坐禅普及

主旨は慈悲。行は坐禅。

煩悩即菩提

「本来の仏教では、『愛』という語は、いつも『憎』とウラハラの意味をもつ語として用いられ、あまりよい意味では使われなかった。『愛』は常に、その裏に『憎しみ』を秘めているものとして、仏教では否定的に見られてきた。そのよい例が、釈尊の『四諦』の法門にいう『渇愛』すなわち“喉が渇くような強い欲望(愛着)”である。臨済禅師も言う、『君たちの愛(愛着)の一念が、湿った水となって君たちを溺れさせる。』(『臨済録』「示衆」)」

(秋月龍珉『日常の禅語』14頁)





上座仏教と大乗仏教との根本的な相違は、世界(目の前の現象)の現実化に対する態度にあると思います。



上座仏教では、世界を現実化しようとすることが不幸の始まりであると捉えます。

目の前に現れる現象は、すべて変転するものであり、それにもかかわらず、それを実在するものとしてしまうことにより、そのことに対する囚われが生じる。

いつか現象は、変化し、実在すると思っていたものが滅するとき、滅する現象と実在を欲する意志=愛着との矛盾に苦しむ。



大乗仏教では、世界を現実化しようとすることを慈悲の現れであると捉える。

目の前にある現象を実在するものとして、存続させようとする。

草花を育て、愛する人を養い、愛する人との間の子供を育て、病んでいる人はみすごすのではなく、なんとか看病し、出家者の生活を維持する等々。



日本の上座仏教の実践では、慈悲の瞑想がよく行じていますが、これを苦しいと思う人もいます。

およそ仏道修行にはまりこむ人は、私を含めて、世間の多数派の人に比べて、どこか精神的な問題があることが多いものですが、上座仏教の実践者の方の多くは、言動からかなり重い精神的な問題を抱え、社会に適応することが困難と推認される(知的水準が平均以上の発達障害の人が理性の力によって、なんとか表面的には「普通に」振る舞うのと同様に)ことから、自分のことに精一杯で他の人を思いやることに困難が生じ、慈悲を瞑想しながら、慈悲の実践をできていない矛盾を感じることがその理由の一つではないかと思います。

けれども、もっと根本的には、上座仏教では、世界を現実化することを否定しようとするのにもかかわらず、慈悲の瞑想は、世界を現実化を継続させようとすることをイメージするものであることから、そこに矛盾を感じるのではないかと思います。

上座仏教の理論的問題点は、ここにあるのではないかと推測しています。

生きているからには、世界を肯定してしまっているのであり、それを否定しようとする態度には無理があるのではないでしょうか。



世界を現実化し、その存続を望みながら、その中にある個物が滅する自体をどうとらえるべきでしょうか。

正直、余り考えすぎなくてもいいのかなと思ってもいます。

滅したときには、つらいなと思っても、私達は、往々にしてきちんと受け入れる、処理することができるからです。

グリーフケアに携わっていると、身近な人の不幸な死にとても傷ついた人によく会いますが、同時に、どうして、そこまで傷つくのだろうかとわからないことも多く、そのように傷つく人がいるということが学びであることも多いのです。

そういうものである以上、私達は、往々にして、人の死を含めた滅する事態もきちんと受け入れて何ら問題がないように思います。

元々、不確かな世界、存続するものも変転し、滅する世界のなかで、私達は、現に生きているのですから、基本的に、滅する事態にもきちんと対応できるのです。



敢えて理屈付けをすると、私達は、実は、滅する事態も愛しているのです。

滅することも不確かな現象であり、滅することを夢、幻としてもよいのです。

しかし、滅するのが苦しいのは、滅することを現実化しているのです。

そして、現実化する以上は、私達は、滅する事態を愛しており、ここに、私達が滅する事態を受け入れる素地があるのではないかと思います。





「元来此の煩悩と云っても、決して他物ではない。迷って居る間こそ、煩悩は憎むべき仇敵であるけれども、一度それを裁断して、無心の境界になれば、その煩悩は却って菩提の種たりしことが解って来るのであります。
 田の草を取って其まま肥(こやし)かな
と云う句があるが、煩悩そのまま菩提、生死そのままが涅槃たることが知られます。」

(釈宗演「禅学大衆講話」『釈宗演全集第一巻』239頁)




上座仏教では、否定されるべき煩悩として捉えられる世界を現実化しようとする意志。

この意志そのままが慈悲の基礎であるとするのが大乗仏教です。

これを称して、煩悩即菩提というのでしょう。






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