坐禅普及

主旨は慈悲。行は坐禅。

仏教を学ぶということ

ある方に「私は禅や仏教を勉強しています」とお話ししたところ、その方から、とある臨済宗の釈宗演老師の系統であるとされる師家の方が「知識に偏ると見性から離れる」という話をされたという指摘を受けました。

私自身は、そのお話自体が見性に拘ったものであり、それなら、本来的に、仏教の知識もいらなければ、見性もいらない、そのために行う、坐禅も、公案の独参もいらないという方が徹底するように思われました。

そもそも、それなら、世の中にある仏教の書籍は存在しない方がよく、いろいろな団体が仏教に関する講演を開催していますが、このようなものは存在しない方がよいということになるのでしょうか。とはいえ、見性等の特殊な体験を目指して、却って日常の生活から離れていくような人たちがいることからすると、そのような入り口にもなるようなこの種の書籍や講演はない方がよいのかなという気がしないでもないのですが。

その師家の方の大本とされる釈宗演老師には次のようなエピソードがあります。



「わたしは宗演老師について一週間ばかりで見性(最初の公案が透ること)したですね。(略)入室(師匠の室に入って問答すること)すれば、公案はどんどん透る。それはゆるいもので、坐禅などは短いほうがいいと言って、三年ぐらいでどんどん上げてしまって、後は学問をやれ学問をやれというふうで、学問のできん者は目もかけんというようじゃった。」

(加藤耕山発言。秋月龍珉・柳瀬有禅『坐禅に生きた古仏耕山加藤耕山老師随聞記』21頁)



臨済宗の修行というと、長時間の坐禅を長期間やることや、公案の独参を繰り返し師家から厳しい説得を受けるものであるとされますが、どうも釈宗演老師の室内は違っていたようです。もっとも、加藤耕山老師は、建長寺派の大力量の師家ですから、坐禅の短さなども私たちの次元とはまるで違うのかも知れませんが。



しかし、仏教の教義は応病与薬の方便であり、本質的にいらないのであれば、なぜ、それを学ぶのか、という問いは健全であるようにも思われます。

私が、参考になると思っているのは、森本省念老師の口癖だったという次の言葉です。



「宗教だけではなく、なんでもその人の名を聞いただけで助かるようになるのが極意である」
(半頭大雅「吾が師森本省念老師を偲ぶ」山田邦男編『森本省念老師 下〈回想篇〉』62頁)



私の理解するところでは、次のようなことです。

雑誌などによく若いタレントさんによる人生相談の記事が掲載されることがあります。

お答えになっている内容の多くは、そのタレントさん特有のものではなく、おそらく相談者の方も、そのお友達等に相談をして回った中で、おそらく同様の答えをされたこともあったのではないかと思われることもあります。

しかし、同じ答えでも、そのタレントさんが答えたということが相談をなさった方にとってはとても大きい。平凡な全く同じ言葉でも語る人によってまるで違う。全く同じことをしていても、まるで違う。二僧巻簾、二庵主勘破です。

次の釈宗演老師の言葉は、そのわかりやすい例かと思います。



「何事をやろうとする能く働き、そして能く休まねばならぬ。」
(釈宗演「禅学大衆講話」『釈宗演全集第一巻』57頁)



当たり前といえば余りに当たり前の話ですが、釈宗演老師が言ったというだけでまるで違います。



誰か困ったり、悩んだりしている人がいます。

何か声をかけてあげたいと思う。

しかし、アドバイスは危険なときもあります。

なぜなら、何かアドバイスをするということは、どこかする方が上で、される方が下という上下の関係を生み、敏感な人は却って怒り出すかもしれません。



私が言いたいことをほかの人の言葉に託してみる。

力のある人の言葉の方が説得力がありますし、また、私が言うだけなら意見ですが、「○○さんはこう言っていた」というのは知識の伝達であり、相手の方も受けいれられやすいでしょう。

同じことを横田南嶺老師がこう言ったという方が力があるでしょう。

横田南嶺老師がよりも、釈宗演老師。釈宗演老師よりも、臨済義玄禅師。臨済義玄禅師よりも釈尊……。

同じことを角度を変えて言う場合もあります。

たとえば、「私たちが生きる上で、特別な知識などはいらない」ということについては、次のような言い回しがあるかと思います。



「森本老師は長い間寝たきりの母堂に何とかして安心の境地を手に入れてほしいと思い、暁烏敏(あけがらすはや)全集を何回も読んできかされ、その結果母堂はとうとう。『孝治さん、仏法というのはこれというものがあったらあかんのやなあ』と領解して安心を得て、それにより老師自身も肩の荷をおろして安心されたのである。」

(山田邦男編『森本省念老師〈下回想篇〉』44頁)
 
「あらゆる経典、あらゆる説法、みんなどんなに素晴らしくても、『病を治した薬みたいなもの』、つまり、病が治ったらもう薬はいらんよ。薬なんてなんの役にも立たんよ。一時の病は治すかも知らんが、すべての病を治す薬なぞない。(略)

仏教そのものが偽物やと。坊さんも文字を並べて偉そうなことを言ってるだけや。じゃあ、どうすればよいのか。(略)

『仏を求めれば仏を失い、道を求めれば道を失い、祖を求めれば祖を失う』。『求めてはいけない』ということは、坊さんの説法を聞いてもアカン。いや聞いたらアカン。あんなんウソ八百。『求めたら』全部失う。結局自分に自信がないから、他人に相談し、外に求めて、それで“自分”を失う。自由を失う。」

(有馬賴底『臨済録を読む』170頁)



禅匠ではありませんが、力のある人はやはり違うなと思うことは少なくありません。



「自信で生きている人などいない。生きているということだって自信ではないのですよ。生き方も知らないうちから生きているのです。」
野口晴哉『風邪の効用』52頁)
*のぐちはるちか。野口整体創始者



 同じことを曹洞宗の藤田一照師は、このように言います。



「わからない(不知)のに、それでもきちんとちゃんと事実として生きてるよね」
(藤田一照発言。藤田一照・魚川祐司『感じてゆるす仏教』36頁)



鈴木大拙先生も同じことをおっしゃるのですが、流石に格調高いです。



「思想の歴史が証明するように、非凡な知性の人によって築かれた新しい体系は、どれも必ず、後に続く者たちによって、倒されてきた。(略)しかし、人生それ自体の問題になってくると、たとえ知性が究極の解決をもたらすことができるとしても、それを待つわけにはゆかない。われわれは、一瞬たりとも、生活活動を停止して、哲学が人生の神秘を解き明かすのを待つわけにはゆかない。神秘はそのままにしておいても、われわれは生きねばならぬ。」

鈴木大拙『禅』50頁)



「神秘はそのまま」にしておいていても、現在、きちんと生きているのです。これをそのままにしておかないと「思想の歴史」の混迷の中に入って苦労することになります。

語録で表現するならこうですか。



「禅は言う、『三界は何物もない、何のところに心を求めんとするのか。四大(しだい)は畢竟空である。何のところに仏を見んとするのか。しかも真理は汝の目前に展開しているではないか。この真理以上に何物もない』と。」

鈴木大拙『禅学入門』31~32頁)



風流の味わいのある菅原時保老師もよいです。



「分けのぼる麓の道の多ければ

登らぬ先に日は暮れにけり



道の善悪、――道の高低、――道の遠近、――道の安危なぞを選択して居る中に日は暮れますぞ、人生五十の命は尽きますぞ。」

(菅原時保『碧巖録講演其一』39頁)



浄土真宗で表現するとこうでしょう。



「現在の凡夫の迷っている心を、それが直らないものと見られたから、仏はそのまま救うてくださるという、〈そこ一つ〉を知らせていただいたとき、そこに永遠の生命を認めて、信仰の境地に入るのです。」

(中野駿太郎発言。秋月龍珉『世界の禅者 鈴木大拙の生涯』132頁)
*近角常観門下の真宗人。『大法輪』初代編集長。



これらの消息を一番端的に表現した禅語が「初心」ではないかと思います。

曹洞宗の鈴木俊隆老師は禅の修行の核心であるとして特に強調します。



「日本語では初心といいますが、それは『初めての人の心(ビギナーズ・マインド)』という意味です。修行の目的は、この初めての心、そのままを保つことです。」

(鈴木俊隆『禅マインド ビギナーズ・マインド』31頁)



人生わからないことだらけで不安なままの初心でも、生まれてこの方ずっと初心でやってきて、そのまま乗り切ることができている。

特別な知識などいらない。

こんな単純なことを伝えるだけでも色々な言い回しがあり、どの言い回しが琴線に触れるかは、その人によりけりです。

ここに同じような内容でも、色々な方の多様な言い回しを知ることの価値があります。

また、仏教者の言葉では琴線に触れない人も多くいます。

私自身は、アドラーやロジャーズなどといった心理学者や精神医学者の言葉で語ることも多いです。俳優さん、タレントさん、スポーツ選手の方の言葉もよいかと思います。

そうして考えてみると、仏教等を学び知識を増やすということは、私自身の利益の問題ではないことであるとわかります。

自分自身の人生だけを考えた場合には、特別な知識などまるでいらない。

しかし、自分以外の方に親切をするためにこそ知識は必要なのです。

仏教を学ぶことの価値は慈悲のためにこそあると思っています。



「社会のために勉強し、社会のために生きる、道のために飯を食い、道のために茶を飲むというように、道のためにするのでなければならぬ。道のために尽さねばならん身体だから、お互い不養生するわけに行かぬのである。自分のだけのためならどうでもよい。」

澤木興道『禅談』313頁)
 


 

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