坐禅普及

主旨は慈悲。行は坐禅。

【資料】碧巌録第三十九則『雲門花薬欄』

*多くの公案と同様、「衆生本来仏也」を示すものですが、「途中にあって家舎を離れず」の理解に関する点が興味深いものです。 

1 表題
 「雲門花薬欄」(宗演376頁、菅原1頁、井上400頁)
 「雲門金毛獅子」(加藤245頁)

2 垂示
(1)訓読
「垂示に云く、途中受用底は、虎の山に靠(よ)るに似たり。世諦流布底は、猿の檻に在るが如し。仏性の義を知らんと欲せば、(まさ)に時節因縁を観ずべし。百錬の精金を煆(きた)えんと欲せば、須(すべか)らく是れ作家の爐鞴(ろはい)なるべし。且(しばら)く道え大用現前底(たいようげんぜんてい)、将に什麽(なん)としてか試験せん。」(宗演376頁)
*鞴=ふいご
(2)補足
「須らく是れ作家の爐鞴なるべし」がオーソドックスな訓読であるが、井上401頁は「須是作家爐鞴と云う句は(略)全句を「これ作家の爐鞴を須(もち)いよ」と読むのが、正訓である様に思われる」とする。
(3)用語
ア 流布
「自己を忘ぜずして事に当るを云う。自己を忘ぜざるがために、一切時、一切事に対して煩悩が流れ、妄想が起る。――為に融和を缺き、――自由を失す、――反目又は孤独、――心身共に憂鬱。」(菅原4頁)
イ 時節因縁
「これは、時節と因縁の二ではなく、時節と因と縁との三である。時節は、好時期。因は、原因。縁は、好援助である」(井上400頁)
ウ 百錬精金 
「本来は、百回も鍛錬を重ねた純金の意であるが、茲では、真悟に喩えたものである。」(井上400頁)
エ 作家
「禅語としては、「老熟せる禅機の所有者」の意」(井上401頁)
オ 爐鞴
「爐鞴はタゝラのことで、フイゴでもあります。」(宗演378頁)
「禅語としては、禅の専門道場とか、僧堂とかの意。」(井上401頁)
「禅家では師家に参ずることを、その『爐鞴に入る』と申しております」(加藤248頁)
オ 大用現前底
「途(10頁)中受用底」(菅原9頁)
カ 試験
「確認とか認得とかの意」(井上401頁)
(4)訳
「圜悟が、垂示して云うのに、途中受用底の人は、丁度、虎が山を背後にして、構えて居る様なもので、その威力、活動は、実に目ざましいものであるが、世諦流布底の人は、檻の中に入(401頁)れられて居る猿のようなもので、真の自由もなければ、真の活気もない。大乗仏教の教理は、一切衆生悉有仏性の根本義の上に立って居ると申して差支ないが、さテ、その仏性の何たるかを知るには、時節因縁と云うものがあるから、その時節因縁をよく考えて居て時節の到来した時、よい因縁のある時に、その仏教の根本義を悟得することを心がけて居なければならぬ。無暗にいくらあせっても、だめである。百錬の精金を煆えるには、どうしても、熟練した鍛冶屋の爐鞴のたすけをかりねばならぬようなものである。が、百錬の精金にも比すべき真の悟境に達するには、どうしても、作家の爐鞴に入って、その鍛錬・薫陶を受けなければならぬのである。さァ、大用は現前して、真理も仏性も吾人の眼前に充満して居るが、何によって、この真理・仏性を認得したものであろうか。」(井上400頁)
(5)解釈
ア 釈宗演
「途中受用と世諦流布とは、(略)其意は大いに異って居ります。途中という語は、家舎(けしゃ)と云う語と対するので、而(し)かも不一不異の関係に立つべきであります。」
「家舎とは我が禅門の語を以て言はば、本分の正位(しょうい)じゃ、(377頁)即ち平等の一味を云う。此家舎の反対は途中で、所謂差別の方面であります。家舎と途中、平等と差別、永く隔歴して居る間は、真実活溌々地の活動は能(で)きませぬ。吾が正位を守らず差別界に出(い)で、自由自在の活動を作(な)すのが途中受用で、之れを家舎を離れずして途中に在り、途中を離れずして家舎に在りと云うのぢゃ。上は菩提を求め、下は衆生を化すると云う仏菩薩の働きも之れぢゃ。(略)毎(いつ)も坐ってばかり居たのでは、石地蔵と何んぞ選ばんやであります。尤も石地蔵と云っても、其本地は活地蔵であるから、途中受用七花八裂であります。」(宗演376頁)
*七花八裂=しちかはちれつ。(花びらが中心から分裂しているように)ばらばらにちぎれること。
「仏性の義は法華涅槃に説(378頁)く所で、吾々各自に具有する所の徳であります。啻(た)だ其隠れたるとは顕われたるとに依って、爰(ここ)に迷悟梵聖(めいごぼんしょう)の別があります。」(宗演377頁)
 イ 菅原時保
臨済の(略)途中にあって家舎を離れずと云うことを、秋野師は極めて平易に左の如く云うて居らるる。諸君が会社に通うておっても家の事を忘れず又家に居っても会社に通うている事を忘れぬようなものだ」(菅原3頁)
「自由を欲し解脱を望む人は、須く見性すべし。見性とは仏性を徹見することなり。仏性を徹見するとは自己を忘ずること。自己を忘じて事に当れば、歩々是清風、随処に主(略)
「時節因縁」此の時節は春夏秋冬の如く一定不変の時節に非ず。人々修行の力如何により其の時節一ならず。甲の人の悟りたる時節は甲の人の時節。――乙の人の悟りたる時節は乙の人の時節」(菅原6頁)
「彼の毬栗を見よ。時期が来れば自然に弾けて中から美味い実が飛出す。敢えて坐禅に限らず。すべての成功の的を射落すには急がず騒がず根機をつづけるのが第一義である。」(菅原8頁)
 ウ 加藤咄堂
「この垂示は、道を得た者と、未だ道を得ざる者との得失を挙げ、学人をして道を悟る方法を示したのですが、既に得道して大用を現わし来る作家の漢は、どう扱ったものかと、本則の雲門と僧との公案に参ずる(246頁)予備知識を与えたのであります。
『途中受用底』とは、道を得た人を指しているので、第八則の垂示に『會すれば則ち途中受用、會せざれば則ち世間流布』とあったのと同じ意味です。(略)が簡単に説明すると、途中とは家舎を離れた道中で、何処に居てもということ、受用とは自ら接する事々物々を意の如く自由自在に用いて行くこと。これは會得の出来た者、即ち悟りの開けた人の大用(はたらき)で、その自由な様子を『虎の山に靠(よ)るに似たり』といったのであります。
 勿論これは師家分上の人、並に作家の漢の境界を申したのでありますが、世間でいえば、家庭を離れて役所とか会社へ勤め、或は遠く旅に出ても、両親や妻子のことを忘れず、又、家庭にいても勤先の仕事を忘れないような人であれば、どこにいても間違いがないから、家族の信頼はいうまでもなく、勤先の信用も篤く本人も家族を信じ、自己の職務の為めに、思う存分の働きが出来るというわけです。この家庭を離れても家庭を忘れないということが、最も大切なところで、ここで家庭といったのは、即ち本分の家郷へ喩え、いつでもどこでも、帰家穏坐の大安心を得ていることを申したので、別な言葉でいえば、体中の用であり、動中の静を意味しております。『菜根譚』に
 静中の静は、真静に非ず。動処に静にし得来って、纔(わずか)に是れ性天(しょうてん)の真境なり。楽処の楽は、真楽に非ず。苦中に楽しみ得来って、纔に心体の真機を見る。
という句がありますが、静かな坐禅の当処を離れずして、千変万化の動処に応ずる時に、一切の束縛に煩わされずに、自由自在の妙用を現すことが出来るのであります。(247頁)
 次に世間流布底というのは、世事に束縛されて、静中に苦しみ、動中に迷うてしまう人のことで、一方に偏するから本当の働きが出来ない、これは世諦とて、真実仏法の道理に背いた世俗の義理、人情に引かれて、相手の事々物々に使われ、少しも自己の信念とか見識とかいうものがないから、事に処して自由の分がない、その不自由な様子を『猿の檻に在るが如し』といったのであります。」(加藤245頁)

3 本則
(1)訓読
「挙す僧雲門に問う、如何なるか是れ清浄法身。門云く、花薬欄。僧云く、便ち恁麽にし(宗演377頁)て去る時如何。門云く、金毛の獅子。」(宗演378頁)
(2)用語
 ア 清浄法身
「人格化された毘盧遮那仏というよりも、寧ろ其理体なる法身(略)を指したものと見るべきであろう。」(井上403頁)
「「清浄法身」だなどというと、すぐにその「清浄」という語に執われて、“汚ない”ものに対する“きれいな”という意味に解してしまう。しかし、仏教でいう「清浄」はそういう意ではなく「空」の境地を示す語である。“真空無相の法身”すなわち(略)「廓然無聖」という“実在の真相”は如何という問いである。」(秋月38頁)
*「「廓然無聖」とは「カラッと晴れ渡った空のように一点の曇りもない」という意味です。つまり「何もない」ということ。」(有馬賴底『「臨済録」を読む』153頁)
イ 花薬欄
「「花薬欄」の語を、わが国では古来“便所の袖垣”などと解してきたが、正しくは庭の正面の“柵で囲った芍薬の植えこみ”のことであると今日の語学者は言う。」(秋月38頁)
 ウ 恁麽去
 「そのまゝにしておくこと」(井上403頁)
 エ 便恁麽去如何
 「清浄法身は、これ花薬欄なりと合点しておいて、それでよいですか」(井上403頁)
(3)訳
「ある日、一人の僧が、雲門和尚のところに来て、「清浄法身とは如何なるものでありますか。」と尋ねた。すると、雲門は「花薬欄」と答えた(略)これを聞いた僧は、「なるほど。それなら清浄法身は花薬欄であると合点して居りさえすれば、それでよいので御座いますか。」と根問いしたので、雲門は、(略)「花薬欄で足らないなら、金毛の獅子も清浄法身の表現と思って居れよ。」と答えた。」(井上404頁)
*根問い=ねどい。根本まで問いただすこと。どこまでも問いただすこと。
(4)解釈
 ア 釈宗演
法身(ほっしん)とは、仏三身中の一で仏教中に於ては、法身、報身、応身の三身を立てて、仏教の身上中主なるものとしてあります。即ち一仏身を体相用の三方面より説いたのが三身でありますが、(略)この三身は三即一、一即三の三身であって、外処のものではありませぬ。」(宗演379頁)
「法を以て身となす、実に簡単明瞭で、能(よ)く要領を得て居ります。仏法では法と云う(380頁)ことを物と云う位の意味に取って居るので、吾々の五尺の体躯(からだ)も、仮りに四大五蘊より成り立って居るのであるから、仮和合とも云い、又仮我(けが)とも云うのであります。若し夫(そ)れ法身の真理を我が物とし得れば、宇宙の一切萬法(ばんぽう)を以て、我が身とし、縦横自在の活動を為し、仮我は転じて大我と為るのであります。」(宗演379頁)
法身には浄だの穢だのと云う事はありませぬ。然るに能(わざ)と清浄と云うのには、腹黒い所があって言う。(略)花薬欄はマセ垣のことで、不浄隠し即ち便所隠しの袖垣のことであります。之れだけでは分らぬ、但だ反対を挙げたと皮相ばかりを見てはならぬ。これが所謂大用現前底(たいようげんぜんてい)ぢゃ、世諦流布底の徒には分らぬ。之れと同じ事があります。僧あり玄沙和尚に問う、
『如何なるか是れ清浄法身。』
 和尚曰く
『膿滴々地』
と、(略)和尚時に瘡を病み、全身腐膿流れて居たので、即今(そくこん)膿を以て答えて居るが、言句の上で解決を附けようとしても徒労だ。(略)如何なるか清浄法身(383頁)曰く糞袋糞袋法身の光明赫々(かくかく)たる時如何、曰く金毛の獅子、カツタイ犬如何にも立派なものぢゃ。」(宗演382頁)
イ 菅原時保
「釈迦仏の如きは応身仏。阿弥陀如来の如きは報身仏。(略)法身の総名は摩訶毘盧遮那如来、漢訳して偏一切処とも大日とも云う。――抑抑法身仏の姿は一面から云えば有相。時間的には無始無終、空間的には無量無辺。而して能く大、能く広、能く長。有相即無相。――時あり有相を現じ、時あり無相を示す。」(菅原11頁)
法身由来清浄。清浄とは、空、無礙、無作の義あり。云い換えれば天真爛漫、現成そのまま。――真箇の清浄法身は畢竟何の処にある。人々具足、箇々円成。――大悟して知るべし。言端語端の顕し得る処にあらず。――」(菅原12頁)
「此の僧、清浄法身の所有者でありながら、自己の清浄法身を知らずして他に向って清浄法身を問うとは、念の入った愚者に非ざれば抜群の劣者である。」(菅原12頁)
「昭和今日、念入りの愚者、抜群の劣者極めて多し。衲(のう)が如きは其の一人である。――されど「問僧は雲門の宗旨を呑込んでおりながら雲門を験せんとする機峰が手渋い。殊更に法身の飢えに(13頁)清浄の二字を冠らせたは此の僧の鉄腕だ。」と或人は云う。果して然るや。従来法身は不生不滅、不垢不浄不滅。」(菅原12頁)
「雲門禅師は曾て睦州禅師に門を閉され、為に脚を打った瞬間に法身の妙処を手に入れた。(略)之是の花薬欄、折脚当時、ア、痛ッと言われた、それと同一不二。「天に倚る長剣、中に風露の香ばしきあり。」(略)――花あり月あり楼台あり。」(菅原13頁)
*楼台=ろうだい。古くは「ろうたい」。 たかどのと、うてな。屋根のあるうてな。また、高い建物。古代中国では本来,楼は2階建て以上の建物を指す。
「衲は云う、「恁麽去時如何と云う、それだけ擬義して居る。」――門云「金毛獅子。」秋野師は、「問僧に対して雲門禅師が金毛の獅子と賞讃された。」と。――果して問僧は金毛の獅子か。――「之是の金毛の獅子はこの僧を肯う肯わざるに関したことでない。唯是金毛の獅子、と――清浄法身を再び投げ出して見せた。」と飯田禅師は言う。――如何にも飯田師は獅子飜身の術を得て居る。――問僧の如きは蓋し獅子皮を被たる野干(やかん)である。(略)――衲は其の尤なるもの。」(菅原15頁)
「金毛の獅子、金で造った獅子。外面から見ると、頭は頭、尾は尾、手は手、足は足、毛は毛、総て一様ならず。然れども内面から見れば、総てが金そのもので出来て居る。――それと同じく千差万別の点から見れば宇宙は一様ならず。一元素の点から見れば宇宙は一元素。花薬欄即金毛の獅子。金毛の獅子即花薬欄。それらの総てが(17頁)即清浄法身、――清浄法身が即万象森羅。――万法帰一、一即万法。――」(菅原16頁)
ウ 加藤咄堂
如来であるとか、仏であるとか聞くと、恰(あたか)もキリスト教のゴッドのような或る偉大なる一神を想像して、大日如来はどこに居られるのか、毘盧遮那仏のお浄土はどちらだあろうかと、その姿や形に執われてしまうのですが、この法身仏は『清浄』とて、姿や形がない、即ち無相の仏なのであります。(略)無相となると、全宇宙大の絶対なもので、何物とも比較することが出来ない、ここに到っては名前をつけることも、(250頁)眼に見えることも出来ないで、清浄法身ということすら、実は間違っているのですが、それでは話すことも、教えることも出来ないので、仮に名づけて、清浄法身といい、或は光明遍照十方世界といい、一天四海皆帰妙法といい、尽十方世界一顆妙珠と、宗旨に依って、いろいろな符牒をつけて商量をやっているまでのことです。それではわれわれとは何の交渉もないかといえば、大いにある。前に申したように徧一切処なのでありますから、眼に見えるもの、手に触れるもの、すべてが清浄法身でないものは一つもない。」(加藤249頁)
「雲門の答処(たっしょ)から案ずると、僧が訪ねて来た時に、禅師は庭の花壇の牡丹でも眺めておられたものと想像されます。僧が(251頁)『如何なるか是れ清浄法身』と突然質問を発したので、雲門も即座に『どうぢゃ、この通り綺麗な花薬欄だ。見たか』といわれたのであります。(略)
 それを花薬欄がどうの、法身がどうのと説明に落ちてしまったのでは、禅機を失ってしまう」(加藤250頁)
「雲門禅師が花壇の牡丹を眺めていたから花薬欄と答えたまでのことで、もし折悪しく雪隠で用を足していたとしたら、(略)乾屎橛(かんしけつ)即ちクソカキベラと答えられたかも知れませぬ。清浄とか花だとかいうと、法身は綺麗に見えるものとばかり思うが、綺麗なものだ穢いものだということは人間の分別であって、すべてものの本性は皆な清浄であり、純真である。純真清浄とは、因縁所生の換え言葉で、取りも直さず法身仏の本性本体なのであります。」(加藤251頁)
「ここに金製の獅子があるとすると、この金は本体で、獅子は因縁によって生起した現相でありますから、金と見るか、獅子とみるかによって、金と獅子は同じでない、地金屋と美術家とでは、この獅子に対する観察が異なって来る。しかし、金を離れて此の獅子はなく、此の獅子を離れて此の金はなく、細かくいえば、獅子の髪の毛、眉毛、目玉、鼻、耳、口、足、尾などが、それぞれ金という観念を離れて、各々独立して立派に存在しておりますが、皆な等しく金であって、更に金という上からいえば、目即耳、耳即鼻、鼻即口と、相即して自在に円融して、差障りがない、所謂事々無礙ですから、一毛を挙ぐれば、他の目鼻等は皆なこお中に収まって来る道理もあります。しかも、獅子と見れば獅子のみ顕われて金は隠れ、(離金)金を見れば、金のみ顕われて獅子は隠れてしまう(体金)といったように、一箇の金獅子で宇宙の状態をあらゆる確度から観察して、微に入り細を尽して説明したものです。」(加藤254頁)
「雲門禅師が、僧に『清浄法身』を問われて、『花薬欄』といい、更に『金毛の獅子』と答えられた裏には、チャンと華厳の哲理、深遠なる仏教の教理が裏づけられているのであります。ただし、禅者は教相学者と違って、理論の答弁をしているのではなく、学人の迷執妄想を一機一境の上で禅機をもって即座に打破して、これを開悟せしむるにあるのですから、理屈はない、恰(あたか)も、医学博士と臨床医との場合に似たものがあります。しかし、医学を離れた診察療法はなく、診察療法を度外視した医学が成り立たぬように、禅と教とは異にして異に非ざる関係にあることはいうまでもないことです。若し、禅者が教外別伝に執われて、経文を離れ、教相を全く度外視したとすれば、それこそ『禅天魔』どころか、気狂沙汰になってしまいます。」(加藤255頁)
 エ 秋月龍珉
「雲門はすらりと、目前の「庭の正面に植え込まれた満開の芍薬」をもって答えた。「真空無相」(「無相」が「清浄」の意)を問われて、「真空妙有」(凡夫の思議を絶した存在=真如)をもって答えたのである。
 わが国の禅者は、これを清浄な法身を問うたのに対して、汚ない便所の袖垣で答えたのは、問者が「浄穢相対」の境地から問うたので、答者の雲門は、「浄穢不二」の世界で答えたのだと解した。」(秋月39頁)
「雲門が「金毛の獅子」だと答えたのは、どう解したかというと、これも言葉こそ金ピカピカで見事だが、雲門の真意は、「清浄法身」など「汚ない汚ない」という心で、「お前いつまで金ピカの仏さんをかかえこんでいるのだ、不浄の世間の中でこそ真の法身は生きるのだぞ」というのである。
「金毛の獅子」などと言われると、「法身」をまた光り輝いている清浄なもののように見えてしまう。この僧は、「法身仏」を特別なものと考えている。ほかならぬこの「不浄の肉身」こそ本来の「清浄の法身」だったのだ、という悟りの喜びがまだほんとうに体得できていない、と解したのである。」(秋月40頁)
「「金毛の獅子」をどう解すべきか。「無相だ、妙有だと、知解に落ちてはならぬぞと。自ら一箇の金毛の獅子となって踊り出せねば、空の法身仏といってみても生きた働きはないぞ」とでも言ったらよいであろか。」(秋月41頁)

4 頌
(1)訓読
「花薬欄顢頇(まんかん)すること莫(なか)れ、星は秤(ひょう)に在りて盤に在らず。便ち恁麽太(はなは)だ端(は)無し。金毛の獅子大家看よ。」(宗演383頁)
(2)用語
 ア 顢頇
「本来は、他を軽侮する意を含んで高慢顔をすることを意味するのであるが、(略)茲では、「(花薬欄と云う答話を)軽視するなよ。」の意」(井上405頁)
(3)訳
「この花薬欄、(略)雲門の答話を馬鹿にしてはな(406頁)らぬ。秤器(はかり)の星(目)は、秤の棹につけてある。秤器の皿(盤)にはついて居ない。花薬欄は秤器の皿に載せられた物の様なもので、清浄法身と云う星のついておる大きな棹はどこかほかにあるかも知れぬから、よく気をつけて見るがよい。」(井上405~406頁)
(4)解釈
 ア 釈宗演
「顢頇とはヌラリとしたこと。夏日(かひ)炎熱百草を焦す時、大きな糸瓜(へちま)がヌラリと下って居る。花薬欄と言う語に附き纏うてヌラリとして了っては駄目であります。是れに就いて先師洪川老漢が言うて居らるる。
『大抵月と云えば直ちに水中の月を見る、然し月は常に青天(あおぞら)に在って皎々(こうこう)たり。定盤星(じょうばんせい)と云うことがあるが、星は常に盤上に之れを求むれば迂にして遠い。然らば清浄法身は何(いず)れに在りや、曰く花薬欄。』(384頁)
 如何にも佳い著語であります。(略)秤の目は秤竿(へいかん)に在って、秤に据え付けた盤上には無い、雲門の吐いた語句を捕えても、法身は無い、法身は却って雲門の意中に在り、誤ってはならぬ。」宗演383頁)
 イ 菅原時保
「清浄法身を問うたのに花薬欄とは如何にも人を小馬鹿にした答だ、(略)いや決して雲門禅師は人を小馬鹿にしてはおらぬ、是が真箇の清浄法身。――諸君、自分と自分で自分をする勿れ。」(菅原18頁)
「諸君も金毛の獅子。――山も川も、草も木も、瓦礫土塊も金毛の獅子。――「大家看、」都(すべ)ての人を指した言葉。各自お互に自己返照して見(19頁)よ。(略)
 昔年覔火和煙得、境担泉帯月帰。――一挙手一投足金毛の獅子ならざるなし。――東西南北無門戸、大地山川不覆蔵。――前三々後三々、――金毛の獅子ならざるなし。――されど、求妙心於瘡紙、付正法於口談を如何せん。」(菅原18頁)

5 全体
(1)華厳経との関係
「雲門文偃は、(略)「花薬欄」と「金毛獅子」とを以て、清浄法身の現象即実在的方面、即ち理事無礙、事事無礙の教理を、禅的に提唱したものである。要するに(略)華厳の教理に属する公案であるから、華厳の教理の外に立って、この公案を説明することは絶対に出来ないのである。」(井上406頁)
(2)室内の参考になりそうなのはこんな観点の感じがします。
「(塾生がトイレを汚したとき)「金毛の獅子を放置しないことでんな。」」(藤井崇知「森本省念老師を偲んで」山田邦男編『森本省念老師〈下回想篇〉』155頁)

6 文献略語
 秋月:秋月龍珉『日常の禅語』
 井上:井上秀夫『碧巌録新講』
 加藤:加藤咄堂『碧巌録大講座第六巻』
 宗演:釈宗演「講述碧巌録前篇」『釈宗演全集第3巻』
 菅原:菅原時保『碧巌録講演其十七』





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