【参考資料】禅の日常性
1 鈴木大拙『禅仏教入門』
「神秘化などといったものは、およそ禅そのものの目的とはかけ離れたものであるのだが、生の根本事実に触れたこのない者にとっては、禅はどうしても神秘的としか映じないのである。」(8頁)
「仏教は(略)超自然的な力を認めないものであって、禅の精神的訓練の方法も実際的かつ体系的である。」(9頁)
「禅の眼からみれば、最も実際的なものが最も玄妙なものであり、またその逆でもある。」(10頁)
「仏教を全般的に考察したのちに禅までくれば、われわれはどうしても禅の単純性・直接性・プラグマティックな傾向といったもの、また禅が日常性活に密着していることを認めざるを得ない」(13頁)
2 鈴木大拙『鈴木大拙禅選集6 禅堂の修行と生活 禅の世界』
「禅堂における修行は、単にその人の内面的心的能力の発達のためのみではなく、社会的一員として彼の道徳的生活を発達させるためのものである。」(94頁)
「禅堂生活を無事に終了したいわゆる飽参者(ほうさんしゃ)が、もっとも有効に訓練競られ、もっとも完全な資格を具備する社会の構成員となることは自然である。
奉仕することは、かならずしも他のために何事かをすることを意味しない。もしも報酬の念を持ち、または感謝や謙下の心を欠いてこれをなすならば、それはまったく奉仕ではなくて、卑しい取引主義の行為である。禅僧はかかる行為を超脱すべきである。奉仕の生活は密接に謙下と感謝、忍辱と没我の生活に関係を有する。」(102頁)
3 飯田欓隠『通俗禅学読本』
「人は思想の器械であるから、よく思い、よく働いてこそ、順当自然なるべし。人たるものの価値をあるらめ。世を進歩し、荘厳せしむることも出来るのである。世を捨てて山に入る人山にてもなほうき時はいずこ行くらん。さりとて思量底を思量する、これもまた凡夫禅なるべし。二重の思量じゃ。思量という立派なものあるのに、更に思量するものを傭い来りて思量する、煩悶弥加わることになる。気の毒なものじゃ。」(32頁)
4 釈宗演『最後の一喝』
「真に禅によって悟入したものは、決して死灰のようなものではなく、血あり涙あって人類に臨むようになるのである。世には遠く俗塵を避けて山に入り、独り自ら高こうするものがあるが、それらは禅の本旨を得たものとはいわれない。禅はどこまでも血あり涙あって、俗世間のものを救うという(63頁)大慈悲心のあるものでなければならぬ。世間と離れし禅を求めんとするは大なる相違である。」(62頁)
5 釈宗活『臨済録講話』
「血の出る様な競争(214頁)激烈な活社会に飛び込んで行って、逆順縦横裡に、自在の働を行じようと云うのには、(略)難有そうな殺し文句や、女々しい空涙では何の用もなさぬ。我が禅宗は生きた努力を飽くまで続けて、生きた自己の心内に向って、生き生きとした箇の無位の道人を捉え得て、之を朝から晩まで活社会の上に生涯活き活きと使って行こうと云うのである。」(213~214頁)
「大に有事にして過ごす處の人間、今日の生存競争場裡の働きが其儘無事底の境界で、何程どんちゃん働いて居ても無事じゃ。朝から晩まで、あくせくと働いて其上(222頁)が、しかもそのまま無事じゃ。世間から離れる意味ではない。」(221~22頁)
6 ティク・ナット・ハン『仏の教え ビーイング・ピース』
「瞑想は社会から離れ、社会から逃げ出すことではなく、社会への復帰の準備をすることです。」(68頁)
「瞑想は、私たちが社会にとどまる助けをする道です。これは、重要なことです。」(74頁)
7 藤田一照『現代坐禅講義』
「坐禅が実生活からの逃避になってしまわないようにって、よく言います。それぞれの持ち場でいかに生き生きと働くか、そのための坐禅なんだって。現実に対して腰砕けっていうか、腰を引いておずおず生きるのではなくて、しっかりそれと向かい合う、腰を入れて、腹を決めて対峙する、そういう稽古なんだと思うんです。」(286頁)
8 田上太秀『迷いから悟りへの十二章』
「釈尊のことばは意味深い内容を含んでいます。世間を離れて人々は生きていけない。世間をほかにして住むところはない。世間に生まれ、住み、働き、そして死んでいくのが私たちの一生です。世間は人々にとってなくてはならない場所であり、家でもありますが、思うようにならないところであり、無常なところでもあります。」(228頁)
9 秋月龍珉・柳瀬有禅『坐禅に生きた古仏耕山加藤耕山老師随聞記』
「修行というものは実人生、実生活の中にある。わざわざ衣をきんでも修行はできる。」(146頁)
10 宮崎哲也『仏教教理問答』
「(釈徹宗発言)たとえ山の中で修行しようがどこへ行こうが、生きてるうえでの苦悩は逃れることはできないということは『ダンマパダ』でも説かれています。修行者になって社会から逸脱して、経済活動も放棄したとしても、やっぱり世間から逃れられないじゃないですか。それなら世間の真ん中を生きていこうと。そうすると、家族のために仕事しなきゃいけないとか、嫌な人間とも付き合わなきゃいけないとか、思ってもいないこと言わなきゃいけないとか、あるじゃないですか。」(58頁)
11 玉城康四郎『仏教の根底にあるもの』
「生活がそのまま仏道であるということは、大乗仏教の原則である」(181頁)
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