坐禅は無功徳
「瞑想部屋などがあるんですか?」
以前ある方から受けた質問です。
私が、一時期、禅の修行団体に所属していたり、色々な瞑想会に参加するなどマニアックな活動をしていたほか、長広舌を振うものですから、自宅でも相当マニアックに坐禅をしているのだろうなと思われたのだと思います。
サラリーマンで、富裕層というわけではありませんし、妻子もおりますから、そんな特別な部屋などはありません。
しかも、子だくさんなものですから、「自分の部屋」自体がない。
家族がテレビなどを見るリビングで坐禅をします。
子供らがドラマやアニメを見ている横で坐禅をすることもよくあります。
時間の計測はスマートフォンのタイマー機能を使っています。
自宅で坐禅をするという在家の方でも、熱心な方は、お線香を立てたりですとか、始めるときに、印金、あるいは、その代わりに音叉を鳴らしたり、坐禅のほかに読経をしたりするという方も、よくいらっしゃいます。
それらも悪くはないと思います。
色々と雰囲気を作り出す、それが、精神的に良い面もあるように思います。
とはいえ、工夫のしすぎもどうか、とも思うのです。
線香の煙や匂いにしろ、ほかの家族にとっては迷惑であり、「佛教は慈悲を以て趣旨とする」(釈宗演『一字不説』2頁)のにおかしい方向に行ってしまいます。
何よりも、精神的によいものを目指そうということの背景には、「現在は精神的に満足の出来る状態にはない」という精神性があります。
このような精神性を強調する結果になることも望ましくないように思われます。
仏教は応病与薬の方便として、様々な教義や実践があります。
その中でも、私が比較的普遍性が高いものと思っている教義は、「特別なものはいらない」ということです。
大切なことは、こちらから与えることであって、与えられることではない。
何かを得ようとして、妥協し、卑屈になるから、自分に素直に従って、本当にやりたいことができなくなる。
自分が得ようとして、ほかをないがしろにするから、人間関係にひびが入り、却って苦しむ。
逆に、ほかの人から悪く思われないようにするために、おもねる。
禅の世界で「無功徳」が強調される理由もこのようなところにあると思われます。
一番の典型例が碧巌録第一則でしょう。
帝問う。
朕、寺をたて僧を度す。何の功徳がある。
達磨いわく、『無功徳』
同じ流れで詩的な感じがするものがこちら。
「御佛に帰依するのは(略)信仰の代償として御利益を祈るのではない。佛心(みこころ)に随順し、佛恩に感謝するのですから、故(ことさ)らに病気の平癒も祈らず、海路の平安も祈らず幸福快楽をも祈り求めない。けれども浄信の在る所には安心があり、歓喜があり、平和があり、疑わず、懼れず、惑わず、驚かず、事に当って其正鵠を失わぬ。そこで病気も早く全快し、航海にも危険を免れ、富貴をも得、幸福を得らるる。真の信仰は
《求めず祈らずして、祈る所求むる所が得らるる》
のです。」
(忽滑谷快天『正信問答』171~172頁)
「坐禅の生理学的効果」というタイトルでいくつか記事を書きました。
【参考】
○扁桃体の活動の低下――坐禅の生理学的効果(1)
(https://zazenfukyu.hatenablog.com/entry/2020/07/12/200328)
しかし、そのような効果をさておき、その象徴的な意味として、最も重要なことは、「特別なものはいらないということが分かること」であると捉えています。
坐禅とは「何も求めない」ことであり、そのために、口を閉じ、手は印を結び、足はしっかりと組みながら、同時に、そのことの意味合いを分かるようにするため、目は開け、意識はしっかりと保つ必要がある。
藤田一照師の現代坐禅講義に、このような話が出ていて、その影響を受けました。
「坐禅をするということは必然的にというか、自動的に人間を人間たらしめている、少なくとも四つの能力(歩行、道具の操作、言葉、抽象的思考能力)を封印することになるのです。」(226頁)
次の表現は詩的な感じもしてよいですね。
「求めないという豊かな世界をわれわれに開いてくれるのが坐禅なのです。」(55頁)
そうすると、工夫のしすぎてもいけないように思うのです。
悪くは無いかも知れないけれども、工夫をすればするほど、坐禅自体が「特別なもの」になってしまう。
ちなみに、一照師は、坐禅以外にも色々なエクササイズに取り組んでいらっしゃるので、少し違う方向なのかなとも思います。
設備の整った禅堂等で坐禅をするのも悪くはありません。
しかし、設備が整えば整うほど、坐禅自体が特別なものになっていき、一番大切なものが毀損するようにも思えます。
そもそも、本来、応病与薬の方便なのですから、坐禅自体がいらないはずのものです。
「禅は禅に非ずしてよく禅なり」
ですから、余り一生懸命やり過ぎるのもよろしくないように思います。
私自身坐禅の理屈は、曹洞禅から学ぶことの大きいものがありましたが、同時に距離を感じるのは、坐禅を一生懸命にやりすぎるところがあるからです。
「あまり禅に興味を持ちすぎるのもいけません。若い人が禅に夢中になると、学校をやめてしまし、森や山にこもって坐禅を始めます。この種の興味は本当の興味ではありません。
落ち着いて、日常の修行を行っていれば、自分の人格は強いものになっていきます。心がいつも気ぜわしいと、人格をつくる余裕がなく、うまくいきません。」
(鈴木俊隆『禅マインド ビギナーズ・マインド』110頁)
こう語る俊隆老師も曹洞宗ではあるのですが。
私の場合は、放置するとうつ傾向が出てくる自覚があるので、高齢の先輩が自覚症状が無くても、高血圧の薬を飲むような感じで、平日は朝30分程度、休日は朝、夕それぞれ30分程度坐っているくらいです。
「悟り」だの、「見性」だのを求めるから、おかしい方向へ行ってしまう。
日常に感謝して自足し、それを返していくということができなくなってしまう。
病んでいる方の中には、そういうプロセスの必要な方もいるのかなと思います。
しかし、多くの人は、そこまでは病んでいません。
「求心止む所、即ち無事」
「敦煌本『二入四行論』(略)雑縁部より縁法師とある人との問答の一つを引く。
問、「どういうものが道でしょうか」
答、「君が心を起して
《道を求めようとすると、姧巧が起って有心のうちにおちこむ。》
君が心に道を起すと、巧偽が生まれる。心に手だてを意識すると、かならず姧偽が生まれる。」
問、「姧偽とは何のことですか」
答、「知恵をはたらかせて名を求めると、百巧が起る。姧偽を断じようとするなら、
《菩提心をおこさぬこと》
だ。ものに対して知恵をはたらかせぬことだ。かくしてはじめて、人に気力がそなわる。身体に気力が充満すれば、知恵を求めず、法を追わず、悟りをあせらず、すこしはおちつくことができる」
姧巧、巧偽、姧偽はすべておなじ作為を指す。姧は姦に同じく、道の自然にそむく行為である。ところが、いまは
《道を求めることそのことが姧偽》
となる。」
(柳田聖山『禅思想』31~32頁)
最初から、この私たちの日常には、「特別なもの」が必要な問題など何もなかったのです。
「日本語では初心といいますが、それは「初めての人の心(ビギナーズ・マインド)」という意味です。修行の目的は、この初めての心、そのままを保つことです。(略)
私たちの「初心」は、その中に、すべてを含んでいます。それは、いつも豊かで、それ自体で満ち足りています。この、それ自体で満ち足りている心の状態を失ってはいけません。」
(鈴木俊隆『禅マインド ビギナーズ・マインド』31~32頁)
【参考】
○初心
(https://zazenfukyu.hatenablog.com/entry/2020/05/03/232544)
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