坐禅普及

主旨は慈悲。行は坐禅。

平穏無事を目指すなら生まれる必要はない

「あらゆる煩悩を挫断して、此世界に超越することが能きれば、これが悟りの境涯であると思い、安心して座り込んでいては不可ぬ。(略)今日という実際世界へ飛び出し、自由自在の働きをするのでなければならぬ。」

(釈宗演「禅学大衆講話」『釈宗演全集第一巻』42頁)


 上座仏教と禅との大きな相違点は、その活動性にあります。

 上座仏教では、貪瞋癡、すなわち、煩悩の段滅を目指します。

 しかし、禅は、違います。煩悩即菩提です。

 大乗仏教では、全てのことはあるべくしてあります。

 存在を否定されてよいものはない。

 煩悩も否定されるのではなく、制御すべきことになります。


「煩悩妄想を細めていって、最後にそれをすっかり断滅しきってしまうことが坐禅の目的ではないのです。小乗仏教では、そういう煩悩妄想を断滅しきることを涅槃、悟りとよび、これを求めて坐禅するわけですが、もしそういう悟りを人間生命の真実であるとするならば、無生命(死)こそが生命の真実だということにほかならないでしょう。しかも小乗仏教では、人間生命のもつ欲望(煩悩)が人間の苦しみの原因であるがゆえに、それを断滅して涅槃の楽を得ようとするわけですが、この場合、苦しみを解脱し、涅槃の楽を得ようと求めることは、欲望煩悩ではないでしょうか。」

(内山興正『坐禅の意味と実際・生命の実物を生きる』61頁)


仏道の実践に興味を持つ人は、うつ傾向が高く、不安障害を思わせる人も多い。

色々なことが気になってしようがない。

頭の中に思い浮かんできたことがどうも気になってしようがない。

頭に中に思い浮かんでしまったもの、すなわち、雑念が気になって仕方がないからなくしたいと思う。

しかし、雑念があって何が困るのか?

なくしたいと思うから、気になるだけの話であり、そもそも気にしなければよいだけのはなしではないのでしょうか。

 頭ではわかるけれども、どうしてもうまくいかない。
 
 だから、坐る……。

 
 煩悩を断滅し、静寂の境地に達する。

 自分の身を静物のようにする。

 しかし、平穏な、フラットなままの状態だけで、死に至るのであれば、生まれた価値はどこにあるのか?
 
 平穏な、フラットなままでよいということであれば、そもそも生まれなければよいのではないか。

 
「中国の天台宗で、「草木国土悉皆成仏」ということが言われるようになった。草木や国土、山や川までもが成仏できるというのだ。日本ではさらにそれが徹底され、「草木不成仏」と言われた。「成仏しないのか」と思われるかもしれないが、違うのだ。「草木はもともと成仏しているのだから、改めて成仏する必要はない」という意味なのである。」

(植木雅俊『仏教、本当の教え インド、中国、日本の理解と誤解』183頁)

 
 仏道修行が、上座仏教のようい、迷い、悩み、苦しみがない状態を目指すというのなら、「仏」とは、迷い、悩み、苦しみがない状態であることを意味することになるでしょう。

 この世界に存在するものの中で、迷い、悩み、苦しみがないという観点で、最も優秀な存在は、山や川などといった無機物でしょう。

 無機物に人格がないことは確かですから。

 草や木にもおそらく人格はない。

 虫魚禽獣は、脳や神経があっても、常に、三昧の状態ですから、迷い、悩み、苦しみなどはない。


 狗に仏性があるのは当然です。

 山川草木に仏性があるということに違和感を抱く人もいるでしょう。

 しかし、迷い、悩み、苦しみがないという観点では、仏性があることは当然です。


 迷い、悩み、苦しみの有無という観点では、一番の劣等生が私たち人間です。

 私たちは、迷い、悩み、苦しみから逃げ出したいと思う。

 しかし、それはある意味不幸なことです。

 
 私たちの迷い、悩み、苦しみの原因は、欲望があることですが、単純な欲求であれば、虫魚禽獣にも存在します。

 しかし、私たちの欲望は複雑です。

 単に生きることを望むだけであれば、どんな生き方でもできる。

 生きることの質を問うから、質の低い生き方をせざるを得なくなると苦痛が生じる。

 それは、つまらないプライドと映ることもあるかもしれません。

 けれども、向上心の現われでもあるのです。
 
 これを、釈宗演老師は、「新陳代謝」と表現しました。


「仏教では常に煩悩を排斥して悟を求めるという様なことを申すが、之を現実的に言って見ると、唯々古いものを捨て新しいものを取るという程のことで、(略)新陳代謝する、即ち我々が茲に存在して生々として活動して居るのは、畢竟、新陳代謝作用の表現である。(略)健全なる身體であるならば、無数の細胞が新陳代謝を続けて身體の中に活動して居るのである。人類社会もそうで百年も千年も新陳代謝が行われず其儘にして行った時は、宗教も道徳も悉く退歩して仕舞う」

(釈宗演『快人快馬』184~186頁)


 より高く生きようとすること。

 そこに「煩悩即菩提」の消息があるのだと思います。

 
 平穏無事をよしとしない、より高みを目指して日々奮闘努力することが大切なのでしょう。


「如何にしても人間は努力せねばならぬのです。吾々は何處までもストラッグルせねばならぬ運命を有(も)っています。(略)吾々は智的修養もせねばならぬし、又情的修養も尊(たっと)ばねばなりません。更に意志の修養というものに、最も重きを置かねばならぬ」

(釈宗演「禅学大衆講話」『釈宗演全集第一巻』15頁)


にほんブログ村 哲学・思想ブログ 禅・坐禅へ
にほんブログ村

参考になる点がありましたら、クリックをしていただければ幸いです。