社会人になろうとする姿を見なかったであろうし、生まれてくるはずであった下の子どもたちもこの世界に存在することはありませんでした。
当時の私は、本当に愚かでした。
愚かな私を救ってくれたものは、死への恐れでした。
悉有仏性
すべてはしかるべくあるものであり、嫌う底のものは一切ない。(注1)
死へのおそれもしかるべくあるのでしょう。
仏道もなければ外道もない。(注2)
死を楽しみ、死へのおそれを克服するのも悪くはありません。
実際、それでも悪くないような気もします。
けれども、死は、おそろしいものであることが普通です。
普通であることの何が悪いのか。
人生の最後の最後まで死が恐ろしい。
最後の最後まで、命乞いをして、泣き叫びながら、死ぬ。
それも人間として望ましい死の迎え方であるように思います。
「現世の生命を愛するのは人情の自然です。自分に対しても他人に対しても、その愛情をできるだけ十分につくし、悔いのないようにと心がけます。こうすることを生に対する執着とか未練とかいって恥ずべきではない。(略)
死にたくない、今死ぬのはくやしいと、耐えがたい憤懣にかられることもありましょうが、それもいたしかたない、病という生命をむしばむ条件が発生して、これを解消させる条件がない場合、それもまた必然の理です。口惜しい、畜生!とさけびたければさけんでもよい。それも生命への愛の自然です。(略)
あれも気になる、これも苦になるという方があるかも知れませんが、気になったら気にしなさい、苦になったら苦にしなさい。どんな苦しみもやがて佛心の海にとけこんでしまうものなのです。心配はいりません。」
(朝比奈宗源『佛心』52~57頁)
(注1)「吾が禅海、波瀾洪大、嫌う底の法無く、又た着するの底の法無し」(今北洪川『禅海一瀾』)
(注2)「一切衆生悉有仏性だからです。したがって宇宙の全てが仏性、即ち真実です。故にこれこそはという特別であるものは、全てあってはならぬことです。こうしてみると、全てが仏性であり真実であってみれば、特に外道というものがあるわけではないのです。」(酒井得元『永平広録について』23頁)
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