脳科学論から見た「煩悩即菩提」
「美容に興味のある女性であれば、ボトックスをご存知でしょう。肌の老化を防ぐとされる魔法の物質です。
実際には、ボトックスは食中毒の原因として知られるボツリヌス菌の毒素です。この食中毒は、症状が軽微な場合は四肢の麻痺ですみますが、ひどい場合は呼吸ができず死に至ります。つまり、ボトックスは筋肉を弛緩させる作用があるのです。
この毒素を顔に注射すると、顔面筋の動きが鈍りです。だからシワができにくくなります。これが老化予防の原理です。表情が乏しくなるという欠点はありますが、美貌の劣化を恐れる富裕層や芸能界を中心に広く用いられています。
そんなボトックスの効果に関して、南カリフォルニア大学のニール博士が、興味深いデータを報告しました。ボトックスを使用すると、相手の感情を読みにくくなるというのです。
(池谷裕二『脳には妙なクセがある』136~137頁)
池谷先生の本の話の中に出ていた内容でこのことも参考になりました。
この部分の話は、その後に出て来る、「感情」があって「行動」が出るのではなく、「行動」があって、それに合わせた「感情」が現れるという話ともリンクしているのではないかと思うのですが、私たちが、他の人に同情をするためには、自分自身にきちんと感情がなければいけないということでしょう。
ここが上座仏教と、大乗仏教(その一つである禅仏教)との大きな相違でしょう。
上座仏教は、人間の心の問題は感情(煩悩)にあると見て取り、その断滅を目指すものです。
しかし、大乗仏教は、感情(煩悩)を大切にする。
上座仏教は、心の問題を独力で何とかしようとする。
そのために、瞑想に多大な時間を使う、非人間的な生活を送る。
しかし、大乗仏教は、心の問題の原因が私たちの人間関係の問題、社会の問題であると見てとり、端的に人間関係をよくすることを目指す。
互いに支え合うことによって、互いの心のケアを目指す。
ちなみに、このようなお互いが支え合う人間のあり方というのは、ごく普通の人間のあり方です。
大乗仏教の日常性や在家性は、このような心の問題の解決方法という方法論上の本質からして当然でしょう。
互いに支え合うためには、ほかの人に対する思いやりが必要です。
ほかの人を思いやるためには、ほかの人の感情をわかる必要があります。
どんなときに悲しいと思うのか、どんなときに楽しいと思うのか。
けれども、私たちのそれぞれの心は別物であり、どうしてほかの人の気持がわかるのか。
私たちは、自分の気持を相手の気持ちにトレースしてみることによってこれを実現します。
以前にも引用したのですが、そのことを端的に示すのが、次の阿川佐和子先生の言葉です。
「どうやって相手の気持を推し測ればいいのか、具体的に何を取っかかりにして相手の心の中を探ればいいのか、戸惑うことはしょっちゅうあります。だってこの人は、私じゃないし、ってね。
もちろん『私』ではないのですが、それでも『私』を一つの基準に設定することは無駄ではありません。『私なら、そんなとき、どう思うだろう』『私だったら、泣いちゃうぞ』。
自分と同じであることを『正しい』とか『当然だ』と過度に思い込まないようにさえすれば、目の前の人が、『私』とどう違うのか、どのくらい近いのか遠いのか、そのスケールをもとに質問を広げていくことは、有効な手立ての一つとなり得ます。」
(阿川佐和子『聞く力』76~77頁)
相手を思いやるためには、相手の感情がわからなくてはならず、相手の感情が分るためには、自分自身がしっかりした喜怒哀楽の感情がなくてはならない。
力量のある禅匠は、感情の大切さを語ります。
「悟りというものは、吾々をして血も涙もない石地蔵や、古木寒巌のようにするものではありませぬ。禅宗の大悟徹底は、(略)どんな悲しい場合にも、決して悲哀を感じないし、どんなに楽しい場合でも、決して楽しく感じない、恰も石地蔵のようなものだと考えている人が、世間に往々あるが、これは本当の悟りを知らぬ人で、全く誤解であります。」
(釈宗演「禅学大衆講話」『釈宗演全集第一巻』4頁)
とはいえ、感情のままに生きるのでは、却って周りの人を不幸にしてしまいます。
「御互いに其感情の発動するままに放任せば実に危険千万である。故に其感情を或理想に移し向けて有用に働かしむることに力(つと)めねばならぬ。茲が即ち教育の力を持つ所以である。」
(釈宗演『一字不説』3頁)
重要なことは、感情を否定することではなく、きちんと、その感情を制御することです。
「迷と悟とは別のものではない。迷えるものには七情となり、悟れるものにはそれは大智とも光明ともなる。これをたとえてみれば渋柿を湯につけて置くと甘くなるのは、渋があるからこそ甘くなるのであって、渋いからとて捨てる訳のものではない。歌に
渋柿の渋みの外に甘乾の
甘味の種は外なかりけり
とある通り、悟れる者には従来厭うべき七情も、遂には愛すべきものとなるのである。(略)
故に真に禅によって悟入したものは、決して死灰のようなものではなく、血あり涙あって人類に臨むようになるのである。世には遠く俗塵を避けて山に入り、独り自ら高こうするものがあるが、それらは禅の本旨を得たものとはいわれない。禅はどこまでも血あり涙あって、俗世間のものを救うという大慈悲心のあるものでなければならぬ。世間と離れし禅を求めんとするは大なる相違である。」
(釈宗演『最後の一喝』62~63頁)
渋みを甘味にかえるのが感情の制御ということでしょう。
他の人を救うための菩薩の行為をするためには、相手に対する思いやりの感情が大切であり、そのためには、自分自身にも喜怒哀楽の感情が必要であるということが煩悩即菩提の端的。
そのことは、脳科学論からもきちんと基礎づけられるといえそうです。
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