坐禅普及

主旨は慈悲。行は坐禅。

現代テーラワーダは新宗教ほか――上座仏教の基礎知識(1)

禅と並ぶ坐禅等の瞑想の実践のもう一つの雄が上座仏教(テーラワーダ)です。

科学的なエビデンスの揃ってきたマインドフルネスの基礎となったり、釈尊の直説に近いといわれるなど注目されています。

禅との相違点を意識しながら、その基礎知識に触れて行きます。



1 悟りの概念の相違



禅と上座仏教との最大の相違が「悟り」の概念の相違です。

禅では、「自他不二の体認」などといわれます。

これに対し、上座仏教では、「貪瞋痴の滅尽」とされます。



「経典において、『悟り』の境地(略)は、『貪欲の壊滅(略)、瞋恚(しんい)の壊滅(略)、愚痴の壊滅(略)』と定義されるのが常である。」

(魚川祐司『仏教思想のゼロポイント 「悟り」とは何か』42頁)



禅の実践をしている人の中でも、この種の煩悩の滅尽が実践の目的だと勘違いしている人も少なくありませんが、禅の場合は、「煩悩即菩提」であり、煩悩をなくそうという発想自体が間違っていると捉えることになります。



「『一念不生全体現、』(略)――一念と云うは、可愛い――憎い――ほしい―――おしい――と云う、それであります。かかる念慮は何人にも胸中に生じます。それを生じさしてならぬと云うのであります。従来、心と行うものは死物ではありません活物であります。故に如何にしても念慮の生じない様には出来ません。(略)種々様々な念慮の生ずるのが、心の本質であります。一応字面の上のみを見ますると無念無想になれと云う様でありますが、否、然らずであります。可愛なら可愛の一念の外に余念を生ぜず、憎いなら憎いの他に邪念を生ぜず、ほしい――おしい――そのまま、是に別の念慮を混入せず、そのものそれ三昧になることであります。それ三昧になりきった処に心の全体が現出致します。

元より本性は無病健全である。然るに可愛いと云うそれを煩悩と思い、憎いと云うそれを煩悩と思い、ほしい、おしい、と云うそれを煩悩として、それらの一切を断じよう、除こう、払おうとする、ぞれぞれが抑々(そもそも)病気の上の病気である。煩悩即菩提であると云うことを知らずして是等の煩悩病を全快させんが為に頻りに真如を求むるが、是又大なる迷いである。」

(菅原時保『碧巌録講演(其二)』56~59頁)

「『無念無想』というと、ぼんやりして何も考えないことがいいなどと思っているのは大間違い。無念というのはその一念になりきること。もし無念ということが、あるいは無念無想ということが何も思わないことであるならば、アメリカで流行っているようにLSDでも飲んでいればいい。(略)

生き生きと活気凜々、充実しきった境地。ちょうどプロペラが極度に回転していると、動かないように見える。ああいう状態を無念無想というのである。それを無念無想ということを聞き違えて、何も思わず、念を起こさないように、自分の念を抑圧する。鈴木正三も、(略)そんなことは何の効もない。おれのところの禅は念起こし坐禅。わしの禅は大きな念を起こすのだ、と教えている。」

(大森曹玄『驢鞍橋講話』57~58頁)



脳の生理学的な変化でいうと、上座仏教の瞑想の場合は、扁桃体の活動を恒常的に低下させるようにして、統合失調症の一症状として見られるような情動反応の低下を狙うもの、禅(白隠禅であるところの現代日本臨済禅)の場合は、扁桃体の活動を極端に低下させ、一次的に、統合失調症の症状として見られるような自我障害を起こすことを狙うものといえるように思います。

【参考】
扁桃体の活動の低下による弊害――坐禅の生理学的効果(2)
https://zazenfukyu.hatenablog.com/entry/2020/07/18/222455?_ga=2.8932918.246856372.1597608205-541515618.1562325655

呼吸回数の減少によるその他の効果――坐禅の生理学的効果(4)
https://zazenfukyu.hatenablog.com/entry/2020/07/25/094125?_ga=2.18342457.1042450201.1597666207-961353732.1597260876



上座仏教が「自他不二の体認」の類を目指さないことは、上座仏教の実践をされている方からも強く主張されるところです。



「最近日本でも不二一元論(advaita vedanta)系統の精神世界の教えが、欧米経由で入ってきています。『仏教は本来不二一元論だ』と主張している人もいます。ヒンドゥー教でありながら大乗仏教の空や如来蔵思想などの影響がみられ、『仮面の仏教徒』といわれたシャンカラの教えですから、似ているのは当たり前だと思います。本来の仏教をどう解釈するかにもよりますが、そのような意見に対して疑問を感じずに受けてしまう理由は、無我と真我の違いの理解の不足と、大乗仏教における空や如来蔵思想とアドヴァイタ哲学の真我との違いを分別できないことだと思います。単純に『全ての真理は同じだ』などと言うことは安易です。きちんとテーラワーダ仏教側からの意見を言うべきだと思っています。」

(西澤卓美「厳格に伝えられるテーラワーダの伝統と瞑想の文化」箕輪顕量監修『別冊サンガジャパン①実践!仏教瞑想ガイドブック』51頁)



2 瞑想手法の違い



坐禅の手法は、臨済禅における数息観などといった集中系のものと、曹洞禅における只管打坐があります。

【参考】
「調心」その問題性(1)――坐禅の生理学的効果(6)
https://zazenfukyu.hatenablog.com/entry/2020/07/31/225412?_ga=2.126873101.1042450201.1597666207-961353732.1597260876

上座仏教の場合は、呼吸等の特定の身体感覚に意識を集中するサマタ瞑想のほか、自分の心の状態を観察するヴィパッサナー瞑想の二つに分かれ、初期段階ではサマタ瞑想を行ない、ヴィパッサナー瞑想に移行するという手法をとります。



「呼吸の観察を続けると、マインドフルネスはいっそう堅固となり、こころはいろいろなことがらに対して繊細となります。呼吸の中心にこころが集結し、意識は外界から遠のき、外に向かって働きかけないようになるのです。(略)

これがサマタ瞑想の目指す精神集中、ヨーガや仏教で『三昧』(samadhi)と呼ばれる状態です。この状態では活発なイメージや幻覚体験といった意識変容状態が生じることもあり、禅ではこれを『魔境』と称して注意を促すことはすでに述べました。(略)

仏教では(略)こころの平静(equanimity)と呼び、精神的に安定した状態を指します。しかしアーチャン・チャー師はこれだけではまだ不十分だと断言します。なぜなら真のマインドフルネスは単なるこころの落ち着きだけではなく、絶えず『開放的で、とらわれのないこころの状態』の確立を目指すからです。(略)

単にマインドフルネスから生じる精神統一状態に満足するのではなく、それを活かして深い自己理解を図り、とらわれのない『今ここ』の生活を送る。これが真のマインドフルネスである、とアーチャン・チャー師は言うのです。」

(大谷彰『マインドフルネス入門講義』26~27頁)




これも以前取り上げましたが、一般的に、サマタ瞑想だけでは問題があると考えられているようです。



「『幸福になるために瞑想をはじめたはずなのに、かえって苦しみが増えてしまった気がするのだけど、どうしたらいいでしょうか』と言う人が、私の瞑想会や面談会にいらっしゃることはよくあります。そういう方々を見ていると、やはり『過度の集中』が、身心のバランスを崩す主要因になっているように思われる。(略)

集中というのは流動し変化する現象を敢えてデフォルメし、それを固定的な対象とすることで成り立つものですから、そこにハマってしまうと、イキイキとした現実に対応する機動性や柔軟性が失われてしまう。

そして、この集中によるデフォルメされた認知から派生するもう一つの大きな問題は、それが心理学で言うところの『解離』の症状や、『回避』の行動をもたらすことです。私が蚊に刺されたかゆみが全く平気になるようなトランス状態に入ったのに、にもかかわらずその騒音にどんどん過敏になっていったように、現実に生じている事態からどんどん遊離していって、その平安な状態を乱すものに対して、嫌悪の情を抱くようになるんですね。

実際、私がお話しした『瞑想難民』の方にも、集中の境地にとっては邪魔になる思考や想念を悪者に見立てて、そこから離れようとしてしまい、結果として感情が乏しくなってしまったり、さらには人間関係も上手く結べなくなってしまったりする方が何人もいらっしゃいました。ほとんど病的な解離症状に陥っているわけですけれども、瞑想の場合に厄介なのは、指導者によっては、そういう状態を『瞑想が進んでいる証』として、肯定してしまったりするわけです。それでますます、困難な自分の現状から逃げるために回避行動としての瞑想に没頭し、さらに状況を悪化させていくというスパイラルに落ちていく。」

(プラユキ発言。プラユキ・ナラテボー 魚川祐司『悟らなくたっていいじゃないか』137~138頁)

【参考】
「調心」その問題性(3)――坐禅の生理学的効果(8)
https://zazenfukyu.hatenablog.com/entry/2020/08/06/053426



3 経典重視と輪廻思想



禅では、「不立文字」、「教外別伝」という観点から、「一般的には」経典を重視しないものとされます。

しかし、上座仏教では、経典を極めて重視します。

原始仏典の経典には、輪廻説が出てくることもあり、いわゆる六道輪廻が本気で信じられています。



テーラワーダ仏教釈尊の教えに新しく追加せず、教えを取り除かず、そのままに伝えていくことを第一としています。現在までの六回に及ぶ仏典結集においてパーリ三蔵、註釈などの正統性を大長老たちが確認して、今日まで伝えられてきたものです。現代科学は時間がたつにつれて進歩していきますが、テーラワーダ仏教の教えは釈尊が説いた教えをそのまま伝えることを第一として、地域や時代によって変えていくことはありません。完璧に説かれた釈尊の教えは、変えることによって進歩することはなく、壊れると理解されているからです。(略)

ミャンマーには『国家サンガ大長老会(略)』というものがあります。その中で(略)二〇一一年に非法とされた教えがあります。(略)現在業論仏教(略)で、過去生、来世の輪廻を否定し、欲界、色界、無色界からなる三十一界説を否定して、現在の業のみを認めるものです。(略)

現在業仏教はテーラワーダ仏教の伝統的な立場からは問題外です。過去生や来世を否定し、六道輪廻否定するなど、現代の日本の仏教学者に多くみられる意見と共通するものがありますが、特に深い瞑想体験や経典理解から出たとは思えない説です。」

(西澤卓美「厳格に伝えられるテーラワーダの伝統と瞑想の文化」箕輪顕量監修『別冊サンガジャパン①実践!仏教瞑想ガイドブック』49~50頁)



禅では、一般的に輪廻思想が否定されています。

しかし、上座仏教では、輪廻思想が教義上の必要不可欠の部分を占めています。

なぜ、「貪瞋痴の滅尽」を目指すかといえば、無限に続く輪廻を止めることであり、このことを称して上座仏教では「解脱」といいます。



とはいえ、なぜ、輪廻から解脱する必要があるのか?という問いは立ててよいように思われます。

並みの感覚では、死を避けるべき理由は、そこで人生が終わってしまうからであり、どんな形であれ、人生が続くのであれば、それはそれでよいというように思われるからです。

ですから、「輪廻するならそれはそれでよいではないか」という人には、余り関係がないことになります。



「輪廻は苦ではないと考える人にとって、仏教の教えは不必要で意味がないものと映るのです。梵天観請の話で、『世の中には釈迦の教えを聞いても理解できない人がいる』という言葉は、それを意味しています。」

(佐々木発言。佐々木閑宮崎哲弥『ごまかさない仏教 仏・法・僧から問い直す』158頁)



輪廻から抜けたいと思う人はおそらく大変不幸な人です。

いわゆる四苦八苦の「苦」を「苦しみ」という普通の日本語の語義に従って解釈するとイメージがしやすいかと思います。

たとえば、いじめに遭っている人とか、DVに遭っている人などは、そのような状態が永遠に続いて欲しいとは思わないでしょう。

そのような人の中からは、日常の努力ではその状態から抜け出すことができないことから、人生の継続を強引に終わらせる、すなわち、自死をしようという人が出てきてもおかしくはありません。

輪廻から抜けたいと思う人は、人生をそのような苦しみそのものだと思っているのです。

しかし、圧倒的多数の人は、人生をそのようには見ていません。

時に苦しいことはあるかも知れないけれども総じてよいものだと思っている。

だからこそ、圧倒的多数の人は、輪廻という形で、人生が永遠に続くならそちらの方がよいと思う。

インドで、仏教が廃れ、バラモン教に由来するヒンドゥー教が力を持った理由はそんなところにあるようにも思います。



「(バラモン教における)カルマン・再生の理論と、生存の反復継続を楽しく受け入れ喜んで承諾するという態度とを結合させることは、一貫性に関する論理上の問題を引き起こすことはないであろう。結局のところ、人生は苦より楽の方が多いということになる。実際、我々の乏しい証拠から判断すると、初期ヴェーダ時代における人生の評価はそれほど否定的なものではなかったようであるし、また、はるかに後代の中世ヒンドゥー教では、人生は苦であるという提言は人々の注意をほとんど惹かなかったようである。」

(リチャード・ゴンブリッチ『インド・スリランカ上座仏教史』82頁)



以前の記事でも少し取り上げましたが、一般的な日本人の感覚では信じ難いことかと思いますが、上座仏教の実践をしている人は、本気で輪廻を信じています。

たとえば、精神科医をしているような方でも、本気で死後の輪廻や解脱について語り、うっかり、否定する発言に対しては、「死後の輪廻を否定することも論証できないのだから、死後の輪廻は否定できないはずだ。」などといった非難を受けたこともありました。



マインドフルネスや瞑想の世界では、心理学的・生理学的効果を目ざす「臨床マインドフルネス」よりも、仏教の実践として行う「ピュアマインドフルネス」の方がありがたいというような風潮もあります。



「世俗的マインドフルネスは今よりももっと仏教的であってもいいのではないでしょうか?それは、世俗的マインドフルネスを仏教に逆戻りさせることではなく、むしろ今いるところからさらに先へと進むんで行くためにこそ必要なことだと思うのです。」

(藤田一照「マインドフルネスは仏教か?」『大法輪第87巻第3号』97~98頁)



しかし、仏教といっても非常に幅が広く、治療者と患者という上下関係を前提として、マインドフルネスという治療法の名の下に、どのような観念が植え付けられるかわからない点もあります。

特に、輪廻思想などという観念が植え付けられることが本当に望ましいといえるのでしょうか。

治療の名目で布教活動がなされる事態は望ましいものとはいえないように思います。



4 現代テーラワーダ新宗教



現在、上座仏教の瞑想指導者の方は多数おりますし、いずれの立場も、上座仏教の方が禅などよりも、より釈尊の直説に近い伝統を踏まえていることを強調します。

その背景には、原始仏典を踏まえた実践をしていることが挙げられ、経典重視の理由の一つはそこにもあります。

とはいえ、上座仏教においても、「悟り」の境地は言葉では説明できないものともされています。

たとえば、高名な上座仏教の長老であるアーチャン・チャーは次のように言います。



「体験は経典の学習を超えたものです。経典の学習から、これが無明が生じる体験だ、これが行を感じるということだ(略)、などということを学ぶことはできません。」

(アーチャン・チャー『手放す生き方』44頁)



経典だけから学ぶことはできないということからすると、どのような場合に、「悟り」の状態になったと判定することになるのかが問題となります。

素人的に判定方法として思いつくのは、釈尊から連綿と師弟関係が引き継がれており、師が釈尊と同様の体験をしていることは、師弟関係の引継ぎのプロセスが保証するということかと思います。

禅の場合は、このような発想から「伝法」が重視されますし、上座仏教の実践をしていらっしゃる方もどうもそのようなイメージを持っているのではないかと思います。

しかし、禅の伝法も、その少なくない部分は虚構です。

【参考】
唐代南宗禅
https://zazenfukyu.hatenablog.com/entry/2020/08/13/054615?_ga=2.29753663.1042450201.1597666207-961353732.1597260876
伝法の虚構性(その1)
https://zazenfukyu.hatenablog.com/entry/2019/08/27/180623?_ga=2.193905965.1842888001.1597260876-961353732.1597260876
伝法の虚構性(その2)
https://zazenfukyu.hatenablog.com/entry/2019/08/28/120322?_ga=2.201179310.1842888001.1597260876-961353732.1597260876

そして、現在の上座仏教においては、そもそも伝法的な関係は存在しないということをご存じの方は、上座仏教の実践をされている方の中でも少ないのではないかと思います。

現在の上座仏教は、インドでは廃れ、スリランカに残っていたものが諸国に広まっていったものとされていますが、かつてのスリランカにおける上座仏教の実情は次のようなものであったとされます。



「一七五三年以前、セイロンにはガニンナーンセー(gaininnāse)と呼ばれる男性たちがいただけで、真正の僧は残っていなかった。彼らは最初得度を受けてはいたが、しかし白衣(つまり在家者の衣服)を纏い、必ずしも独身ではなく、僧院に住み、自分の家庭に財産を有していた。(略)

このように、一七五三年以前の状況は、『サンガに所属する村々では、善き僧の道徳とは、本来的にただ自分たちの妻子を養うことだけにあった』という一一六四年以前の状況を復元したようなものであったらしい。」

(リチャード・ゴンブリッチ(森祖道・山川一成訳)『インド・スリランカ上座仏教史』278~279頁)



「真正の僧は残っていなかった」、すなわち、悟った僧侶は、1700年代にはいなかったということのようです。

また、現在の上座仏教では、厳格な出家主義が取られ、妻帯は考えられないとされているところ、「善き僧の道徳とは、本来的にただ自分たちの妻子を養うことだけにあった」とされていることも注目すべきでしょう。

では、現在の上座仏教が、どのようなプロセスで成立して行ったかについて、ゴンブリッチ先生は次のように述べます。



「(私の意見では)王たちはサンガの分裂と腐敗の原因を作っておきながら、自らの行動をそのようには見なしていなかったので、サンガの浄化によってアソーカ王を見習おうとしていた。(略)

王室によるサンガ浄化、および授戒伝統の移入と復活は、サンガ復興の正式な状況を示している。しかしまた仏教の復興は常に経典知識の復興を基礎としている。ところでキャリサーズはこのような復興、すなわち過去一〇〇年間にわたりスリランカにおいて勢いを増大させて来た林住修行運動について一冊の立派な書物を公刊した。彼は綿密な瞑想実践でさえ、おそらく書き表された文書資料に基づいて復活したのであって、師から弟子へと絶えざる相承の中で承け継がれてきたものではない点を論証しているのである。」

(リチャード・ゴンブリッチ前掲書279~281頁)



歴史的には、現在の上座仏教は、いったん「真正の僧侶」がいなくなってしまった後、王室が仏教を再考させるために働きかけて、当時の人たちが経典等の文書資料に基づいて勉強し直したものということのようです。

ですから、「師から弟子へと絶えざる相承の中で承け継がれてきたものではない」わけです。

現代的に言うと、別に仏教の特別な実践をしていたわけではない人が、仏典を読んで、それに基づいて仏教系の新宗教を作るのと同じことでしょう。

ですから、現在の上座仏教は原始仏典をベースにした新宗教といえるかと思います。

体験ではなく、経典を重視する理由も現在の上座仏教のこのような成立経緯による点も大きいのではないかと思います。

上座仏教の長老の間で、誰が悟っているかについて、争いがある理由も、経典ベースで、実際に体験している者がいなかったことも大きいのではないかとも思えます。



「コーンフィールドさんは、『アーチャン・チャーとマハーシ・サヤドー(マハーシ師)は、ともに深く悟った人だとみなされていたけれども、彼らは悟りの内容やそれを得る方法に関して、全く意見が相容れなかった。実際のところ、彼らは互いに、相手のことを悟りに至る真の道を説いていないと信じていた』と書いています。

こうしたことは、チャー師とマハーシ師のあいだに限ったことではなくて、仏教の実践の世界に自ら身を投じて、その実態を広く見聞した経験のある人なら、誰でも接したことのある現実ではないでしょうか。」

(魚川祐司発言。プラユキ・ナラテボー 魚川祐司『悟らなくたっていいじゃないか』53頁)



引用文からも想像が付くかと思いますが、アーチャン・チャーとマハーシ・サヤドーも高名な上座仏教の瞑想指導者であり、彼らの考え方に基づくとされる実践をしている上座仏教の実践者の方も少なくないように思うのですが、その相互間やそれ以外の長老の間でも悟っているか否かについて、争いが生じるのは、体験を言葉では説明できないところで、仏典をベースに実践をせざるを得なかったことに由来するのではないかと思います。

ちなみに、上座仏教で実際に悟っていた人がどの程度いたのかや、悟っていた「とされる」人の実際の振る舞いについては、ゴンブリッチ先生の次の記述も参考になります。



「教えが衰退に向かうという見解は、すでに見てきたように、ブッダ自身まで遡る。スリランカには、この国で悟りを開いた最後の人物は紀元前一世紀に亡くなったという周知の伝承がある。一方、パーリ注釈書および年代記は共に、古代セイロンには悟りを開いた僧が多数いたと述べている。人々がいかにして自身の聖者たることの主張を試みたか、あるいは競い合ったかについての逸話すら残っている。(略)聖者たちは『明らかに……プライドとか顕示欲などの些細な欠点がまったくないことを期待されてはいなかった』が、『深い信心と、厳格な戒律遵守に対する評判は得ていなければならない』。」

(リチャード・ゴンブリッチ前掲書282頁)



当たり前というか想像通りというような気がしないでもないですが、「スリランカには、この国で悟りを開いた最後の人物は紀元前一世紀に亡くなったという周知の伝承がある。」といった記述は、そんなものがあるのかと思われますし、また、「人々がいかにして自身の聖者たることの主張を試みたか、あるいは競い合ったか」という記述も、煩悩が滅尽しているはずなのに、なぜ、そのようなことになるのか、というように思われます。

現代でも、この種の例は少なくないようです。

たとえば、上座仏教の実践をしている私の知人には、瞑想指導者の方が大きな瓶のコーラをがぶ飲みしているのを見て幻滅したという方がいましたし、また、某上座仏教系の団体の事務を担当していた方の話によると、その団体の会議では長老とされる方々がそれぞれ好き勝手な意見を言ってまとまらなくて困ることがあったとのことでした。

魚川祐司先生は、上座仏教の瞑想指導者の言行不一致について、注意するようにおっしゃいます。



「『私が言うとおりに実践すれば、全て上手くできますよ』といったことを、瞑想指導者が言葉の上では主張しているのだけれども、ご本人の現実の振る舞いにおいては、その理想が言葉のとおりにまるで実現できていない、といった事例を、私はたくさん見てきました。『瞑想の先生を選ぶ際には、その先生の『発言』だけではなく、その人の『為人』、つまり本人の現実の振る舞いを、よく観察して判断してください』と私が強調するのには、そういった背景もあるわけです。

たしかに、『伝説上のブッダ』は完璧ですし、そのパーフェクトなブッダのヴィジョンを胸に抱いて、修行に励むことも大切です。ただ、現実には『正しくて完璧な瞑想法」が一つに定まっているわけではないし、それで完璧になった個人が私たちの目の前にいるわけでもありません。(略)世界的に認められる高僧であったマハーシ師とチャー師でさえ、互いに意見は相容れなかったわけですから。にもかかわらず、そこでこの現実を認められずに、『正しくて完璧な瞑想法がただ一つあるはずだ。それを実践すれば何もかもが完璧に上手くいくはずで、そうならないとすれば、方法が間違っているか、あるいは私のやり方が悪いのだ』と考えてしまうと、瞑想の実践が、どんどん苦しくなってしまうと思うんです。」

(魚川祐司発言。プラユキ・ナラテボー 魚川祐司『悟らなくたっていいじゃないか』215~216頁)



敢えて親切で言えば、現在の上座仏教は決して伝統的なものでもありませんし、釈尊のした体験を保証するものではありません。

保証されていることは、「目の前にいる瞑想指導者程度の人間にはなれる可能性がある」ことではないでしょうか。

この点は、禅でも同じかと思います。

仮に、実践を始められるのであれば、「目の前にいる瞑想指導者」がどの程度実力があるのかなどについてきちんと情報を収集し、検討されるのが大切なのかなと思います。





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