坐禅普及

主旨は慈悲。行は坐禅。

よい仕事をし、よい家庭を築く

「われわれがこの苦の世界に生まれ生きているのは、愛するためであり、働くためであって、苦から逃れるためではない。われわれにとっては、日々の愛や悲しみや労働の生活以外に、釈尊の悟ったさとりを現成せしめる道はないのである。」

(松本史朗『仏教への道』146頁)


 仏教の本を読みかじるようになってから知ったよいな思っている言葉の中でもとびきりのものの一つです。

 ほかの本などを読むと、どうも、松本先生は、袴谷憲昭と並んでほかの仏教学者の方からの評判は悪いようです。

 「批判仏教」というものを提示されて、ほかの方の考え方に対して批判をしていたからのようです。

 仏「教」自体が、「教」=形而上学の否定なのではないかと思っているので、「批判」というキャッチフレーズはよさそうに思うのですが、なぜ、形而上学を否定するのかといえば、人々の間の無用な対立を防ぐためなのですから、「批判」=他者攻撃となると違ってきてしまうのかなとも思います。

 仏伝によれば、釈尊は、形而上学的な問題に対しては、沈黙をもって態度を示したとされる理由は、このようなところにあるのかなと思います。


 しかし、松本先生には失礼ですが、おっしゃっている方の人格はともかくとして言葉はすばらしい。

 人間にとって重要なことは人格ではなくて、この世界に何を出力できるかということですから、こんな言葉を吐き出せるのはとても素敵なことだと思います。

 元ネタはどこかにあるのでしょうか。

 表裏の話ではあるのですが、次の言葉も好ましく思っています。

「人間がさとりに至るための手段にすぎないとすれば、なぜ人間は苦しむために、愛するために、この世界にみずから生まれてきたのであろうか。また、人間がさとりに至ろうとして、それができなかった場合、彼のいっさいの労苦とその生活に、どのような意味があり得るのか。さとりを一つの客観的な目的として設定し、それに向って進んでいくという直線的思考は、結局のところ、小乗と呼ばれたものと同じではないのか。」

(前掲書138頁 )


 仏伝によれば、釈尊は、インドの小国の王子として豊かな生活を送りながら、どんなに豊かであっても、うたかたのものであり、どんな人でもいずれ老いて、病み、死ぬという人生に対する虚無感を抱いて修行を始めたとされます。

 しかし、このような感覚が生じることは、人間として当たり前のことで、特段、修行によって克服するようなことではないはずです。

 誰もが、どこかしら人生に対すら虚無感を抱くことはあるのでしょうが、ほとんどの人が、特段の対策を講じることはなくとも、いつの間にやらその問題を処理していくのです。

 ところが、どうしても、自然に処理するのが難しい人が一定程度います。

 そんな人は、人生の虚しさの問題がどこか特別な感性がなければ気づかない大きな問題であるように思う。

 ほかの人が、その問題意識を表に出さないのは、誰もが抱く問題であるから、敢えて話題にするような大したことではないと思っているにすぎないだけなのに。

 この問題に対して、特別な「修行」をして克服をしようとするという発想自体にどこか病んでいるところがあるのです。

 誰もが当たり前に感じていることを殊更不安に感じてしまう、うつや不安障害の類にり患しているというべきでしょう。

 釈尊は、そのようなうつや不安障害を、古代インドでも行われていた瞑想の手法によって自己治療した人でしょう。

 うつや不安障害などの精神疾患は、遺伝的要因によっても生じるのでしょうが、大きな要因の一つは人間関係です。

 原始仏教において、労働の否定と生殖の否定とがなされた理由はその点にあるのでしょう。

 
「ゴータマ・ブッダの仏教は、私たち現代日本人が通常の意識において考えるような「人間として正しく生きる道」を説くものではなく、むしろ社会の維持に欠かせない労働と生殖を否定し、そもそもその前提となる「人間」とか「正しい」とかいった物語を破壊してしまう作用をもつ、(略)解脱というのは、俗世間がそれに基づいて機能しているところの、愛執が形成する全ての物語からの解放だ。」

(魚川祐司『仏教思想のゼロポイント 「悟り」とは何か』63~64頁)

 労働と生殖とは、対立的なあるいは濃厚な人間関係であり、それらとの距離を置くとともに、同様の病を抱く者同士で共同体を作って、うつや不安障害などの疾患からの改善を図って行く、「自助グループ」であることがサンガの本質的な機能ではないかと考えています。

 テーラワーダでは、六道輪廻からの解脱が目的とされますが、これは、釈尊自身が、当時のバラモン教の世界観から抜け出ていなかったことを意味するだけではなく、「病の治療」の方便ではないかと捉えています。

 多くの人は、自分自身に「精神障害」のレッテルを貼られることを忌避します。
 
 自分自身が「正常である」と思いたいのは健全な人間の欲望ともいえるものです。

 精神科の治療で乗り越えなければならない大きなものの一つは、患者に病識を持ってもらい、治療のプロセスに入ってもらうことです。

 心の病に侵されていることを受け入れることは、困難であることから、心の病の治療ではなく、「解脱の手段」という名目を与えて治療の枠組に乗ってもらう、ということが、「六道輪廻からの解脱」という考え方の本質ではないでしょうか。

 
 労働と生殖とを否定する上座仏教の発想では、仕事と家庭は忌避すべきものということになります。


 しかし、このようなあり方は、一時的な治療法のためやのものであり、人間の生き方として健全なものとはいえません。


 人間は、生きている存在です。

 生きるためには、自らの力で食糧を確保しなくてはならない。

 労働は、生きている存在である人間には必要不可欠なものです。

 それを行わず、布施されるというやり方で生存を維持するということは、人間として歪んでいるといわざるを得ません。


 人間は、生殖機能を保有し、子孫を作り出し、共同体を維持発展させようとする存在です。

 それを否定したら、そもそも、自分自身が生存しているということ自体を否定しなければならないでしょう。


 上座仏教の教義の問題点は、労働と生殖を否定し、サンガという閉鎖空間に閉塞するという病の治療のための一時的な方便を人間の理想的なあり方としてしまうことです。

 仏伝によれば、釈尊は自分の方法(私の文脈では治療のやり方……釈尊自身の病にカスタマイズされたやり方)を目的達成(私の文脈でなら病の治療)後には捨て去られるべきものとしたのに、そのやり方を普遍的な方法として「教義」=形而上学にしてしまったことだと思います。

 治療などが必要ないのに、そのようなことをすれば、どこかで、無理が生じます。

 上座仏教の仏道の実践にはまりこんで却って、人生の価値を下げているのでは、と思われる人をみるとそんなことを感じます。


 大乗仏教の歴史は、仏道が健全な人間性を取り戻す歴史です。

 それはまず、仏道思想が中国の老荘思想と混合して産まれた禅宗において自給自足が肯定されたことから発展し、浄土真宗において、妻帯が肯定されたことにより一応の完成を見、明治期以降他宗にも広がって発展していきました。


 よい仕事をし、よい家庭を築くことは、人間の本来的なあり方であり、仏道の趣旨である慈悲の端的でしょう。

 生殖を否定することを仏道の堕落と捉える考え方は未だに根強いです。

 しかし、慈悲という仏道の宗旨に鑑みたとき、なぜ、生殖をし、子を産み育て、社会の維持発展に寄与させることがなぜ否定されるのか疑問であるといわざるを得ません。


 また、家庭を持ち、子供を持つことは、慈悲を実現する精神を養う修行ともいえます。
 
 この点については、藤田一照師が、『感じてゆるす仏教』の中で触れています。


「(家族ができるということは)「思いどおりにならない存在」と密接に関わるような生活になったということですね。」(73頁)

「修行も、結婚生活も、それからいずれは子どももできるから家庭も入れてしまう。何もかも、一切合切全部修行にしてしまうという選択ですね。」(87頁)

「自分の修行の底の浅さを思い知らされましたね(笑)。このくらいでキレちゃうのかって。」(91頁)

「自分がこんなに癇癪持ちで、自分本位で、これほどまでに怒れる人間だったのか、みたいなことはわからなかった。それまでは、そんな自分の姿を見たことがないし、人に見せたこともないでしょう?思わず、大声を上げたり、モノを投げつけたりする自分。」(98~99頁)

 
 大乗仏教としての禅の修行は、社会において、人間としての能力を十分に発揮するためになされるものです。


「禅堂生活は、空の真理が直覚的に把握せらるる時に終了すると考えられるばかりでなく、この真理が、あまたの試練・義務・紛争に満ちた実際生活のすべての方面において実証せらる時、そしてまた雨が悪者善者のわかちなくこれにひとしく降り注ぎ、あるいは趙州のの石橋が馬・驢・虎・豺(さい)・亀・兎・人間などのすべてのものを渡すと同じしかたにて、大慈悲(karuna)の心を生ずる時に、終了すると考えられる。(略)かかる理想のあるものを確固として会得する時、僧は禅堂を辞去し(略)、世界という大社会の一員として、その仲間の中に投じ、実際生活を始める。」

鈴木大拙鈴木大拙禅選集6 禅堂の修行と生活 禅の世界』157頁)

 
 出家は、究極的には社会に戻るためになされます。

 日常生活を脱してなされる仏道修行の最終的な目的は、日常生活に適合できなくなった人が、平凡な日常生活の実践をすることーーよい仕事をし、よい家庭を築くことーーができるようになるためになされるものではないかと思います。
  

「長く貴族生活に耽溺していたトルストイは、中年に及んで人生の意義を懐疑し始めて虚無思想の結果いく度か自殺しようとしたそうである。ところが或る時彼は突如として一の真理に契当した――人間は生を欲するのが順当である。しかるにその生を求むべき人間が死を追わんとするが如きは、どこかに誤りがあるに違いない。一体、人生の意義などといおうことを考えて懐疑に陥るのは、怠惰な生活を送っているからである。孜々として働いているものを見よ。彼らは人生の意義なぞというものについては何の疑惑も持っていない。一体、人生問題なぞというものは、生活に好きがあるから起って来るのだ。そんな懐疑は有閑階級の戯論である。怠惰こそ一切罪悪の根本である。人生の意義なぞというものは、勤労者の日々の生活によって自ら体験さるべきものなのだ。トルストイはこう考えて自ら労働の生活に入った、といっている。」

(前田利鎌『臨済荘子』238頁)



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