坐禅普及

主旨は慈悲。行は坐禅。

唐代南宗禅

日本の禅宗というと、臨済宗でも、曹洞宗でも、坐禅が行として重視されます。

しかし、禅の世界で坐禅が絶対視されるかというとそうでもありません。

【参考】
【参考資料】坐禅修行の非本質性
https://zazenfukyu.hatenablog.com/entry/2020/03/14/223339

特に、臨済宗曹洞宗で重視される禅匠の語録の多くでベースとなっている唐代の南宗禅における馬祖道一から臨済義玄の法系においては、坐禅が重視されていなかったことは面白いことであると思われるので、ご紹介しておこうと思います。



1 唐代の南宗禅と白隠禅との相違



白隠禅をさかのぼると、中国の唐代の南宗禅、すなわち、六祖慧能以降の南嶽懐譲、馬祖道一、百丈懐海、徳山宣鑑、臨済義玄、南泉普願、趙州従諗らの禅に至るものとされます。



ちなみに、「六祖慧能―南嶽懐譲―馬祖道一―百丈懐海―黄檗希運臨済義玄……」という法系があるものとされますが、大本の慧能と南嶽懐譲との関係については、「南獄懐譲(略)は、当初は、ほとんど注目されていなかった人物であるから、(略)

《本当に慧能の系統を受けるものであったかどうかは疑問》

の余地がある」(伊吹敦『禅の歴史』59頁)という指摘もあります)。



禅宗では、法系、すなわち、師から弟子への伝法の流れが重視され、釈尊から現代における師家まで、その教えが一つの器に入った水を他の器に一滴ももらさず移し替えるように、そのまま承け継がれてきたのである、ということを重視しますが、この伝法自体、往々にして虚構であるということは、知識として知っておくとよいかと思います。



「『伝灯』の系譜は、人名と人名を線でつなぐだけでなく、両者のあいだでおこった開悟と伝法の物語ともなって成り立っていた。

《それらの物語が史実でない》

ことは、つとに禅宗史研究の常識となっている。」

小川隆『中国禅宗史』63頁)



ちなみに、小川隆先生は、臨済宗の出家者の方に対して語録の講義をしていらっしゃるほか、引用に係る『中国禅宗史』は、円覚寺派の管長である横田南嶺老師からも「是非お薦めします」と好意的に紹介されていることもご紹介しておきます。

【参考】
「『中国禅宗史』拝受」臨済宗円覚寺派大本山円覚寺WP
https://www.engakuji.or.jp/blog/31761/

 本ブログでも、伝法の虚構性について取り上げたことがあります。

【参考】

伝法の虚構性(その1)
https://zazenfukyu.hatenablog.com/entry/2019/08/27/180623?_ga=2.193905965.1842888001.1597260876-961353732.1597260876

伝法の虚構性(その2)
https://zazenfukyu.hatenablog.com/entry/2019/08/28/120322?_ga=2.201179310.1842888001.1597260876-961353732.1597260876

物理学の法則に関する理論の正しさが、誰がそれを言っているかではなく、それ自体の現実世界への妥当性であることからすると、ある考え方の歴史的背景というのは、非本質的なものです。

しかし、仏教の世界では、「釈尊がこう言っていたから正しい」という発想を持つ人が少なくなく、禅の実践も釈尊の教説を背景にしているから正しいという発想から、自分自身に合っていない実践をしている人もすくなくないように思われ、「王様の耳はロバの耳」的なことも敢えて書く必要があるのかなと思います。

伝説を伝説として了解した上で、その価値を考えるというのであれば健全ですが、小説に書いてあることを本当にあったことだと思い込んではならないように、伝説を真実だと思ってはならず、もちろん、真実だと思わせてもいけないように思われます。



これまたちなみにですが、現在の臨済宗は、専ら白隠禅ですが、そのベースになった白隠慧鶴禅師に至る「愚堂―至道―正受―白隠」という法系は、雪江宗深(せっこうそうしん)に遡ることができ、雪江の法系は、「大応国師南浦紹明―大燈国師妙超宗峰―関山慧玄」のいわゆる「応燈関」の法系に属します(柳田聖山『禅と日本文化』141~145頁)が、この法系にも、疑問があることも豆知識の一つです。



妙心寺がようやく盛大となるのは、関山の六世に当たる雪江宗深(一四〇八―八六)の活動による。(略)

《応燈関の法系は、明らかに雪江の作為》

である。それは外に五山の権威に対決するとともに、内に大徳寺に対する妙心寺の独立を画する意図をもつ。(略)

応燈関の法系は、古来のものではなかった。雪江以後、白隠の時代にいたって、ようやく確かな樹立をみる、新しい主張なのである。(略)もともと、

《関山より雪江にいたる六代の伝統には、史料的に問題》

がある。関山が弟子授翁に口授したという、遺戒(ゆいかい)や印可状は、江戸時代の初期にはじめてその姿をあらわす。授翁は、南朝の忠臣藤原藤房の後身といわれる。その史実は、不明である。六代の祭祀が再編されて、その史料が揃うのは白隠の青年時代に当たる。」

(柳田聖山『禅と日本文化』141~144頁)



この種の文献を読み囓っての私の感覚ですが、いわゆる伝法の記録が相当程度正確になるのは、明治期以降ではないかという気がします。
 


かなり、脱線しましたが、唐代の南宗禅を担ったとされる馬祖道一、百丈懐海、徳山宣鑑、臨済義玄、南泉普願、趙州従諗の捉え方が禅の理想のあり方とされ、日本の禅宗の基礎となったとされます。



「唐代禅を理想的に描き、その後宋代には禅は衰え、伝統的な中国思想が復権するという図式である。これは(略)、二十世紀の禅研究、あるいはより広く仏教研究が前提としてきた見方である。『祖堂集』の発見者である柳田氏もまた、同書に描かれた唐代の祖師の時代を『純禅の時代』と呼んで、理想化している。

理想化された唐代後期、五代時代は馬祖・百丈・南泉・臨済・石頭らの祖師が活躍した時代で、南宗禅が祖師禅として確立した時代とされる。後に禅問答として知られる、論理を超越した非合理な機縁問答は、この時代の祖師たちを主人公とする。」

末木文美士「唐宋禅研究への大胆な提言」『東方』379号25~26頁)
 
大拙の見方では、宗旨としての禅は、唐時代でほぼその盛期をおわり、宋時代にはよほどマンネリズム化し、あとは『華厳』の理論で体系的整備を得ようとしたということであった。」
(橋本芳契「鈴木大拙浄土教観について」133頁)

「中国唐代の二禅将臨済と徳山(この二人はわが日本の臨済宗では初祖達磨と並べて『磨・徳・臨』と称するほど親しまれた代表的祖師である)」
(秋月龍珉『公案』19頁)



公案に用いられる語録にも彼ら南宗禅の代表的な禅者の言葉とされるものが多く出てきます。一般的には、唐代の南宗禅と白隠禅とでは、性格が異なるものと捉えられているようであり、同じ「悟り」などといった言葉を使っていても、それが同じ意味をもつとはいえず、その体験自体も異なるものというのが適当かと思います。



「中国仏教の中でも中国禅は大変とらえにくい。現在の日本の臨済禅は主として白隠禅である。

白隠禅によって中国の禅を理解しようとしたり、『臨済録』を読もうとするならば、臨済の精神の把握はおろか、見当違いの理解の仕方をしてしまう》

のではなかろうか。或は道元禅師の考え方で、中国の曹洞禅を考えていくと、そこいやはり可成り間違った理解が生じてくるのではないかと思われる。そういうものをできるだけ排除して、中国人の創造した禅に迫っていったらよいか、ということは、かなり問題があろうかと思う。『臨済録』を読んでみると、坐禅については一言も言っていないし、公案についても言ってはおらない。そこでは人間の実存の根拠というか、人間の真の自由とは何か、ということを追究しているのである。」
(鎌田茂雄「禅思想の形成と展開」72頁)



日本の臨済宗、すなわち、白隠禅でいうところの唐代南宗禅の禅匠の語録の理解は、特殊白隠的というべきであり、普遍性がないことになるのでしょうか。

この点は、森本省念老師も指摘されるところです。



「中国の文字はみな古典をふまえている、ふくらみあり、故事あり。解釈の伏兵になる。言とか行とかいう言葉が中国語でどういうニュアンスをもっているか、これを調べなければならぬ。

《禅で割り切ってはダメ。》

禅での使い方もそこから本当にわかる。中国の言葉は概念を明らかにするように働かない、自由なところへ延びていく。」
上田閑照「森本省念老師のこと」山田邦男編『森本省念老師下〈回想篇〉』191頁)



2 唐代の南宗禅における日常性の重視と坐禅の軽視



白隠禅は、坐禅の実践が「悟り」の体験の上で重視されますが、先の鎌田茂雄先生の記述にも出ているとおり、唐代の南宗禅の禅匠は、そもそも坐禅を重視しないのも特色です。

したがって、坐禅の実践を前提とする白隠禅の「悟り」と、坐禅の実践を前提としない馬祖、趙州、臨済等の唐代の南宗禅における「悟り」とは、実質的に異なるものといわざるを得ないように思われます。


 
「博多の(略)仙厓義梵に「坐禅蛙」と称される一枚の絵がある(略)。
その絵には仙厓自身の次の賛が書き付けられている。
――坐禅して人が仏になるならば 厓

(略)いろいろな意に解することができるだろう。(略)

だが、いずれにせよ、ここで

坐禅の継続によって成仏に至るという伝統的な修禅主義が否定されている》

ことは間違いない。禅宗といえば、坐禅によって悟りを目指す宗派、などと国語辞典には書いてある。しかし中国の禅の語録を読んでゆくと、実際には、

坐禅の解体と日常の営為の肯定こそがむしろ禅思想の基調》

であったことに気づかされる。そこには、何人にも完全なる本来性が具わっていて、その本来性ゆえに人はそのままで仏と同質なのだという前提がある。」

小川隆坐禅して人が仏になるならば」『神会 敦煌文献と初期の禅宗史』付録)



そもそも、日本の臨済宗のベースになった臨済義玄自体が、坐禅を重視する人ではありませんでした。



坐禅も修行の一形式ではあります。しかし臨済は『坐禅をせよ』とは一言も言っていない。」

(有馬賴底『臨済録を読む』194頁)

臨済の面前に集まる修行者の中で、『物二依ラズシテ出デ来タル底』『一箇ノ独脱シテ出デ来タル底』の未だ出現しないことを臨済は嘆くが、一般の僧の修行過程は次のように一様である。
六度万行を専ら修す。
〇満腹しきって坐禅観行し、煩悩を抱締めて喧を厭い静を求む。
〇理と行の相応をはかり、身口意の三業を慎む。
〇舌を上あごに押当て湛然と不動で面壁坐禅する。

臨済はこれら修行者に向って『是レ外道ノ法ナリ』あるいは『大ニ錯レリ』といい、修行過程のあやまりを神会の北宗批判の言句に擬す。臨済はこれら修行者に対しても、また彼らを導いた指導者に対しても、彼は真の出家に相応しないものと極め付け、彼らを称して『一家ヲ出デテ一家二入ル』『造業ノ衆生』『真ノ俗家ノ人』と呼ぶ。」

(須山長治「『臨済録』の一考察」316頁)



衆生本来仏也。キリスト教徒は、イエス様に跪くそのままで仏。イスラム教徒は、アラーを礼拝するそのままで仏。無神論者は、神仏を呪うそのままで仏。私の妻は、嬉々として坐禅会に行く私を白眼視するそのままで仏。これらの人たちは完全な仏。

そして、坐禅や参禅弁道する人も一応は仏なのだけれど、かなり出来の悪い方だということになるのかもしれません。 

ちなみに、坐禅を否定するわけではありませんが、次の森本省念老師の言葉も同じ趣旨のものかと思います。


 
「『若し仏法を論ぜば一切現成』、肯定も否定も『義なきを義とす』、解決つかぬが解決したこと。しかし、解決したと言うと、ウソになる。なり切る。しかし、なり切ったということがあったら、ウソ。ちょっとでも坐禅したという尻尾があったらダメ。ごんべえ、太郎べえの言葉は、知らんだけ本物だ。」

上田閑照「森本省念老師のこと」山田邦男編『森本省念老師下〈回想篇〉』190頁)



「ごんべえ、太郎べえの言葉は、知らんだけ本物」

「禅は禅に非ずしてよく禅なり」ということでしょうか。

なお、中国の禅宗史の研究の成果によると、坐禅が主流の位置を取り戻したのは、馬祖、趙州、徳山、臨済らが活躍した唐代の後、宋代に入ってからのこととされます。



「宋代以降、叢林では『開悟の体験』を重視する傾向が強まっていった。北宗禅では『開悟の体験』が大きくクローズアップされていたが、そうした側面は、荷沢神会(684―758)以降、蔑視され、馬祖道一(709―788)以降は表面的にはほとんど無視されるに至ったものである。『禅体験』の獲得が再び重んじられるようになったのは、禅僧の心理が再び内面に向かったことを示すものと言わなければならない。」
(伊吹敦『禅の歴史』120頁)



このためか、大竹晋『「悟り」体験を読む』の中国仏教の部で出てくるのも、達摩のほかは、いずれも宋代以降の禅僧になります。

しかし、このような開悟体験重視の宋朝禅の大本になっている碧巌録を編纂した圜悟克勤や大慧宗杲の「悟り」観も、白隠禅とは少し違うように思われます。

【参考】 【マニア向け参考資料】圜悟克勤と大慧宗杲の「悟り」
https://zazenfukyu.hatenablog.com/entry/2020/07/01/052341?_ga=2.160285117.1842888001.1597260876-961353732.1597260876



さて、唐の南宗禅の禅匠が坐禅を否定する大本になっているのは、六祖慧能を六祖ならしめたとされる荷沢神会が非修行主義をとったことが大きいものと思われます。



「『南陽和上頓教解脱禅門直了性壇語』には、次のような主張も見られる(略)。
 
諸君!どんな善悪も全て考えてはいけない。心を凝らしたり、心を止めたりしてはいけない。心によって心を見ようなどとしてはいけない。見ることに囚われだしたらだめだし、視線を落としてうつむくなら、視線に囚われるから、やはりだめである。心を収めようとしてはいけないし、遠くや近くを見たりしてもいけない。それではだめなのだ。経典に言うではないか、「見ないということが菩提である。憶念がないがゆえに」と。これこそが、静寂なる自性心なのである。

恐らく、彼には、

《種々の工夫に基づく北宗禅の修行が回りくどいものに見え、それがもどかしくて仕方なかった》

に違いない。そこから『菩提達摩南宗定是非論』に見られる、次のような独自な『坐禅』の理解も生まれてきたのである。

(略)

和尚が答えられた、『もし坐禅の仕方を教え、《心を凝らして定に入り、心を止めて滑らかな世界を見よ。心を働かせて外界を認識し、心を収めて内に悟れ》などと言うのであれば、菩提を得る妨げになるだけである。私の言う《坐禅》とは、思念を起こさないこと、それが《坐》なので、本性を見ること、それが《禅》なのである。だから、私は、坐禅の方法を説明したり、《心の動きを止めて禅定に入れ》などと言ったりしあにのである。もし、彼等の言うことが正しいのであれば、サーリブッダ舎利弗)が坐禅していたのをヴィマラキールティ(維摩詰)が叱ったりするはずがないではないか!』

《これは実質的に坐禅修行の意義を否定したものというべきであり、神会の思想の特色を最も鮮明に示す》

ものといえる。(略)

神会は、坐禅という修行法の意義を、少なくとも思想の上では完全に否定してしまったので、彼の著作には、このような心理的描写は全く見られず、また、修行上の工夫も否定するに至ったのである。」

(伊吹敦『禅の歴史』42~44頁)



神会のこのような立場を受けて、中国の禅は、修行よりも、日常性が重要になっていきます。衆生本来仏也なのですから、特別な修行などなしに、ありのままの日常性でよいという方向性になっていったのかなと思います。



「荷沢神会の登場は、確かに禅宗史において画期的な意味を持つものであった。『頓悟』や『定慧等』を強調して

《時間系列としての修行の意味を無化し、日常への廻帰》

を唱え(略)た。」
(伊吹敦『禅の歴史』60頁)



その流れの上で重要だとされるのが馬祖道一禅師です。



「馬祖は、『平常心是道』(普段の心こそが悟りである)、『即心即仏』(普段の心のほかに仏など無い)などの説を唱え、そうした超越的・理念的なものの企てを、いとも簡単に無価値なものとして退けてしまい、

《真に日常に徹する》

ことのみを要求したのである。これが、いわゆる『大機大用論』であるが、このような単純明解で活動的な主張が、現実に即して考えることを好む中国人の前に大変な魅力として立ち現われたであろうことは想像に難くない。
(伊吹敦『禅の歴史』60頁)

「馬祖にはじまる新しい動きを、一般に祖師禅とよぶ。神会一派の如来禅に対することばである。むつかしく考える要はない。それは、

《人間の個性を第一とする意味》

である。祖師とは、おじいさん、おやじさんのことだ。(略)そこにいるだけでよいのである。何もことあたらしく説明したり、講釈してもらうことはなかった。馬祖は口癖のように、『外に求めるな』と言い、『我が語をとる勿れ』とおしえた。古往今来、『俺のいうことをきくな』と教えた人は、そうざらにあるものでない。弟子たちは、この言葉をどう受けとめたであろう。聞けばそむくし、聞かねば聞いたことになってしまう。」
(柳田聖山『禅思想』122頁)  



馬祖禅について一番簡明な説明は、以前にも引用したかと思いますが、次のものでしょうか。



「馬祖によれば、人間はみな覚醒した世界に生きているのであるから、日常の生活の裡に自足しておればよいのであって、このうえ更に

《『佛法』を学び、『修行』をし、『坐禅』をして『悟り』を求める必要はまったくない》

、外にそれを求めることはむしろ清浄心を汚すものである、とした。」

(衣川賢次「臨済義玄禅師の禅思想」『禅研究所紀要第34号』109頁)


 
開悟を目指す特別な修行をしないということは、「悟り」の対象は「悟りのような特別なものはいらない」ということになるのではないかと思われます。

「特別な修行や知識はいらない。日常を生きることに自足する」ということになりそうです。

宋代に至ると、このような立場は「無事禅」と批判されるようになります。



「馬祖の弟子たちは『無事』という言葉も言いました。『平常』とか『無事』ということは、どういうことかというと、『眠くなったら寝る。お腹が空いたら食べる。これが平常無事だ』というふうな説明がされております。しかしそういう説明がありのままで、と説明される一方で、ありのままではいけないんじゃないかと、馬祖の弟子たちが言い出します。(略)そして馬祖の禅に遅れて、もう一つ石頭(せきとう)系の禅というのが後から興りまして、これはありのままの自分じゃない、ありのままを超えたところにある、あるいはありのままとは別次元にある本来の自己を探究するという禅を言い出しました。(略)宋代になりますと、やっぱりありのままということじゃダメだと。ありのままではダメだということが言われるようになりまして、『無事』という言葉は宋では悪い意味に変わります。『あれは無事禅だ』というのは悪口になりまして、唐代では良い意味だったものが宋代には悪口に変わる。」
小川隆「禅の語録を読む」『こころの時代』NHK教育テレビ平成28年4月10日放送)



「日常を生きる」ことは、怠惰的な意味での「無事」であるのか。

そこは工夫するところと思います。

事故に遭う、病に罹る、他人との間で対立が生じる、愛する人から誤解される、愛する人を失う、上司から叱責される、同僚から相手にされない、回復不能の障害を負う、認知症になる、地震による津波で一地域自体が消滅する、戦争が起きるなどの様々な不幸も日常にはあるからです。

このような日常の不幸に対し、何も特別なものを持たずに立ち向かうということが無事禅ということかと思います。

果してそれが有事なのか、無事なのか。

「禅の修行」は、諸詮は修行。練習であって、真剣勝負ではない。

練習の世界では間違いが許されますが、日常の世界では間違いが許されない。

禅の世界では、精神的な修養が重視されることもありますが、どちらの世界が精神的に磨かれざるを得ないかは明らかです。

禅の「修行」において一種苦行的なものが重視される理由は、「修行」はどこまでいっても真剣勝負にはならないからです。在家と違って真剣な日常がないからこそ、苦行的な「修行」が要求されるという逆転が起きるのではないかという気がします。



「ことさら禅の修行なんてしなくたって、日常、これすなわち、体験であり、修行になりうるわけです。」

(有馬賴底『無の道を生きる――禅の辻説法』22頁)



とはいえ、誰しもが、そして、私たちも、特別なものを何も持たずに、これまでずっと、無事ならざる日常に向き合って生きてきたのです。

現に生きている以上は、現に誰もがそれらの困難を乗り越えているのであり、その意味では、不幸を含めた日常を生きることは容易であるという見方もできるのではないかと思います。

日常の努力によって問題を解決していくのが本道ですが、そこまでの気力に乏しい人にとっては、日常それ自体が苦行になるのかなと思います。

そんな人に対して、「特別なものはない、日常を生ききるしかない」ということは、絶望でしかありません。

そのような人には、「特別なものはない」と言っても受け容れ難く、不可解なものだったのではないかと思います。

宋代における「開悟体験」への指向の要因の一つはこのようなところにあるのではないかと思います。
  


「弟子の雪峰(略)から『従上の宗風は何の法を以ってか人に示す』と問われた際、徳山は、きっぱり、こう答えている。

――我が宗に語句無く、実に一法の人に与うる無し。

私のところには、人に授けるべき言句など存在しない。人に与えるような宗風など、もともと有りはしないのだ、と。したがって、貴き『語句』や『一法』を求めて徳山を訪ねようとすることは、空虚な幻想と見当ちがいの期待にもとづく、とんだ誤りだと断ぜざるを得ない。

こうした考えは、徳山のみならず、唐代の禅者の間にひろく見出されるものである。臨済はいう、『一念心の仏果を希求する無し』と。また『若し人“仏”を求めなば、是の人、仏を失わん。若し人“道”を求めなば、是の人、道を失わん。若し人“祖”を求めなば、是の人、祖を失わん』と。」

小川隆『中国禅宗史』100~101頁)





にほんブログ村 哲学・思想ブログ 禅・坐禅へ
にほんブログ村

参考になる点がありましたら、クリックをしていただければ幸いです。

本ブログの記事に対する質問はこちらを参照してください。

「本ブログの記事に対する質問について」

https://zazenfukyu.hatenablog.com/entry/2020/08/10/053529?_ga=2.231196063.1842888001.1597260876-961353732.1597260876