坐禅普及

主旨は慈悲。行は坐禅。

浄土門から見た禅修行の目的地(第2版)

「念仏は、まことに浄土(じようど)にうまるるたねにてやはんべるらん、また、地獄(じごく)におつべき業(ごう)にてやはんべるらん。総(そう)じてもって存知せざるなり。

たとい、法然聖人(ほうねんしようにん)にすかされまいらせて、念仏して地獄(じごく)におちたりとも、さらに後悔(こうかい)すべからずそうろう。」

歎異抄第二条)


 禅の実践に取り組むようになってから、よかったなと思うことの一つは、浄土思想の良さがわかったことです。 


「念仏して地獄(じごく)におちたりとも、さらに後悔(こうかい)すべからず」


というのは、禅の実践をしている者にとってはシビれるものがあります。

 以前は、「南無阿弥陀仏」という『呪文』を唱える(称名)だけで、『天国』(浄土)に行けるなどという考え方はオカルティズムではないか、と思っていました。

 しかし、幸運だったことは、禅の実践を始めた初期の段階で、鈴木大拙先生の本や、藤田一照師の本に触れたことでした。


「私の無心というのは、(略)例えばキリスト教的に言うと「御心のままに」というようなことなのです。神の御心のままにならせ給えという、そう「まかせ」主義のところのあるのを宗教的と云います。そういうところに宗教があると私はみたい。それから前にも申しましたように、受動性というものがある。絶対的に受動の形をとって出る。自力を全く棄てて、そうして他力三昧になる。自分の意志というものをもたないで、神というものをいろいろに解するのだが、とにかく絶対の他者、他のもの、自分ならざるもの、絶対に自分の向こうに立っていて、自分を全く包んでいるもの、絶対の他力と云ってもいい、そのものに任せきること、これを宗教というのです。」

鈴木大拙『無心ということ』40~41頁)


「三業(身・口・意)に仏印が標されている坐禅では、それまで自分の所有物のようにして欲望充足のために勝手に使っていたこころやからだがもはや自分のものではなくなっています。こころもからだも自分のためには一切使いません。使えなくしてありますというのがあの坐禅の姿勢に込められた意味というかメッセージなのです。するとどうなるかといえば、それまで無償で借りていたこころやからだをそっくり本来の持ち主である大自然、つまり仏にお返しすることになります。そして、こころやからだが私的に限定されて使用されている状態から解放されて、大自然の働きそのもの、仏のかたよりおこなわれるものとしてそこに息づくようになります。」

(藤田一照『現代坐禅講義』228~229頁)


 この記述を読んだ上で、次の浄土真宗の考え方に関する記述を読んで見ると、その共通性がよく分かります。

 
如来回向の信を獲得するには、如来に自分のすべてを任せなければならない。
   はからいをなくす
 つまり、虚空に向かって自分のすべてを放り出さなければならない。
 そうすれば、あとは如来がなんとかしてくれる。」

(川西宏之「物種吉兵衛」『大法輪』平成18年第7号88頁)


 こうやってみると、浄土門の人たちが、信仰心に基づき「阿弥陀如来に委ねる」という心理状態で行っていることを、身体論的に実現しようというのが坐禅であるのではないかなと思われます。


 このような基盤があったことから、その後、つっこんで臨済禅の公案修行もある在家禅団体で活動してから、周りにいる人たちが、「自力」を強調したり、坐禅について、「頑張る」、「苦しむ」というイメージを持っていることに強い違和感を抱きました(今でも抱いています)。
 
 私の感覚では、坐禅によって、自分の肉体の意識の制御から外していくと、自然に日常生活がよくなっていく、という感覚です。
 仕事でのトラブルに対し、冷静でいやすくなる、嫌なことを課題であると前向きにうけとることができるようになる、感受性が高まり、自然や芸術作品を見ることが楽しくなる……。
 こんなに楽なのに、なんでこんなによくなるのだろうという感覚です。

 頑張ることをやめると、却って、前向きに人生に取り組めるようになるという一種、パラドクシカルなところが、私にとっては、坐禅の大きな魅力の一つです。

 脳科学論的には、扁桃体の活動が低下して、不安感が解消されたことによる結果だということになるのでしょうが、それだけで、ここまでよくなるのかという驚きがあります。


 ですから、藤田一照師が、魚川祐司先生と『感じて許す仏教』を出版されたり、横田南嶺老師が、今年のサンガの春号のインタビューで、「頑張る坐禅をやめて、澤木興道老師の『打ち方止め』の感覚で坐禅をするようになった」という話がなされたりしたことには、我が意を得たり、という感じがしました。


 釈宗演老師の『最後の一喝』に次のような記述があります。


「素より法の上に二義の差別はない、けれども人根に利鈍の別あるが故に、釈尊は其根機に随って或は自力と説き或は他力と教えられた、華厳、阿含、法華、涅槃、八万四千の法門と云い、五千数十余の経巻と云うも、もと是れ応病与薬、随機開導である。故に自力を離れて他力なく、他力を離れて自力なし、自他は単に安心の堂奥に達する入口の門である。然るに此の門口に於て是非の論拠を逞しうし、清洒たる奥座敷のある事を知らぬと云うのが現今我邦に於ける宗派の状態であって、誠に困ったものである。」

(釈宗演『最後の一喝』23頁)

 
 仏教には、様々な考え方がありますが、それは「安心の堂奥」という共通の「奥座敷」に達するための異なる入口にすぎません。

 禅では、不立文字が強調され、特に、臨済禅では、実際に、「悟り」の体験をすることが重視される結果、具体的な言葉で表現されない「悟り」という神秘的な体験を目指すものとされていることから、その実践のゴールが見えないきらいがあります。

 しかし、禅の修行の目的、すなわち、「奥座敷」が浄土教と同じであるなら、浄土教の観点からなら、禅の修行の目的についてのヒントが得られるように思います。


「信ずると言うことを二つに分けますると、まあ斯う言うものであろうと思う。解信(かいしん)と仰心(こうしん)の此二つである。(略)

 智的要求に応ずるには、聖道門、情的要求に応ずるには浄土門であって、解心は乃ち聖道門に属し、仰信は乃ち浄土門に属するものであります。そこで解信に於てはどうしても多少理屈の説明をしなければならぬが、仰信となると読んで字の如く、仰いで信ずるのであって、初めから神ありと信じ、佛ありと信ずるのであります。

(略)

 仰信の方になりますと『何事のおわしますかは知らねども、かたじけなさに涙こぼるる』で其の中に真理があります。純粋の信はこれで宜しく、何(な)にか分(わか)らぬが、唯有難さに涙こぼする。此一の信仰がありますならば、毎日々々感謝の念を捧げて仕事をする事が能(で)きようと思います。即ち命令を受けたのでなく、我が仕事は我が自身の天分として、働くということになります。そうすると日々夜々働いて居る仕事も、有難涙がこぼるる感謝の念を有(も)ちて、倦むことなく、今日を渡ることが能(で)きようと思います。」

(釈宗演「禅学大衆講話」『釈宗演全集第一巻』122~131頁)


「命令を受けたのでなく、我が仕事は我が自身の天分として、働く」

「日々夜々働いて居る仕事も、有難涙がこぼるる感謝の念を有(も)ちて、倦むことなく、今日を渡ることが能(で)き」るようになること

 これが浄土門の目指すものであり、翻ってみれば、禅の修行が目指すものです。


 神秘など全くないシンプルな目的。

 浄土門の人たちは、「信」のみでこの領域に至る。

 禅の修行者、特に、臨済禅の修行者は、大量の公案を透過し、境涯を高め、あるいは、深めることを通して、この領域に至る。


 禅の実践をしている人の中には、浄土門を小馬鹿にしている人も少なくありません。

 しかし、禅の修行の目指すものは、結局

「毎日働かせてもらうことに感謝しながら働いていくこと」

です。

 まさに

「仏教は、慈悲を以て主旨とする」


の端的です。

 禅の修行は、特に、臨済禅の公案修行では、とても長い時間をかけて、わざわざこの領域に至る。

 浄土門に比べると、エラい労力をかけ、遠回りをして行く。

 本当に、禅の修行というものは、仏道の実践で望ましいものかどうか、これはきちんと反省してもよいように思います。


 坐禅は無功徳と言われます。

 無価値の坐禅に放下することが、分別を離れる端的であるということが、その本来の意味です。

 しかし、私は、もう一つ意味を付け加えています。

 それは、坐禅とは、禅の修行であり、修行である以上、「練習」にすぎないということです。

 「練習」である以上は、「実戦」があります。

 そして、「練習」の価値は、「実戦」によって、初めて具現化されます。

 「実戦」がない限り、「練習」には価値がありません。


 人によっては、「練習」自体を楽しむ人もいるかも知れません。

 キャッチボールだけを楽しむ、素振りだけを楽しむ、ノックを受けるだけを楽しむ……。

 価値観の問題であり、どんな価値観を抱いても、文句を言われる筋合いのものではありません。

 けれども、一抹の寂しさを感じるのが自然な感覚でしょう。

 
 禅の修行における「実戦」とは、何でしょうか?

 それは、仏教の主旨に現れています。

 「慈悲」。

 「実戦」とは、日常生活において、実際に、慈しむ行為をすることです。

 在家の者にとって、一番手近な行為は、よい仕事をし、よい家庭を築くことでしょう。


 私たちは、助け合わなくていけませんが、同時に、競争社会であることも、私たちの世界の真実です。

 競争社会に中で、私たちは、何かに追われ、うまく対処をしていかないと、自分達の利益が失われるという恐怖感から、顧客、職場の同僚、家族等々に対する配慮ができなくなる。

 身の回りにいる人たちをいつくしめなくなる。

 坐禅は、ゆっくりとした呼吸により、扁桃体の活動を低下させ、不安をぬぐい去り、しっかりした姿勢を続けることにより、男性ホルモンであるテストステロンを分泌させて、前向きな気持ちを作り出したりできるエクササイズです。

 坐禅により、競争社会の中にあっても、他者に慈悲を注ぐ、仏道の主旨の実現ができるようになる、そういうものだと思います。

 禅の修行をしている人の中には、仕事や家庭を犠牲にしたり、省みない人も少なくありません。

 しかし、「慈悲」の観点から見たとき、どうもおかしいのではないかなと思っています。

*2019年9月29日にした投稿に対し、投稿時点では、十分な引用ができていなかった釈宗演老師の「最後の一喝」の該当部分の引用をした上、若干、表現を改めるなどしたものです。

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