坐禅普及

主旨は慈悲。行は坐禅。

慈悲の行じ方

「最後に軽く触れたいのは、私が好んで日本の仏教徒の『悪い癖』と言うことです。正直に言って、私はそれを聞くたびに、少し憤慨します。すなわち、利他の話をするときに日本の仏教徒が、ほとんど例外なしに、利他を教化と同一視するということです。そうすると、慈悲の範囲は霊的なものに限られてしまうわけです。仏教には一体人間の物体的ニーズに対する慈悲は存在していないのか。」

(ヤンヴアンブラフト「仏教とキリスト教田辺元先生」『群馬大学北軽井沢研修所2004年、8月、19日』9~10頁)




毎度ながらネットサーフィンをしていたら、この一文に触れました。



「日本の仏教徒が、ほとんど例外なしに、利他を教化と同一視する」



少し驚いて違和感を抱きました。

そして、少し反省すると、出家者の方の場合は、こうなってしまうのかなと思いました。

大乗仏教の修行方法である六波羅蜜の中で、一番重要なものは、布施行であり、布施行の中では、「法施」、つまり、正しい仏教の教えを説くのが一番よいとされます。

特に、出家者の方の場合は、利他行をすると言っても、宗教施設の中で暮しているのですから、在家者と異なって、「人間の物体的ニーズ」に応える具体的な行為がなしえないことから、勢い「教化」が利他行となるのでしょう。

お世話になっている団体でも、「新規会員を増やすことが利他行だ。」などと云ったりするのですが、宗教の勧誘が世の中から喜ばれないことは明らかであり、「憤慨」するのももっともだと思います。

今日、宗教家というだけで、聖人君子であると思う人はいないですし、偉そうに語れば、却って引いていくばかりです。

特に、仏教は、無記(=よくわからない)という観点から、形而上学的世界を否定して、私たちが生きる上で、真理を語る教えなど特別なものはいらないのだ、ということを中核とするものなのですから、本来上から目線で語るものではないはずです。



「『わからない(不知)のに、それでもきちんとちゃんと事実として生きてるよね』という、そのこと自体に安心を見出すようなあり方が必要なんです。」

(藤田一照・魚川祐司『感じて、ゆるす仏教』〔藤田発言〕36頁)



実際に、安住して、慈悲の実践を送る中で、自然と伝わっていくというのが本道、というか、唯一のやり方というべきでしょう。

最近ですと、尾畠春夫氏や、お亡くなりになりましたが、中村哲氏などは、別に偉そうに語らなくても、その生き様を示すだけで、慈悲の人生を送ることの素晴らしさを教化しているのです。



「禅の目的は畢竟如何と云えば、上求菩提下化衆生に外ならぬのぢゃ、(略)之れを措て外に佛教は無いのである、僧俗を問わず、男女を論せず、此の目的を達せんが為めに大乗仏教の道に入るのぢゃ。修禅の必要を感ずるので、例えば遊泳の術を学ぶのも、己れ自身一箇の溺れを救わんが為めのみには非ず。他人の溺るるものあらば、直ちに之を救うことの出来得るように準備し置くので、自利利他両(ふたつ)ながら兼ねてあるのぢゃ、斯う云うと、否吾々は在俗であるものを、下化衆生などと云う必要はないと、云う者があるかも知れぬが、夫れは飛んだ心得違いぢゃ、下化衆生と云うても、経を読んだり、法話を為したりする許りが、衆生済度でない、大乗仏教を修したら、修し得た丈けの得力を、直に仁義道中の上に用いて、士は士として、農は農として、工は工として、商は商として働かすので、(略)是れ皆大乗門中の説法というものぢゃ。」

(釈宗活『悟道の妙味』5~7頁)

「衲(わし)一己の考から言うと、死の覚悟と言う外に別に覚悟はないであろうと思う、我々が日々夜々其境に臨み其事に接し、其時々々、其日々々感謝の念に住して愉快に送っていくのが、それが衲の安心である。(略)

只息を引取る時迄各々其日々々の務をして、スーと息を引取ったらそれで早や本望である。大悟徹底も即ちそれであると思って居る。」

(釈宗演『快人快馬』181~183頁)

「今日々々を積み重ねて往くのが人間の一生(略)。筆持つ人ならば、筆を持った儘瞑目してそれで可い。(略)算盤弾く人ならば、算盤弾きながら、息を引き取っても、それが本願であろうと思う。ところが切めて死ぬ時ばかりは、坐禅でも組んだまま(略)、立派な死ざまをして、息を引き取ってみたいというような考えでいる者もあります。(略)どちらかと言えば迂闊な考えと言わなければならぬ。人間というものは、自己の職分と共に斃れたら、それで立派なものである。(略)朝から晩まで、孜々矻々(こつこつ)として奮闘努力し、向上して止まぬ精神を有(も)っているならば、(略)病気に取り付かれ、七転八倒逆立ちに為って死んだとて別に何の残り惜しいこともない訳であります」

(釈宗演「禅学大衆講話」『釈宗演全集第一巻』422~423頁)



各人の能力の特性に応じた「仕事」をしていくことこそが、慈悲の端的であり、それこそが、「大悟徹底」であると同時に、本当に充実した人生の送り方を教える「説法」になるのです。

まさしく「不立文字」であり、宗教団体への勧誘などといった言葉での教化は、本道ではないでしょう。



「人に親切にする、困っている人を助ける、相手を慮る、同情するなど、これらは利他的とよばれる行為である。仏教では古くから、四摂事(法)が言われてきた。四摂事とは,布施(ひとに施し与えること),愛語(親しみある、思いやりある言葉で話しかけること),利行(相手のためになる行為をすること)、同事(他人と協力すること)の4つで、いずれも利他的な立場に立った行為を動めるものである。日々の生活がこのようになきれるならば,人間関係は、そして,共同体のありようは、望ましいものになろうというのである。」

(荻原欒「空観と慈悲」『東京国際大学論叢 商学部編 第75号2007年3月』121頁)



元々仏教には、六波羅蜜や四摂事といった「人間の物体的ニーズ」に応える具体的な慈悲の実践があり、少し調べればわかるはずなのに、なぜ、南山大学の教授でもあるヤンヴアンブラフト氏が、そのことに触れなかったのか少し謎ではありますが。



とはいえ、「有用な働きをなす」という一枚悟りに安住してもよいのかという問題はあるように思います。



「人間は役に立つから生きているのではない。生きていれば役に立つこともあるにすぎない。まして何の役に立つかは、他人でなく本人の志によることである。これを間違うと、事はいとも簡単に、『無用』とされた命の再処理や抹殺に行き着くだろう。」

(南直哉『語る禅僧』87頁)



しばらく前にも、障害者施設の元職員が、傷害者の方の生命には価値がないなどと言って、元の施設に侵入して、入所者の方々を殺害するという痛ましい事件が起きました。

そのような人たちの「再処理や抹殺」をしないことこそが、慈悲ではありますが、かの人物には説得力がないでしょう。



同じステージに立つような気がして怖いのですが、少しでも「こちら」の勢力に属する人が増えるかもしれないという思いで、語るのであれば、障害のある人、重い傷病に罹った人、老いて認知症になった人等介護が必要になった人などは、生きていらっしゃるということそれ自体で慈悲を実践していると思います。



誰もが、介護が必要な境遇になること、そのような状況になったら、社会から無価値なものとして、「再処理や抹殺」される類のことになるのではないかと、不安を抱きながら人生を送っています。



介護が必要になった人などは、ただ生きているだけで、そのような境遇になったとしても、きちんと生きて行けるのだという希望を、介護が必要ではない人などに与えてくれるのであると思います。



癌等の重病にかかった人の体験記などがベストセラーになったりすることがありますが、それは、将来に不安を抱いている人たちに、そのような境遇にどう向き合ったらよいのか、闘病するのもよし、受け入れるのでもよし、それぞれの人ごとなのでしょうけれども、その生き様、それ自体が、見通しと生きる希望を与えてくれるからではないでしょうか。

滅多なことは言えませんが、どんな人でも、お亡くなりになる直前のあり様には、それが、泰然自若していようが、苦吟の声を発していようが、感動を禁じ得ないものがあります。



私のような者でも、死が近づいたときには、人を感動させることができる可能性があるのだと思うと、衆生本来佛也の端的という気がします。



死を「成仏」と呼ぶのも間違っていないのかもしれません。





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