坐禅普及

主旨は慈悲。行は坐禅。

曹洞禅とマインドフルネス

私は、坐禅から瞑想の世界に興味を持ち、最初は数息観から入りましたが、曹洞禅の「只管打坐」に納得のいくものを感じて実践をするようになりました。

只管打坐をするようになって半年ほど経ってから、マインドフルネスに関する専門書を集中的に読んでいたときがありました。

その中で、只管打坐とマインドフルネスとが相違するものではないかと感じたのですが、最近になって、両者は統一的に捉えることができるのではないかと思うようになりました。



《曹洞禅=只管打坐の魅力》

坐禅等の(座る)瞑想の方法には、その瞑想の際の「心の持ち方」により、大きな相違があり、数息観は、数を数えること(1から10までを数えるように指導されることが多いように思います。)に集中するものですが、只管打坐は、作為的に何らかの心の持ち方をしないものです。

たとえば、次のように表現されます。



坐禅中に如何なる思念が明滅しても、浮ぶに任せ消えるに任せて一切とりあわず」

(石井清純『禅問答入門』227頁)



私が仏教の教義の中でも最も大切なものの一つとしているものは、「特別なものを求めない」ということです。

人間の作為は、何かを求めようとすることに由来しますから、心の中で、数を数えるとか、タントラを唱えるとか、何かをイメージするとかいった作為的なことをしない只管打坐の方法論に納得が行き、これを知った後は、只管打坐でやってきました。

坐禅に関する理屈については、只管打坐を方法論とする曹洞禅に納得のいくものがあり、曹洞宗の方の書かれた本をよく読んでいました。

次の鈴木俊隆老師の話も納得がいくもので魅力的でした。



「困難なときに坐禅をしたことがない人は、禅を学ぶ者とはいえません。ほかのどんな行為も、あなたの苦しみを和らげることはできません。ほかのどんな姿勢も、自分の困難を受け入れる力を持たないのです。しかし、長い、困難な修行で確立した坐禅の姿勢によって、あなたの心と身体は、好き、嫌い、よい、悪いなしに、

《あるがままに受け入れる》

偉大な力を持つのです。」

(鈴木俊隆『禅マインド ビギナーズ・マインド』71~72頁)



苦しいこと嫌なことから逃げるのではなく、受け入れていくことが大切であるという発想は、新鮮でした。

只管打坐との出会いを切っ掛けに、坐禅を、外部情報を一方的に受け入れて行くことにより、苦しいこと、嫌なことも受け入れられるようにするエクササイズとして捉えるようになりました。

心に作為的に何かイメージを持つと外部情報を一方的に受け入れることにはなりませんから、このことからも、只管打坐に魅力を感じました。

【参考】
○【参考資料】受け入れ、向き合う
https://zazenfukyu.hatenablog.com/entry/2019/10/13/145844
○受容と活溌溌地
https://zazenfukyu.hatenablog.com/entry/2020/05/28/175333
○【参考資料】禅の他力性
https://zazenfukyu.hatenablog.com/entry/2019/07/09/085340



《只管打坐への疑問と回帰》

「受け入れる」ことが重要だと思うようになってから、禅以外の仏教の本を読んだり、ほかの立場も摂取しようとテーラワーダ(上座仏教)の勉強会にも行くようになりました。

考え方の違う人の話を聞くことを通し、自分自身の受け入れもよくなることを実感し、人との出会いが以前より更に面白くなりました。

その中で、マインドフルネスの専門書を読むようになりました。

マインドフルネスは、上座仏教にベースがあることから、自然と目が向くようになったのです。

そして、只管打坐は、そもそもマインドフルネスと違うということがわかりました。

たとえば、マインドフルネスの典型的な定義は次のようなものであるとされます。



「現在の処、カバットジン(2007)がMBSRの説明として用いた『注意を払うという特定の方法で、意図的であり、現時点に焦点を定め、価値判断を下さない』(略)という記述が作業定義(略)として一般に受け容れられています。」

(大谷彰『マインドフルネス入門講義』17頁)

「マインドフルネスの狙いはあくまでも気づき(awareness)と集中力の養成」

(大谷前掲書18頁)



「注意を払う」、「意図的」、「焦点を定め」、「気づき」、「集中」といったことは、いずれも心の中で何かをするという作為性がある言葉ですから、マインドフルネスは、只管打坐とは違うのではないかと思われました。

更に決定的だったものは、次の一文です。



「(臨床的なマインドフルネスについては)テーラワーダ仏教の四念処瞑想や長時間にわたる

《非思量》

公案による本格的な禅瞑想は一部の例外を除いて

《受け入れられず》」

(大谷前掲書111頁)



「非思量」とは、只管打坐そのものです。

先に石井清純『禅問答入門』から只管打坐の際の心の持ち様に関する記述の引用をしましたが、その直前には、次のような記述があります。



坐禅中心の宗風を持つ薬山の(略)『非思量の話』(略)、坐禅の基本となる心構えとして、日本では、特に道元門下の禅僧たちによって重視されてきました。(略)

坐禅をして、『何かを達成しよう』とか、あるいは『特別な(安定した)精神状況になろう』といった『思いはからい』を一切捨て去り、頭の中を、自然な状態にする、それが非思量ということなのです。」(225~227頁)



大谷先生の本には、「マインドフルネス」の効果は書かれていますが、そこでの話は、「非思量」の「只管打坐」には関係ないものであり、したがって、「只管打坐」には、きちんとしたエビデンスのある効果はないと思うと、「只管打坐」に対するやる気というものが失せるような感じになりました。

大谷先生の本には



「黙照禅とマインドフルネスとの共通点が見られます。」

(大谷彰『マインドフルネス入門講義』43頁)



とも書かれていました。

「黙照禅」とは、「曹洞禅」や「只管打坐」と同義ですが、当時は、大谷先生について、只管打坐というものを理解していないのではないかと思っていました。



只管打坐に疑問が湧き、スマナサーラ長老のユーチューブの動画を見て、「ラベリング法」の瞑想を試すようなこともありました。

「ラベリング法」とは、自分の身体感覚に言葉を当ててはっきりとこれを認識する瞑想の手法で、最初期段階では、腹式呼吸をする際のお腹の動きに意識を向けます。

たとえば、息を吸ってお腹が膨らんだときには、「膨らみ」と頭の中で言葉を唱え、息を吐いてお腹が縮んだときには、「縮み」と頭の中で唱えるというものです。



1週間程度「ラベリング法」をやってみたのですが、どうも私には合わない感じがしました。

「ラベリング法」をやった後で、只管打坐をしてみると、やはり、こちらの方がしっくりくるという感じでした。

加藤耕山老師が



坐禅は頭でやるものではない。体でやるものだ。体がいつの間にか坐禅を教えてくれる」

(加藤耕山発言。秋月龍珉・柳瀬有禅『坐禅に生きた古仏耕山 加藤耕山老師随聞記』207頁)



とおっしゃるのは、このようなことなのかなと思いました。



そのうち、効果があるとか、ないとか、そんなことを気にしている自分に対するくだらなさを感じるようになりました。



良い結果が出るとか出ないとか、そういう下らない根性から自由になるためのものが「只管打坐」ではないか。

それなら効果がなければないほど、望ましいはずだ。



このような思いが湧いてきて、やはり「自分にはコレだ」と何やら自信が生まれてきて、以後、只管打坐が習慣となりました。



《只管打坐の再認識》



効果を期待する訳ではないのですが、効果から自由になるような心境となると、却って、坐禅の実践に伴って自ずから気づくこともあるようになりました。

これは何だろうと思いながら実践を続ける中で、マインドフルネスの心理学的な研究ではなく、呼吸や姿勢と脳の活動の関係という脳科学論的な研究成果に関する文献に少しずつ接する中で、私の肉体の中で起きている只管打坐の効果というものが整理できるようになってきました。

【参考】
扁桃体の活動の低下――坐禅の生理学的効果(1)
https://zazenfukyu.hatenablog.com/entry/2020/07/12/200328

○呼吸回数の減少によるその他の効果――坐禅の生理学的効果(4)
https://zazenfukyu.hatenablog.com/entry/2020/07/25/094125

○姿勢を正すことによるテストステロンの分泌等――坐禅の生理学的効果(5)
https://zazenfukyu.hatenablog.com/entry/2020/07/30/221319

そうなってみると、通例、マインドフルネスの効果とされるものは、呼吸と姿勢という観点から説明できるのではないかと思われました。

たとえば、精神医療の現場で、マインドフルネスが一番効果を持つとされるのは、「慢性疼痛」であるとされます。



「マインドフルネスのジョン・カバットジンさんは、How to dance with painと言っていました。彼は慢性疼痛の人たちにマインドフルネスに基づくストレス低減法を開発したのです」

(藤田一照「ソマティック禅への誘い」『サンガジャパンVol.32』209頁)



ところで、慢性疼痛の要因としては、扁桃体の活動の過剰が挙げられます。



「何らかの身体的痛覚(侵害)情報が伝えられると、身体脳は(略)扁桃体から海馬を介して記憶の回路へ組み込もうとする。(略)身体からの痛覚情報が長期に繰り返されたり、陰性情動(恐怖、不安、怒り、悲嘆感)という付帯情報が繰り返される場合は、疼痛体験の記憶(短期記憶)が海馬から繰り返し引き出され、疼痛体験の記憶が定着化するようになる。扁桃体は常に過敏となり、僅かな情動刺激にも反応するようになる。つまり身体脳からの痛覚情報がなくとも、陰性情動のみで疼痛体験の記憶が容易に身体化し、『痛み』として体験されることになる。」

(北見公一「プライマリ・ケアとメンタルヘルス:慢性疼痛と心因性疼痛」『北海道医報』1029号8~9頁)



このように、慢性疼痛の要因としては、扁桃体の活動の過剰であるとされますが、坐禅の際の緩慢な呼吸により、血中二酸化炭素濃度が低下すると、扁桃体の活動が低下することからすると、マインドフルネスが慢性疼痛に効果のある根拠は、坐禅(只管打坐)と同様の呼吸法によるのではないかと推測しています。



《なぜ「マインドフルネス」=「ソートーゼン」か?》



以上のような推測を立てた後も、私の中では、只管打坐とマインドフルネスとは違う、という捉え方が強くありました。

その捉え方について再検討をしようと思うきっかけとなったのは、大法輪に掲載されていた次の記事です。



「二〇一二年畏カバットジン氏が来日した折、懇親会の席で筆者がカバットジン氏に直接マインドフルネスの基本的教理を問いただした時、彼ははっきりと、“ソートーゼン”と答えた」

(貝谷久宣「マインドフルネスの注意点」『大法輪』2020年3月号 83頁)



これは少し驚きました。

以前読んだ大谷先生の『マインドフルネス入門講義』に出ていた「黙照禅とマインドフルネスとの共通点が見られます。」との記述は、かなり強い意味合いだったのだと分かりました。

その共通項は未だ十分に捉えられないのですが、最近、次の河合隼雄先生の発言に接し、これがそのヒントになるのではないかと感じています。

少し長文ですが、味わい深いので引用します。



「問題がある方はみんなそうですけれど、世界が狭くなっているのです。みなさんも自分が悩んでいる時にそう思いませんか?

こっちをしたら駄目、こっちをしても駄目、これも駄目、あれも駄目、どうしょうと思う時は、もっと広く見るといろんな答えがあったりするのですが、それを思いつかない。(略)全体を見るということはものすごく難しいことなんですね。

人間はものごとを限定して見ている。その限定して見ておられる人に対して、聞いている私は割とゆったり聞いていると、段々話が広がってくるのです。これがすごく大事なことなのです。(略)

非常に大事に思ったのは、要するに我々が普通知的に考えて、一所懸命考えて問題を解決するという方法とは違う、これが大事でこれとこれがどうなっていて、次にどうなるかというふうな自然科学的な思考法で論理的に積み上げていくような考えを全くはずしてしまって、もっと視野を広げて

《広い広い視点からボーッと見ているような見方》

が、実はカウンセリングで大事であると、体験的にわかってきたのです。

実は、それをもっともっと徹底してやっていくと、仏教の教えのようになるのではないかと思い始めたわけです。」

河合隼雄「仏教研究とカウンセリング」同朋大学大学院文学研究科編『動く仏教実践する仏教[仏教とユング心理学]』51~52頁)



「広い広い視点からボーッと見ているような見方」

これは、作為をもたずに外部情報を一方的に受働する状態に置く只管打坐と同じではないかと思われました。



バイアスの係っている狭い視野ではなく、バイアスを外した広い視野から物事を捉えていく。

そうすると、バイアスの係っていた狭い視野では気づかなかったものに気づく。



こう書くと、狭い視野をもたらす「バイアス」は、ただの悪人であるように思われますが、それ自体、正常な脳の機能であるということを抑える必要はあるかと思います。



「人の心はそれぞれ無数のバイアスに満ちている。人がどんなふうに世界を見つめるか、どんなふうに過去を思い出すかは、そうしたバイアスに影響されるのだ。

この世に生まれた瞬間から人間は、嗅覚や視覚、聴覚や触覚に訴える情報に四方から襲われる。だから赤ん坊の心はまさに情報の嵐の中にある。(略)この情報の嵐を整理するのが脳の役目だ。無数の情報の中から重要なものだけを認識し、重要度が低いものにはあまり注意を払わないよう調整する複雑な仕事を、脳は確実にこなさなくてはならない。こうした脳のはたらきが心に作用し、心の中で起きるあらゆるプロセスを導いていく。」

(エレーヌ・フォックス(森内薫・訳)『脳科学は人格を変えられるか?』41~42頁)



私たちは、日々厖大な情報を感受しています。

それらについて差異をもうけず、いずれも重要なものとして処理するということになれば、私たちの脳はパンクしてしまうでしょう。

ですから、脳が感受する情報の有用性の順位をつけて有用なものを取り上げ、無用なものを切り捨てる作用、すなわち、分別の作用は、私たちが生存をする上で、必要不可欠なものです。

しかし、分別の作用も完全ではありません。

とりあげられるべき情報が切り捨てられ不都合を来すということも起こるでしょう。

坐禅や瞑想は、分別の作用というべき脳の機能を下げて、バイアスを外し、広く情報を感受する好意であると捉えれば、マインドフルネスにおける気づきと、只管打坐における作為をせずに感受する行為は、イコールであるようにも思えます。

この点、上座仏教の実践をされる方でも、その「気づき」の在り方について、意識的にこれをすることに否定的な考えを示す方も少なくないことも以上の見方を補強するもののように思えます。



「ジョン・カバットジンさんという方がいらっしゃいますね。彼はマインドフルネスについて(略)『現在の瞬間において判断せずに、特定の仕方で意図的に注意を払うこと』というわけだけど、ここで『意図的に(on purpose)』と言うのが、私としては問題だと思うんです。

私だったら、ここで『意図的に』という言葉は使わずに、『自覚的に』と表現します。というのは、『自覚的に』であれば、ただそこで目覚めているというか、ありのままに見るという感じになるけれども、『意図的に』と言ってしまうと、観察に何かしらの方向性というか、まさに『意図』が、不可避的に加わることになってしまう。」

(プラユキ発言。プラユキ・ナラテボー 魚川祐司『悟らなくたっていいじゃないか』198~199頁)



「意図的に」、すなわち、何らかの目的を意識する限り、目的実現のために不要と思われる情報が切り捨てられてしまいます。

このようなバイアスを外して情報を感受すれば、目的の実現を阻害する要因が見つかりやすくなったり、そもそもその目的を実現するような労力を払う必要すらないということを気づく可能性もあるでしょう。

どちらかというと、仏教という思想の流れの中では、後者の気づきの方が重要であるように思われます。



私たちは、効率的に生きることを可能にするため、有用な情報を取捨選択するバイアス、すなわち、分別的知性を発達させてきました。

それは、生存の上で必要不可欠なものではあるのですが、却ってそのために、自由に創造的な活動ができなくなったり、バイアスによって、他者との壁を作りがちであるという問題もあるように思います。

そのようなバイアスを外して、情報を感受する態度が、只管打坐の坐禅であり、マインドフルネスであるようにも思えます。



「禅は、要するに、自己の存在の本性を見ぬく術であって、それは束縛からの自由への道を指し示す。(略)それはわれわれの心に生まれつきそなわっている創造と慈悲の衝動を、すべて思うままに働かせることである。一般に、われわれはこの事実、すなわち、われわれは自分を幸福にし、たがいに愛し合って生きて行くのに、必要な機能をことごとくそなえているのだという事実に、気がつかないでいる。」

鈴木大拙『禅』41~42頁)





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