坐禅普及

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テーラワーダにおけるカースト制の許容ほか――上座仏教の基礎知識(2)

上座仏教の基礎知識の2回目です。
1回目は次のとおり。

現代テーラワーダ新宗教ほか――上座仏教の基礎知識(1)
https://zazenfukyu.hatenablog.com/entry/2020/08/18/040541?_ga=2.222862173.777479059.1597954280-961353732.1597260876

5 テーラワーダにおけるカースト制の許容

インドにおけるカースト制に対しては、釈尊は、これを否定したという趣旨のことがよくいわれますが、上座仏教(テーラワーダ)の歴史を見ていくと、実際には、カースト制を許容していたことがわかります。

たとえば、王がある一定の地域をサンガに寄進する場合があり、その場合は、サンガが当該土地の住民を支配し、その支配においては、カースト制による差別があったとされます。



「『僧院の村』制度は、スリランカで今なお完全になくなったわけではない。僧院は村全体、あるいはその一部を所有し、そこの住民を使役させる権利を所有しているだろう。村人たちは僧院の農地を耕作し、また物品を運搬したり衣服を洗濯したり、宗教的な行事の際に音楽を演奏するなど、それぞれのカーストに応じてその他、いくつもの奉仕をしなければならない(最近では、奉仕という言葉は和らげられ、労働に対しては現金が支払われることもある)。このような封建的な奉仕の提供に関する詳細な情報は、一六世紀以降についてだけは得られるのであるが、おそらく拘束労働に等しい制度の下で、古代スリランカの多数の村人は『僧院の世話人』として働いていたであろう。」

(リチャード・ゴンブリッチ(森祖道・山川一成訳)『インド・スリランカ上座仏教史』272頁)



『インド・スリランカ上座仏教史』が発刊された1988年においても状況は変わっていないということですが、2000年代に入っても、スリランカの上座仏教におけるカースト制は存続し、しかも強固であるといわれます。



スリランカは大変カースト制の厳しい教団組織であります。一番高いカーストじゃないとスリランカの、そのタイから持ってきたサンガと言いますか、サイアム・ニカーヤ(シャム・ニカーヤ)と呼んでいるのですが、ここは最上位のカーストじゃないとサーマネラ(得度)できません。」

(中村尚司「報告Ⅰ 中村尚司「東南アジア上座仏教の現状と課題」龍谷大学アジア仏教文化研究センター『2010年度 第1回 国内シンポジウムプロシーディングス「アジア仏教の現在」』6頁)



そもそも出家できるか否かという次元で、スリランカの上座仏教教団では、カースト制に基づく差別があるとされます。

このような教団組織内におけるカースト制に基づく差別は古くからあったそうです。



「農民社会の地主としてのサンガの生活は、本来の理想から一層逸脱したものとなっている。それはカーストによる組織化である。(略)
 一七五三年、少なくとも二人の低カーストの僧がタイから来た僧団によってキャンディーで得度を受けたが、その後数年も経たずして、キャンディーの本山は、シンハラの全人口のおよそ半分を占める支配的な土地所有カーストに属さない者の得度を拒否するにいたった。このことは仏教精神に反すると認めながらも、彼らは今日までこの制限を維持してきた。(略)別の場合には他の特定のカーストに対して入門を制限しており、あらゆるカーストの子弟の入門を許しているのは本当に小数に過ぎないのである。」

(リチャード・ゴンブリッチ(森祖道・山川一成訳)『インド・スリランカ上座仏教史』278頁)



また、教義についても、所属カーストに応じて相違があることもあるそうで、ここは興味深いものがあります。

日本の上座仏教では、スリランカ出身のアルボムッレ・スマナサーラ長老が強い影響をもっていますが、長老がどのカーストを前提としているかも気になるところです。


 
「少し注目しましたのは、そのカースト制度、大変厳しい。それで多分、今日は見えてないのですが、短大の能仁先生は仏教がスリランカに伝わる前の頃からヴァルナ制を仏教では認めていてというふうな可能性も示唆されています。同じ仏教徒言っても、バラモンとクシャトリアの仏教と、それからヴァイシャとシュードラの仏教はちょっと説く内容が違っていてもいいのだというような話があるということです。」

(中村尚司「報告Ⅰ 中村尚司「東南アジア上座仏教の現状と課題」龍谷大学アジア仏教文化研究センター『2010年度 第1回 国内シンポジウムプロシーディングス「アジア仏教の現在」』8頁)



上座仏教において、このようなカースト制の許容がなされた背景について、ゴンブリッチ先生は次のように分析します。



「彼(釈尊)のことをある種の社会主義者だとするのは、時代錯誤も甚だしい。彼は決して社会的不平等に反対したのではなく、ただそのことが救いとは無関係だと宣べたまでである。彼は決してカースト制度を廃止しようとしたわけでも、奴隷制度をなくそうとしたわけでもなかった。例えば、有名な説法である『沙門果経』(略)が、奴隷がその隷属を逃れて教団に入ることの実際的な利益を強調する。その一方で、現実には逃亡奴隷の入団は許されていなかった。その上、古代インドでは教団そのものの内部には、カーストも他の形態の社会階層もなかったのだが、やがて教団それ自体(在俗の)奴隷を所有するようになった。」

(リチャード・ゴンブリッチ(森祖道・山川一成訳)『インド・スリランカ上座仏教史』52~273頁)



カースト制度を持つ社会と対立すれば、平穏な環境で「修行」ができないということでしょうか。

社会的な不合理に対する妥協は日本の仏教徒にも広く認められますが、仏教の発生時点から、このような側面があったように思われます。

【参考】
戦争と禅と日本国憲法
https://zazenfukyu.hatenablog.com/entry/2020/08/15/155159?_ga=2.213398610.777479059.1597954280-961353732.1597260876



それが仏教というものの本質的な性格であることについては、次の魚川祐司先生のお話がわかりやすいと思います。



「解脱・涅槃の境地というのは、世俗的な意味での善や悪はともに捨て去ったところにあるものだから、そこから俗世における善悪の基準、即ち倫理規範を直接的に導くことは不可能だ。(略)

世間(loka)の中での日常的な振る舞いに関しては、素朴な功利主義と(略)一般社会からの非難を受けないことを基準として善悪を定め、そうすることで、信との世俗的な意味での幸福と、社会の中での生き残りを、仏教は担保してきたわけである。(略)ゴータマ・ブッダの仏教が第一に目標としていたところは『無善無悪』の涅槃である以上、『それ以外のことについては社会で軋轢を起こさぬ程度に適当に』という姿勢であることに、宗教として大きな問題はないだろうと私は思う。仏教が独自の固定的な倫理基準を有して社会を厳しく批判するような勢力であれば、無産者の集団が人々の好意に依存した援助に基づいて、『善も悪も捨て去った』境地を追求することを許されるという、改めて考えれば奇跡的な制度は、二千五百年間も維持され得なかっただろうと考えるからである。」

(魚川祐司『仏教思想のゼロポイント 「悟り」とは何か』76~77頁)



一般社会から非難を受けないようにするために、一般社会の価値観、すなわちカースト制を取り込むうちに、教団組織自体がカースト制を前提とするものになってしまったということでしょうか。



6 テーラワーダにおける出家主義



時折、「悟り」に至るためには、出家する必要があるかどうかという議論がされたりすることがありますが、上座仏教の一般的な立場からすれば、出家をしなければ、上座仏教的な意味での「悟り」には至らないとされます。

スリランカが英国の支配を受けた後に行われたキリスト教の教化に対し、公開討論により論戦を挑み、上座仏教を守ったモーホッティヴァッテ・グナーナンダと共に、上座仏教のお教義の保守のための冊子を印刷した「学識豊かで広く伝統的な見識を持つ」ヒッカドゥヴェ・スマンガラは、次のように語ったとされます。



「スマンガラは、一九〇四年、国王エドワード七世に対してセイロンサンガの記念式典を呼び掛けた数人の高名な僧の一人であったが、その中で彼らは『ブッダの教法により、在家者はこの宗教を分担するものではなく、サンガのみが地上で現在唯一の仏教代表者である』と書いている。」

(リチャード・ゴンブリッチ(森祖道・山川一成訳)『インド・スリランカ上座仏教史』306頁)

 

現代の上座仏教の指導者には、在家でも「悟り」を開くことができるという方もいらっしゃいいますが、どうも教義論的な理由というよりも、1800年代から在家信者の活動が活発化し、力を持ってきたので、そのことに対する配慮が必要になったからではないかという気もします。



「神智協会は、一八七五年、ニューヨークにおいて、ブラヴァッキー夫人(Madame Blavatsky)とオルコット大佐(Colonel Olcott)によって創設され(略)た。(略)

一八八〇年五月、ブラヴァッキーとオルコットはセイロンに到着した。二人は三帰依を行ない、五戒を受けて正式な仏教に帰依した。仏教徒にとってこれは全面的な勝利であった。(略)

オルコットは仏旗を考案し、これは世界仏教徒友好協会に採用され、今日広く用いられている。これはブッダの光背を表わす五色でできている。仏旗を作るという発想そのものが、オルコットのアメリカ的背景から出ている。(略)一九〇五年スマンガラは、彼にとって神智学とはヒンドゥー教と同一のものに見える点に抗議して、自ら仏教神智協会を脱会した。(略)オルコットとグナーナンダの関係はさらに悪かった。(略)

グナーナンダの攻撃は、スマンガラの後年の脱会問題と同様、おそらく仏教の指導権が在家者の掌中に落ちた状況に刺激されたものであったろう。なぜなら(布教の上で)真に積極的で効果的だったのは、地方の下部組織を含めた仏教神智協会の在家者部門だったからである。仏教神智協会のこの部門は、オルコットが創設に協力したいくつもの学校を運営していたが、この協力は多分セイロンにおける彼の業績の最も持続的なものであったろう。(略)仏教神智協会学校は、クリケットに至るまで、ミッションスクールをモデルにしたもので、教育は英語で行われ、そこではキリスト教が伝道の中で占めていた立場を、仏教が保持するようになった。(略)

それ以来在家信者の組織は数を増し、キリスト教の組織モデルに倣い続けた。青年仏教協会(YMBA)は一八九八年、カトリックから改宗した一仏教徒により設立されたが、(略)セイロンにおける最も重要な在家仏教組織に発展し、その指導性は今日では全セイロン仏教者会議として知られている。」

(リチャード・ゴンブリッチ(森祖道・山川一成訳)『インド・スリランカ上座仏教史』308~312頁)



長い引用になりましたが、在家の組織が大きくなり、その発言権が強くなると、「在家では悟ることができない」という伝統的な主張も言い難くなるようにも思います。

また、現代の上座仏教の組織の形態がキリスト教を模倣したものであるということにも興味深いものがあります。





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