行は助けにすぎない
「看経(かんきん)、礼仏、布施、作福などの事は、ただ助道の跡にすぎないので、道は必ずしも此処に在るのではない。
深山窮谷に隠れて草衣木食するようなのは、幽人高尚の志の現われで道とは関係なしと言っても可い。
余は林下に淪棄(りんき・注)して世間に用のないような身ではあるが、しかし斯民(しみん)と共に聖天子のために賢相を得たいと云う楽欲(ぎょうよく)は、ひたすらに持っているのである。」
(注)淪棄=地方の寺に隠れて棄てられたように現れない存在であること
引用は、山岡鉄舟が新政権を離れ、出家をしようとしたときに、師である今北洪川老師が、これを止めるために送った手紙の一部です。
「看経、礼仏、布施、作福などの事は、ただ助道の跡にすぎない」
との言葉は、仏道における行の本質を力強く語るものです。
これらの行は、「助道の跡にすぎない」、すなわち、非本質的なものであり、「本質」的なものを助けるものにすぎない、ということです。
では何が本質的なものかというと、「聖天子のために賢相を得」ることです。
普遍的な意味での慈悲の一貫としてということでしょう。
仏道修行、特に、臨済禅の公案修行をしていると、どうも、坐禅や独参に力を入れすぎ、本質的な部分、すなわち、慈悲の行為がおろそかになっている人が少なくないと感じます。
私たちは、働くために、禅の修行をするのであり、実社会生活において、どの程度の成果を出しうるかが問われているのです。
そこをおろそかにして、禅堂で、坐禅をし、入室するをよしとするようでは、まさしく
「深山窮谷に隠れて草衣木食するような」
ものであり
「道とは関係なし」
でしょう。
しかし、どうも、実社会生活での仕事や家庭がうまくいかないから、禅の修行の世界で、それなりに認められることで埋め合わせようとする人が少なくないように思います。
坐禅にしろ、独参にしろ、実社会生活において、十分力を発揮するための準備にすぎず、坐禅の際のトランス状態や、公案透過を楽しむためのものではなく、実社会生活への反映ーーより多くの人の幸福の実現などの社会貢献ーーをなし得なければ、全く無価値、無意味なものです。
私自身も気をつけなければならないと思うところです。
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