坐禅普及

主旨は慈悲。行は坐禅。

感謝とは幸福を意識化することである。

「信ずると言うことを二つに分けますると、まあ斯う言うものであろうと思う。解信(かいしん)と仰心(こうしん)の此二つである。(略)

智的要求に応ずるには、聖道門、情的要求に応ずるには浄土門であって、解心は乃ち聖道門に属し、仰信は乃ち浄土門に属するものであります。そこで解信に於てはどうしても多少理屈の説明をしなければならぬが、仰信となると読んで字の如く、仰いで信ずるのであって、初めから神ありと信じ、佛ありと信ずるのであります。(略)

仰信の方になりますと『何事のおわしますかは知らねども、かたじけなさに涙こぼるる』で其の中に真理があります。純粋の信はこれで宜しく、何(な)にか分(わか)らぬが、唯有難さに涙こぼする。此一の信仰がありますならば、毎日々々感謝の念を捧げて仕事をする事が能(で)きようと思います。即ち命令を受けたのでなく、我が仕事は我が自身の天分として、働くということになります。そうすると日々夜々働いて居る仕事も、有難涙がこぼるる感謝の念を有(も)ちて、倦むことなく、今日を渡ることが能(で)きようと思います。」

(釈宗演「禅学大衆講話」『釈宗演全集第一巻』122~131頁)



釈宗演老師のお話の中で、好きなものの一つで、以前の記事にも取り上げました。

【参考】
浄土門から見た禅修行の目的地(第2版) - 坐禅普及



「日々夜々働いて居る仕事も、有難涙がこぼるる感謝の念を有ちて、倦むことなく、今日を渡ることが能きよう」



「日々夜々働く」ということはわかりやすい。

仏教は慈悲をもって趣旨をするというもので、労働は慈悲の端的ですから。

難しく感じていたのは、



「感謝の念を有ちて」



との部分でした。



「感謝の念」は、なぜ、必要なのでしょうか?なぜ、重要なのでしょうか?

仏道の本をみると、よく「感謝」や礼拝等に関する話が出てきます。

しかし、なぜ、「感謝」や礼拝の類が大切なのか?

私たちは、何に対して「感謝」や礼拝をするのか?



「第三のお尋ねに、大乗仏教徒もまた祈祷をするやとのこと。然り、われらは実に祈祷をなす。一には、仏祖の御恩に感謝するの意をもって、二には、一切衆生を済度するの意をもって、三には、ただちに宇宙と一致すなわち涅槃の境地を活現するの意をもってなり。昔哲人曰く、『仏についても求めず、法についても求めず、僧についても求めず、礼拝することただかくのごとし』と。貴姉、この意を了せらるるや否や。」

(釈宗演老師からヘンス老女史宛て書簡ーー秋月龍珉『世界の禅者―鈴木大拙の生涯―』181頁)



以前、考えていたことは、仏道においては、自己の欲望を制御することが重要であり、礼拝の類は、自己に謙虚さを植え付けるためのエクササイズであるとか、利他行為を動機付け易くするエクササイズであるなどといったことを考えていました。

しかし、最近考えていることは、「感謝」、それを具体的な行為として示す「礼拝」や「祈祷」は、幸福を意識化するためにやることであるということです。



私たちの能力には生物学的な限界があります。

その限界の一つは、私たちは、不幸を意識することはやりやすいけれど、幸福を意識することは困難であるということです。

私たちは、健康に暮らしていても、普段、その健康のよさを感じることはありません。

しかし、ある日、突然歯が痛くなる、ぎっくり腰になって、苦痛のあまり動けなくなる、風を引いて高熱がでて苦しくなる、転倒して骨折し、苦痛に悶絶する……このような不幸についてははっきりと意識することができる。

あるとき、適切な治療がなされ、それまであった苦痛が解消される。

一瞬、苦痛がなくなり、快感を抱くことはあっても、それは一瞬です。

苦痛のない幸福な状態が持続しているはずなのに、まるで私たちは自分を幸福だと思えないのです。



私は、かつて難関の国家試験に合格し、それが現在の職業の基礎となっています。

合格した瞬間には嬉しかった。

地球が半分手に入ったような感じがしました。

しかし、しばらくすると、そのような状態が日常化し、難関の国家試験に合格したという幸福感は消滅し、日々夜々の仕事に追われているという状況です。



このような感覚は、将棋や囲碁のプロ棋士になったような方も述懐されることがありますし、地元では神童などと呼ばれ、難関の学校に合格して入学したものの、入ってみるとできて当たり前の世界が広がっていたなどということはよく耳にするところです。

私たちは、不幸に対しては敏感ですが、幸福については悲しいくらい鈍感なのです。

仏道修行の世界では、よく悟る前と悟った後では心境がかわらないとか、悟ったという意識がある状況では、悟ったとはいわないなどといったことが言われます。

テーラワーダの世界でも、その修行を完了した阿羅漢は阿羅漢になったことに気づかないなどと言われます。



「悟りの経験のない人にとって、悟りとは一種の神秘です。なにかすばらしいものなのです。悟りを得れば、それはなんら特別なものではありません。(略)子どもを持つ母にとって、子どもはなにも特別ではありません。」

(鈴木俊隆『禅マインド ビギナーズ・マインド』91頁)

 

仏道修行によって到達する精神状態の欠如を意識して、仏道修行を続ける。

そして、ある段階で、その精神状態になる。

一瞬、欠如しているという感覚が、それこそ「なくなる」感覚がする。

しかし、次の一瞬には、何の感覚もない、健康な状態の人間が感じる「普通の感覚」があるにすぎない。

よく「悟り」の境地は言葉にできず、それを称して不立文字であると言いますが、それは感覚を言語で表現できないばかりではなく、そもそも悟ってから時がすぎると、「悟りの『よさ』を感覚することができない」ことにも由来するのかなと思います。

私たちは、欠如を認識することは容易にできても、不幸なことに、満たされていることを認識することは極めて困難なのです。

それは、私たちの脳の自己防衛機能が危険に関する情報を優先的に処理するため、それ以外の情報を軽視するためではないかと思います。


 
「恐怖の中枢はすべての情報を平等には扱わず、危険にかかわる情報を優先的に処理する。自動的に危機に対処するこの機能は、あらゆる局面で〈生きのびる〉可能性を最大化するうえで、非常に重要だ。だが、強力でコントロールを奪われにくいこの防衛機能にも、弱点はある。中心にある警報機能があまりに頻繁に活性化されていると、レイニーブレイン全体が過敏になったりバランスを崩したりするのだ。」

(エレーヌ・フォックス(森内薫・訳)『脳科学は人格を変えられるか?』153頁)



衆生本来仏也」



私たちは、この悩み、苦しみ、迷う、このありのままで仏です。

仏とは、幸福の絶頂にあると表現してもよいでしょう。

私たち一人一人は、現在、幸福の絶頂にあります。

私たち一人一人は、すでに阿羅漢です。

すべてはそうあるべきとおりにあって、私たちの今のあり様もそのとおりのものです。

どんな状況でも、私たちが改変のために影響を与えることが可能な状況にあるということも含めてあるべきようにあるのです。

難しい話ではなく、私たちの今の状況は、物理法則、化学法則等といった自然の法則によってあるべきようにしてあって、このあるべきままでベストコンディションなのです。

悩み、苦しみ、迷う、このありのままで、ベストコンディションです。

仏であり、阿羅漢であるということは、特別なことではなく、ごく普通のことです。

しかし、私たちは、幸福を認識する能力に欠けているので、そのことに気づかないのです。



「闘争も不幸もすべて心の持ちよう=解釈=一つ、同じ事実も見ように依って蓮華にもなれば汚物ともなる。(略)五十年の人生も、人の心の持ちよう、即ち解釈、見方一つで地獄にもなれば極楽にもなる。(略)およそ誰でも自分は最も幸福だという解釈の出来ない人は、まだ正法の理解も信念もない証拠です。」

(原田祖岳『白隠禅師坐禅讃講話』108~109頁)



私たちのなかの少なくない人間は、自分の人生に何か問題があると思ってしまう。

本当は問題がないのに、問題があると勘違いしてしまう。



 「衆生本来仏也」



私たちの人生には、本当は何も問題がない。

しかし、勝手に問題があると思い込んでしまう。



「人間がちょっと足を止めたのが禍の本なのである。猫や犬のように、松や竹のように、所謂その性のままに動いて居れば、何の面倒もなかったのだ。それが何かの調子で一寸車を駐めて紅葉を見たから、今までのように行けなくなった。自分と自分に対するものとが分かれた。問が出る、名が出来る。一旦こうなれば止まるということを知らぬ。自分で作ったものにだまされる。向こうに働きかけて、その働きが又向こうから返ってくる。一波動いて千波萬浪が次から次からと動く。面白いと云ってもよし、面倒だと見てもよい。そのはじめは、汝が問を出したからである。

鈴木大拙『禅百題』49頁)


 
仏教が対処しようとする「苦」は虚妄です。

それは仏伝からも明らかです。

釈尊には、何も問題がなかった。

若く健康で妻子がおり、食事にも事欠いていたわけではありません。

しかし、いつか病むのではないか、老いるのではないか、妻子ともいずれわかれるのではないか、そして、いずれ死ぬのではないか、いったいこの人生は何か。

そんな妄想にとらわれて、養うべき妻子等の家族、そして、王族として、人民のためになすべき仕事を投げ出して、修行の旅に出ました。

彼は、健康で、若く、生きていて、時間があった。

満たされているが故に、その幸福に気づかず、現実にはありもしない不幸を妄想して、健康、若さ、生存=時間という素晴らしい資産がありながら、妄想にとらわれて、無駄遣いをしてしまった、釈尊という男の不幸です。


病に苦しむのは、普通のことで健全です。

老いて体の不調が常態化し、苦しむのは、普通のことで健全です。

妻子との別れが辛く、苦しむのは、普通のことで健全です。

死が迫って、恐怖感を抱くのは、普通のことで健全です。



しかし、それらが実際にはないのに、いつかそうなるのではないかと勝手に妄想して苦しむことは馬鹿げたことです。

仏道は、このような妄想に対応するテクニックにすぎません。

それらは大した問題ではないのです。

しかし、少なくない人は、勝手に大問題だと勘違いしてしまうのです。

妄想への対応というささいな問題なのに、更に妄想を深めて勝手に大きな問題にしてしまう。

 

私たちは、どんなに悩み、苦しみ、迷っていても、生きています。

悩み、苦しみ、迷うことは生きていなければできません。

私たちがどんなに悩み、苦しみ、迷っていても、私たちのこの肉体は、そんなことに気を止めずに、その時々の外部環境に適切に対応して、きちんと生存を続けます。

しかし、私たちの脳の片隅で起きている些細な現象が、私たちの脳の片隅で生じた妄想が、「私」であるなどと称して私たちの肉体を支配しようとしているだけです。

それは脳の神経系の微細な電気信号であり、実体などないのに。



私たちは、既に、仏であり、幸福の絶頂にあります。

仏道修行というものは、よく禅の語録に出てくる「余計な老婆親切」にすぎません。

そもそも本来「修行」などというものはいらないのです。



ただ、全く健康なときに健康が実感できないように、私たちは、余りに全く幸福なので、幸福を実感できないのです。

そして、幸福を実感できないから、本当は、不幸ではないかと妄想し始めてしまう。



「何時もお話する演若の頭探しを思い出して下さい。お前の頭はお前の肩の上にちゃんとついているではないかと、いくら彼とにいわれても気がつかずに頭探しをやって狂奔しているのが、吾々凡夫の迷妄生活であります。元来完全無欠なものを、足るの足らぬの、有るの無いのと、迷っている状態が凡夫で、気がついてみれば今まで探し歩いていた頭は元々通りそのまま肩の上に載っていると同様に、凡夫が即ち佛であり、迷妄即解脱、本来二物ではない絶対価値そのものであるのですが、ただこれに気がつかないだけであるのです。だから佛の眼から御覧になれば、一切の衆生は老若、男女、貴賤、貧富を問わず皆一様に完全無欠の絶対価値それ自体であって、但しお前さんを除くとは断じてないのであります。」

(原田祖岳『白隠禅師坐禅讃講話』20頁)



秩序や倫理や道徳等も、フィクションです。

それは、人と人とが、うまくやっていくための必要なフィクションであるかもしれないけれども、フィクションはフィクションです。

私たちは、人生をどう生きてもよいし、どう感じてもよいのです。

しかし、どうせ生きるなら楽しく生きた方がよいでしょう。

どうせ生きるなら、今が本当に幸せであると感じることができたらよいでしょう。

全く健康であることの幸福を平然感じることができたらきっと人生がより明るくなるであろうことと同じように。

私たちは、何の問題のない中立的な状況の幸福をきちんと感じることができるようになれた方がよいと思うのです。



「仏教哲学の解説書――アビダルマーーによると、感情には、快、不快、中立、という三つの種類があります。(略)
 しかし、私はアビダルマを読み、仏教を実践してきた結果、この分析が正しくないことに気がつきました。いわゆる中立の感じが、大変快いものになることもあるからです。」

(ティク・ナット・ハン(棚橋一晃訳)『仏の教え ビーイング・ピース』49頁)

 

この「中立の感じ」を「快」として意識するテクニックの一つが、坐禅等の瞑想です。

そして、もう一つの有力な手段が、特に何の問題がなくただあることの幸福を具体的に表現してみせることです。
 
それが感謝です。

日々感謝する態度を示す。

浄土真宗妙好人と呼ばれるような人たちが、ことある毎に合掌するというように合掌することもその有力な手段であると思います。

そのような感謝の態度を示すことを続けて、特に何の問題がなくただあることの幸福を実感する。


 
「金牛という和尚さんが居ました。唐の時代の人であったが、いつも御飯のときになると、すなわち昼のご飯、すなわち斎坐の時でありましたが、坊さんが一所に居る食堂の前に、お櫃を抱えて行って、そうしてそこで大に舞をなしたということです。すなわちそこで呵呵大笑して踊って曰く、『菩薩子喫飯来』と。御飯が出来たぞ出来たぞ、さあお上がりと云うのです。それを二十年も続けたということが書いてありますが、金牛和尚は本当に有難さに徹したものなのでしょう。こんな出方、こんな行動は禅宗の坊さんのやるところ、一寸見ると、何だか気狂い染みたようにも考えられるか知らぬけれども、これを真宗の方々にさせると、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏の連唱になるのです。これは単に御飯に関係したことでなく、何事につけても本当に有難いと思って、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と、いつも手の舞い足の踏むを知らぬという心は、本当の信者にはいずれもあるところだと信じて疑わぬのです。」

鈴木大拙『無心ということ』90頁)



何かにつけて感謝する。

何のために?

自分のために。

今、自分が、ここにある、という中立的な感覚、絶対の幸福、絶対の幸福であるが故に、感じることの困難な幸福を明確に認識するために。





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