坐禅普及

主旨は慈悲。行は坐禅。

【参考資料】煩悩即菩提

(1)釈宗演『坐禅和讃講話』

衆生其のまま佛陀、佛陀其の儘衆生ぢゃというので、迷即悟、悟即迷というので、生死即涅槃、涅槃即生死という味である。『般若経』の色即是空、空即是色と全く同じぢゃ。色法の当体其の儘空となり、真空其の儘山川国土の色相を現ずるという所に住すれば、可愛憎いの隔てが無くなる、隔ての無い其の中にも、妻子は可愛い、欲深婆さんは憎らしいの差別がある。差別即平等、平等即差別、何れから行くも同じ道、『分け登るふもとの道は異なれど、同じ高嶺の月をながむる』。(略)佛即ち餓鬼、餓鬼即ち佛、畜生即ち佛、佛即ち畜生、衆生即ち佛、佛即ち、衆生である。衆生本来佛なり、此の最初の第一句さえ会得出来て、而も我が肉となり血となれば、此の『坐禅和讃』の講話も、茲で止めて仕舞って宜い。」(20~21頁)



(2)釈宗演『最後の一喝』

「迷と悟とは別のものではない。迷えるものには七情となり、悟れるものにはそれは大智とも光明ともなる。これをたとえてみれば渋柿を湯につけて置くと甘くなるのは、渋があるからこそ甘くなるのであって、渋いからとて捨てる訳のものではない。歌に

渋柿の渋みの外に甘柿の

甘味の種は外なかりけり

とある通り、悟れる者には従来厭うべき七情も、遂には愛すべきものとなるのである。(略)

故に真に禅によって悟入したものは、決して死灰のようなものではなく、血あり涙あって人類に臨むようになるのである。世には遠く俗塵を避けて山に入り、独り自ら高こうするものがあるが、それらは禅の本旨を得たものとはいわれない。禅はどこまでも血あり涙あって、俗世間のものを救うという大慈悲心のあるものでなければならぬ。世間と離れし禅を求めんとするは大なる相違である。」(61~63頁)



(3)飯田欓隠『通俗禅学読本』

「人は思想の器械であるから、よく思い、よく働いてこそ、順当自然なるべし。人たるものの価値をあるらめ。世を進歩し、荘厳せしむることも出来るのである。世を捨てて山に入る人山にてもなほうき時はいずこ行くらん。さりとて思量底を資料する、これもまた凡夫禅なるべし。二重の思量じゃ。思量という立派なものあるのに、更に思量するものを傭い来りて思量する、煩悶弥加わることになる。気の毒なものじゃ。試みに思量の当相如何と工夫して見よ。何物か恁麼に思量する。何物というものがあるか。思量になって見ると思量が一番よく知って居る(略)

我が正伝の禅は思うにあらず、思わざるにあらず。思うときは思うばかりにして、思いながらの脱落じゃ。思わぬ時は思わぬばかり、思わぬながら脱落じゃ。」(32~33頁)



(4)鈴木俊隆『禅マインド ビギナーズ・マインド』
 
「苦しみとは、それ自体が、私たちの生き方であり、人生を高めることであることがわかります。」(53頁)



(5)松本史朗『仏教への道』

143頁 
中観派はつねに戯論寂滅を礼賛している。(略)空というのは、ことばを否定するための言葉だというのである。(略)チャンドラキールティは(略)おそらく彼は、ことばなど信じていなかったであろう、彼の信じるものはただ戯論寂滅のみであった。しかし彼自身は戯論の世界にとどまったのであり、そこに生きがいを見出したのである。というのも、彼の信じる戯論寂滅というのは、実はことばのまったくしずまった、心の平静な状態というのではなかった。彼は、自己が語る否定的なことばの一つ一つにたえず戯論寂滅をみていたのであり、こtばを語るという行為以外に、彼にとって戯論寂滅を感得する方法はなかったのである。彼はみずからが語ったことばのむなしさを知っていた。いな、ことばの本質がむなしさと無常性にあることも知っていた。しかし人間にとって、むなしさと無常性ということ以上の真実がどこにあろうか。」(143頁)





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