坐禅普及

主旨は慈悲。行は坐禅。

信じる力

元々「信じる」ということには警戒心強くありました。

十代から二十代の初めにかけて、オウム真理教事件法の華三法経事件などの新宗教、新々宗教の団体の起こす事件に報道を通して接したり、高校生の頃、同級生が日蓮正宗顕証会にはまり込み、近くの駅の公衆電話(当時は携帯電話などはありませんでした)を使って勧誘の電話を学校の生徒に繰り返しかけるなどといったことがあったので、「信仰」というものに強い警戒心を抱くようになりました。

デカルトのあらゆるものを疑って捨て去って、最後に残ったものを基礎として考えるという考え方には、今も共感しています。

だから、基本的に警戒心自体は変わっていません。

今でも、「信じろ」という考え方よりも、「疑え」という考え方の方に強い共感を抱きます。

私は、次のような言葉を好ましく思います。



① 原田祖岳『禅学質疑回答』

「孤り涅槃経のみならず一大蔵経も総て是れ魔説である。禅門に伝わる汗牛充棟の祖録も悉く邪説である。況や各宗の教判如きは皆な悉く邪魔の臆説に過ぎぬ」(6頁)

② 鈴木大拙『禅』

仏陀は徹底した個人体験の主張者であった。かれは弟子たちに、権威や長老者にただ憑依することなく、それぞれの個人的体験を重んぜよと、力をこめて説いた。」(19頁) 

③ アルボムッレ・スマナサーラ『これでもう苦しまない』

「仏教では、信仰は邪魔です。障害です。まず学ぶ。批判してみる。比較してみる。考察してみる。そして納得する。納得してから、実行してみる。結果が出たら、教えられたとおりに幸福になったと、苦しみは乗り越えられたと、実感するのです。そう(46頁)してからやっと、ブッダの説かれた教えが真理であり、そのまま事実であると確信するのです。残炎ながら信仰に出番がありません。」(45~46頁)



しかし、仏道の実践においては、若干違うようにかんじています。

仏道の実践の場合には、ある程度の段階まで行ったら、「信じる」方が所期の目的を達しやすいのではないかと思います。

具体的には、ある考え方について、自分なりに考えて正しいと思えるようになったときには、その考え方を信じた方が早いようになると思います。

仏道の実践においては、頭で考えることではなく、体験することが大事だと言われます。

しかし、往々にしてこの種の体験は、特殊であり、誰もが体験できるものではありません。

仏道の実践を通して、本当に体験ができるかどうかは不安定な将来にかかるものであり、「楽に生きる」という端的から遠ざかるように思います。

私の経験でいうと、このような段階に至ったときには「体験」することを狙うよりも、「信じる」方が早い。

座禅は、感受性を高めるので、あるイメージが頭に刻まれ易くなりますから、そのイメージが理屈として正しいということがわかれば、それを信じてしまう方が頭に刻み込まれ、そのイメージに従って活動がしやすくなると思います。


 
大乗仏教、特に、禅宗では、坐禅和讃にある「衆生本来仏成り」ということが強調されます。

私の理解では、このことは私たち人間は、このあるがままで、悩み、苦しみ、迷う現在のこのあるがままでベストコンディションであるという意味です。

野口整体の産みの親である野口春哉先生の著書『風邪の効用』に



「生き方も知らないうちから生きている」(52頁)



という言葉があります。 

私たちは、生きる上で色々な知識が必要なように思っていますが、実際には、必要な知識と思われるものがない状態でも、私たちは生きているのです。

私たちは、大なり小なり、悩み、苦しみ、迷いを感じ、それを解消するために、坐禅等の仏道の実践を始めたり、仏教について学び始めます。

しかし、実際に、生きるということを考えたときには、仏道の実践も、仏教の知識もまるでいらない。

私たちの肉体は、私たちが悩んでいようが、苦しかろうが、迷っていようが、きちんとその場その時の外部環境に対応して、活動しています。

心臓も、肺臓も、消化器管も、脳や神経系等々はきちんと活動しているのです。

脳の中の一点を除いては、どんな状況でも全身が一生懸命生きようと活動し、実際に生きているのですが、頭の片隅のある場所で起きている現象だけが、ほかの全身の機能を無視して、生きるのが悩ましいだの、苦しいだのと呟いているだけなのです。 

どんな状況でも私たちの肉体は、きちんと機能していて、その場その時の環境に合わせてベストコンディションの状態にあることを「仏」と称しているのだと考えています。
 
このように「衆生本来仏成り」ということは頭の理屈では、よくわかるところのものです。

しかし、実際に、これを体験することができるかというと疑わしい。

円覚寺横田南嶺老師は、次のように、おっしゃいます。



「自分自身が仏であると気がついたならば、何も仏の真似をする必要はありません。」



自分自身が仏であると気づいたなら、禅の修行は終わるということでしょうか。



体験することは難しい、しかし、信じることは簡単です。

このような発想を持つに至った理由は、建長寺の専門僧堂で師家をされていた政榮宗禅老師の座禅会での茶話会の際に

「転迷開悟と言いますが、私は、迷ったままでよいと思うんですけど、いかがでしょうか。」

とお尋ねしたところ、老師から

「あなたは、頭ではわかっている。

 頭でわかっていることを体験できるまで修行しなさい。

 体験できるまでは、あなたが頭でわかっていることを信じなさい。」

と言われたことがきっかけとなっています。

このときは、「頭でわかっている」と言われたことだけでとても嬉しくて、嬉しさのあまり「体験しなくてもいいや」くらいのことは平気で思ったのですが、時間がたつに従って、最後の「信じなさい」という言葉が重く響くようになりました。

実際、信じるようにしていると、坐禅をする以外になにも特別なことをしていないのに、悩みながら、苦しみながら、迷いながらも、前向きに楽に生きられる感じになり、なんでも積極的にやってやろうと思えるようになりました。

正直、今は、「思える」くらいで目に見える成果は日常生活を少しずつよくする程度なのですが、なんとかもっとわかりやすい結果を出したいなと思っているのです。



……前は、このような前向きな感覚をかえって苦痛に感じることがありました。

理想と現実とのギャップに苦しんでいたということでしょうか。

それで逃避したくなることもあったのですが、坐禅を初めてから前向きでいることにその種の苦痛をあまり感じないようになりました。

ちょっとしたことではありますが、これも坐禅の効果なのかなと思っています。

*2020年7月27日補正





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