坐禅普及

主旨は慈悲。行は坐禅。

【資料】碧巌録第三十七則『盤山三界無法』

0 自家製の垂示

「三界無法、何れの処にか心を求めん。」

これが本則です。



前段の「三界」とは、世界。

「法」は、世界の中の具体的な事物。

具体的な事物が「ない」ということ。

問題は、「ない」ということの意味です。

実際には、私たちの目の前には、具体的な事物がおびただしく存在します。

単純に「ない」ということですと、「仏法に不可思議なし」という根本命題に反します。



「仏法に不可思議なし」

あるのは思議する余地もなく、目の前に展開している圧倒的な現実だけです。

それを「看よ、看よ」です。



そこで「ない」の意味が問題となります。

仏道における「法」については、「仏教では『自分自身を保つもの』を、とりあえずあるものと考える。それをダルマ、つまり法と呼ぶ」とされます(竹村牧男『入門哲学としての仏教』25頁)。



法が「ない」とは、具体的事物は、自分自身を保とうとするけれども、それができ「ない」ということ。

自分自身を保つことができるものがないということ。



諸行無常です。

私たちの世界は、常に変化します。

ですから、世界に存在する具体的事物が、自分自身を永続的に存在させようと頑張っても、それはできないことであり、世界には、永続的な実体性のあるものはない。

諸法無我です。



「三界無法」とは、世界の変化に応じて、具体的事物は、変化し、そして、消滅し、永続する実体性を持たない、という諸行無常諸法無我の仏教の基本原理を語るものです。



後段は、前段の註釈に当るものです。



私たちは、哲学的に何をかを考えたくなるときがあります。

平凡な日常を無反省に送っていると、本当は生きづらくする方向に向かっているのに、その方向に突き進んでしまうということがあります。

本当は間違っていることを言っているのに、その人が社会的に権威があるとされていることから、その話を信じ込み、不幸をもたらすということも珍しくありません。

ですから、本当にそれでよいのかと、哲学的に考えてみることも悪くありません。

しかし、往々にして、現実の問題解決に役に立たないことをえんえんと考えて、時間を空費することも少なくない。



哲学的に考えると、どうも確かなのは自分の意志があることだけで、目の前に展開する世界は夢かも知れない、というようなことを考え始めたりもします。



私たちは、自分の意志がしっかりあって、それを私たち自身が造り出していると思っています。

しかし、自分の意志と思っているものですら、「気づいたらある」不確かなもので、なんでそんなものがあるのかは分かりません。



腹が減る、睡くなる、セックスしたくなる、文章を書きたくなる……あるとき、そのような意志が生じます。

しかし、私達は、それらの意志が、なぜ、生じるのかわかりません。

意志は、確かにあるとしか思えないのですが、私達は、意志の生じる現場に立ち会うことはできないのです。

意志はあるとき、わたしたちの脳みそに、ひょいとやってきて、私達の肉体を動かしている(ようにみえる)のです。



意志は、私達の意志とは関係なしにやってくる。

それは、映像、音声、臭い、味、硬軟が、私達の意志とは関係なしにやってくるのと同じです。



その意味では、意志は、私達の感覚器官を通して感じ取られる外界の事物、すなわち、「法」と変わりないものです。

だから、仏道では、六根といって、視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚の五感と、意志とを同列のものと扱うのです。



意志も、感覚と同列で、特別なものではない。

後段は、哲学的に考えると、「心」に向かい、現実から離れていく私達を現実に引き戻そうとするものです。



生きる場所は、変化する現実の中である。

生きるとは、外界の状況に合わせて変化していくことなのである。



随処に主となる底

世縁に随順する底

正念相続の底……



そんな意味の則だと捉えているのですが、さて。



公案の真意を語ることを許されるのは、伝法の師家のみ。

商量していただければと思います。 



1 表題

ばんざんさんがいむほう。

「本によっては簡略して『盤山無法』または『三界無法』として居ります。」(加藤131頁)



2 垂示

(1)訓読

「垂示に云く、掣電の機、徒に佇思するに労す。空に当って霹靂耳を掩うに諧(かな)い難し。脳門上に紅旗を播げ、耳背後(じはいご)に雙剣(そうけん)を諭す。若し是れ眼(まなこ)弁じ手親しきにあらずんば、争(いか)でか能く構得せん、有般底(うはんてい)は、低頭佇思し、意根下(いこんか)に卜度(ぼくたく)す、殊に知らず髑髏前(どくろぜん)に鬼(き)を見ること無数なるを。且く道え意根に落ちず、得失に拘わらず、忽ち簡(こ)の恁麽(いんも)に挙覚(こかく)する有らば、恁麽生(そもさん)か祗対せん。試に挙す看よ。」(宗演357頁)

(2)用語

ア 掣電

「電光を引くこと、時間の極めて短いこと」(加藤132頁)

イ 紅旗

「白旗の降参を表すに対して、大勝利の旗」(加藤132頁)

ウ 卜

「うらない」(加藤133頁)

エ 度(たく)

「はかる」(加藤133頁)

オ 有般

「有般は那般、這般と同意、一般の人を云う。」(菅原27頁)

カ 意根下

「思慮分別」(菅原28頁)

(3)訳

「活気敏捷な師家に出逢った時、(略)学人がマゴマゴして佇んで考え込んでいるようなことがあったら、(略)耳を掩ういとまもなく雷にうたれて即死することを免れないであろう。この時の宗師家の様子は(略)、最初から大勝利の赤旗を頭上高く掲げて、相手の学人の耳後へ二ふりの剣を推しあてたような気構えで、応接する(略)。こちらは、その機先を制して、その手を見破る眼を具えておらねばならず、更に、手親しく、間に髪を容れずに、斬り込んで進むようでなければ、どうして、お相手になれるものか」(加藤132頁)

「大抵の者が、師家の前に出ると頭を低く垂れて佇思してしまい、頭の中で、あゝだろうか、こうだろうかと玄旨を考えているようでは、自在な活処を見出すことは到底出来ない」(加藤133頁)

*玄旨=物事の奥深い内容。深遠な道理。

「師家は学人を殺そうと思わなくても、学人自らが、髑髏の死人になり、有りもしない無数の幽霊におびやかされている」(加藤133頁)

「意根下の卜度にも落ちず、是非得失をも超えて、師家の敏活な挙措を学人がすばやく覚って、敏活な師家と敏活な学人とが出逢ったとしたら、どういう応対をするか。それが会得出来ぬというならば、次の本則に就て実参工夫せよ」(加藤133頁)

*挙措=きょそ。立ち居振る舞い。

(4)説明

 ア 菅原時保

「「掣電之機、当空露靂、」此の二句、異文同意。――正師家、盤山禅師が学人を接する活手段」(菅原25頁)

「学人を目がけて真一文字に突進なさる其の勢い、猛虎のそれの如く、怒れる獅子のそれに似たり。――此の時に当(27頁)っては臨済の喝雷、徳山の棒雨も用うることを得ず。況んや普通一般の学人於てをや。(略)現今の正師家たる人、恁麽(いんも)の活手段ありや。恁麽の活方便ありや。何れも老婆、然らざれば野狐の部類。」(菅原26~27頁)

「大概の学人は正師家に一言半句を示さるゝと、腕を組み頭を傾け、七識八識の妄想分別を以て当てつ較べつするが、如何に当てつ較べつしても、玄の玄、妙の妙は、当てつ較べつすればするほど、種々様々の障碍が起り、円融無礙の境界に転々遠くなるのみ。(*1)――そのありさまを「殊不知髑髏前見鬼無数。」自己自身の妄想袋から、ありもせぬ幻想を無量無数に画き出し、而して驚いたり怒ったり、泣いたり悲しんだりして居る。(*2)――如是神経病者、到る処に多し。――然らば如何にして可ならん。他なし、「不落意根不抱得失、」思慮分別に亘らず、得失是非を一切抛外すべし。」(菅原28頁)

「「作恁麽祗対」祗対は、切りぬける。――サア――如何に挨拶する。如何に応対する。如何に身をかわす。仁に当って師に譲らず。法戦場中、遠慮は無用、サアサア如何に如何に。」(菅原29頁)(*3)



(*1)自作説明

妄想をせず、現実を生きる。

すなわち、自然に生きる。

自然に生きるとは、すなわち、「はからいをやめる」とは、「思考をやめる」ということか?

違う。

思考自体、自然現象だから。

しかも、生きる上では、思考が必要かつ有用。

生きる上での有用な思考こそが、「玄の玄、妙の妙」



思考と妄想はどう区別する?

現実を考える内に思考が妄想となる。

思考と妄想との区別は分明ではない。

したがって、それを敢えて明確に区別をしようとすると、それ自体が妄想となる。

「何が自然な思考か」と苦しみ、実際の活動ができなくなる。



妄想無くして区別をしていく。

無分別の分別。



「玄の玄、妙の妙」を得るためには、現実の問題解決のためだけに思考をすることは、思考をするだけではできない。

実際に現実を生きる。 

よい家庭を作り、よい仕事をする中で、現実的な思考、「玄の玄、妙の妙」ができる。



(*2)自作説明

重要なことは、ここで否定されるべきものとされるのは、「自身の妄想袋から」「画き出された」「ありもせぬ幻想」に基づく、驚き、怒り、悲しみ等の感情であり、妄想に基づくものではない感情には何ら問題がない。



(*3)自作説明

人間は、外部情報の入力=感覚に対し、これに応じた外部への出力=行動をする存在。

脳内で行われる思考は、入力から出力までのプロセスの一つにすぎない。



「諸悪莫作 衆善奉行」、外部情報の入力に対して適切な行動をすること。

それが即ち「自浄其意 是諸仏教」。

清い心とは、心の中の問題ではない。

外部情報に対してなすべき行動をすること。

仏道とは、なすべきことをなすこと。



人間は、脳を発達させた結果、外部環境との間の入力と出力とは関係なしに脳を活動させることができるようになった。

それはそれで有用な面があった。

有用でありすぎたから、いきすぎて、脳の活動が本体であると勘違いするようになり、外部情報によるものではない脳が自ら造り出した情報、すなわち、妄想により自分自身が苦しめられるようになった。

入力から出力までの1プロセスでしかない脳の機能が肥大化してしまい、却って、あれこれと迷い、入力に対し、出力が遅れ、ひどければ身動きがとれず、出力ができなくなってしまいがちになる。



師家の接得にどう対応する?

対応を考えるのが重要なのではない。

具体の対応を行動として示すこと。

そうすることで、脳の活動が外部環境との関係性を取り戻す。



しかし、多くの人はどうしても対応を考えてしまう。

公案が却って妄想を膨らませる。


 
イ 加藤咄堂

「われわれの日常生活に於ても、しばしば経験するところで、考えなしに猪突することは失敗の元でありますが、物事を考え過ぎて、成功の機会を取り逃すこおとがあります。機会を取り逃すだけなら、まだよいが、くだらぬ取越苦労をして、自分の心で、他を忖度して、ありもしない敵をつくったり、親切を仇にしたり、鬼を作り、化物を造り、自分で自分が悩まされているような人も少なくないと思います。」(加藤133頁)

ウ 釈宗演

「雙剣は殺人刀と、活人刀の両刀で師家は常に此両刀を有(も)って学者に接する。否な此両刀は、師家の占有ではなく、何人も此両刀を本来具有して居るけれど、使うことを知らねば、宝の持ち腐りぢゃ。」(宗演358頁)

「唯意識を以て分別し卜度(ぼくたく)して居るけれど、幾ら考えても、唯考えたばかりで、分るものでない。我が禅門に於ては、非思量底に思量すると云って、八識思量を用いずして思量する、所謂八識田に一刀を下して、真意を開拓するのであります。故に意識作用を起して、而かも意識に囚われない。諸仏菩薩に於ては、煩悩妄想も智慧徳相と為って働く、衆生迷妄の意識も、一刀を下して之れを裁断すれば、忽ち五智を得る、之れを転識成智と云う。然(さ)れば非思量底に思量せねばならぬ。」(宗演359頁)

(*)八識=眼識・耳識(にしき)・鼻識・舌識・身識・意識・末那識・阿頼耶識のこと。瑜伽行派唯識派に由来し、中国法相宗から日本に伝わる。

意識=「感情や意志までもそのなかに含んでいるものごとの善悪を判断したり,いわゆる認識作用や,泣いたり,わめいたりする感情などを含めての分別作用を意識というのである。」(鎌田茂雄『華厳の思想』110頁)

末那識=「自我意識といってもよい,エゴイズムの根源となる心(略)もっとも明らかなかたちであらわれるのは「自己愛」である。自分がかわいいという盲目的な意識」(鎌田茂雄『華厳の思想』110頁)

阿頼耶識(あらやしき)=蔵識とか,種子識(しゅうじしき)というような意味

・蔵識の面=「人類が発生して以来のすべての経験を蔵している(略)無始以来のあらゆる経験を貯えているのが阿頼耶識」(鎌田茂雄『華厳の思想』112~113頁)

・種子識の面=「一度やった行為,それは善悪にかかわらず,すべての行為は潜在意識としての阿頼耶識の中に貯えられ、(略)何らかの条件が満たされた場合,因縁が成熟したとき,ふたたび意識の領域にあらわれ(略),それぞれの一瞬一瞬のあいだに同時に繰り返されてゆく。人格形成とか,人間形成とかいわれるものは,かくして,瞬間瞬間につくられてゆく。」(鎌田茂雄『華厳の思想』114~115頁)



3 本則

(1)訓読

「挙す、盤山垂語して云く、三界無法、何れの処にか心を求めん。」(宗演360頁)

(2)用語

ア 界

「界は差別の義と間隔の意、自由を束縛するもの。」(菅原32頁)

イ 三界

三つ存在する「界」。

「詳細は倶舎論にありと云う。」(菅原32頁)

(ア)欲界=「これは淫欲と飲食欲の世界、この中には人間天人等を含む」(菅原32頁)

(イ)色界=「これは欲界を超越した梵天自在天等の色欲と貪欲をはなれたる有情の世界」(菅原32頁)

(ウ)無色界=「これは情欲、物質欲等を離脱したる霊の世界」(菅原32頁)

ウ 法

「法は名相にして差別の義。又法は物なりとも云う。」(菅原33頁)

(3)説明

ア 釈宗演

「欲其ものは、吾々の本能的のものや、生理的に生ずるものであって、敢て罪悪とすべきものでは無いが、此五欲を貪る為めに罪悪を造るのであります。」(宗演362頁)

「欲、色、無色の三界に分れては居るが、三界は迷界で、大悟の境界でない。今は三界を平たく世界とみて良い。此世界に一切万法森々羅々と現われて為るにも拘わらず、盤山は塵一本の姿もないと絶叫した。」(宗演362頁)

イ 菅原時保

「自由を束縛せらるゝ点に至っては三界共通であります。故に真箇の大自由、大自在を得んと欲する者は、生死を脱得し三界を出離せざるべからず。(臨済禅師は、三界を出離して何の処へ往く、と云うて居らる。此の語、仔細あり。)」(菅原33頁)

「元来法に自性(*1)なし。故に定まりたる名相あるなし。常に変化して止まらず。依って無法という。古人の偈に、無法の法も亦法なり、とある。時に随い(34頁)処に応じて、無法が法と顕ることもある。』されど物、物に非ず。法、法に非ず(*2)。――法、独り弘まらず。法は必ず人に依って弘まる。――要するに三界は無法、三界自ら三界とは云わず、三界の名相を立てゝ三界となす者は畢竟何ものぞ。――云うこと勿れ、心と。三界既になし、何処求心。――華厳経に、三界唯心、心外別法とある。(*3)(略)

諸君、華厳経の三界唯一心と、心外無別法、と、盤山禅師の三界無法、何処求心、と、是れ同か、――是れ別か。――と云うも当らず。同と云うも当らず。打つ人も打たるゝ人も諸共(35頁)に、如露亦如電、応作如是観(*4)。』――淀川の月はまんまるまん金丹、のぼせにもよし、くだしにもよし。』

心は由来不可得。――金剛経にも三世不可得とあり。二祖慧可大師は、心を求むるに不可得、と。(略) 真箇自己なき処に体達すれば、三界は実に吾有。その中の衆生は実に吾子なり。」(菅原33~35頁)

(*1)自性=じしょう。本質。「仏としての本質」という意味で使うこともある(石井清純『禅問答入門』51頁)。『中論』定義によれば, 自性とは,「作られたものでない,他に依存しない」という性質のこと(荻原欒「空観と慈悲」『東京国際大学論叢 商学部編 第75号2007年3月』122頁)。

本文の文脈に即していうと、「自性なし」とは、世界に存在する事物には、「作られたものではない」ものや、「他に依存しない」ものはないという意味。
すべての事物が他に依存している相互依存関係にある。

「〈空〉というものは無や断滅ではなくて、肯定と否定、有と無、常住と断滅というような二つのものの対立を離れたものである。したがって空とは、あらゆる事物の依存関係(relationlity)にほかならない」(中村元『龍樹』17頁)。

ですから、すべての事物が空にある。

仏としての本質とは、「空」、すなわち、相互依存関係にあることを意味する。

大乗仏教において、悟りとは、このような相互依存関係、不異不一の関係にあることを体認することを意味することになる。

このような体認が、他を支えようとする慈悲を基礎づけることになる。

そして、存在する以上は、他から支えられていると同時に、既に他を支えているという意味で、「衆生本来仏也」。

悟る前から仏であり、悟りとは、新たな発見ではなく、仏であると自覚することにすぎない。 

(*2)物も、法も、存在しようとする、永続しようとするものである。しかし、実際には、変化し、消滅するものなので、永続して存在するものではないという意味。

(*3)華厳経の十字品の中において、「第六現前地において悟られる」という「三界唯心偈(さんがいゆいしんげ)」のこと。「三界は唯心であるという『華厳経』の核心」であるとされる(鎌田茂雄『華厳の思想』63頁)。

(*4)いずれも金剛経。前段に二句がある。

一切有為法(いっさいのういのほう)

如夢幻泡影(むげんほうようのごとし)

如露亦如電(つゆのごとくかみなりのごとし)

応作如是観(まさにかくのごときかんをなすべし)



「此の本則に大内君が文字禅を弄しておる、(略)「サテ無限の空間中のありとあらゆる森羅万象を二つにわけて、心と云い法と云う。当今の言葉(36頁)では精神と物質の二つと云う。然るに其の心と法との関係に就いて、昔から心外無法とも万法唯識とも云うて、心識にばかり片寄った説を主張するのが仏教者の常である。ソコデやゝもすれば、仏心であるとか心印であるとか、頻(しき)りに心にばかり附きまわる病がある。盤山は今其の病を根本より療治してやろうと云うのである。――六祖大師も本来無一物と云われた通り、此の十法界中に法とか物とか云うべきものは無い。已に無法無界であるとしたならば、何処に心と云うべきものがある。常に法があると思うから、心の外に法がないとか又は法が直に心であるとか色々な妄想を逞しくするのであるが、抑々其の法の法(37頁)とすべきものが根本的に認められないとしたならば、それと相対して精神とか心識とか認むべきものゝ無いと云うことは当然ではないか。』と如何にもであります。――(略)

諸君、摸索付着とならんより盤山をして敗缺一番せしめよ。如何にせば可ならん。無法の二字に着目すべし。」(菅原35~37頁)

ウ 加藤咄堂

「宇宙そのものを仏教では、二に大別して、心(しん)と法とに分けて見て居ります。心とは精神で、法とは物質のことです。してみると『三界無法』ということは、宇宙間に物質即ち形のある物は一つもないということになります。ところが、この宇宙間には、日月星辰あり、山川草木あり、人畜家屋あり、机があり、黒板があり、話す講師がおり、聞く聴衆がある。これがどうして無法でしょうか、しかし、活眼を開いて見れば、この机にしても、机という自性はない、板と四本の足と、抽出しから出来ていて、板も机ではなく、足も机ではない、(略)机そのものというものは、板や木を寄せ集めて出来上っているもので、その板や木も、実は仮の名前で、物質はすべて分子から成り、その分子は原子の集りであり、(略)これは科学の話ですが、仏教では、これを因縁所生の法と申しております。森羅万象、ありとあらゆる諸法は皆これ因縁によって現われた仮和合(けわごう)の姿に外ならぬのです。これが所謂宇宙の真理であって、(略)故に一法として執着すべき何物も無いのです。

今、盤山が三界無法と垂語した当処には、原子もなければ、電子もない、因縁生だの、宇宙の真理だのといった屁理屈もない、たゞ是れ三界無法なのです。三世の諸仏の玄懐も釈尊一代の説法も、たゞこの一句に(138頁)説き尽くしております。」(加藤138~139頁)

「昔から仏教では、『三界は唯心の所現』であるとか、『心外に別法なし』などと申しますので、仏教者はやゝもすると、法は無いが、心(しん)は有るといったような精神論者になっている傾向があります。殊に仏心とか仏性とか心印というを授受にわたる特別な心でもあるように、それにつきまわる病弊に、知らず知らず罹っているのでありますから、盤山はその病根を切断的に療法をしてやろうという底意もあって、第二句に『何れの処にか心を求めん』といったのであります。已に法が法として認められず、物が物として成り立たぬとすれば、それに相依相関する心は求められぬは当然のことです。」加藤138頁)

*日月星辰=じつげつせいしん。「辰」は日、月、星の総称のことで、天体や空のこと



4 頌

(1)訓読

「三界無法、何れの処にか心を求めん。白雲を蓋(がい)と為し、流泉を琴(きん)と作(な)す。一曲両曲(いっきょくりょうきょく)人(人)の(364頁)会する無し、雨過ぎて夜塘(やとう)秋水(しゅうすい)深し。」(宗演363~364頁)

(2)用語

ア 塘=つつみ(宗演364頁)

(3)訳

「仰いで青山を望めば白雲が悠々と去来して、山の頭上を覆い、俯して渓流を臨めば、流水が潺々(せんせん)と音を立てゝ、恰(あたか)も琴の調べを聴くようであります。」(加藤160頁)

「ところが、この曲調はなかなか会得は出来ない」(加藤161頁)

「雨が降ったので池の水が多くなった」(加藤162頁)

(4)解釈

ア 菅原時保

「三界無法、何処求心、唯之是のみ。――是に対して毛髪たりとも思慮を動かさば三途地獄。――之に向って微塵だも分別を起さば万劫鬼窟裡。――之是の二句、心身脱落の良薬。」(菅原39頁)

「「白雲為蓋、」――雲有嶺頭閑不徹、――富士山に腰うち(40頁)かけて青空を、笠にかぶれど耳もかくれぬ。』――之是を無法の法と云うべき乎。

「流泉作琴、」――水流岩下太忙生、』――墨染を洗えば波も衣きて、水も浮世をいとうものかな。』――之是を無心の心と云うべき乎。――無法の法、――無心の心、――それが花ともなり月ともなり、雨とも風とも、亦は山とも川とも宇宙とも三界ともなる。」(菅原39~40頁)

(*)「雲は嶺頭に在って閑不徹(かんふてつ)、水は澗下(かんか)を流れて太忙生(たいぼうしょう)」(『雪竇語録』三) =高い山の頂きにポッカリとひとひらの雲が浮かんでいる。渓谷に眼をやるとさらさらと忙しそうに急流が音を立てて流れている――緩と急。

「三界無法底は頭々上に顕露、物々上に全真。然るに是を見て我がものにする人なく、是を聞いて我がものにする人なし。」(菅原41頁)

(*)眼前にまけだされている現実こそが真!

「「雨過夜塘秋水深。」――平常心是道。春になれば花が咲く。秋になれば月が苦(あ)える。飯を喫すれば腹が張る。風が吹けば涼しくなる。(略)
 解せても解せんでも、三界無法だ。――知っても知らんでも、迷っても悟っても、何処求心だ。」(菅原42頁)

イ 加藤咄堂

「当り前のことより外に仏法はない。雨が降ったのが原因で、池塘の水が増す結果が現われたまでのこと、すべてが是れ因縁生の真理ならざるはない、真理は決して遠い向こうの話ではなくて、日常の茶飯事にあるのです。」(加藤162頁)



5 文献略語

加藤:加藤咄堂『碧巌録大講座第六巻』

宗演:釈宗演「講述碧巌録前篇」『釈宗演全集第3巻』

菅原:菅原時保『碧巌録講演其十六』
 
なお、引用文中の言葉については、可能な限り、現代仮名遣いに改めております。





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