【参考資料】“現に存在する”苦しみには問題がない
「明治から昭和にかけて約半世紀近く建長寺派の管長をつとめた菅原時保(じほう)老師は『日面仏,月面仏,訳すれば,”ああ死にともない,死にともない”』と提唱されている。
近代の傑物であった飯田欓隠老師は,痔の手術をして,「痛い痛い。何にも無いというのは嘘の皮だ」と,わめかれたという。鈴木大拙先生に筆者が最後にお目にかかったのは,発病前日の午後から夕方にかけてであった。その翌朝から激しい腹痛を訴えられ,「痛い,痛い。この痛いのはかなわん」と叫びつつ,次の日の朝早くあっけなく世を去られた。死因は絞扼性腸閉塞という,まるで腹の中の交通事故のような病気だった。
(略)
山岡鉄舟も胃癌で苦しんで死んだ。辞世の句は,「腹張って苦しきなかに暁け烏」というのであった。弟子たちは,鉄舟先生ほどのかたの句として恥ずかしいと考えて内証にしていたのを,おくれて京都から来られた師の滴水和尚が見て,「さすがは鉄舟さんだ」と言って,改めて発表させられたという。」
(秋月龍珉『日常の禅語』115~116頁)
同じ趣旨のものは
「病の時は病ばかり、只管病苦じゃ。病者衆生の良薬なりと仏も云うた。病によりて永久の生命が得らるるからじゃ。(略)死の時は死ぬるばかりよ。死也全機現(しやぜんきげん)じゃ。只管死苦じゃ。この期に及んで安心を求むるとは何事ぞ。只死苦ばかりの所に大安心の分がある。全機現とは宇宙一枚の死じゃ。死者の世界邪。死によりて宇宙を占領するともいえうる。元古仏は生死は仏の御命なりともいわれた。死を厭うは仏を殺すなりともある。」
(飯田欓隠『通俗禅学読本』24~25頁)
「私が死ぬとき、死に行く瞬間、私が苦しんだとしてもOKです。それは苦しみのブッダだからです。そこになにも混乱はありません。誰もが、肉体の苦しみ、精神的な苦しみでもがいているかもしれません。それはかまわないのです」
(鈴木俊隆『禅マインド ビギナーズ・マインド』12頁)
「禅坊さんの死去は、かならずしもいつも端然とか安然とかいうものでなかった。翠巌の真和尚というのは、その入滅するにあたって、病気のために、はなはだ苦しみ悩んだ。藁を地に敷いて、その上で輾転反側して少しも休めなかった。」
(鈴木大拙『鈴木大拙禅選集6 禅堂の修行と生活 禅の世界』126頁)
苦を受け入れるだけだと小乗仏教的な消極ですが、同じ消息を大乗仏教的に積極にすれば、コレ
「われわれがこの苦の世界に生まれ生きているのは、愛するためであり、働くためであって、苦から逃れるためではない。」(松本史朗『仏教への道』146頁)
参考になる点がありましたら、クリックをしていただければ幸いです。