死を楽しみにする
「困難なときに坐禅をしたことがない人は、禅を学ぶ者とはいえません。ほかのどんな行為も、あなたの苦しみを和らげることはできません。ほかのどんな姿勢も、自分の困難を受け入れる力を持たないのです。しかし、長い、困難な修行で確立した坐禅の姿勢によって、あなたの心と身体は、好き、嫌い、よい、悪いなしに、あるがままに受け入れる偉大な力を持つのです。」
(鈴木俊隆『禅マインド ビギナーズ・マインド』71~72頁)
禅書を読みかじるようになり、苦しいことを受け入れることが大切だというアイディアをもらってから、日常生活の嫌なことが楽しみになるようになりました。
以前なら、ストレスに負けて大声を出したり、何もやる気がなくなったり、そうしたときに、冷静な「そぶり」程度はやって、そのときの現状でできることをする。
至道無難禅師の
「何事も修行と思いする人は身の苦しみも消え果つるなり」
という言葉を紙に打ち出して、しおりにして本にはさみ、いつでも目にはいるようにしていました。
やれば案外できるので、そのうち成果のように感じて面白くなりました。
とにかくいやなことを受け入れて、現実に対処していくようにする。
坐禅で外部情報を一方的に感受する状態にしている効果のようにも感じられて、坐禅をする楽しみが増すようになりました。
【参考】
○曹洞禅とマインドフルネス
(https://zazenfukyu.hatenablog.com/entry/2020/09/05/165246)
そんなときに参加したとある仏教の勉強会でのこと。
参加者同士で色々やりとりをしている中で、「死に対する恐怖」が話題となりました。
わたしは、「肚が据わった」気になっていたものですから、その席上で
「私は死が迫っても恐怖感はわかないと思う」
と口走りました。
そうしたところ、別の参加者の方が、自分自身の癌の闘病体験をお話になった上
「そんなことを実際に死が迫ってみないとわからない」
という至極もっともなお話をされました。
冷暖自知されている方には敵いようもなく、私は、押し黙りました。
しかし、心の中では、「そうはいっても恐怖しない自信がある」などという慢心がありました。
同時に、「自信がある」と言っても、頭の中の妄想のような話ですから、妄想ならばどうしようもないなとも思いました。
妄想ではどうしようもないなと繰り返し思っていると、そのうち、「では、現実ならどうだろう」という気になってきました。
そうなってみると、「現実の世界で試してみたい」という気になります。
けれども、現実にやってしまうと、ほかのことができなくなってしまいますから、死に迫っての自分の胆力を試すことが、人生の最後のお楽しみという感じがしました。
人生の最後に本当に死の恐怖を克服できるのか、自分ではできそうな感じがして、そうすると、何やら死を迎えることが楽しみな感じがしてきました。
それまでは、死は嫌なものであり、どうやったらその恐怖を克服して穏やかに死ぬか、ということを考えたりしていました。
できれば死を意識しないで、年を食ってから日向ぼっこをして昼寝をしているうちに死ぬということに憧れていました。
今から考えると、逃避的な発想だったなと思います。
しかし、自分の死を迎えることに対して、「楽しみ」という見方も持つことができるようになったことが坐禅を始めてからよかったことの一つです。
釈宗演老師は日露戦争に従軍することを決断したときの心境もこんな感じだったのかなと思います。
「日露干戈(かんか)を交うる事(*)となり、私は病後健康未だ全く回復せざるにかかわらず従軍を思い立ったのである。其訳は吾々禅徒は常に口癖の様に死生の間に投ずるも更に動ずる所はないと云うているが、果して自分の修行はそこ迄進んで居るであろうか(略)、斯の如き種々の心願から病躯を提げて軍に従い、遼東の一角に上陸したのでありました。」
(釈宗演『筌蹄録』72~73頁)
*干=たて、戈=ほこ、干戈を交うる=戦争をする
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