坐禅普及

主旨は慈悲。行は坐禅。

在家修行の問題性

1 仏道修行は利己主義を懐疑する

「人生というものは元来我儘なものです。つまり人間の行動は全て利己主義的なものです。つまり人間の行動の全ては利己主義的なものです。人間はそれぞれ自分の理想を持っていますが、その理想の正体も結局のところ自己満足の追求であるし、自分の意志意欲の線に適う時に、人間は納得がいくというものです。人間は自分の意向にかなったもの、自分の好きなものは、非常に大切にし、或いは共鳴したりする。ところが自分の意向にかなわないものに対しては敵意を持ったり、または排斥したりする。そればかりでは収まらないで、利害関係が反したりしていると、その果ては殺意までおこすようになるのが人間なのです。このもとはというと、意志意欲というものが、人間生活をさせているからです。
(略)
 意欲を発端として思考を始め、それから理想が生じて人間的生活努力が始まり、かくて人間は思想を持つようになったのである。(略)かくて思想というものを深く反省して来ると、思想の次元に止まっていては、真実はあり得ないということが明確になる筈である。何故ならば、思想にはその本来の発生の経路からしても、必ず偏向があるのは当然である。故にこれを越えなければ真実への道は開けない。そしてそこに出家道として仏道が展開するのである。」

(酒井得元『永平広録について』6~7頁)



 仏道修行は、利己主義を懐疑します。

 人生の困難の要因には、利己主義があると見て取ります。



 心理学的に述べると、極普通、人間は、利益を得て、不利益を避けようとする人生を送ろうとします。

 私たちの脳は、常に、外界から感受した情報を、利益を得て、不利益を避ける目的で解析し、肉体に行動を指示します。



「快楽に向かうこと、そして不安を遠ざけること。このふたつの巨大な動機づけこそが、長い進化の過程を通じて人間の脳内にさまざな回路を発達させ、それらの集積が、恐怖と快楽をそれぞれつかさどる回路を形成した。恐怖の回路はたえず危険に目を光らせ、予測不能な世界の中で身の安全を守る役目を果たす。
(略)
人の心は、自分に関心がある部分を拾い上げるために、それほど関心がないその他たくさんの細かな情報を苦もなく無視している。そうしたバイアスを通じて人はみな、自分にとっていちばん重要な事柄に自然に目を向けているのだ。
(略)
わたしたち人間はこうしたバイアスをまったく自覚していないようだ。日々の生活を送るなかで、身のまわりで起こるものごとを、脳は旋回するレーダーのように絶えず分析かつ調査し、自分にいちばん関心のあるものごとを決して見逃さないようにしている。」

(エレーヌ・フォックス(森内薫・訳)『脳科学は人格を変えられるか?』50~52頁)



 このような脳の機能は、私たちの生存を確保し、人生の中で価値ある活動をしていく上では、極めて大切なものです。

 しかし、この脳の機能を放置する、利益を得、不利益を避けようとする利己主義的な機能が過剰になると、人は、不幸になります。

 すなわち、利益を得ようとするという思考は、現在、その利益がない観念を前提とし、不利益を避けようとするという思考は、現在、利益のある状態、問題がない状態であったとしても、将来的にそれが失われるという観念を前提とします。

 そして、将来において利益を得て、不利益を避けようとする思考を続ける限り、私たちは、現在においては、何時まで経っても、利益はなく、手に入れた利益もすぐに失われるという不満を抱き続けることになります。

 利己主義者の世界は、正しく一切皆苦なのです。

 そこで、利己主義に対抗する方策を講じる方法の工夫が必要になるのです。

2 利他行の重要性

 私たちは、常に利己主義により行動を動機づけられており、利己主義による不利益を避けようというのも利己主義の現れですから、これは困難な課題のように思われます。

 その困難を避ける方策が、「利他行」です。

 他者に利益を手放し、他者の不利益を背負い込む。

 そのような利他の行為それ自体の中に価値を見いだす生き方をしていくという対処法です

 利他に喜びを見いだすというのは、人間のごく自然な感覚です。

 典型例が、小動物にエサをやるという行為です。

 誰しもが、小さいころに、池や川にいる鯉やアヒル、寺社の境内や公園などにいるハトにパンくずを投げてやり、争って食べる様子を見て楽しむなどした経験があると思います。

 鯉、アヒル、ハトなどにエサをやっても何も返ってくるものはありません。
 
 しかし、ただエサをやって食欲を満たさせてやる行為のみに満足する。

 ありがたいことに、人間には、このような利他行為に満足感を得る機能が確実に備わっています。



「諸所で『一燈園生活の要領を言え』とのお尋ねに接しますが、これは比喩を以てお答えする外はないと存ぜられます。私は次のような例を引いてお答えしております。
『重荷を負うた人の為めに其の荷を分けて担うて上げた時の端的な実感と、過去もなく未来もなく刹那々々を全人的に生き切った気持!』」

西田天香『托鉢行願』7頁)



 将来において、利益を得、不利益を避けるのではなく、その行為を「ただすること」に自足する。
 
利他行為は、それを可能にするものです。

 「利他行為をやりたい」、それも利己主義ではないか、との疑問も出るでしょう。

 確かにそのとおりです。

 私たちは、「やりたい」という意志がなければ、この肉体を動かすことはできません。

 しかし、利己主義の問題点は、行為による満足、すなわち、結果を未来に設定してしまうことにあります。

 けれども、行為の時点で、即時的に結果が生じるものであれば、利己主義の問題は生じません。

 先の引用文の中で西田師が、「荷を分けて担うて上げた時の端的な実感」とは、行為に自足することを意味します。

 また、余りに言われることはなく、今のところは、私の個人的見解といわざるを得ませんが、道元禅師が、「修証一如」と仰るのも同義と思います。

 修行と悟りとが同一であるというのは、何やらスピリチュアルな感じもします。

 しかし、修行によって、将来、「悟る」という思考様式では、仏道修行自体が、将来における利益を獲得しようとするものになってしまい、利己主義の不満を招来する結果になり、本末転倒となります。

 曹洞宗の方が、見性を目指す臨済宗の方に対し、強い批判を向ける理由もそこにあります。

 仏道修行という以上、私たちは、常に修行それ自体に自足することを工夫しなくてはならず、それを称して、向上とも言うのです。

 

「私は若い時に徹底的に坐禅修行をしようと思っていましたので、臨済の道場へ行っておりました。あそこでは全員が、なんとかして見性しようという一つの雰囲気に、ひたりこんでしまっていました。そして見性するためには、自分の身体なんかはどうなってもいいというような熱気に燃えていました。つまり見性のためには手段を選ばぬといった調子でした。後から考えてみますと、これは別に考えなくともわかることですが、本人は真剣な求道人としてどうしても自分は悟りたい、そのためには自分はどうなってもよいと、本当にそのように思ってしまうものです。然し、結局は、それはただ自分のものが欲しいということだったのです。つまり満足感の追求ということだったのです。それでどうしても安心決定したいというのでした。安心決定が欲しいというのは、実は自己満足の追求に外なりません。」

(酒井得元『永平広録について』7~8頁)
 


 利他行を行ずるにあたって重要なことは、あくまでも、その行為に自足することであって、対価を求めないということです。

 よくボランティア活動等の場面で、ボランティアをした相手の方の笑顔が好きでやっていますなどといった発言がされます。

 あくまで、自分の実感の表現の問題であり、やっていらっしゃる方の実際の肚は、先の西田師と同じものであることがほとんどで、その喜びを、西田師のように巧みに表現できないことから、上記のような表現になってしまうものと思いますが、「相手の方の笑顔」などといった対価を本気で求めると、利他行は、単純利己主義の行となります。

 なぜなら、行為と「相手の笑顔」などといったものとの間には、タイムラグがあるだけではなく、やった行為によって相手が喜ぶか否かというのは、相手の方の自由意志で判断されることなのですから、行為の時点では確定しておらず、結局、現在にはない将来に利益を得る思考様式によってなされるものとなってしまい、利他行としての価値がなくなるからです。
 
 とはいえ、実際に、相手の方の姿が見えていれば、どうしても、求めてしまう気持ちが生じてしまうものでもあり、そこに、人のわからない所でよいことをするという「陰徳」が禅門において貴ばれる由縁になります。


 
「陰徳即ち報酬の為めにせざる善き行いは、大乗教の教義に合ったもので、我が禅宗でも、大に之れを奨励して居る。而かも、近来、清廉の風、地を払って、報酬なき善き行いをする者が少ない。譬えば、彼の労働も自己の務めとして忠実に之れに従事する時は、労働は神聖なりとも云えよう、さり乍ら、其の労働の対価として、即ち、労働の結果として、報酬を受くるにあらずして、単に報酬を得んが為めにする労働は、神聖でも何んでも無い。(略)富は必ずしも其身其家を幸福にするものでは無い。由て、人は、陰徳を冥々裡に施し、独自一個の故にあらずして、社会的に存(たから)うるに越したことは無いのである。」

(釈宗演『快人快馬』123~124頁)


 
 このように、利他行は、利己主義に基礎がありながら、利己主義の問題点を解消する点で、大乗仏教の行である六波羅蜜の中でも第一にくるものとされ、(中国)禅の基礎でもある華厳経においても、重視されています。



六度、すなわち布施、持戒、忍辱、精進、禅定、知慧の六波羅蜜を修行することは大乗仏教の菩薩の修行とまったく同じであり、この六度によってみずから悟りの境地を目指すと童子に、他の人びとをも救おうとするのである。(略)
 六度のなかでとくに重要なのが布施ということである」

(鎌田茂雄『華厳の思想』151頁)

3 出家の問題点

 利他行が重要であるということになってくると、出家には、問題点が出て来ます。

 出家して、寺院、禅堂にこもって仏道修行に明け暮れるということになれば、そのような狭い世界で誰に利他行をするのか、という問題点が出て来ます。

 利他行を広く行うためには、寺院、禅堂から出て、社会の中で積極的に活動しなければならないのです。

 中国で禅が最高潮を迎えた宋代において、優れた修行者が叢林に残らず、政治の世界に入ったり、禅修行にはまり込みすぎてもいけないなどと言われる理由はそこにあります。




禅宗がいかに能動的な思想であり、社会の中でそれを生きることを求めるものであったとしても、仏教である限り、「出家」という在り方を否定することはできなかった。ところが朱子学は、禅のもつ優れた点を充分に取り込むとともに、「儒教」であることによって、政治への参加を積極的に自らに課すことができたのである。科挙官僚となることを最高の目的とする士大夫階級の人々にとって、朱子学が魅力的なものに映ったのは当然であろう。
(略)
南宋時代には官僚の子弟や科挙の落第生が叢林に入って出世を召さすなどといったことも珍しくなかったようであり、叢林は士大夫階級の外にあるのではなく、まさしくその一環を形成するものとなっていた。そのため、士大夫との交流はますます盛んとなり、詩文や書、絵画などの素養は禅僧にとって不可欠のものと見做されるようになっていったのである。(この頃には禅僧が在家の葬祭にも関与するようになっていたようであるが、その原因もここに求めることができる)。」

(伊吹敦『禅の歴史』126~127頁)

「多くの人が好奇心から坐禅を始めますが、それでは自分自身を忙しくしてしまいます。修行によって、より悪い状態になるなど、ばかげています。(略)あまり禅に興味を持ちすぎるのもいけません。若い人が禅に夢中になると、学校をやめてしまし、森や山にこもって坐禅を始めます。この種の興味は本当の興味ではありません。
 落ち着いて、日常の修行を行っていれば、自分の人格は強いものになっていきます。心がいつも気ぜわしいと、人格をつくる余裕がなく、うまくいきません。
(略)
夢中にならない、という私たちの修行は、非常に否定的に見えるかもしれません。しかし、そうではありません。自分自身に対して働きかけるには、これがいちばん賢く、効果的です。また平易なのです。(略)平成で、日常的な心で修行していれば、毎日の生活自身が悟りそのものだからです。」

(鈴木俊隆『禅マインド・ビギナーズ マインド』110~112頁)


 
 また、種々の仏教的な行がそれ自体目的ではなく、助道の跡にすぎないと言われることも同様でしょう。



「看経(かんきん)、礼仏、布施、作福などの事は、ただ助道の跡にすぎないので、道は必ずしも此処に在るのではない。深山窮谷に隠れて草衣木食するようなのは、幽人高尚の志の現われで道とは関係なしと言っても可い。余は林下に淪棄(りんき・注1)して世間に用のないような身ではあるが、しかし斯民(しみん)と共に聖天子のために賢相を得たいと云う楽欲(ぎょうよく)は、ひたすらに持っているのである。」

(「今北洪川禅師から山岡鉄舟への手紙」)



 重要なことは、利他行為をし続けること=慈悲を生きることなのです

 大乗仏教においては、在家性があるとされますが、それは、利他を重視することからすれば、当然の帰結をいえます。

4 在家の問題点

 以上のようなことからすれば、「在家主義で全く問題なし。」ということに落ち着きそうですし、私自身も、そう思っています。

 しかし、利他行為それ自体に自足するというのではなく、何か精神的な満足を得ようとする、そのために仏道を行をずるという発想になるとおかしくなってしまう人が少なくありません。

 利己主義という観点から見た場合に、出家者の方について、素直によいと思うことは、やはり、財産や人間関係等、誰もが握っておきたいものを素直に手放していることです。

 逆に、在家で仏道修行をしようという人は、人生はむなしいなどと思っていても、同時に、わずかばかりの財産や、家族等の人間関係はしっかりと握っていながら、更に精神的な満足も欲しいと考えているわけであり、仏道修行をしない人よりも、精神的な満足をも得ようとする点で、更に利己的であるといえます。
 
 利他行為それ自体に自足し、これを目指す上での精神を落ち着かせるツールとして、坐禅等の瞑想に取り組むというのでなければ、在家者が仏道修行をするということには、一般の人よりも根深い利己性があるという問題意識を持てるかどうかが重要なのであるかなとも思います。

 在家でマニアックに禅等の仏道修行をする人たちの中では、よく出家者との違いについて、禅堂や施設に籠って、坐禅等の瞑想をする時間が短いことが問題とされますが、坐禅等のプロパーの仏道修行の実践は、所詮は、助道の跡にすぎず、時間は大きな問題ではないように思います。

 根本的に重大なことは、その修行の開始の時に、利己主義から離れられているか否か、というところではないかと思います。 



「パオ・セヤドーをはじめとするビルマの人たちは非常に素直だから、「見なさい」と言っても問題が起きないんですよ。でも、西洋人やわれわれ日本人のような人たちは「見なさい」と言われると、「よし、俺は何が何でも見てやるぞ」という余計な構えを取ってしまう傾向があります。だから、日本人とか西洋人がみんなそのあたりでつまずいてしまいます。
(略)
特に西洋人たちに。というのは見事なぐらい西洋人が全員討ち死になんですよ。(略)やっぱり西洋人で、しかも比丘になるような人たちは強烈にシンキング・マインドが強いみたいです。そういう人たちが「ようし、このメソッドを忠実に実行すれば俺にもできるぞ!」とみんな思ってやっちゃうから、もう是認討ち死にです。本当に。討ち死にしなかったのは、三人ぐらいかな。
(略)
人間のこの我というものの強さ、そしてそれが瞑想の最大の障壁だということをまざまざと見せつけられた。」

(藤田一照、山下良道『アップデートする仏教』〔山下良道発言〕188~192頁)



 衆生本来佛也。

 元々私たちには問題はなく、素直に慈悲の衝動を発動すれば、利他行為をすることができる。

 そのちょっとしたことに気づくかどうかが人生を大きく変えるように思います。

 そうすると、坐禅等の瞑想などといったプロパーの仏道修行というものにどの程度の価値があるのか。

 仏道修行にはまり込むことによって、生き方としての仏道に反することになってしまわないか。



「わしは勉強はじめてから以後は、勉強に夢中になっていて、嫁をもらおうなどと考える暇はなかった。だから、わしの場合では、一生辛抱して独身を通してきたわけではない。ただまっすぐに向こう向いてゆくばかりで、きょうまで来てしまったのである。一生を通して、なにも辛抱したということはなかった。辛抱すれば疲れるだけで、人間的にも無駄なことである。
 辛抱するということには、なにか目的がある。そして、なにか目的にする下心の「つもり」があると、その行為が不純になる。」

(酒井得元『沢木興道聞き書き ある禅僧の生涯』155~156頁)
  


 今を犠牲にして、将来の解脱を目指して、瞑想に明け暮れることが本当に望ましい事なのか。

 自己の脚下、日常生活の中にあって、家族を養い、仕事に邁進し、地域社会に尽くす、平凡な生き方に帰ることこそが、生死解脱の早道のようにも思うのだけれども。



「瞑想センターに入るまえ、瞑想の内に平和を見いだすことを、彼らは望んでいました。ところが、道を求めつつ、以前とは違った社会をつくり、この社会が、大社会よりも、もっとむずかしいものであることに気づきます。それが、社会から疎外されたひとたちの集まりだからです。数年の後、瞑想センターにやってくるまえよりも、もっとひどい欲求不満を起します。(略)
 これはなぜかというと、瞑想とは何かを誤解しているからです。瞑想の目的を誤解しているからです。瞑想は皆のためにするのであて、瞑想する当人だけのためにするのではありません。(略)
瞑想は、私たちが社会にとどまる助けをする道です。これは、重要なことです。
 社会から疎外されて、社会に復帰することのできない人々がいます。注意しなければ、自分たちもそうなることを、私たちは知っています。(略)
 瞑想センターは、あなたがみずからに帰り、現実についてのいっそうはっきりした理解を得、理解し愛する力を強め、社会に復帰する準備をするところです。」

(ティク・ナット・ハン(棚橋一晃訳)『仏の教え ビーイング・ピース』72~79頁)



 
 
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