坐禅普及

主旨は慈悲。行は坐禅。

個人の人生の充足と、他者=世界の調和との一致点としての「慈悲」

臨済のいう出家とは伝統的な生活からの逃避と解すべきではない。家とはわれわれの生命を囲繞して圧迫阻害する偏見的思想、反生命的価値観、環境対象に牛耳られる執着――即ち人間の生命を幽閉するもろもろの化石的な殻という意味である。従って禅門における出家とか、破家散宅とかいう意味は、――換言すれば一切を自由に所有すること、一切に対して自由なる君主として振舞うことに他ならない。(略)

臨済は、学人のよるところ、跼蹐(きょくせき)するところを片っ端から破壊して、相手を自由の天地に駆り立てて行く。ここにおいて彼は、飽迄も徹底的な偶像破壊者となって現れて来る。かの四科揀にせよ、四喝にせよ、要するに学人の依るところ、執着するところを殺戮して行く破邪の剣である――「仏に逢うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺し、羅漢に逢うては羅漢を殺し、父母に逢うては父母を殺し、親眷に逢うては親眷を殺し、初めて解脱を得て物と拘わらず、透脱自在なり。諸方の道流の如くんば、未だ物に依らずして出で来る底にあらず。」――自己の自由と主権とを阻害する一切の対象は破壊されねばならない。」

(前田利鎌『臨済荘子』40~42頁)



最初、この言葉に接した時には、胸躍るものを感じました。

自分と同じように感じている人を見つけると、大きな力を感じるので。

ちなみに、同じ本の冒頭部もふるっています。



「古代の自由人は、人間の積極的な活動を阻害する三個の怪物を殺戮してしまう。――精神の粘着停滞する対象と、精神の奔放な発動を圧迫する禁止的価値観と、われわれの大胆な自己主張を畏怖せしめる死の脅威とを。そして自我の本質を把握することによって、これらの反生命的怪物を喝散し尽す自由人が、しばしば人もなげに高らかな哄笑を擅(ほしいまま)にすることに何の不思議があろう。」

(前掲書9頁)



痛快。

だから、当初は、仏教や禅の本の中で、道徳や倫理を説くようなものについて、納得いかないものを感じていました。

 

「ゴータマ・ブッダの仏教は、私たち現代日本人が通常の意識において考えるような「人間として正しく生きる道」を説くものではなく、むしろそのような観念の前提となっている、「人間」とか「正しい」とかいう物語を、破壊してしまう作用をもつものなのである。」

(魚川祐司『仏教思想のゼロポイント』37頁)



こんなフレーズに共感を持っていました。

けれども、しばらく経つと、結局、このような捉え方は、一枚悟りにすぎないのではないかと感じられてきました。


 
衆生本来仏成。

悩み、苦しみ、迷うこのままのあり方でよいとして、ではどう生きるのか。

「どう生きてもよいのだ」という答えによって、どう生きる「べき」かの問題が克服できたと思った瞬間、また、類似する問いが次元を変えて現れ出てくるのです。



ミャンマーでは瞑想の実践を中心として多くのことを学ぶことができ、おかげさまで、私自身の実存的な関心として生死の問題に悩むことは、もうありません。

ただ、自分にとっての生死の問題(己の中の有限と無限の問題)に、いちおうのけりがついたとしても、その上でこの有限の生をどのように生きるべきかという問題は残ります。」

(魚川祐司発言・藤田一照・魚川祐司『感じて、ゆるす仏教』4~5頁)



迷いの檻から脱して、自由になったと思ったら、出た瞬間、自由の無限の荒野でどちらに進むかでまた悩むのです。

自由の荒野の中にあって、暴君のようにふるまって生きてよいかについては、もう一つ悩む。

人は、どう生きてもよい。

どう生きても、そのほかの生き方と変わるものがない。

しかし、暴君のような生き方に満足できるか、却って新たな苦を背負いはしないか。

「暴君のようにふるまって生きてよいか」という悩みが出る以上は、全く問題がないのだと言ってもよいともいえるのだけれども、問が出た以上は悩んでみる。

悩み、苦しみ、迷う、このありのままで仏なのです。


 
唐突ですが、そこで発見したものが、「慈悲」でした。

ただ、端的によいと思いました。

ずっと、以前からよいと思っていたのだけれども、気づいてみると、深い確信を抱きながらそれが絶対的に「よい」のだと思うようになっていました。



「仏教は慈悲を以て主旨とする」(釈宗演『一字不説』2頁)

 
 
その端的の一枚悟りに安住してやろうという気になりました。

しかし、それは全く安住しないことでもあるのですが。

 

「よく心得てほしいのは、衆生本来佛で、衆生の外に佛なしならば、何も彼もこのままでよいのではないかと、反省も修行もまた見性の体験も否定する人が現に沢山ありますが、飛んでもない誤りであります。これを吾々は無事禅といって恐るべき法敵として戦っておるのでありまして、こんなものに断じてだまされてはなりません。」

(原田祖岳『白隠禅師坐禅讃講話』24頁)


 
無事禅に安住することなく、無事でいる道こそが、慈悲であろうかと思います。

その実践には、向上に向け、悩み、苦しみ、迷いがあり続け、安住は無いのですが、悩み、苦しみ、迷う日々の充実の中に安住があるのです。



「重荷を負うた人の為めに其の荷を分けて担うて上げた時の端的な実感」

西田天香『托鉢行願』7頁)



利他自利の端的は、このようなところにあるのだと思います。

「自利利他」とよく言いますが、「利他自利」の方が凡夫のための標語にはよいように思います。



「大に有事にして過ごす處の人間、今日の生存競争場裡の働きが其儘無事底の境界で、何程どんちゃん働いて居ても無事じゃ。朝から晩まで、あくせくと働いて其上が、しかもそのまま無事じゃ。」
 
(釈宗活『臨済録講話』221~222頁)

というのも、同じ消息を少し体育会系的に言ったものといってよいでしょう。



人間が充実した人生を送っていくためには、自己肯定感が必要です。

自己肯定感は、自分で思い込むだけでは持てません。

そこには、自分を承認する他者の存在が必要です。

けれども、他者におもねって、自己を殺してしまえば、やはり、自己肯定感が失われてしまいます。

私たちの悩み、苦しみ、迷いの根源は、このような他者との微妙な関係性によってもたらされるものといってよいでしょう。

 

他者に対して無関心となり、他者との関係性を断つというのも、一つの解決策ではあり得るでしょう。

上座仏教の(物理的)出家主義は、それを目指すものといえます。

しかし、彼等ですら、独り荒野で暮すのではなく、同じ仲間のいるサンガ、同じことをやっているので、当然、自己を承認してくれる仲間の中で生活するのです。


 
このような自己の人生の充足と他者=世界との調和とを一致させるあり方が、「慈悲」を生きるといってよいと思います。
 
 
 
ただし、気をつけなくてはならないことは、繰り返しになるように思いますが、「慈悲」とは他者の奴隷になることではないということです。

慈悲の根源には、私達一人一人の自発性がなければなりません。

なんとはなれば、この体自体が、慈悲をこの世界に実現していくための重要な資産であり、大切にしなければならないものだからです。

ブラック企業や「やりがい搾取」を許してはなりません。

慈悲を生きるということは、二元論者の方のような「デクノボー」になることではありません。

世界に尽くすための手段は、私には、この体しかなく、この体を大切にしなくてはならないのです。



「社会のために勉強し、社会のために生きる、道のために飯を食い、道のために茶を飲むというように、道のためにするのでなければならぬ。道のために尽さねばならん身体だから、お互い不養生するわけに行かぬのである。自分のだけのためならどうでもよい。」

澤木興道『禅談』313頁)


 
釈宗演老師の場合は、このようにおっしゃいます。



「大事業のみではない、何事をやろうとする能く働き、そして能く休まねばならぬ。(略) いつ何時でも、眠むるということは容易ではありませぬ。朝から晩まで追い廻されて、安らかなる眠むることも能きず、一生あがき死に死んで了うのであります。差引勘定して見ると、何等残るところはありませぬ。だから大いに休息することです。」

(釈宗演「禅学大衆講話」『釈宗演全集第一巻』57頁)

あるいは

「健全なる身体であるならば、無数の細胞が新陳代謝を続けて身体の中に活動して居るのである。人類社会もそうで百年も千年も新陳代謝が行われず其儘にして行った時は、宗教も道徳も悉く退歩して仕舞う、細胞が怠けると病気になり、遂に死滅に帰していくのである。故に我々は先ず體中の小さな蟲一匹として、即ち社会の一員として此健康を保ち、そうして常に怠らずして努めて以て病気に打勝ち、常に健康にならなければならぬ。」

(釈宗演『快人快馬』185頁)





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