坐禅普及

主旨は慈悲。行は坐禅。

【参考資料】仏教者と家族

1 加藤耕山発言。秋月龍珉・柳瀬有禅『坐禅に生きた古仏耕山加藤耕山老師随聞記』146頁

「修行というものは実人生、実生活の中にある。わざわざ衣をきんでも修行はできる。急いで茶畑に入るものではない。(略)

富士山に登るのに、荷物をしょって登るのと荷物なしで登るのとでは、荷物がない方が楽だよ。けどもね、荷物をしょった者が登るところにまた深い意味があるのだよ。あんたが妻子を捨てて此処にくるというと、わしも家内と別れなければならんがねえ」



2 岩倉政治の鈴木大拙夫妻評。秋月龍珉『世界の禅者―鈴木大拙の生涯―』192~194頁

大拙先生は在家ですが、その力量は出家といってもよいかと思います。 

「ビアトリス夫人は、いろんな点で先生と対蹠的な人柄であった(略)先生の超脱枯淡に対して、煩悩具足の凡夫性をそなえていた。(略)悪い意味で(略)はない。むしろそれほどに自然で純真な人であった(略)

先生の学問の深まりは、一つには、先生夫妻のたたかいと和解の生活(略)に負う(略)と(略)考えている。(略)ほとんど書斎に引きこもって、俗世間に浸ることの甚だまれな先生にとっては、(略)夫人こそ、凡夫の世界に開く大切な窓となっていた(略)

後年ビアトリス夫人が悪性腫瘍(略)で亡くなられたとき、(略)夫人の病床につきっきりになった先生は、(略)苦痛を訴える夫人のそばで、最後までその苦しみを分かち合い、その老体をかえりみず、看護に尽した。(略)先生の悲しみとやつれは、見るにたえぬものがあった。

そのような先生のなかには超脱や枯淡はなく、ただあくまでも人間的な自然な、最愛の者へのせつない献身があった。わたしはほとんど驚歎して、憔悴の先生を打ちながめ、この師匠への尊敬を新たにした」



3 藤田一照発言。藤田一照・魚川祐司『感じて、ゆるす仏教』

「内山興正老師も云ってましたね。『坐禅の修行者は、奥さんに認められなきゃ駄目だ』って。『その人の悟りの深浅を知りたかったら、家族に聞くのがいちばんいい』と言われていました。」(42頁)

「(家族ができるということは)『思いどおりにならない存在』と密接に関わるような生活になったということですね。」(73頁)

「(子どもが言うことを聞かないことを怒ったことに対して)自分の修行の底の浅さを思い知らされましたね(笑)。このくらいでキレちゃうのかって。」(91頁)

「自分がこんなに癇癪持ちで、自分本位で、これほどまでに怒れる人間だったのか、みたいなことはわからなかった。それまでは、そんな自分の姿を見たことがないし、人に見せたこともないでしょう?思わず、大声を上げたり、モノを投げつけたりする自分。」(98~99頁)

「ソロの修行って、どうしても独りよがりになりがちなんですよ。自分は人のできない特別なことをやってる、だから偉いんだっていう、鼻持ちならない優越感みたいなものが知らず知らずのうちに芽生えてくることが多い。」(99頁)

「ちょうどティク・ナット・ハンさんの本の中の慈悲がテーマのところを訳していて、マインドフルネスだとか、コンパッションだとか、そういうところをやっていた。それなのに、子供をこんなふうに怒鳴りつけてしまった。(略)

とにかく子供というのはそんなふうな仕方で、どうしようもない自分の独りよがりの殻を破ってくれる非常に大きな存在だと思いますけどね。」(104~105頁)



4 ネルケ無方「ネルケ無方師インタビュー さようなら安泰寺[前編]」『サンガジャパン33号』129~131頁

「もし世俗的な煩わしいいろいろなことから離れて、雑音が耳に入らないような山奥で静かに坐禅にふけることが修行であるというならば、家族を持たずに安泰寺のようなところで修行するのが一番いいでしょう。そこに家族が絡んでくるともちろん妨げになります。子どもを育てるためには稼がなくてはいけないし、幼稚園や学校に入るとPTAに入らなくてはいけません。安泰寺は田舎なので、毎年必ず何かの役が当たります。子供がクラスに五、六人しかいないので、ある人が会長だったら、ある人は地域委員、ある人は会計といった感じで、役が当たらないことはまずありません。三人子どもがいるので、幼稚園、小学校、中学校でそれぞれ役につくと、終末もあってないようなものです。ほかに、妻の買い物にも付き合わなくてはいけないし、夫婦喧嘩だってあります。

要するに、そういう煩わしいことに一切関わらないで、一人で静かに坐ることが修行だと思えば、家族は邪魔です。家族ほど邪魔なことはありません。それなら、お釈迦様のように全部捨ててしまうしか方法はないでしょう。あるいは、この間話題になった小池龍之介さんのように、マイナンバーも何もかも全部焼いてしまって、裸足でそのへんをふらふらと歩いて公園のベンチに泊まって木の下で瞑想したほうがいいと思います。

ただ、少なくとも大乗仏教では、修行をそのようにとらえていません。山の頂上に立って遠いところから悩み苦しむ者をただ観察して、その世間の移り変わりを静かに観察して、心の中で彼らが幸せでありますようにと祈りながら、自分はただ静かに坐ってそのまま涅槃に入るというのは大乗仏教ではない。もちろん山から見るという視点を一度自分の中に持つことは大事ですけれども、山の頂上から下りて、泥沼の中に入って一緒に苦しむ。世間の人たちの苦しみを実際にシェアするのが大乗仏教です。

静かに心の中で生きとし生けるものの幸せを願うのは簡単にできます。しかし、現に目の前で子どもが泣いていて、なかなか泣きやまない。それに付き合うことこそ、大乗仏教としての真剣勝負、修行の見せどころだと私は考えたいですね。それこそが修行であると。だとしたら、家族は修行の妨げどころか、ようやく私を高い山のてっぺんから引きずり下ろしてくれた。坐布から引きずり下ろしてくれた存在である。泥沼でもなんとかしなければいけない観音様の気持ちを味わわせてくれる存在である。そう言えると思います。」



5 スッタニパータ。中村元訳『ブッダのことば スッタニパータ』58頁

「二六二 父母につかえること、妻子を愛し護ること、仕事に秩序あり混乱せぬこと、――これがこよなき幸せである。」



6 鎌田茂雄『維摩経講話』277~278頁

菩提心には二種ある。浅はかな道心と真実の道心である。ただ無常迅速の道理だけ知って、世間の名利を捨てて、ひたすらに出離の道を求めるのは浅はかな道心である。無常の生死を捨て、世間を捨て、山林に庵を結んで、滝の音や末の風を聞いて心を澄ませるのは、真実の道心ではない。『無行経』は説く。


 
若し山林空閑(さんりんくうげん)の処に住して、我は貴し人は賎しと思える人は、天上に生ずる事だにもあるべからず、いわんや成仏おや。



この経文によると山林の静閑な場所に住して、自分は世俗の欲望をすべて捨てて、ひたすら道を修しているのであるから、世間の人よりは貴いと考える人は、天上界に生まれることもなく、まして成仏することはありえないと説いている。なぜそうなるかといえば、自分は道心堅固であって修行の力量があると思いこむ。そうなると高慢の心をおこすのだ。その慢心が仏道ではなく魔道に入る。

山林でひたすら修行する場合には、慢心という悪魔がつけこむ。世間の人をいやしむのも魔道である。妻や家族をもちながら必死に生きているのが、われわれ大部分の生き方である。それは愚かな生き方かもしれない。しかし世間に生きることもまた大へんなことなのだ。あらゆるわずらわしさや苦しみと一緒に生きなければならないからである。これらの緊縛(けばく)をすべて捨てて、ひたすら生きるのは純粋であるかもしれない。しかしそれは小乗的な生き方である。」





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