坐禅普及

主旨は慈悲。行は坐禅。

利他は個人の自由意志に基づかなくてはならない。

「仏教は慈悲を以て主旨とする」(釈宗演『一字不説』2頁)



 仏教と呼ばれる宗派には色々あるけれど、その共通する本質は、慈悲、すなわち、利他であるとつくづく思う。



大慈悲を有(も)ってあれば、誰れでも(略)、立派な佛であります。(略)慈悲心のある所は、佛のある所、慈悲心と、佛と意味は共通しています。(略)
『佛心とは大慈悲心是れなり。』というところへ来ては、悟りといい、理屈というようなものは入要(いりよう)ありませぬ。」(釈宗演「禅学大衆講話」『釈宗演全集第一巻』217~218頁)

「自然に同情の心が起る。此心が即ち慈悲であります。(略)種々(いろいろ)の宗教があると雖も、(略)真理は古も今も変って居ない。(略)仏教で言えば、佛心とは大慈悲是れなりで、(略)基督教で言っても、同じこと、愛と言い、loveと云い、(略)皆是れであります。」(前掲書322~323頁)



 禅の修行、特に、坐禅(就中、只管打坐)は、心に余裕を作り出して、このような慈悲の実践=利他行為を可能にするよくできたエクササイズだと思う。

 少し残念なのは、坐禅公案参禅等の禅の修行をしている人たちには、自己の精神的向上(満足)に力が入りすぎ、日常の利他行為を等閑視している人が多いこと。

 自己の精神的向上を図る目的は何かということを工夫すれば、自明のことなのではないかと思うけれども……。
 
 十牛図的な禅修行の階梯が意識されることによる不利益であると思う。



公案禅は開悟という点で顕著な効果を収めたため大いに流行した。殊に大慧宗杲は、この方法を用いて士大夫を含む多くの弟子を養成し、社会全体に大きな影響を及ぼしたため、一般に『公案禅の大成者』と呼ばれている。しかし、公案禅の成立が、結果として禅に平板化をもたらし、その魅力の逓減を来たしたことは否定できないように思われる。
(略)
公案禅の流行は、やがて『無門関』に見るように公案集の内容をも変質させるに至った。そこでは、従来、かなりの比重をもっていた文学的趣味的性格が後退し、公案による悟りの獲得に絶対的な価値が置かれ、それを得るための修行の強調や、修行者への教誨、激励がその主要な内奥となっているのである。
 これは、いわば、悟りのマニュアル化であるが、こうした傾向は同時期に次々と現われた『牧牛図』にも窺うことができ、この時代の禅思想を特徴づけるものと言える。(略)
 このような著作が、叢林を覆いつつあった管理体制を心の中にまで導入し、強化したという側面も無視できない。」
(伊吹敦『禅の歴史』121~123頁)



 利他行為などというと大仰だけれど、短者は短法身でできることから少しずつすればよいと思う。



 コンビニエンスストアで買い物をする際、店員さんに商品を渡すときに「お願いします」と言い、商品を受け取るときに「お世話様でした」と言う。
 
 朝、早起きして、近所の道を箒で掃き、人が来たら、「おやようございます」とあいさつする。

 通勤する時に、コンビニ袋を手に持って、通り道のゴミ拾いをする。



 ちょっとした工夫でできることはある。

 少しずつでよいから繰り返して、やることを拡げていくと、見える世界が確実に変わります。
 
 最近、目にした「一燈園」の創始者で、ウイキペディアによれば、南禅寺の豊田毒潭、河野霧海、建仁寺の竹田黙雷に参禅したという西田天香の著書の次の言葉は我が意を得たりという感じがします。



「諸所で『一燈園生活の要領を言え』とのお尋ねに接しますが、これは比喩を以てお答えする外はないと存ぜられます。私は次のような例を引いてお答えしております。
『重荷を負うた人の為めに其の荷を分けて担うて上げた時の端的な実感と、過去もなく未来もなく刹那々々を全人的に生き切った気持!』」

西田天香『托鉢行願』7頁)

 
 
 「其の荷を分けて担うて上げた時の端的な実感」!

 自利利他の端的、修証一如の端的が、わかりやすく利他行にはあります。

 生死に関する釈宗演老師の次の言葉にも、同じ端的が示されていると思います。



「死の覚悟と言う外に別に覚悟はない(略)其日々々感謝の念に住して愉快に送っていくのが、それが衲の安心(あんしん)である。(略)只息を引取る時迄各々其日々々の務をして、スーと息を引取ったらそれで早や本望である。大悟徹底も即ちそれである」(釈宗演『快人快馬』181~183頁)

「今日々々を積み重ねて往くのが人間の一生(略)。筆持つ人ならば、筆を持った儘瞑目してそれで可い。(略)算盤弾く人ならば、算盤弾きながら、息を引き取っても、それが本願であろうと思う。ところが切めて死ぬ時ばかりは、坐禅でも組んだまま(略)、立派な死ざまをして、息を引き取ってみたいというような考えでいる者もあります。(略)どちらかと言えば迂闊な考えと言わなければならぬ。人間というものは、自己の職分と共に斃れたら、それで立派なものである。(略)朝から晩まで、孜々矻々(こつこつ)として奮闘努力し、向上して止まぬ精神を有(も)っているならば、(略)病気に取り付かれ、七転八倒逆立ちに為って死んだとて別に何の残り惜しいこともない訳であります」(釈宗演「禅学大衆講話」『釈宗演全集第一巻』422~423頁)
 
 

 「其日々々の務」の更に詳細な説明が「向上して止まぬ精神」を持ちながら、「朝から晩まで、孜々矻々(こつこつ)として奮闘努力」することなのでしょう。

 そして、それが「大悟徹底」、すなわち、禅修行の目的であり、そうすれば、「自己の職分と共に斃れ」ても満足ということなのかなと思っています。



 私は、このような人生観が好きです。

 同時に、このような捉え方が組織の論理に持ち込まれることに対しては慎重にならなければならないと思います。

 このような論理が会社等の組織に持ち込まれると、最近問題になっている「ブラック企業」等に見られるような「やりがい搾取」、「労働搾取」を肯定しかねないからです。

 

 利他行為/慈悲の実践をするといっても、私たちは、それぞれの体をベースにして、この世界に作用を及ぼさざるを得ないのですから、まずもってこの体の健康というものが大切であり、慈悲の宗旨から言っても、ブラック企業や「やりがい搾取」の類が肯定されてよいわけではありません。

 釈宗演老師も



「我々は先ず体中の小さな蟲一匹として、即ち社会の一員として此健康を保ち、そうして常に怠らずして努めて以て病気に打勝ち、常に健康にならなければならぬ。健康になったならば、更に一層勇気を鼓して働こうというのが、それが一種の宗教的信仰であろうと思う。」

(釈宗演『快人快馬』185~186頁)

「昔の人が『能く働き、能く休む』といっているが、此言葉は大いに味わうべきことであると思う。休むというても、不道徳の遊びをするのではありませぬ。大事業のみではない、何事をやろうとする能く働き、そして能く休まねばならぬ。」

(釈宗演「禅学大衆講話」『釈宗演全集第一巻』57頁)


 
と仰るところです。

 しかし、このような考え方は等閑視されやすいと感じています。
 
 特に、利他行為を推奨しようとする宗教団体の内部では起こりがちであると思います。



 宗教活動が組織的に行われるようになると、そこに「やりがい搾取」が生じがちであることからすると、宗教活動の「肝」であるところの利他行為は、純粋に個人の自由意志で行われなければいけないと強く感じます。

 宗教活動の「肝」が利他行為であることからすると、そもそも宗教団体の存在価値をどう考えるのか、という感じもします。

 情報の流通が停滞しがちだった過去の時代はさておき、情報の流通が迅速な現代社会においては、利他行為の重要性を伝えること、そこかしこに利他行為に邁進している人がいることを伝える上で、宗教団体というものの必要性は乏しいのかなと思います。

 利他行為には、特別な施設はいりません。

 また、余程特殊な行をするのでなければ、そのための特別な施設もいらないでしょう。

 

 衆生本来仏也。



 何もやらなくても、特別なものが何もなくても仏なのですから。



 ……とはいえ、仏教的なサンガの存在価値が全くないわけではないとも思われるので、その点については、また別稿で触れたいと思います。



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