戦争と禅と日本国憲法
1 個人的なこと
前置きに少し個人的なことを書きます。
私は、1970年代生まれですが、父が歳をくってからできた子どもであり、父は、一兵卒(二等兵か上等兵のいずれかですが詳しくは知りません)としてニューギニアで終戦を迎えました。
ニューギニア戦は、ガダルカナル島攻防戦において、約3万5000人を投入したものの、約2万4000人が戦死(うち約1万5000人が餓死とされます)して敗走したこと(保坂正康『あの戦争は何だったのか 大人のための歴史教科書』114頁)を、大本営が「転進」と称して発表した後に起こりました。
「大事なのは、どこに戦いを求めて転進したのかです。陸海両総長(参謀総長と軍令部総長)が天皇に報告に行った時、『ではどこへ攻勢に出るのか』と聞かれ、『これから十分に作戦を練ります』と答えればいいものを、参謀総長杉山元が『ニューギニアです』と言ったんですね。そうして今後はニューギニアで惨憺たる戦いがはじまるのです。(略)そして十七万人の将兵が、終戦日まで戦闘(餓死とマラリアとの戦いを含めます)を続け生還し得たものを一万数千という悲惨となったのです」
(半藤一利『昭和史1926-1945』414頁)
戦闘する前の行軍の過程でお亡くなりになった方も多く、このような状況もあったようです。
「糧秣(りょうまつ)の不足は、人間性を最も露骨に現し、戦友をだまし、盗み、時には殺人までして、食糧を少しでも多く、自分だけでいいから手に入れたいとの行為が、相次いで見られ、鬼畜の振舞いもこれまでと思われることが平常となった。」
(大塚楠雄『玉砕の島への道』からの引用。飯田進『地獄の日本兵 ニューギニア戦線の真相』76頁)
「軍の組織が崩壊したところでは、兵士たちは原始の昔に還るのです。容易に共食いが行われたようです。戦後の収容所の中でそれに類した話を、私は何回も耳にしました。
『あのなあ、転進者の生き残りがたむろしているところにはな、単独で兵隊を使いに出せないんだ。どこから撃たれて食われるかわからねえからだ』(略)
極限状態に曝された人間は、人類が何千年もかけて作り上げてきた道徳や倫理を、一挙に引っくり返します。」
(飯田前掲書93頁)
3万5000人を送って、1万5000人を餓死させて敗走を余儀なくしたことをごまかすために、17万人を送って、1万人以上を同様に死に至らしめる矛盾。
戦争は多数のアクターが関わり合うのですから、特定の視点から評価することは難しい面もあります。しかし、当時の軍官僚の言行からすると、軍官僚の出世と保身という面が強いように思われます。
インパール作戦等を含めこのような例のキリはありませんが、戦争開始の局面として特徴的なものとして、ウィキペディアに出ていた「海軍戦争検討会議記録」の孫引きですが、次のようなことがあったようです。
「及川古志郎海軍大臣が、陸軍大臣・東條英機に『戦争の勝利の自信はどうか』と聞かれた時、『それはない』と答えた。それを聞いた東條は『仮にも海軍に自信がないのならば国策を考え直さなければならない』と述べたが、及川は、あくまで私的な場所での発言としてくれと付け加え、午後の連絡会議では議題に挙がることはなかった。
井上(成美)が日独伊三国軍事同盟成立時の海軍大臣であった及川に『何故、海軍は戦えません、とはっきり言わなかったのか』と質したのに対し、及川は日本海海戦の英雄東郷平八郎元帥の怒鳴り込みにおびえたと答えている。」
(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%8A%E5%B7%9D%E5%8F%A4%E5%BF%97%E9%83%8E)
当時、海軍は、米国を仮想敵国とし、戦艦の築造等の必要があることを理由として、陸軍の約2倍の予算を取っていましたから、今更、米国相手に戦争はできないとは言いがたかったのであると思われますが、ここにも、当時の軍幹部が自己保身のために、判断を曲げた一面が現われているように思えます。
私の個人的な事柄に戻りますが、父は、世代的に当然というか、愛国心が強く、私が小学校の年中くらいまではよく一緒に靖国神社に連れて行かれました。父は、凄惨な戦地で亡くなった仲間の魂が本当にそこに集っているのだと思っていたのでしょう。
しかし、同時に、父は、当時の戦争指導者を強く憎んでいました。私が小学生の頃辺りまでは、当時の戦争指導者の方もテレビに出てくることがよくありましたが、そのたびにテレビに向かって、その人をののしっていました。当時は、その父の姿が異常に思え、嫌でした。
けれども、父が亡くなった後になって、改めて戦争の悲惨と、ニューギニア戦等の戦争の経緯を学ぶ中で、父をある程度理解できるようになりました。自分自身のメンツで、自分たちを全く戦略的合理性のない戦地に送り込み、そして戦友の多数を餓死、病死させた。そのような人間を許すことができなかったのでしょう。
私は、父との折り合いが悪く、父を憎んでいるところもありました。ニューギニア戦について学んだり、従軍したことをきっかけにPTSDになる事象を知ったりするうちに、私の憎んでいた父の人格は、悲惨な戦争体験に起因するものではないかと思うようになりました。父は、時折、戦争の際の現地住民の方に対する差別的な言動を自慢話的にすることもあり、それも私には嫌なことでしたが、今考えると、悲惨な記憶に耐えるための躁的防衛だったのかも知れません。
私は、父を憎んでいましたから、父とは違う生き方をしたいと思ってきたのですが、母からは、よく父と似てきたと言われます。坐禅をするようになってしばらくして、母から、父も坐禅をしていたという話を聞かされました。父は、敬虔な日蓮宗の信徒であるということは分かっていましたが、坐禅をしていたということは母から言われるまで知りませんでした。日蓮聖人は「禅天魔」を唱えていましたから、聞いた当初は違和感を抱きました。
先の引用の中で、ニューギニア戦における戦友に対する非人道的行為に触れましたが、おそらく父も同様のことをしていたのだと思います。そうでなければ、凄惨な戦地を生き延びることを想像できません。
坐禅会や瞑想会に参加するようになってから、何らかの形で心を病んでいる人が、この種の集りに参加するのだということが本当のことであるとわかりました。
父も、ニューギニア戦の地獄のような恐怖のほか、自分自身が非人道的な行為を行ったことから救われたいという気持ちが強かったのではないか。それだからこそ、禅に行ったり、日蓮宗に行ったりなどといった宗教遍歴をしたのではないかと思います。
2 禅修行者の戦争責任と禅修行への懐疑
少し前にも引用しましたが、明治期から昭和初期にかけて禅が流行したことがありました。
【参考】
魔境(2)――坐禅の生理学的効果(11)
(https://zazenfukyu.hatenablog.com/entry/2020/08/09/073224?_ga=2.37830948.682442813.1597451445-541515618.1562325655)
特に、軍人の中で、禅の実践に取り組む者が増えたとされています。
「この時期に禅宗は大流行している。その原因の一つは、清との外交関係が悪化し、明治27 年(1894)7 月に日清戦争が始まったことだ。江戸時代の武士の中には心の鍛錬のために禅寺に通って坐禅する者がいたのと同じように、戦争に備えて参禅する軍人が増えたのだ。そうした風潮をよく表しているのが、曹洞宗管長であった森田悟由(1834-1915)がこの年に『軍人禅話』を刊行し、死を軽んじて戦うべきことを訓戒したことだ。本書の冒頭には、忠義を尽くすよう軍人に命じた明治天皇の『軍人勅諭』が赤字で印刷されている。」
(石井公成「近代におけるZenの登場と心の探究(1)」『駒澤大學佛教學部論集 第49號』338~339頁)
有名なところでは、乃木希典が南天棒中原鄧州老師に参禅していたことでしょうか。
日中戦争以後の軍幹部の中で、禅に傾倒していた方として知られているのは、林銑十郎、堀内文次郎、小笠原長生、今村均といった方々でしょう。
このような状況からすると、彼らよりも下級の軍官僚の中にも、彼らの影響を受け、相当数参禅者がいたはずです。
そして、このような陣容からすると、ニューギニア侵攻を含めた軍幹部の保身等が目的の作戦を止めようとする立場にいた方も、その長い指揮系統のどこかにはきっといたはずです。
禅の修行により道眼が磨かれるというのであれば、如何に愚かな作戦であるかわかったでしょうし、また、禅の修行により道力が身に付くというのであれば、軍での自分の立場や、その後、自分自身が政治犯などとして責任を追及される不安に打ち勝って、組織の中にあって、作戦中止のために奔走することができたはずであると思うのです。
しかし、そんな人の話が聞えてくることはありません。皆、時流におもねっていたのでしょう。
出家者も、戦争当時は時流におもねる状況でした。
「満洲事変以降の禅宗教団のあゆみは、ほとんどそのまま戦争協力の歴史であった。(略)禅宗の各教団は、仏教連合会(1941年に大日本仏教会に発展)や仏教護国団に参加し、1944年には、あらゆる宗教を一元化した大日本戦時宗教報国会に参加することになった。
こうした状況の中で、宗門本来の思想と現実の行動を調整する必要が生じ、禅僧や宗学者を中心に、いわゆる『戦時教学』が展開された。その典型は、山崎益宗(1862―1961)、杉本五郎(1900-1937)の師弟によって展開された皇道禅(天皇宗)である。杉本の『大義』(1938年)に、『大義に透徹せんと要せば、須らく先づ禅教に入って我執を去れ』といい、『諸宗諸学を総合し、人類を救済し給うは、実に天皇御一神におわします』と説くように、これは禅思想を尊皇思想に統合しようとしたものであった。」
(伊吹敦『禅の歴史』300頁)
本ブログでは、朝比奈宗源老師を好意的に取り上げることが少なくありません。
宗源老師も、当時は、次のような発言をしていたそうです。
「臨済宗円覚寺派の円覚寺貫主として活躍した朝比奈宗源の、太平洋戦争下の政治的言説は、どのようなものであったか。
われわれは、かれによると、日本民族の『存亡』をかけた『大決戦』を前にして、『口舌』だけの『拠身捨命』では、『思想戦の指導者』にはなれない。『仏法の実』を示すのは、まさに『今』である。『行持』とは、『読経礼拝や行乞』ではない。『忠君の行であり報国の行であり戦力増強の行』でなければならない。『勇猛な志気』で『純一無雑に国家に奉仕せよ、活禅はそこに』ある。」
(栄沢幸二『近代日本の仏教家と戦争――共生の倫理との矛盾――』305~306頁)
沢木興道老師も、本ブログでは好意的に取り上げることが多いですが、同じような感じでした。
「仏道無上誓願成は皇道無上誓願成と言ってよい。まことにこの度の戦争は皇道を世界一杯に拡げることである。この日本の皇道,即ち仏道をアジアはおろか,全世界に遠慮なく弘めねばならぬ。我々はこの道によって三民主義を破り,民主主義を破り,自由主義をやぶらねばならぬ。これが我々日本国民なのである。」
(沢木興道『観音経提唱』からの引用。新野和暢「皇道仏教という思想――十五年戦争期の大陸布教と国家――」『人文學報 108号』99頁)
「民主主義を破り、自由主義をやぶらねばならぬ」というのは、坊主憎けりゃ、袈裟まで憎いの類で、当時の日本は民主的でもなければ、自由でもないことを白状しているようなものです。
「どこかの団体を全体として良いものと支持することはできません」と申し上げているところですが、特定の人を全体として良いものと支持することもできないのです。
【参考】
「本ブログの記事に対する質問ついて」
(https://zazenfukyu.hatenablog.com/entry/2020/08/10/053529?_ga=2.239969284.682442813.1597451445-541515618.1562325655)
当時の出家者が安易に時流に乗った背景として、鈴木大拙先生は、次のようなことを仰います。
「鈴木大拙が、日本の僧侶の特質を、『随順』に求めていた点に注目する必要がある。この特質が各時代の権力に迎合・追従したり、さらには、権力のイデオロギー的教化の担い手となる、思想内在的要因の一つであったとみなすことができるからである。
今まで戦争を謳歌して、軍閥・官僚・財閥の太鼓を叩いた坊さん達は、今度は進駐軍のために大法螺貝を吹き立てることであろう。(略)今までの仏教は鎮護国家で動いて居た。戦争中は殊にこれがやかましく言ひ囃された。(略)彼等に自主的思索と云ふべきものの片鱗をも認められぬのは、何と云っても今日の痛恨事である。」
(栄沢幸二『近代日本の仏教家と戦争――共生の倫理との矛盾――』312~313頁)
「世縁に随順する」ことは、禅では重要な発想です。
「故人の所謂、処々真、処々真、随処に主となり、――箇々転処に立在す、と云う、それを事々物々上に於て実践躬行する、それが真箇の正禅であります。真箇の正禅は世縁に随順して決して世縁と相違したり違反したり致しません。(略)真箇世縁に随順することが出来ますれば、坐禅をなさらなくとも、禅書を御覧になさらずとも、禅の提唱をお聞きになさらずとも、それで完全の正禅者であります。」
(菅原時保『碧巌録講演(其二)』61~62頁)
その時、その場でなすべきことをなす。
「衆善奉行、自浄其意、是諸仏教」の端的ですが、それでは、ニューギニア侵攻が当時の軍官僚にとってなすべきことであったのか。
当時の指揮系統には、どこかの段階で、禅修行をしていた軍官僚がいてもおかしくなかったはずだと思うのですが、声を上げる人は誰もいなかったようです。
「世縁随順」は、勘違いすると「長い物には巻かれろ」ということになりかねません。
この点については、先に挙げたウィキペディアの引用の中に引用した及川古志郎氏(漢籍の大家でもあったようです。)に対する井上成美氏の論評が上手く表現しています。
「井上成美大将は『漢籍は元々、結論のみ記載されており、そこに至る過程が省かれている。つまり論理的でない。漢籍を得意とする及川の思想もこれに似たものである。論理的に考える頭脳がないから、結果として自分のおかれた状況にふらふらと従うばかりである』と述懐している。」
(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%8A%E5%B7%9D%E5%8F%A4%E5%BF%97%E9%83%8E)
禅の実践に興味がある方は気を付けなければならないところかと思います。
戦争当時の禅修行者の方の回想の類いもありますが、ほとんどが敵と戦闘をするときにどうやって恐怖心を振り払ったか、恐怖心を振り払う上で禅の修行が役立ったというような類のものであり、当時の社会風潮に従って長い物に巻かれた類いのものにすぎません。
反戦運動をやって、警察に逮捕され、拷問を受けたけれども、禅の修行によって耐えられたという類いの話もあってもよさそうですが、まるで聞きません。
それでいて、戦争が終わった後、戦争当時言いたくても言えなかったなどと弁解をする鈴木大拙先生のような方もいらっしゃいます。
禅の修行が人格を高め、精神力を高めることを狙いの一つとするのであれば、国家権力のような自分よりも遙かに強大なものと対峙するようなものでなければ存在価値がありません。
禅の修行は、強者の犬になるためのものなのでしょうか。
「日本の仏教徒は、戦争中ほとんどが戦争に反対できず、逆に戦争に協力してきた。本師山田無文老師は、深くそのことを反省懺悔されていた。『師匠の関精拙老師の尻にくっついて、『兵隊さん、お国のために死んでください。』と、大陸まで出かけて行ったのは、間違っていた。仏教の僧侶が鉄砲取って戦争に加担したりしたのは、日本の仏教徒だけだ。もう二度とあんなことをしてはならない』と。」
(秋月龍珉『誤解された仏教』52~53頁)
この引用の中に現われる関精拙老師は、近代の禅匠としては高く評価されている方です。
「私はかつて中野先生に、次のようなお話を聴いた。『戦前、自分はあることから、曹洞・臨済の当時の師家・学究を歴訪したことがあった。そのとき自分はまずたずねた。私は近角門下の信仰に決定した真宗人であって、禅のことは何も知らない。(略)私が聞きたいのは、あなたご自身の経験した“悟り”である。私を納得させるだけの“悟り”の話をきかしてくれた人は、たった二人であった。一人は曹洞宗の渡辺玄宗禅師、いま一人は臨済宗の関精拙老師である。』」
(秋月龍珉の著作からの引用。大竹晋『「悟り体験」を読む 大乗仏教で覚醒した人々』265~266頁)
数少ない本当に悟ったとされる老師ですら、先のように安易に戦争を肯定していたのです。
先の戦争については、対外関係上の戦争責任が問題とされがちですが、無視できないのは、当時の戦争指導者の同胞に対する責任です。
軍官僚が、ニューギニア侵攻のように、自己保身や面子のために、万単位で同胞を戦略的に無意味な戦地に送り込み、その多くを餓死ないし病死させる。
恐ろしいことですが、それを禅の修行をしていた方も一緒になって推進していったのは一体どういうことなのだろうかとも思うのです。
禅の修行をしていても、悟っていても、国家権力は怖い。それはそれで仕方がないとも思うのです。多分、私も、当時の状況下に送られれば、同調圧力に従って、戦争遂行に邁進していたと思います。
禅の修行をしていても、国家権力等の強者に服従する。
本ブログでは、禅の「修行」を含めたマニアックな仏教の実践について、否定的な記述をすることが多いですが、その背景には、このような禅修行者の強者に対する迎合的な態度もあります。つまるところ、仏教の実践をしても、それだけでは大した人間になるわけではないのです。
坐禅の実践によって、扁桃体の活動が低下することにより、日常生活における不安感が治り易くなり、困難を乗り越える気力が湧きやすくなったり、人を思いやる余裕ができやすくなることは間違いないのではないかと思います。
【参考】
扁桃体の活動の低下――坐禅の生理学的効果(1)
(https://zazenfukyu.hatenablog.com/entry/2020/07/12/200328?_ga=2.34538790.682442813.1597451445-541515618.1562325655)
私が「必要な人には」坐禅を勧めたいと思う理由は、ここにあります。
若干のうつ傾向、不安傾向があって日常生活が上手くいかないなという人は試してみる価値があると思います。
心に余裕ができて、人を思いやることがやりやすくなれば、人格的にもよくなったと評価されやすくなるとも思います。
しかし、それは飽くまでもその程度のものと了解しておくべきものでしょう。
禅の「修行」などをしても、それだけで突出した人格者にならないことは先の戦争の経験から明白です。
副作用などを考えてもやり過ぎないことが無難です。
3 自律と日本国憲法的価値観
先の戦争と禅の修行者の方のあり様を踏まえて強く感じることは、個人の自律的な判断の重要性です。
日本国憲法の人権規程は、個人の尊厳を基調に自由と平等を強調するものです。
しかし、坐禅を始めてから禅に興味を持つ人に接する中で、太平洋戦争当時の日本国民に見られるような全体主義的発想の人が少なくないことがわかりました。
先に引用した沢木興道老師の言葉に引用されるような「民主主義を破り、自由主義をやぶらねばならぬ」というような発想の人です。
よく言われるのは、自由を前面に出す日本国憲法のせいで、利己的な人間が増えたという類いの発言をする人が少なくありません。
しかし、ニューギニア侵攻の例に見られるように、戦争当時の軍官僚の言動を見ると、組織の中での保身や出世のために、利己的に作戦を指示した人も少なからずいたのですから、日本国憲法のせいで、特に日本国民が利己的になったというわけではないでしょう。
禅に興味をもつ人の中に、全体主義的発想を持つ人が少なくない理由の一つは、禅の「修行」においては、師家と呼ばれる指導者が絶対的権威を持つため、指導者に対する服従という発想に行きやすいからということがあるように思います。
もう一つは、仏教でいう「無我」の考え方が、「滅私奉公」的イメージがあるからであると思われます。
しかし、仏教でいう「無我」がこのような考え方ではないことは、南直哉師が、それこそ先の戦争を題材にして明快に説明をしていらっしゃいます。
「『無我』(略)普通、一般人がこの言葉を聞くと、(略)『わがままを言わない』ことを意味する(略)
わがままを言わずに何をするかといえば、『いまなすべきことをひたすらなす』のだ、とこうなる。そのときもし、『なすべきこと』を他人に決められるとしたら、それは、その他人に対して『滅私奉公」することと寸分違わない。(略)
世上に流布する『無我』と『滅私』の取り違えには、仏教者の側にもだいぶ責任があるあろう。
いつぞや、八十過ぎの知り合いのおじいさんと話していたら、彼はこんなことを言った。
『ちょうど戦争が終わり近くになって、そろそろ本土も危ないと言われ出したころ、仏教で言う『無我』ということは、たとえばいまなら、お国のために命を捨てることだと説教していた坊さんがいたな。(略)」
ハッキリ言っておきたい。一般に仏教語の『我』とは、常に同一で普遍の実体を意味するのであって、『無我』は、それが私たちの思い込みによる錯覚にすぎない、ということを教える言葉なのだ。
したがって、(略)『滅私奉公』の『公』は、どんな固定した真理も実体もない。それが『無我』の意味だ。裏返せば、私たちが『主体的』と呼ぶべき生き方を築き上げるための、前提中の前提こそが『無我』なのだ、ということである。」
(南直哉『語る禅僧』61~64頁)
一般に流布しがちな禅に対する個性を抑圧するものというイメージに対する警戒感を訴える方も少なくありません。
「有用とはなにか。
たとえば、企業で有用な人間といえば、企業を大いに儲けさせてくれる人間であり、そういう陣頭に立って働く人でなくても、最低限、企業の管理に、きっちり当てはまる人であろう。もっと端的にいえば、社長を頂点として、上司の思い通りに動いてくれる人間であろう。
そういう人間になってくれることを、企業では、『人間形成』と称する。なんという傲慢であろうか。自分の思い通りになる人間が有用であり、思い通りにならぬ人間は無用と斥ける、そのために『人間形成』するという。そういう人間形成に禅が役立つとすれば、それは、企業にとっては『善』であろうが、形成されたナマの人間にとって、これほどの『悪』はない。
禅の有用とは、そんなちょこまかした、ちいさなちいさな世界に人間を閉じ込めることではないのである。禅は、あくまでも個人の『さとり』であり、全体の中での矮小化とは、本質的に違うのである。
だから、そうした、期待を込めての『人間形成』のための新人社員教育に、禅が利用されるなんて、真っ平である。これほど、禅を悪用することはないからである。
そのような野心、もしくは意図をもって来られた人に、私は、いつもつぎの言葉をのべて、返事にかえている。
『達磨大師、梁の武帝に見ゆ。帝問う。朕、寺をたて僧を度す。何の功徳がある。達磨いわく、無功徳』(葛藤集)。」
(関大徹『食えなんだら食うな』102~103頁))
私は、様々な仏教の考え方の内、倫理的なものとしては、「慈悲」が重要であると思っていますが、認識論的なものとしては、「無記」が重要であると思っています。
【参考】
不確かな世界を愛している
(https://zazenfukyu.hatenablog.com/entry/2020/02/17/072810?_ga=2.94470362.736804194.1596843559-541515618.1562325655)
私たちは、目の前に世界が展開していることしか「わからない」。
世界の背後に何があるのかわからないし、他人の頭の中のこともわからない。
次の一瞬何が起きるのかもわからない。
私たちの認識能力には限界があります。
ほかの人がいっていることもそれが本当なのかどうかもわからない。
また、自分が今正しいと思っていることも本当に正しいのかもわからない。
だから、私たちは、何か意識的に行動をするときには、自分の意志を基準にして行動するしかない。
この自分の意志を基準にして行動するしかないところに、個々人の意志の自由の基礎付けがあると考えています。
「われわれは知性に生きるのではなく、意志に生きる(略)。『われわれは、理解の行為と意志の行為とを歴然と区別すべきである。前者は比較的価値の低いものだが、後者は一切である』というブラザー・ローレンスの言葉(『神のみ前の行い』)は真理である。」
(鈴木大拙『禅』68頁)
私たちの知性には限界があります。
しかし、私たちは生きて行かなければいけない。
わからなくても生きてはいかなければならないときに、私たちの行動の決定要因は、私たちの内側にあるもの、すなわち、意志しかありません。
私たちは、常に自分の内側から答えを出して生きていかねばならず、そして、つい見落としがちですが、私たちは、生まれてこの方、ずっと、自分の外側にある答えを探し出してそれに従っていたのではなく、自分の内側から答えを出して生きてきたのです。
自分の外側から見つけてきたものと思われる答えについても、私たちは、自分の内側からそれを判断し、それに基づいて行動しようと自らの意志で決断して生きてきたのです。
ソクラテスの無知の知という言葉は有名ですが、森本省念老師が次のようにおっしゃっていたとされることも、「無記」の重視という観点からは理解しやすいものと思います。
「仏徒がギリシア哲学を学ぶの要を老師は何度も申されていた」
(蜂屋教正「私の省念老師」山田邦男編『森本省念老師 下〈回想篇〉』73頁)
仏教も、「自由」を重大な価値とみるはずのものです。
【参考】
【参考資料】仏教・禅は自由を説く
(https://zazenfukyu.hatenablog.com/entry/2020/01/27/182048?_ga=2.227634458.682442813.1597451445-541515618.1562325655)
しかし、どういうわけか全体主義的な方に行ってしまう。
その理由は、仏教が対処する「苦」とは「人生のむなしさ」を意味するという性格があるからであると思います。
「『無我の教説』に内在するパラダイムとは、人生は結局死によって終わるのだから、満足できるものではあり得ないということのようである。」
(リチャード・ゴンブリッチ(森祖道・山川一成訳)『インド・スリランカ上座仏教史』109頁))
ある種の人は、自分の「日常」の人生を「結局死によって終わる」むなしいものと考える。
しかし、自殺するまでの根性まではない。
そうしたときに、どうやってこのむなしい気持ちに対応するか。
一つは、「むなしい」「日常」に自足する。
もう一つは、人生に「日常」を超えた「超越性」を与えようとする。
唐代の南宗禅は、この「日常性」と「超越性」の対立を示す二つの流れがありました。
「中国の禅の系譜は伝統的に『南岳』系と『青原』系の二つの流れに分けて整理されてきた。(略)
従来、この二つの系列はもっぱら教団勢力の二分として理解されていたが、それが二十一世紀の初めごろから思想史的な分岐として解明されるようになった。ごく単純化していえばありのままの自己をそのまま肯定する馬祖系の禅とありのままの自己とは別次元に本来の自己を見出そうとする石頭系の禅、という対比であり、この二極の間のさまざまな対立や交錯や統合の運動が、その後の禅の思想史を形づくっていったことが跡づけられるようになってきた。」
一応、白隠禅は、臨済宗という以上、「日常性」を重視する馬祖系に属するはずですが、見性を目指す実践からすると、「超越性」を目指す石頭系といえようと思います。
「超越性」をやわらかい言葉で言えば、「平凡ではない、何かすごいことを目指すこと」といえようかと思います。
「何かすごいこと」を個人で実現しようとするのであれば大したものですが、なかなかそういうわけにはいきません。
そもそも、「人生がむなしい」などという人は、元々は自己肯定感の低い人であるものと思われ、自分自身の判断で何かを成し遂げようとするよりは、既に存在し、仲間となる可能性のある人もいる「何かすいごいこと」を目指す集団に所属することを通して、「超越性」を満たそうという方向性に行きやすいのかなと思います。
このようなことから、先の戦争のときも、安易に全体主義的な方向に行きやすかったのではないかと思います。
銃器を使って多数の他者の生命を奪うこと、それが「国家」というもののために資すること、それらのことを通して、ヒロイズムを満たすこと、このようなことは、日常を離れた何かすごいことをしたいという欲望を満たす上で都合がよかったのではないでしょうか。
坐禅を通して知り合った知人から教えてもらったことですが、宗教団体のライフサイクルというものがあるそうです。
1 萌芽期
カリスマ的権威、高度の集団的興奮、組織・儀礼に乏しい
生き生きとした苦難の時
2 効率期
明文化・組織化
集団としての躍進のとき
3 形式期
制度的権威、官僚制の確立
信徒のための集団でなくなるとき
4 解体期
硬直化、集団構造のメカニズムそのものが目的化
官僚的形式主義、解体・減衰の兆候
(森岡清美『新宗教運動の展開過程―教団ライフサイクル論の視点から』)
常識論に属する物かも知れませんが、このライフサイクルからも、宗教団体も、「信徒のための集団でなくなる」ようになり、集団が集団の維持・存続を自己目的化すると、やがて消滅することが分かります。
常識論に属しますが、集団は、まず、個人のために存在しなければならないのです。
「人間は生まれながらに「自由」を欲する。心のままに、自分の思ったとおりに生きたいと願う。(略)
私たち日本人は戦後の『日本国憲法』によって、はじめて真の『自由』を獲得した。(略)
『人間は生まれながらに自由を欲する』と書いた。自由は人間の生得の要求である。しかし、近代市民社会的な、いわゆる人間天賦の基本的人権に基づく『自由』の思想は、以上のように明治以降に近代ヨーロッパから学んだものだということである。」
(秋月龍珉『日常の禅語』209~211頁)
私は、仏教や禅が近代ヨーロッパ的な自由と矛盾するとは思いません。
「禅には、一揃いの概念や知的公式を持つ特別な理論や哲学があるわけではない。ただそれは人を生死の羇絆から解こうとするのである。しかも、これをするために、それ自身に特有な、ある直覚的な理解方法によるのである。それゆえに、その直覚的な教えが妨げられぬ限り、いかなる哲学にも道徳論にも、応用自在の弾力性を持っていて、極めて抑揚に富んだものである。禅は無政府主義(アナーキズム)やファシズムにも、共産主義や民主主義にも、無神論(アイシーズム)や唯心論(アイデアリズム)にも、またいかなる政治的、経済的な教説(ドグマ)にも結びついている。」
(鈴木大拙「禅と日本文化」からの引用。ステファン・グレイス「鈴木大拙の現代仏教に対する批判」『国際禅研究』(2018年2月)105~106頁)
仮に、矛盾するものであるとしても、そもそも仏教は自己の限界を前提とするものなのですから、恥ずかしいことではないでしょう。
少なくとも、私の父が蒙ったような不幸を私の子どもに味合わせる可能性の低い平和な世界になったことは間違いないように思われます。
【参考】
◯禅と全体主義――「戦争と禅と日本国憲法」追補
(https://zazenfukyu.hatenablog.com/entry/2020/08/23/065212)
◯【参考資料】仏教者の戦争責任
(https://zazenfukyu.hatenablog.com/entry/2019/07/28/103423)
参考になる点がありましたら、クリックをしていただければ幸いです。
本ブログの記事に対する質問はこちらを参照してください。
「本ブログの記事に対する質問について」