坐禅普及

主旨は慈悲。行は坐禅。

素直に悩む

【素直に悩む】
 ある人の相談を受けた。
 その人は、アーティストを目指していて、個性的であろうとする一方、周囲との関係をぎすぎすさせてしまうのが嫌なので悩んでいるのだという。
 悩みの内容自体は、ありがちな自己と他者との関係性の問題。
 普通であれば、自分を押さえてうまく折り合いをつけましょうということになるのだろうけれども、芸術という、尖った個性が求められる世界のことであればそうは言っていられないだろう。
 
 芸術というものは、尖った個性がある閾値を越えると突如として普遍性を獲得するところに、そのダイナミズムがあるのだから。

 私は、それなりに禅などの勉強をしてきたという傲慢な自負心があったから、うまいことをいってやろうかなと思ったが、思い付かない。
 なんとか
「芸術の世界では、個性のぶつかりあいというのは、よくあることなのだと思う。
 個性があっても広く理解されなくては意味がないのだから、個性と普遍性の相克の悩みは、芸術を目指す人が一生問い続けるものなのかなと思う。
 うまい解決方法は、思い付かないけれども、あなたが個性的であろうとするだけで満足せず、ほかの人との関係について悩んでいることはとてもよいことなのだと思う。」
というようなことを口走ることができただけだった。

 言った直後は、何でこんなことしか言えないのだろうと思ったけれども、後になって反芻すればするほど、その答えでよかったのだと思うようになりました。
 自分自身でわかっていたと思っていたことをきちんとわかっていなかったことに気づきました。

 禅の実践が、悩み、苦しみ、迷いを受け入れるものである、これらをなくすのではなく、受け入れるものであるということはわかっていました。
 受け入れる上で、悩み、苦しみ、迷っているので、よし、と考えるようにすることはわかっていました。
 けれども、それは、「“よい”ように思うことで、悩み、苦しみ、迷いの苦痛に対処しよう」というものにすぎませんでした。
 悩み、苦しみ、迷い、それ自体が“よい”ものだとは思っていませんでした。
 しかし、彼の悩みの相談に自分なりに答えるなかで、「悩み、苦しみ、迷い」のあることがよいことである。
 「悩み、苦しみ、迷い」のあることが人間としての美点であることに気づきました。
 衆生本来仏なりという意味が、「悩み、苦しみ、迷い」のある、このありのままで仏である、ベストコンディションであるということに気づきました。
 
 山川草木悉有仏性などといいますが、これが、山や川や草や木も成仏できるという意味ととらえてしまっている人が禅の実践をしている人でも多いようですが、日本の仏教では、そもそもこれらの存在が既に成仏しているという意味であることを知らない人が多いようです。

植木雅俊『仏教本当の教え』
 中国の天台宗で、「草木国土悉皆成仏」ということが言われるようになった。草木や国土、山や川までもが成仏できるというのだ。日本ではさらにそれが徹底され、「草木不成仏」と言われた。「成仏しないのか」と思われるかもしれないが、違うのだ。「草木はもともと成仏しているのだから、改めて成仏する必要はない」という意味なのである。(183頁)

 このことは、「悩み、苦しみ、迷い」ということから考えると、納得が行くものです。
 山川草木には、悩みなどはない。
 獣、魚、鳥、虫などの生物についても、悩みなどはない。
 成仏という点では、人間だけが劣等生で、悩み、苦しみ、迷いがある。
 
 悩み、苦しみ、迷いは、なくしたいとは思うけれども、そもそも、人間は、悩み、苦しみ、迷う存在ではないのか。
 だからこそ、私たちは、悩み、苦しみ、迷うのではないだろうか。
 
 人間以外の存在は、日々同じことを繰り返すだけです。
 人間以外の生物も、基本的には本能に刻印されたプログラムをただ繰り返すだけです。
 しかし、人間は、そのプログラムから抜けようとする。
 生物学的な限界のあることは否定できないけれども、それでも、自分達の生活環境を改善しようと働きかけることができる。
 私たちは、生活環境を改善するために理想をもつことができるけれども、それは理想の実現できない苦しみを背負うことになる。
 理想を実現するための手段に悩み、迷うことと裏腹。
 だから、きっと悩みなどを受け入れいて、しっかり向き合うことの方が大切なのだ。
 
 諸行無常の世界に静的な安心などあり得ない。
 諸行無常の世界にいる限り、どのようなことが起きるのか予想がつかず、常に、私たちは、悩み、迷い、苦しみ続ける。
 静的な安心を求めることは、彼岸の世界の幻というべきであって、悩み、迷い、苦しむ真っ只中で安心すべきなのだと思う。

 「煩悩即菩提」とは、そういうことを指していうのだろう。
 だから、釈宗演老師は、迷いの中に飛び込めと言った。

 迷いが怖ろしいから、悟りの中へ逃げ込むというのではありませぬ。
 迷いの中へ飛び込んで、大自在を得る。
 地獄界へでも、畜生道へでも、ドシドシ這入って往って仕事をする。
 到る處に主人公となって働くのであります。
(釈宗演『無門関講話』39頁)

 その弟子の釈宗活老師も、このように言います。

 佛性を心内に向って求めねばならぬと云うて、別段奥深くにかくれて居る譯ではない。未悟の垢、凡夫の境界と思うて居る。其人々の、惜いとか、欲しいとか、憎いとか、可愛とか、活動しつつある其一念上を離れて、別にあるのではない。其一念心上の清浄光が、即ち不生不滅の法身ぢゃ。外に向って求むるに対して、屋裡と云われた。即ち自家屋裡の外、よそに用はない。
(釈宗活『臨済録講話』171頁)

 元々、私たちは、悩みがあろうが、苦しみがあろうが、迷いがあろうが大丈夫なようにできている。
 なぜなら、悩みがある、苦しみがある、迷いがある、そのようなものが抱けるのは、まさにその瞬間において生きているからだ。
 私たちは、悩みがあろうが、苦しみがあろうが、迷いがあろうが生きることができる。
 悩みも、苦しみも、迷いも、あって、何らさわりがあるものではない。
 それは、人間が、他の存在と違って、向上し、かつ、他の存在を慮る能力を発揮する上で、当然生じるものにすぎない。
 
 重要なことは、悩みも、苦しみも、迷いも、あって然るべきものであり、あっても全く問題がなく、平気であることに気づくことなのだと思う。
 
 日常生活における経験でも、悩みにきちんと向き合えると、悩みの基礎となった問題は解決しなくても、なぜか、心は落ち着くということがよくある。
 
 そして、座禅をしていると、そのうち、悩み、苦しみ、迷いがあっても、平気なようになる。
 悩み、苦しみ、迷いを受け入れる力を養ううちに、これらの持つ向上に向けた本来の力を発揮できるようになる……感じがするようになる。
 
 以前は、理想を実現しようとすると、理想と現実とのギャップに苦しんだり、焦りが出る感じでした。
 しかし、今は、素直に理想を求めても平気な感じがする。
 この「平気な感じを証明する」ためにも、頑張りたいと思う。
 
 座禅などの自我の活動場面を限定する実践を通し、結果の実現をするという思考から自由になり、かえって、結果の実現をしようという力がわいてくるようになった。

 結果の実現をしようと思っても、将来のことはわからない。
 だから、よい結果を出そうとして悩んで、能力の限りで、暫定的な答えをだし、実践し、反省して、また悩んで、修正案を出し、実践し、反省して、また悩んで……この繰り返し、あたふたあたふた……この全く人間的な営みのことを称して、安心立命というのだと思う。
 
 釈宗活老師は、このようにも言います。

 大に有事にして過ごす所の人間
 今日の生存競争場裡の働きが其儘無事底の境界
 何程どんちゃん働いて居ても無事
 朝から晩まで、あくせくと働いて、そのまま無事 世間から離れる意味ではない
(釈宗活『臨済録講話』221~222頁)