坐禅普及

主旨は慈悲。行は坐禅。

隠山派と卓州派との室内の相違

白隠の会下に四十余人の豪傑があったが、其中(そのうち)東嶺(とうれい)遂翁(すいおう)の二師が其(その)上足(じょうそく)であった。(略)遂翁の法嗣(ほっす)は、(略)春叢(しゅんそう)と云うので断絶してしまった。所が東嶺和尚の方脈は益々繁昌して、以て今日に至って居る。(略)そして師なる白隠の末の弟子に若年の峨山(がざん)と云うのがあったが、一日白隠が東嶺に向って、峨山は見込のある奴だから、今より汝の弟子として十分に修養させて呉れと、峨山に託された。(略)そして此峨山下に、頭の極緻密な卓州と、豪放不羈な隠山とが現れた。(略)
今の臨済宗は皆な此卓州隠山の両派の者計りで、卓州派でなければ、必ず隠山派であるのだ。」

(竹田黙雷『禅の面目』24~26頁)



白隠公案禅の系統に卓州派と隠山派の二つの系統があるという話は、秋月龍珉先生の本などを通して知ってはいたのですが、私自身、公案の実参実究に対する興味が薄くなってきていることもあって、その室内の相違について突っ込んで調べたことはありませんでした。

そうしていたところ、たまたま濟松寺の岩田文雄氏のブログにその室内の相違が触れられているのを目にし、参考になりました。

入室の秘密は問題ならないのかと少し不安になりますが、在家で公案の実参実究をされている方でも、複数の師家に着くということはないせいか、余り聞くことのない話かと思いますので、ご参考までに一部引用します。



「白山の老師(小池心叟老師)の室内は卓州系の建仁僧堂の室内である。
その室内は、建仁僧堂の開単者である竹田黙雷老師が各地の老師に遍参歴叩して参究されたもので、黙雷老師の嗣法の師(梅林僧堂の老師)よりも多いと云われている。
又、白山の老師は嗣法の師(竹田益州老師)から徹底的に室内を参究させられ、他の嗣法の弟子より多くの公案を調べ尽くしていると常々述べておられた。
 師家の室内の目安として明治時代、南天棒中原鄧州老師が妙心寺本山へ宗匠検定法なるものを提出して各僧堂の師家方を検定しようとした。反対する師家が多く結局実現できなかったが、検定に賛同した師家の中に黙雷老師もいたという。それは検定法にある室内の内容より更に多い法財を持っている所以であり、白山の老師は其の法を参究されていた。」

「参考:隠山系の室内
 私が4年半余り在錫した、京都の僧堂は隠山系で、無字、隻手、雑則、無門関、碧巌録、臨済録、葛藤集と幅広く多岐に渡って参究したが、その内容はそれぞれを虫が食うように、あちらこちらをまるでつまみぐいするような参究の仕方であった。公案の数は少なく、白山の老師の(卓州系)室内の数とは雲泥の差があった。
 現今では数年の参歴で法嗣が次々と輩出されている僧堂があるというが、公案の少なさから老師次第で簡単に罷参出来るのは当然であるとはいえる。しかし、私の存じ上げている老師方は15年余りも在錫し、それでも僧堂の老師のもとへ通参されていた。このことを考えると昔と今では同じ僧堂でも室内の価値がガラッと変わってしまったと考えざるを得ない。
公案禅の隠匿体質の負の面が引き起こしている現在の様相は、明治時代に南天棒老師が危惧していた事態となってきている。」

http://saisyouji.web.fc2.com/ji_song_si/xin_sou_lao_shishi_neinitsuite.html



 ちなみに、隠山系と卓州系の私のレベルでの目立った法系は、先の竹田黙雷『禅の面目』によると次のとおりになります。



* 卓州―(略)―黙雷―時保
  隠山―(略)―洪川―宗演



いわずもがなですが、菅原時保老師は、建長寺の管長、釈宗演老師は、円覚寺の管長でした。

建長寺円覚寺は兄弟のようなもののイメージだったので、この竹田黙雷老師の本を読んで、法系が違うことを知り、少し驚きました。

今の円覚寺の管長の横田南嶺老師は、小池心叟老師の法嗣ですから、卓州派ということになるのでしょうけれど、隠山派の法系との関係はどうなるのでしょう。

もしや恥ずかしいことを書いているのではないかとも思うのですが、もしかしたら両方の法系のハイブリッドだったりして……。



岩田氏のお話では、釈宗演老師の系統の隠山派の公案数は、卓州派よりも「雲泥の差」というほど少ないとのことですが、ブログの中に出て来る南天棒中原鄧州老師の「宗匠検定法」のことも絡めて少し因縁がありそうです。



「鄧州全忠(俗姓、中原、通称、南天棒、一八三九-一九二五)は自伝でこう語っている。
『かつてシカゴの宗教大会のときであった。〔洪岳は〕発錫(ほっしゃく)〔旅立ち〕に臨んで有志の喜捨を募った。(略)衲(わし)がまた彼に言うた。宗教大会へは、仏教代表か槌宗代表か。仏教代表なれば問うところにあらず。禅宗代表なれば、この南天棒の点検を経ねぽ決してやることはできぬ。仏祖の面へ泥を塗られては困ると言うた。もちろん通仏教〔仏教全体に通じる解釈〕〕で行ったらしい。もっともあの時は〔洪岳は〕慶應義塾のほやほやじゃった。』」

(ミシェル・モール「近代「禅思想」の形成――洪岳宗演と鈴木大拙の役割を中心にーー」48頁からの孫引き)



釈宗演老師が、シカゴの万国宗教大会に参加するに当たり、南天棒老師に旅費の喜捨をつのった際、南天棒老師から、禅の代表者として行くなら、その点検を受けるよう迫ったところ、宗演老師は、禅ではなく、仏教全体の代表として行くと断ったとのエピソードですが、宗演老師が法灯を継いだ隠山派の法財が、南天棒老師の卓州派よりも少ないことからすると、もしやと考えるのは、是非言う人は、ということでしょうか。



ちなみに、先のブログでは



「明治の時点で各僧堂の室内の多様化は各々相容れないものとなっている」



との指摘もあり、言わずもがなと思っていても、はっきりおっしゃっていただいていることは参考になります。





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