坐禅普及

主旨は慈悲。行は坐禅。

伝法の虚構性(その2)

3 菩提達磨

(1)石井清純『禅問答入門』
菩提達磨とは、サンスクリット語(印度の古語)のBodhiが「菩提」、つまり「悟り」で、Dharmaは「法」、真理とか教えという意味で、とうてい実名とは思われません。年齢も、(武帝に出会った)この時すでに百四十歳を超えていたことになります。その意味では、ここに登場する達磨像は、その後に禅宗が展開していく中での必要とされ、造り上げられていったものといえます。”(37~38頁)

(2)伊吹敦『禅の歴史』
“一般には、南北朝時代にインドから菩提達摩がやって来たことで、中国の「禅」は始まったとされている。しかし、それは、後に確立された禅宗の中で、そのように位置づけられたというに過ぎず、禅宗において主張される。
 初祖達摩―二祖慧可―三祖僧璨【そうさん】―四祖道信―五祖弘忍【こうにん】
といった祖師の系譜は、今日、史実としては完全に確認することはできない。
 この系譜で問題なのは、慧可(6世紀中葉)の弟子とされる僧璨の実在性である。『続高僧伝』の編者道専(596―667)は、道信(580―651)の修学について
 二人の僧が、どこからともなく現われて(略)禅業を修行していた。道信はそのことを聞きつけて赴き、そのもとで十年間学んだ。
としか記していないのである。
 後には、その二人の僧の一人が僧璨であったと理解されるに至るのであるが、それが系譜を断絶させないための要請として唱えられたものである可能性は、非常に高いと言わねばならない。初期の「灯史」に見られる道信や弘忍の伝記は、ほとんど『続高僧伝』の内容を出ないが、このことも禅宗の人々が独自の伝記史料を持ち合わせていなかったことを暗示し、系譜の連続性を疑わせるものといえる(なお、今日、三祖僧璨の著作として『信心銘』が伝わっているが、これを僧璨の著作とする伝承は、唐の百丈懐海(749-814)以前には辿れないようであり、その信憑性は極めて低い)。“(8~9頁)
“今のところ達摩や慧可が系譜的に後代の禅宗と繫がるかどうかは明確ではない。仮りにそれが事実であったとしても、それは今日「禅思想」と考えられているようなものが、すでに達摩にあったということを意味するものではもちろんない。”(10頁)

(3)松本史朗『仏教への道』
“慧可が臂の肉を切って求法の志の強いことを示したという有名な「慧可断臂」のエピソード(略)自体、八世紀初頭の『伝法宝紀』や『楞伽師資記』という禅宗史書において初めて創作されたフィクションであると考えられている。また、達磨が武帝と対面して、造寺造像は「無功徳」であると述べたという話しも、(略)神会自身の創作になるものなのである。
 (略)中国の禅宗の歴史は、後代の禅僧達がなんらかの特定の意図にもとづいて創作した虚構に満ちている。近代的な禅宗史の研究は、それらの虚構、フィクションをひとつずつ剥ぎ取ることからはじまったといってよい。“(218頁)
“達摩の「法」(教え)は、初祖達摩から二祖慧可に伝えられ、さらに三祖僧璨、四祖道信(五八〇-六五一)、五祖弘忍に伝えられたというのが、のちの禅宗の人々の酋長するところである。しかし、歴史的にみれば、のちの禅宗の流れを形成する人々が、中国仏教史の表舞台に登場するのは、ようやく道信と弘忍の時代になってからのことでありしかも慧可-僧璨―道信という形で、法の相承が実際になされたとは、今日までは考えられていない。つまり、僧璨は、禅宗の伝法の系譜が達摩以来連綿と続いていることを示すために、のちに三祖として立てられたのである。”(221頁)
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