坐禅普及

主旨は慈悲。行は坐禅。

禅が利他行為に行き着く理由

禅の実践を続けていると自然と利他行為に至る理由は色々あるように思う。


 
正直、私の場合は、自然とそのような衝動が生じたとしか言いようがない。

元々それは、あったのだけれども、坐禅をしているうちに、はっきりと確信を持てるようになった。

以前は、頭ではそうした方がよいと思っていても、心がついていかないような感じがしたけれども、今は、きちんとついていける感じがする。



「禅は、要するに、自己の存在の本性を見ぬく術であって、それは束縛からの自由への道を指し示す。(略)それはわれわれの心に生まれつきそなわっている想像と慈悲の衝動を、すべて思うままに働かせることである。一般に、われわれはこの事実、すなわち、われわれは自分を幸福にし、たがいに愛し合って生きて行くのに、必要な機能をことごとくそなえているのだという事実に、気がつかないでいる。」
鈴木大拙『禅』41~42頁)



自然科学的に説明するのであれば、元々そのような生き方に魅力を感じていたところで、坐禅をして感受性を高め、心が開いている状態で、「衆生済度」を強調する仏教書などを読むうちに、心に利他行為の衝動が刻み込まれたということなのではないかと思う。



もっと思惟的にいえば、すべての存在は関係性の中に成立している。

それぞれは独立していながら、支え合わないと存在できない関係性にある。

私たちが生きるということはこのような関係性を推進することだ。

生きるということは支え合うことであり、支えたいということは生の衝動である。



「この姿勢(結跏趺坐)は、二つではない、一つでもないという『二元』性の『一者』性を表わしています。これはもっとも大事な教えです。二つではない、一つでもない、ということです。(略)

実際の人生の経験に照らしてみましょう。私たちの人生は、複数であるばかりでなく、単一です。私たちは、互いに支えあう、と同時に自立しています。」
(鈴木俊隆『禅マインド ビギナーズ・マインド』38頁)



なお、(一見)支えることができない存在、老者、  病者、障害者等に存在する価値がないということではない。

そのような人は、支えられることによって、支える人の人生に価値を与えるという意味でやはり支えているのだ。



*2020年7月27日補正

文中の「坐禅をして感受性を高め、心が開いている状態」との説明については、現在は、オキシトシンの分泌によって一種の自己洗脳が起きているのではないかと考えています。

2020-07-23「オキシトシンの分泌――坐禅の生理学的効果(3)」
https://zazenfukyu.hatenablog.com/entry/2020/07/23/104238?_ga=2.50876271.738632634.1595788596-541515618.1562325655

2020-04-07「瞑想の際に分泌されるオキシトシンの洗脳効果」
https://zazenfukyu.hatenablog.com/entry/2020/04/07/223210?_ga=2.42560611.738632634.1595788596-541515618.1562325655





にほんブログ村 哲学・思想ブログ 禅・坐禅へ
にほんブログ村

参考になる点がありましたら、クリックをしていただければ幸いです。